空飛ぶ自由人・2

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浅草寺・その1

2024年12月04日 23時00分00秒 | 名所めぐり

つい先日、ここ↓へ。

というのは、「名所めぐり」をしていて、
ふと気づいた。
お寺の頂点・浅草寺も、
神社の頂点・明治神宮も、
何度も行っているのに、ちゃんと見ていない
毎年正月2日には訪れるなど、
浅草寺には、十回を下らないほど行っていますが、
いつも雷門から入って仲見世を通り、
宝蔵門をくぐり、本堂を見て、
西に向かい、はなやしき方面から六区に抜ける、
というのが定番コース。
境内内にある様々なお堂は何があるかも知らない。
それでは申し訳ないので、
改めて、細部を見てみようと思った次第。

↓のマップにあるように、

境内は広く、沢山の見どころがあります。

改めて浅草寺を紹介すると、
都内最古の寺で、
正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)と号します。
聖観世音菩薩を本尊とすることから、
浅草観音とも言われます。
元は天台宗に属していましたが、
昭和25年(1950)に独立して
聖観音宗の本山となりました。

「浅草寺縁起」等の伝承によると、
浅草寺の創建の由来は以下の通り。

飛鳥時代の推古天皇36年(628) 、
宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた
檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網に
一つの仏像がかかる。


これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)


この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)は出家し、
自宅を寺に改めて供養。
これが浅草寺の始まり。
その後大化元年(645年)、
勝海という僧が寺を整備し
観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。
観音像は高さ1寸8分(約5.5cm)の金色の像と伝わるが、
公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。

一説に、本尊の聖観音像は、
飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が
大水で流されたものとする伝承がある。
浅草寺創建より100年程前、
岩井堂観音に安置されていた観音像が
大雨によって堂ごと成木川に流され、
行方不明になったという。
成木川は入間川、荒川を経て隅田川に流れており、
下流にて尊像発見の報を聞いた郷の人々が
返還を求めたが叶わなかったという。                       
天慶5年(642) 、
安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に
七堂伽藍を整備し、
雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

それでは、浅草のシンボル・雷門から入りましょう。

表参道入口の門。
切妻造の八脚門で
向かって右の間に風神像
左の間に雷神像を安置することから
正式には「風雷神門」というが
「雷門」の通称で通っている。


その創建年代は詳らかではないが、
平公雅が天慶5年(642) に堂塔伽藍を一新した際、
総門を駒形に建立したと伝わる。
慶応元年(1865)に焼失後は
仮設の門が時折建てられていたが、
昭和35年(1960)に、常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。
実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために
寄進したもの。

門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。
大提灯には表面に「雷門」、


裏手に「風雷神門」と書かれている。


宝蔵門にかかる大提灯とともに、
三社祭の時(神輿通過のため)と
台風接近など自然災害に備える必要がある場合には
提灯が畳まれる。

仲見世通り

雷門から宝蔵門に至る長さ約250mの表参道の両側には
土産物、菓子などを売る商店が立ち並んでいる。
商店は東側に54店、西側に35店を数える。
日本で最も古い商店街のひとつ。
寺院建築風の外観を持つ店舗は、
関東大震災による被災後、
大正14年(1925)に
鉄筋コンクリート造で再建されたもの。

私が行った日、インバウンドの人々が一杯で、
さながら外国のよう。
やはり東京観光の目玉として、
日本情緒が味わえる場所として人気があるようだ。
貸衣装の着物姿の外国人の姿も多い。

宝蔵門

入母屋造の二重門。
江戸時代には一年に数度二階部分に昇ることが可能であった。
昭和20年(1945)、仁王門は東京大空襲により
観音堂・五重塔・経蔵などとともに焼失。
現在の門は昭和39年(1964)に再建された
鉄筋コンクリート造で、
実業家・大谷米太郎(ホテルニューオータニ創業者)夫妻
の寄進によって建てられたもの。
門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することから
かつては「仁王門」と呼ばれていたが、
昭和の再建後は宝蔵門と称している。
その名の通り、
門の上層は文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。

門の背面左右には、
魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。
これは、金剛力士像のうち、向かって右の像の作者・村岡久作が
山形県村山市出身である縁から、
同市の奉賛会により製作奉納されているもので、
わら2500kgを使用している。
わらじは10年おきに新品が奉納されている。

宝蔵門には「小舟町」と書かれた大提灯が架かっている。
1659年に日本橋小舟町の信徒から寄進されたのが最初で、
日本橋小舟町奉賛会によって奉納が続けられており
ほぼ10年ごとに新調されている。

お水舎

煙を浴びると、健康になるという。

本堂

本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。
旧堂は慶安2年(1649)の再建で
近世の大型寺院本堂の代表作として国宝に指定されていたが、
昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失した。
現在の堂は昭和33年(1958)に再建されたもので
鉄筋コンクリート造。(木製じゃないんだ!)

本堂へ上がる階段の上部にせり出した向拝には、
直径4.5mの大提灯が掛かる。


堂内は内陣(ないじん)と外陣(げじん)に分けられており、


外陣に入ると、正面上に雄渾な筆致で
「施無畏(せむい)」と書かれた扁額が掛かっている。


靴を脱いで畳敷の内陣に上がると、
その中央にはご本尊を奉安する御宮殿(ごくうでん)があり、
その内部にお厨子が安置されている。


御宮殿は堂内のお堂というべきで、最も神聖な空間を結界している。

東側。

 

西側から。

本堂の東側に、いろいろなものがあります。

平和地蔵尊

二尊仏

露座であることから、「濡れ仏」の名で知られ、
向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩像。
台座を含めた高さは約4.5m。

久米平内堂

ここに祀られる久米平内(くめのへいない)は、
講談等に登場する人物で、
剣の道に優れ、多くの人の命を奪ったので
(首切り役人だったともいう)、
その罪滅ぼしのために、
自らの像を仁王門の近くに埋めて多くの人に踏みつけさせたという。
「踏みつけ」が「文付け」(恋文)に通じることから、
縁結びの神とみなされるに至った。

弁天山

弁財天を祀る弁天堂が建つことから弁天山と呼ばれる。
石段上に朱塗りの弁天堂、
その右手に鐘楼が建つ。

この鐘楼に架かる梵鐘は
江戸時代の人々に時を知らせた「時の鐘」の一つ。
戦時中、多くの寺の鐘が供出を余儀なくされた中で、
弁天山の「時の鐘」は特に由緒がある鐘ということで残された。
現在も毎朝6時に役僧によって撞かれており、
大晦日には新年を告げる「除夜の鐘」が鳴らされる。

弁天堂への石段の左側には芭蕉の
「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の句碑がある。

旧五重塔跡

現在、五重塔は境内の西側に建立されているが、
かつてはその反対側に位置していた。
五重塔が元の三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、
再建される前に五重塔があった跡地。

戦災公孫樹

樹齢八百余年ともいわれ、
源頼朝公(1147~99)が浅草寺参拝の折、
挿した箸から発芽したと伝えられる。
東京大空襲をくぐり抜けた神木として、
今も多くの人々に慕われている。

二天門

本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門。
元和4年(1618)の建築で、
第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物。
浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として
建てられたもの。
(東照宮は寛永19年(1642)に焼失後、再建されていない)。
現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は
上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたもの。
門に向かって右が持国天、左が増長天。


二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、
国の重要文化財に指定されている。
平成22年(2010)に改修を終え、創建当初の鮮やかな姿によみがえった。

二天門から入った景色。

着物の親子三代。

浅草神社

本堂の東側にある。
拝殿、幣殿、本殿は重要文化財。


浅草寺の創建に関わった3人を
祭神として祀る神社。
明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。

「こちら葛飾区亀有公園前派出所」記念碑

浅草神社鳥居脇にある。
平成17年(2005年)に
秋本治の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の
単行本の発行部数が1億3千万部を突破したことを記念するため建立された。
同作品の主人公である「両さん」こと警察官両津勘吉は
浅草育ちという設定になっており、
両津の少年時代のエピソードを題材にした「浅草物語」の巻に
浅草神社が登場した縁により建立されたもの。

今日は、ここまで。
次回は本堂の西方面の数々を。

 


NHK放送博物館

2024年11月21日 23時00分00秒 | 名所めぐり

前回の名所めぐり、愛宕神社のすぐ前にあるのが


NHK放送博物館

その名のとおり、
日本放送協会 (NHK)が運営する
放送に関する博物館。
1956年に開館し、
1968年、4楷建てビルとしてリニューアル。

なぜここにあるかというと、
ここ愛宕山がNHK発祥の地だからです。


前回の名所めぐりで紹介したとおり、
愛宕山は、東京で自然に存在する山で一番高いところ。
そこにラジオのアンテナを立てて放送したわけです。

入場無料。

入口で確認すると、
撮影は自由だが、
映像素材は撮影禁止という話でした。

放送に必要だった、
マイクやカメラ、受像機などが展示されています。

ラジオで始まった放送も、
テレビになり、
白黒からカラーへ、
ステレオ放送、ハイビジョン、デジタル化、衛星放送と
進化の過程が見られます。

昭和60年代の人が今のハイビジョンを見たら、驚くでしょう。

ラジオの本放送の開始は1925年7月12日、
テレビの本放送は1953年2月1日。

中2階は8Kシアターと体験スタジオ

海中との合成

ご覧のとおり。(顔の部分は加工。お面ではありません。)

バックは青。
最近緑のスクリーンの前で撮影することが多いようですが、
と訊くと、
ブルースクリーンの場合、
外人の目が青いので、抜けてしまうから、
グリーンを使うことが増えたそうです。
理論的には赤でも可能。
でも、そうすると、女性の唇がみんな抜けてしまいます。

ここはニューススタジオの体験コーナー

ご覧のとおり。

これも顔の部分は加工。

マジックミラーを使って、鏡に原稿を反射。
意外とアナログですが、
アテウンサーが書き込みをするので、
この方法がいいのだそうです。
アメリカで見たのは、カメラの前面ガラスに文字が出ました。

2階はテーマゾーン。

紅白歌合戦の優勝旗。

ドラマのセットの模型。

風の音を作る装置。

こちらは波の音。

3階は歴史。

初めてのテレビ映像実験。イロハの「イ」。

玉音放送

この録音盤の奪い合いがありました。

録音機の様々。

昔、秋葉原で番組の流出テープが売られていました。

こんなテレビも。

こういうテレビが茶の間に鎮座。

テレビ普及に貢献した街頭テレビ

ズームが出来る前は、レンズを切り換え。

当時の茶の間。

ビデオテープが登場。

その前に、相撲中継では「分解写真」というのがありました。

ビデオテープの編集機。

職人わざだったそうです。

今のハイビジョンカメラ。

4階はライブラリー

過去の映像素材が見られます。

ここで番組選択。

音楽番組を観ました。

昭和歌謡はやはりいい。
なぜなら、プロの作詞家、プロの作曲家によるものだからです。
その後、若者たちの自分の曲で、
過剰な言葉、メロディー不在の
石原慎太郎によれば、
「へたくそな日記みたいな歌」がはびこりました。

帰りは、この階段を下りて、

トンネルの脇に。

ちょっとした楽しいひと時でした。

 


愛宕神社

2024年11月17日 23時00分00秒 | 名所めぐり

虎ノ門近辺巡り、
3か所目は愛宕神社(あたごじんじゃ)です。

それにしても、この防水桶の標識は何とかならないものか。

愛宕神社は、標高25.7メートルの愛宕山の山頂にあります。


愛宕山は、23区内で一番高い山
それより高い新宿区の箱根山(44.6メートル)は人工の山ですので、
自然の地形としては一番高い山ということになります。
江戸時代には、見晴らしの名所として、見物客で賑わいました。
今は高層ビルが林立して見えませんが、
当時は、山頂から東京湾や房総半島までを
見渡すことができたと言われています。

幕末に、
勝海舟と西郷隆盛が
愛宕山で会談し、
二人が江戸の街を見下ろして、
「戦火で消失させてしまうのは忍びない」と、
江戸城無血開城につなげたという逸話があります。

なお、愛宕山という地名は全国各地にあります。
ちなみに、落語の「愛宕山」の舞台は、京都。

入り口にある大鳥居

愛宕神社に登る石段は二つあり、
こちらは男坂86段。

こちらは傾斜がゆるやかな、女坂108段。

他に、車で行くことができる道と
エレベーターもあります。

こんな注意書きも。

男坂は神社創建時の姿が保たれ、
上り始めたら休むことが許されません。
約40度もの急勾配には、
踊り場がないため、
途中で足を止めて見上げると
上体を大きくそらす体勢になって、
転げ落ちそうな感覚に襲われるのです。

別名、「出世の石段」と呼ばれるのは、
次のような故事によります。

1634年2月25日(寛永11年1月28日)、
徳川幕府3代将軍家光が
増上寺への参拝の帰路に、
愛宕山から梅の香りがするのに気づきました。
(山上に梅が咲いているのを見て、という説もある。)
「誰か馬で石段を上り、梅を取ってくる者はいないか」
と命じたところ、
並みいる家来たちが尻込みする中、
四国丸亀藩士、曲垣(まがき)平九郎
愛馬とともに階段を上り、
梅を取って再び階段を下り、
梅を献上して、
馬術の名人として全国にその名を轟かせた、
という講談譚。

この故事にちなみ、
この階段を「出世の石段」と呼んで、
急な石段を登ると出世するという言い伝えがあり、
多くのビジネスマンが
この石段を登って神社にお参りに見えています。

しかし、実際の石段を見て、
ここを馬の蹄で登るのは至難のわざ、
後世の作り話だろうと思いましたが、
調べると、明治から昭和にかけて
3度の成功例があるといいます。

1例目は仙台藩で馬術指南役を務め、
廃藩後曲馬師をしていた石川清馬(せいま)。
師の四戸三平が挑み、果たせなかった
出世の石段登頂を1882年(明治15年)に成功させ、
これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許されました。

2例目は参謀本部馬丁の岩木利夫
1925年(大正14年)11月8日、
愛馬平形の引退記念として挑戦し、
観衆が見守る中成功させました。
この模様は山頂の東京放送局によって中継され、
(日本初の生中継とされる)
昭和天皇の耳にも入り、
平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として
使われ続けることとなりました。
この時、上りは1分ほどで駆け上がりましたが、
下りは45分を要したといいます。
上りより下りの方が恐怖感は大きいと思われますので、
馬が何度も立ち止まったのではないでしょうか。

3例目は馬術のスタントマン、渡辺隆馬
1982年(昭和57年)、
日本テレビの特別番組「史実に挑戦」において、
安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で
32秒で登頂しました。

という成功例は伝わっているものの、
失敗例はそれより多いはず。
どんな悲惨な結果になったのでしょうか。

長い石段を上がると、
一の鳥居が迎えます。

境内には都会とは思えぬほど多くの木々が茂り、
四季折々の花々が咲き乱れます。

山の証しである三角点があります。

丹塗りの門「神門」。

江戸幕府ゆかりの印として、
葵の御紋が飾られています。

社殿

主祭神「火産霊命(ほむすびのみこと)」を祀ります。
火産霊命は別名「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と言い、
「伊邪那美命(いざなみのみこと)」から最後に産まれた炎の神。
しかし炎の神ゆえに、
伊邪那美命に大やけどを負わせ、
これが原因で伊邪那美命は亡くなってしまいました。
怒った夫の「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」は、
自らの手で火産霊神の首を切り落とします。
しかしその血や体からは、
岩石の神、火の神、雷神、雨の神、水の神、
多くの山々の神々などが生まれました。
ご神徳は、鍛冶・土器・消防・防災などですが、
火はすべてを浄化して帳消しにすることから、
「祓いの神」としても信仰されています。


御社殿の中に入れる人は特別な人たちだけです。
奥には「本殿」がありますが、ふだん開かれることはありません。

手水舎

ここで手を口とを清めます。
手は行為の象徴。人のふるまいを清めます。
口はことばの象徴。人のことばを清めます。

招き石

この石を撫でると福が身に付くといわれており、

たくさんの人に撫でられたせいか、ツルツルになっています。

これは、山の印、三角点

将軍梅。

曲垣平九郎が手折った梅といわれています。

池には、鯉たちが泳いでいます。

3つの末社。

左から太郎坊社


福寿稲荷社


大黒天社

その他、境内にはいろいろなものがあります。

ところで、山と丘の違いですが、
国土地理院では,山の定義はしていません。
しかし、辞典等によりますと、
「山というのは、周りに比べて地面が盛り上がって高くなっているところ」
と言われています。(笑)
それでは丘と同じで、
山と丘の区別は明確ではありません。

国際連合環境計画においては、
高度が少なくとも2500メートル以上あるところ、
イギリスでは標高600メートル以上の高地などと決められています。
ブリタニカ百科事典では、
相対的に2,000 フィート(610メートル)の高さを持つものを山としています。
UIAA(国際的な山岳とクライミングの団体)の定める山の定義では、
標高が700メートル以上あり、
山頂に向かって急峻な傾斜を持つ陸地とされ、
標高が700メートル未満でも、
山脈の一部として形成されている場合、山に分類されます。

比較的日本の基準は甘く、
山と呼んでも、そうでないものが沢山あます。

日本で最も低い山は
大阪にある天保山(4.53メートル)でしたが、


今は仙台の日和山(3メートル)です。


日和山は元は標高が6メートルありましたが、
東日本大震災で削られて3メートルになったことで、
天保山より低くなってしまいました。
ただ、日和山も天保山も自然の山ではなく筑山(人工の山)ですので、
自然の山で1番低いのは徳島の弁天山(6.1メートル)です。

日和山に1位を譲った大阪の天保山ですが、
「三角点のある日本一低い山」としてなら、
日本一を維持しています。
三角点は正確な位置を求める測量をおこなうために、
国土地理院が作った位置の基準となる点のことで、
仙台の日和山には三角点がありません。
このため「正確な位置を測量している」山としては、
天保山が1番低いというわけです。

東京23区には標高50メートル以下の「山」が沢山あります。
青山、代官山、権現山
城南五山(島津山、池田山、御殿山、八ツ山、花房山)
千石山、飛鳥山などですが、
上野恩賜公園も「上野の山」と呼ばれています。

ただし、国土地理院の地形図に記載されている山は愛宕山だけ。
国土地理院の2万5千分の1地形図に
山の名前が記載されていることが、
一般的に山であるかどうかの識別に使われています。
このため、正式に
愛宕山が東京23区で最も高くて、
その上、最も低い山ということになります。

 


成田山新勝寺

2024年11月09日 23時00分00秒 | 名所めぐり

先日、家族三人で、遠出しました。

乗用車で高速道路を走るのは、久しぶり。

成田市内に入り、

目的地は、ここ、成田山新勝寺

家を出てから、ここまでで52分
さすが高速。

このトンネルをくぐります。

歩いた順路とは違いますが、
まず、参道から。

成田山の参道はゆっくり曲がり、かつ下ります。

こういうお店が沢山。

こんな人も。

総門に来ました。

2007年、ケヤキ造りの総門が完成。
高さ15m、横14m、奥行8m。
成田山の表玄関として多くの参詣者をお迎えしています。

総門を通り抜けると、階段の先に仁王門が見えてきます。


1831年に建立された重要文化財で、
門の左右には『仏教の守護神』とされる仁王像(金剛力士像)が安置されています。

中央の大提灯には、大きく『魚がし』と書かれています。


築地魚河岸の旦那衆からも強い信仰があり、
仁王門に大提灯を奉納するのが、古くからの伝統でした。
現在のものは、1968(昭和43)年に奉納され、
重さは800㎏。

ここには、亀に似た岩があります。

上から見たところ。

ここが境内。

成田山新勝寺は、真言宗智山派の大本山で、
全国各地の不動尊信仰の総府。
1080余年の歴史があり、
源頼朝、水戸光圀、歴代の市川團十郎といった
多くの歴史上の人物からも信仰されてきました。

その信仰は、現代にも脈々と受け継がれ、
年間約1000万人、
正月三が日だけで300万人もの参詣客が訪れるほどです。

天慶2年(西暦939 年)、
関東の武将・平将門が新皇を名乗り、朝廷と敵対。
いわゆる平将門の乱が勃発します。
朝廷は追討軍を差し向けると同時に
真言宗の僧・寛朝が天皇の勅命を受け、
京の高雄山(神護寺)護摩堂に安置されていた
不動明王像を成田の地に運び、
御護摩を焚いて乱が鎮まるようにと祈願したところ、
祈願最後の日に平将門が敗北し、
これを朱雀天皇は、不動明王の霊験と歓喜しました。
その後、寛朝が帰京しようとしても
不動明王像が動こうとしないため、
成田の地に留まることとなり、
人びとを救うために成田山新勝寺が開山されました。

境内は広く、新旧の様々な伽藍が立ち並び、
庶民の信仰の場の雰囲気を残しています。
仁王門、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂の5棟が
国の重要文化財に指定されています。

三重塔

江戸時代半ば、1712(正徳2)年に建立された重要文化財です。
一枚垂木と呼ばれる珍しい垂木が使用されており、
垂木の先端が龍の彫刻で飾られているのが印象的です。

高さは25mで、
塔内には大日如来を中心に五智如来が奉安され、
周囲には「十六羅漢」の彫刻がめぐらされています。

鐘楼

一切経堂( いっさいきょうどう) 

1722年(享保7 年)に建てられました。
内の輪蔵には、一切経(約2,000 冊)が納められています。
入口の額は、松平定信公の筆によるものです。

聖徳太子堂

1992(平成4 )年に建立、2007(平成19)年に修復されました。
日本の仏教興隆の祖である聖徳太子の理念にもとづき、
世界平和を願って建てられました。
堂内には、大山忠作画伯の壁画が6面に渡り描かれてあり、
聖徳太子像が奉安されています。

大本堂

1968年建立。
弘法大師・空海が自ら彫ったと言われる
不動明王が、御本尊として安置されています。

1968昭和43)年に4代目の本堂として建立され、
入母屋造り二重屋根の鉄筋コンクリート造で、
間口95.4m、奥行59.9m、高さ32.6m。

平将門の乱を納めた御護摩祈祷も、
開山以来、1000年以上毎日欠かさず大本堂で行われています。

残念、撮影禁止。

七五三のお祝い。

本堂から見たところ。

ここでは

おみくじが。

自動販売機も。

菊の季節。

釈迦堂

今の大本堂ができる前の本堂で、1858(安政5 )年に建てられた重要文化財。
1964年、今の大本堂の建立にあたり、
移築され、現在は厄除けの祈祷所になっています。

仏教を開いた釈迦如来や、普賢、文殊、弥勒、千手観音の四菩薩が奉安されています。

出世稲荷

商売繁昌、開運成就、火伏せのご利益があると伝えられており、
古くから出世稲荷と呼ばれて親しまれています。

ここから、更に奥へ。

額堂

1861(文久元)年に、二代目の額堂として建立した重要文化財。
信徒から奉納された額や絵馬などをかけるための建物で、
江戸時代に奉納された貴重な絵馬や彫刻が見られます。

これは、七代目市川團十郎の石像。

初代の市川團十郎は跡継ぎに恵まれず、
当時の本堂である薬師堂で子授けを一心に祈願します。
すると、待望の長男を授かりました。
これを喜んだ初代團十郎は、
不動明王をテーマにした歌舞伎を親子で披露し、
江戸で大ヒット。
この上演を機に市川家は「成田屋」を屋号として使い始めました。

開山堂

光明堂

1701(元禄14)年に建てられた、
釈迦堂が本堂になる前の旧本堂であり、
江戸時代中期の貴重な建物で、重要文化財。
愛染明王、不動明王、大日如来が祀られています。
愛染明王が祀られていることから、
恋愛成就、縁結びのパワースポットとも言われています。

奥之院

光明堂の後方にあります。
奥行き11.15m、高さ1.65m、幅1.41mの洞窟になっており、
不動明王の本地仏である大日如来が安置されています。
通常は閉鎖されており、


大日如来の祭礼である成田祇園会の期間中のみ開帳されます。

醫王殿(いおうでん)

開基1080年を記念して2017(平成29)年に建立された、
一番新しいお堂です。
木造総檜、一重宝形造の御堂には
薬師瑠璃光如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が奉安されています。

平和大塔

1984(昭和59)年に建立された、
真言密教の教えを象徴する塔です。
鉄筋コンクリート造、高さ58.1mの多宝塔形の仏塔。
外観は二重塔ですが、内部は5階建て。
地下にはヨハネパウロ2世教皇、レーガン大統領、
エリザベス2世女王、中曽根総理大臣など、
各国の首相から寄せられた「平和へのメッセージ」を封入したタイムカプセルが、
落慶記念に埋められています。
このタイムカプセルは2434年に再発掘・開封予定。

成田山公園

境内の東側一帯に広がる、
池を中心とした大公園で、
広さは165,000㎡。

その後、参道でうなぎを。

有名な川豊は、順番待ちのため、


ふきぬきへ。


この店は赤坂見附にも店があり、
ひつまぶしを食べたとがあります。

調理しているところが見えます。

来ました!

その後、最近、成田に移転した友人を訪ねました。
市街地を抜けると、すぐ山道になり、驚きました。


住所を打ち込んだだけで、導いてくれる
カーナビの威力はものすごく、
昔なら、地図を見て、迷いながら行ったことでしょう。

初めての成田山詣で。
意義深い遠出でした。

        


虎ノ門ヒルズ

2024年10月24日 23時00分00秒 | 名所めぐり

金刀比羅宮の後、ここへ。

虎ノ門ヒルズ

2013年に開業した森タワーを中心に
ビジネスタワー、
レジデンシャルタワー、
ステーションタワーの4棟から構成され、
2023年に全面開業。
管理運営は、ご存知、森ビル。

ステーションタワーから
森タワーへ向かう
桜田通り↓上を横断する


大規模歩行者デッキ「Tデッキ」が整備されている。

オーバル広場

虎ノ門ヒルズ森タワー


虎ノ門ヒルズ」の中核を担う。


地上52階・地下5階建てで、
高さは247m、東京都内の超高層ビルでは3番目に高い。

1- 4階は商業施設。
6- 35階はオフィスが入る。
37 -46階にはマンション。総戸数は172戸。
47階 -52階はホテル「アンダーズ東京」が入る。

マスコット「トラのもん」


100年後の22世紀のトーキョーからタイムマシンでやってきた
ネコ型ビジネスロボットという設定で、
姿はドラえもんそっくりだが
白黒のトラ縞(ビルディングをイメージ)、
また猫耳がある。

オフィスロビー

オフィスには、ここで入館証をかざす。


どんな会社が入っているのでしょうか。
どこかのビルから移ってきたのですが、
元のビルの空室は埋まったのでしょうか。

虎ノ門ヒルズビジネスタワー


地上36階、地下3階、
高さ185m 。
2020年6月に開業。


東京メトロ銀座線「虎ノ門駅」と直結し、
1階にはバスターミナルが設置されている。

地下1階から地上3階には58店舗の商業施設が入る。
5- 36階はオフィス。

3階にある飲食店街、「虎ノ門横丁」

人気店26店舗が集まる。
行った時はまだ開店前だったので、

拝借した写真を。

虎ノ門ヒルズレジデンシャルタワー

地上54階、地下4階
高さ  221m 。
森ビルのタワーマンション。
住宅約550戸と低層部に商業施設が入る。
2022年1月に開業。

虎ノ門ヒルズステーションタワー


地上49階、地下4階
高さ266m 。


東京メトロ日比谷線「虎ノ門ヒルズ駅」と一体的に開発され、
商業施設、ホテル、フォーラムなどで構成される。

すごいですねえ。
駅まで作ってしまうとは。

増々発展する東京でした。