空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

小説『スピノザの診察室』

2025年01月30日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

「神様のカルテ」シリーズで
累計340万部のベストセラーを出した夏川草介の医療小説。
スピノザとは、オランダの哲学者、
バールーフ・デ・スピノザ(1632年- 1677年)のこと。
この小説は、大変哲学的である。

京都の原田病院で働く内科医・雄町(おまち)哲郎が主人公。
「マチ先生」と呼ばれている。
かつては大学病院で数々の難手術を成功させ、
将来を嘱望された凄腕医師だったが、
三十代の後半に差し掛かった時、
最愛の妹が若くしてこの世を去り、
一人残された甥の龍之介の世話をするために、
大学の医局を去って地域病院にその職を得た。
外科医2人、内科医2人の小さな病院だ。
医局を去る時、引き留める教授を激怒させ、
今でも大学には顔を出せない。

往診では、哲郎は自転車で行く。
在宅で死を迎えることを望む、末期患者ばかりを見ている。
アル中で食道静脈瘤が破裂して吐血した患者の世話もする。
この患者は治療費を払えないが、
生活保護を受けるのは、いやだという。
哲郎は言う。
「あなたが血を吐くたびに呼び出される
私や看護師たちの身にもなってください。
人の世話にはならないと言っていることと、
ずいぶんな矛盾です」
「そら仕方ないわ」
「仕方ない?」
「先生は、ろくでもない患者に見込まれたんや。
諦めて下さい」
「先生は、俺が初めてここに運ばれてきたときに、
怒りもせんと、説教もせんと、
ただ一言、『大丈夫や』と言うてくれた。
そんな先生は初めてですわ」
そして、こう言う。
「このままにしといてくれへんか、先生」
彼の死後、期限の切れた免許証に書かれていた文字は・・・

妹に死なれ、残された小学生の甥を世話するために大学病院をやめたが、
そのことで甥の龍之介はこう言う。
「マチ先生は、あのまま大学で研究を続けていたら、
もっと出世して偉くなっていたんでしょう?」
言われた哲郎は、こう返す。
「確かに、肩書は立派になったかもしれないがね。
しかしその場合、お前の人生はどうなるんだろうかと、
私は考えたんだ。
私はその時純粋に、
独りになったお前を放置して、
自分が愉快な人生を歩めるものだろうかと自問したんだ。
答えは難しいものじゃなかった。
お前が辛い目にあっているのに、
素知らぬ顔で幸せな人生を送るという世界は、
私の中には成立しない。
お前が笑顔で生活していけることは、
私にとってとても大切なことなんだ。
そういう私なりの哲学にしたがって、
お前を引き受けたわけだ」
そして、こう附け加える。
「地位も名誉も金銭も、
それが単独で人間を幸福にしてくれるわけじゃない。
人間はね、一人で幸福になれる生き物ではないんだよ」

龍之介が将来何になりたいか、という対話で、
政治家になりたいとは思わない、
政治家は、なんか悪いことばかりしているイメージだから、
と言うのに対して、哲郎が言う言葉。

「それはこの国特有の問題だよ。
国によっては、子供の将来の夢のトップに
政治家が来ることだって珍しくないんだ。
私はその方がはるかに健全な社会だと思うね。
この国だって昔からろくでもない政治家ばかりだったわけじゃない。
政治にかかわる人たちの器がすっかり小さくなってしまったのは、
政治の問題というよりは、
マスメディアの品性と、
国民の知性の問題だと私は思っている。
新聞や雑誌の紙面は、
否定的で攻撃的な言葉であふれかえっているだろう。
何をやっても批判と非難ばかりをぶつけられる世界に、
まともな神経の持ち主なら、
足を踏み込もうとは思わないわけさ」

大学病院時代、一緒に働いた花垣(はながき)辰雄が、
自分の医局の5年目の新人・南茉莉を送り込んで来る。
始め戸惑っていた南だが、
急変した患者の原因を見事に見抜いた哲郎に驚いたのをはじめ、
哲郎の日常に沢山のことを学ぶ。

哲郎は南に語る。

「病気が治ることが幸福だという考えでは、
どうしても行き詰まることがある。
つまり病気が治らない人はみんな不幸のままなのかとね。
治らない病気の人や、
寿命が限られている人が、
幸せに日々を過ごすことはできないのかと」
「たとえ病気が治らなくても、
仮に残された時間が短くても、
人は幸せに過ごすことができる。
できるはずだ、というのが私なりの哲学でね。
そのために自分ができることは何かと、
私はずっと考え続けているんだ」

精神科医から内科医に転身した秋鹿(あきしか)淳之介は語る。

「生きてさえいれば、いずれいいことがある。
よくそんな言葉を耳にします。
もちろん大多数の人にとっては事実かもしれません。
けれどもそうでない人も確かにいるのです。
生きていることそのものが地獄のような人々。
たとえば、寝たきりの母親の介護に疲れ切って
心中を図った老いた息子。
夫の家庭内暴力に怯えながら生活をする妻。
毎日のように親から性暴力を受けている少女・・・
以前にいた職場(精神科)で、
僕は狂気の瀬戸際に立つ人々をたくさん見てきました。
いえ、実際に狂気に呑まれた人も目にしました。
もう死んでもいいんだよ、
そう言ってあげたくなるような人々です。
毎日をただ懸命に生きている人が、
生きることが地獄だと感じている人の世界を
理解する必要はないし、
もとより無理な話でしょう。
健康な若者に、癌患者の苦しみ恐怖を
理解できないことと同じです。
狂気も死も、
普通の人々にとっては縁のない世界だ。
けれども・・・
医師はそうではない。
私は狂気の果てを見て、
そこから逃げ出してきた人間です。
それなのに逃げ出した先では、
あなた(哲郎)のような医師が、淡々と死と向き合っている。
狂気も死も、人間という存在が成立する
ぎりぎりの外線に漂う宇宙ですよ。
迂闊に近づけば、戻って来れなくなる。
いや、戻って来る意味さえ見失います。
勇気はいくらあっても足りません」

花垣の台詞。
「世の中の医者ってのは、
心の中に二種類の人格を抱えているんだ。
科学者と哲学者という二種類だ。
どんな医者でも
この二つの領域を行ったり来たりしながら働いている。
人によって比重は違うし、
大半が凡庸な中道派だがね。
哲学の方向に振り切れた医者は、
現場じゃ使い物にならない。
せいぜい教会でお祈りするか、
現場から遠くはなれた書斎で小説でも書いているだろうさ。
マチが尋常じゃないのは、
一流の科学者でありながら、
哲学者としても凡庸でない点だ。
そういう医者を俺は見たことがない」

哲郎は南に対して言う。

「私は、医療というものに、大した期待も希望も持っていないんだ。
医者がこんなことを言ってはいけないのかもしれないが、
医療の力なんて、本当にわずかなものだと思っている。
人間はどうしようもなく儚い生き物で、
世界はどこまでも無慈悲で冷酷だ。
そのことを、
私は妹を看取ったときに
いやというほど思い知らされた。
だからといって、無力感にとらわれてもいけない。
それを教えてくれたのも妹だ。
世界にはどうにもならないことが
山のようにあふれているけれど、
それでもできることはあるんだってね。
人は無力な存在だから、
互いに手を取り合わないと、
たちまち無慈悲な世界に飲み込まれてしまう。
手を取り合っても、
世界を変えられるわけではないけれど、
少しだけ景色は変わる。
真っ暗な闇の中につかの間、
小さな明かりがともるんだ。
その明かりは、
きっと同じように
暗闇で震えでいる誰かを勇気づけてくれる。
そんな風にして生み出されたささやかな勇気と安心のことを、
人は『幸せ』と呼ぶんじゃないだろうか」

引用ばかりになってしまったが、
引用したくなるほど
語られている内容は深い
その深さをしみじみと味わう小説だった。

著者は現職の医師。
だからこそ語られる哲学。

著者はこのように言っている。

医療が題材ですが「奇跡」は起きません。
腹黒い教授たちの権力闘争もないし、
医者が「帰ってこい! 」と絶叫しながら心臓マッサージをすることもない。
しかし、奇跡や陰謀や絶叫よりもはるかに大切なことを、
書ける限り書き記しました。
今は、先の見えない苦しい時代です。
けれど苦しいからといって、怒声を上げ、
拳を振り回せば道が開けるというものでもないでしょう。
少なくとも私の心に残る患者たちは、
そして現場を支える心ある医師たちは、
困難に対してそういう戦い方を選びませんでした。
彼らの選んだ方法はもっとシンプルなものです。
すなわち、勇気と誇りと優しさを持つこと、
そして、どんな時にも希望を忘れないこと。
本書を通じて、そんな人々の姿が少しでも伝われば、
これに勝る喜びはありません。

映画化が決まっている。

主人公・雄町哲郎は大の甘党。
作中に登場する、京都の老舗菓子店の銘菓
物語のいろどりとなっている。

矢来餅 

                                    

阿闍梨餅

長五郎餅

緑寿庵 金平糖


映画『ラ・パルマ』

2025年01月29日 23時00分00秒 | 映画関係

[ドラマ紹介]

リゾート地での火山の爆発と
それが原因で起こった津波の災厄を扱った
ディザスター・パニック・ドラマ。

舞台はラ・パルマ島という
アフリカ西のカナリア諸島にある実在の島。


たびたび本当に噴火を起こしている。
1712年、1949年、1971年の火山活動でも溶岩流が海に達している。
2021年9月に東側山腹の複数地点から噴火が開始した。
噴火は50年ぶりで、約5千人が避難し、
同年12月に終息宣言が出されるまでに
溶岩流は家屋1300棟以上を破壊し、
バナナ園やブドウ畑など広い土地を覆った。
という現実的な舞台設定。

クリスマスシーズン。
毎年何百万人もの観光客でにぎわうカナリア諸島に、
あるノルウェーの家族がやって来る。


一家はラ・パルマ島にあるお気に入りのホテルにチェックイン。
ただ、夫婦で意見が衝突することが多く、
家族は危機をはらんでいた。

一方、島の地震研究所にいる若いノルウェー人科学者が、
島の中央に位置する火山に
警戒すべき兆候を発見する。
亀裂が拡大しているのだ。
既に、海中から吹き上げる熱湯で
観光船が転覆するという事件も発生している。
火山が噴火すれば、
マンハッタン島に匹敵する大きさの山塊が崩壊して海になだれ込み、
世界最大級の巨大な津波を引き起こす可能性が。
しかし、所長は警告を出すのを躊躇する。
以前、警告が空振りになった経験が足枷になっているのだ。
市長も警告を出すことに消極的だ。

しかし、現実に噴火が起こる。
情報をキャッチした外務省勤めの夫婦の兄が
密かに電話をかけてきて、島から至急脱出することを勧めるが、
既にパニックは始まっていた・・・

という、リゾート地に来た家族と
研究所の研究員との
二つの車輪で物語は進む。

当たり前過ぎる構成だが、
俳優の恐怖演技がなかなかなので、
見ていられる。
この種の映画特有の主人公の間抜けな行動も健在。
見どころは火山の噴火、
山の崩落、
津波の発生で、
CGの映像がなかなかの迫力。
自然災害の映像一見の価値あり。
どうせなら、大西洋を渡っての、
北米大陸大西洋岸の様子も見せてほしかったが、
まあ、贅沢というものだろう。

ラ・パルマ島はスペイン領。
それを舞台にノルウエー製作の映画という変わり種。
リゾート地に来たノルウェー人家族はともかく、
研究所にもノルウエー人がいるという都合の良さ。
バラバラだった親子の絆が、
災害によって繋がりを取り戻していくのだが、
終盤の展開はまさにご都合主義で、
もう少し辛口な展開はなかったものか。

連続ドラマだが、
リミテッドシリーズ4回完結で通算3時間1分と
コンパクトなのがいい。

監督はカスパー・バーフォード
出演者は名前は知らないが、
見たことのあるような顔もちらほら。

Netflixで視聴。


一由そば

2025年01月28日 23時00分00秒 | グルメめぐり

日暮里に行きました。

高速道路下の道路を通り、

スマホのナビという便利なものに導かれて、

ここへ。

一由そば

立ち食いそば屋さんです。

朝11時で、この行列。

しばらく並びましたが、
映画の時間が迫っていたので、
一旦離脱
後にスケジュールを入れてはだめですね。

有楽町で映画を観た後、戻ってみると、
午後も行列。

最近、テレビで紹介されたかららしい。

この店、24時間営業。

これがメニュー。

割引日もあるらしい。

客の回転は早い。

順番が来て、中に入って注文。

立ち食いスペースが8人分くらいで、
座る席もあります。

具材がたっぷり。

ジャンボゲソ天を注文。

この店の看板メニュー。

あっという間に平らげました。

前の建物にこんな表示があるところを見ると、
どうやら、店の外で食べる人もいるらしい。

英語や中国語で書いてあるところを見ると・・・?

マナーは守らないとね。

 


小説『なんで死体がスタジオに!?』

2025年01月26日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

「ノウイットオール あなただけが知っている」で
松本清張賞を受賞した森バジルによる書下ろしミステリー。

特別番組「ゴシップ人狼」。
出演者たちが持ち寄ったリアルゴシップについて語りながら、
紛れ込んでいる嘘つきを推理する、というトーク番組。
季節ごとの改変期に放送される人気特番で、
今回は生放送だ。

しかし、番組のメインとなるはずの
大物俳優・勇崎恭吾が入りの時間を過ぎてもやって来ない。
どこにいるかも分からず、
電話にも出ない。
ポンコツプロデューサーの幸良涙花(こうらるいか)は困り果てていた。
このまま勇崎が現れなければ、
番組の進行を変えざるを得ない。
その旨、司会者や出演者には伝えたが、
幸良とADの次郎丸夕弥は、
スタジオの隅にある箱の中に勇崎の死体を発見してしまう。
上司に報告すれば、
番組は放送中止となるだろう。
しかし、ダメプロデューサーの幸良は
会社から「次がダメなら制作を外す」と告知されている。
その上、犯人らしい人物からのメッセージで、
番組を止めないことを命令されており、
背くとスタジオの照明に仕掛けた爆弾が破裂するという。
だから、とにかく勇崎がいないまま、
番組は始めなければならない。
生放送まであと20分。
幸良は特番を乗り切れるのか!? 
そして、この事件の犯人は?

という生放送という時間的制約の中で行なわれる犯人捜し。

7つの章で成り立っているが、
各章の題名が
この番組には刺激の強い表現が含まれています。
内容を一部変更してお送りします。
個人の感想です。
良い子は決して真似しないでください。
気になる答えはCMのあと!
ここでゲストから素敵なおしらせです!
など、よく使われるフレーズが付けられている。

プロデューサーの幸良、
出演者6人のうちギャルタレントの京極バンビと
一発屋芸人・仁礼左馬(にれいさま) の
三人の視点で描かれる。
もう一人、番組の視聴者甲斐朝奈(あさな)の視点もあるのだが、
ここには仕掛けがあった。

実際の番組名も出て来る。
「ゴシップなんて九割が誇張か情報不足。
六人いたら五人は嘘つきな人狼。
そのくらいの目を持ってくれよ、
テレビの前のみんな」
というメッセージも含まれている。

最後の大きな仕掛けは意表をつくもので、
ほーと、感心した。

 


映画『アンソニー・ホプキンスのリア王』

2025年01月25日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

シェイクスピアの四大悲劇の一つ
「リア王」のBBCでのテレビ映像化。
「アンソニー・ホプキンスのリア王」というのは、
日本で付けた題名で、
英題は「ウィリアム・シェイクスピアのリア王」
しかし、アンソニー・ホプキンスが演ずるのがウリなことは確かだ。

ただ、舞台は中世ではなく、
21世紀の架空のロンドンとなっている。
従って、交通手段は車だし、
建物、衣裳も完全に現代。
しかも、世界は超軍備化が進んでいる。
戦車や大砲、ヘリコプターも登場する。

年老いたリア王は、退位するにあたり、
国を3人の娘に分割するとして、
娘たちがどれほど王を愛しているかを問う。
姉の二人が偽りの忠誠と甘言を弄して
王を喜ばせたのに対し、
王の一番のお気に入りだった末娘は、
王を愛するあまり言葉にせず、
それが王の怒りを買い、
末娘の分も二人の姉に与え、末娘は勘当される。
末娘をかばったケント伯も追放される。
しかし、王が二人の娘の領地を交互に訪れると、
警固の軍人たちを削減され、
冷たい扱いを受ける。
失望した王は荒野の嵐の中でさまよい、
次第に狂気にとりつかれていく。
これに大臣であるグロスター伯の二人の息子、
庶子のエドマンドの奸計で嫡子のエドガーが追われる話や
忠臣ケント伯の忠義が描かれる。

という大時代の話を現代に持ち込む。
このような時代の移し替えは、
私が最も嫌うものだが、
意外や新鮮な印象を受けた。
それも、時代状況は変われども、
俳優たちの演技がしっかりしているからだろう。
イギリス演劇界の底力だ。

リア王は、もちろんアンソニー・ホプキンス
長女ゴネリルにエマ・トンプソン
次女リーガンにエミリー・ワトソン


末娘コーデリアにフローレンス・ピュー
という豪華な顔ぶれ。
監督は、リチャード・エアー
長い作品を1時間55分にまとめ、
どこが省略されたかはにわかには分からない。
2018年の作品。
UNEXTで鑑賞。

末娘の頑なさ、王の頑迷固陋さが
悲劇の原因だということが強く印象付けられたのは、
時代背景を現代に持って来たことのマイナス効果だと、
初めて知った。
やはり時代の価値観が反映されてしまうのだ。

現代化したことで道化の扱いはどうかと興味深かったが、
始めの方で出て来ないので、
道化は思い切って割愛か、
と思ったら、老人の道化として出て来た。
あまりピンと来ない。
思い切って道化をカットするのも一案ではなかったか。
また、エドモンドは魅力に欠け、
二人の姉の心を奪うようには見えなかったから、
これはミスキャストではないか。

ちなみに、「リア王」が書かれたのは、
1605年から1606年にかけてで、
1606年12月26日に宮廷で上演されたという記録がある。
(初演はシェイクスピアの属するグローブ座、という説もある。) 
出版登録がなされたのは1607年11月26日。

しかし、悲劇仕立てが嫌われたのか、
1681年、ネイアム・テイトによって喜劇に仕立てられ、
話の筋も大幅にハッピーエンドに書き直された。
例えば、リア王は最後に復位し、道化も下品という理由で登場しない。
この改変された版は以降19世紀前半まで上演され、
1838年にウィリアム・チャールズ・マクレディ主演・演出による
オリジナルの「リア王」が上演されるまで続いたという。
シェイクスピアの受難

実は、私のシェイクスピア体験は、「リア王」だった。
故郷の伊豆の高校の文化祭で
「リア王」を観た。
ただ、まともな上演ではなく、
演劇部顧問の先生が手を入れた簡易型の脚本だったと思う。
錯乱するリア王を照明で表現したのが
子供心に残った。

本格的なリア王を観たのは、
東野英治郎の俳優座版(1972)を経て、
蜷川幸雄演出、市川染五郎(現松本白鸚)による日生劇場の公演(1975)で、
鑑賞後1週間は頭の中にその舞台が残るほど
強烈な演劇体験だった。
訳は小田島雄志版。
美術は朝倉摂、
照明は吉井澄雄。

舞台はかなりの傾斜の岩山のような感じ、
奥をドームが覆う。
登場人物は皆毛皮をまとった、荒々しい雰囲気。
そして、セリフを謳うのではなく、
わめき、がなる。
リア王の荒野の場面では、
叫び声をあげて真正面に倒れると、
その瞬間、背後のドームがまっ二つに裂ける。
リア王の狂気と共に世界が崩壊する予感を与えるすさまじい衝撃。
エネルギーと猥雑さにあふれた「リア王」で、
舞台からはすさまじいエネルギーが客席を差し貫く。
それまで観たどの「リア王」より斬新で視覚的だった。
それまでのものが、
セリフを聞かせようとする
常識の範疇だったのに対し、
舞台の上で肉体がぶつかりあうような、
観客の気持ちをかきむしって
ひきずりまわすような
すごい舞台。
これ以上のエネルギーを持って襲って来るものは観たことがなく、
こうして、私の演劇体験の一位に長く留まり続けた。