空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

豊洲千客万来

2025年01月16日 23時00分00秒 | 名所めぐり

昨日のこと。
ゆりかもめの、この駅で降りて、

ここへ。

「豊洲 千客万来」です。

豊洲市場に併設された商業施設。
「千客万来」(せんきゃくばんらい)とは、
多数の客が入れかわり立ちかわり来て、絶え間がないこと

昨年の2月1日開業
当初は2018年度の開業が計画されていましたが、
東京都から業務委託されていた運営事業者の撤退や
豊洲市場の移転時期の延期、
更に新型コロナウィルスの影響や、
物価高による建築費の高騰なども影響し、
計画より5年遅れてのオープンとなりました。

混んでるようなので、遠慮していましたが、
1周年近く経って、ようやく来訪

北西の海に面する部分に建つ9階建の「温浴棟」と、
南東に建つ3階建の「食楽棟」で構成されています。

市場前駅とは、歩道橋を通じて
直接連結されており、
ここが入口。

門から入った2階が一番のにぎわいの「豊洲目抜き大通り」
江戸の町並みの再現がコンセプト。
インバウンドに喜ばれそう。

うなぎや寿司など、
江戸時代から日本人に愛されてきた食の名店を集約した飲食店街。
全国から本格・本物の食を届ける約70店舗が集結。

豊洲市場併設なので、
海鮮のメニューが多い。

ここは、「時の鐘」

10時、12時、15時、18時、21時を鐘で知らせます。
川越市の「時の鐘」を模した建造物。

芝居小屋風建物。

中のオブジェ。

一番奥にある温浴棟は、
地上9階、地下1階。


中は、24時間営業の温泉施設「東京豊洲万葉倶楽部」


日帰り温泉と共に宿泊施設も備えています。
湯河原や箱根湯本の温泉を
タンクローリーで運んでいます。
江戸時代に熱海・湯河原・箱根の湯が江戸に運ばれて
徳川将軍家などに献湯されていた歴史の現代版です。

360度パノラマビューの
東京湾の風景を眺めながら、
湯浴みができる露天風呂をはじめ、


屋上の展望足湯庭園やリラックスルーム、

お食事処や家族風呂など充実の館内施設で、
一日中ゆったりと過ごせます。

入場料は3850円
深夜料金3000円を追加すれば、
6850円で、朝まで滞在することが出来ます。
入館料には
館内着・バスタオル・フェイスタオルの貸出が含まれているので、
手ぶらでも可能。

宿泊(69室)は、朝食付きで12500円(和室)、


洋室は14800円と16500円。

6時から9時の朝風呂のみでは、2200円。              
大浴場、サウナ、岩盤浴、マッサージ、リラクゼーション、漫画コーナーも完備。

8階には、無料で入れる足湯があります。

ここからの景色。

「食楽棟」に戻って、


2階豊洲目抜き大通りの隣の屋内施設「目利き横丁」は、


通路の両脇に店舗がズラリと並んでいます。

仲卸が目利きした新鮮な食材や珍味を
カウンターで食べられる店舗がそろいます。

導線が2階中心なので、

1階「豊洲江戸前通り」は、ご覧のとおり。

ここにお客を呼び込む方法が必要です

3階はフードコート「よりどり町屋」


座って食事が出来ます。

当日の最終目的地は、ここ。


内容は次の「グルメめぐり」で。


西新井大師

2025年01月08日 23時00分00秒 | 名所めぐり

新年最初の名所めぐりは、西新井大師

ここに行くには、東武線の西新井

大師線に乗り換えなければなりません。

大師線は西新井から延びた一駅だけの支線

上板橋までもっと伸ばす計画だったようですが、
関東大震災などがあって、一駅で断念。

昭和6年に、約1キロのみの路線で開業。

2両編成のワンマンカーです。

中の様子。

単線です。

西新井を32分に発った電車が
2分間の走行で大師前に着き、
2分停車した後に36分にターン。
38分に西新井に着いたら、
4分後の42分に大師前に向けて出発。
この10分ごとの繰り返しです。

すぐに終点が近づきました。

大師前駅に到着

なかなか立派な駅舎です。

駅内に医院があります。

西新井駅でSUICAで精算しているので、
ここは無人駅

昔、一度だけ来たことがありますが、
その時は、表参道をちらっと通っただけ。

表参道では、草だんごが有名。

唐辛子屋も。

表参道を通り抜けると、

山門です。


江戸後期の建立。
両脇に金剛力士像が守ります。


足立区指定文化財。

更に参道を抜けると、


大本堂

真言宗豊山派の寺で、西新井大師の通称で知られていますが、
正式には、五智山遍照院總持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)といいます。
古くから「関東の高野山」とも呼ばれています。

天長3年(826 年)、空海(弘法大師)が関東巡錫(じゅんしゃく)の折、
当所に立ち寄った際、観音菩薩の霊託を聞き、
悪疫流行に悩む村人たちを救わんと、
御自ら十一面観音像とご自身の像をお彫りになり、
観音像を本尊に、ご自身の像を
枯れ井戸に安置して二十一日間の護摩祈願をおこないました。
すると清らかな水が湧き、
病はたちどころに平癒したと伝えられます。
その井戸がお堂の西側にあったことから
「西新井」の地名ができたと伝えられております。

川崎大師などと共に「関東三大師」の一つに数えられ、
正月には初詣の参拝客で賑わいます。

江戸時代中期に建立された本堂は、
昭和41年(1966年)、火災により焼亡しましたが、
本尊は難を逃れ、
昭和46年(1971年)に再建され現在に至っています。
堂内には十一面観音(秘仏)、
空海自刻と伝える弘法大師像(秘仏)の他、
四天王像・阿弥陀三尊像(旧三匝堂安置)を祀っており、
護摩祈祷が毎日行われています。
また、毎年10月の第一土曜日には、
北斎会として、紙本着色弘法大師修法図が公開されます。
縦150cm×横240cmの大作で、
現存する葛飾北斎の最大級の肉筆画。
弘法大師空海が祈祷をしている様子が描かれています。

上からの眺め。

これが境内の全図。

巡ってみましょう。

まず、参道の屋台。

こんなものまで。


塩地蔵

江戸時代からいぼ取りに霊験ありと伝えられており、
塩をいただき、その功徳があるときには、倍の塩を供えるのだといいます。

鐘楼堂

大晦日の深夜零時から新年を迎える鐘の音が響きます。

水洗い地蔵

十種の福徳が授かり特に寿命長遠の功徳があるとされております。

三匝堂(さんそうどう)

一匝に八十八体大師像、二匝に十三佛、三匝に五智如来と二十五菩薩を祀っています。
足立区指定文化財。


仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、
右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、
三匝堂といわれます。
都内に残る唯一の栄螺堂です。
栄螺堂(さざえどう、さざいどう)は、
江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた
特異な建築様式の仏堂。
堂内は螺旋構造の回廊となっており、
順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、
堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっています。
古くは登ることができましたが、現在は内部非公開。
螺旋構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、
通称で「栄螺堂」や「さざえ堂」などと呼ばれます。              
水子地蔵

水子供養が行われます。

不動堂

関東三十六不動霊場の二十六番札所です。

四国八十八箇所お砂踏み霊場

厄除弘法大師のご利益と観音慈悲の功徳を一時に与えて下さる礼拝所。

福寿地蔵


                                        弘法大師立像

お大師様がお四国を行脚された時のお姿です。

稚児大師像

お大師様の幼少の頃のお姿です。
子育て、学業成就のご利益をいただくことが出来ます。

                                    十三重宝塔

恵果阿閤梨より受け継がれた仏舎利一粒が納められています。

弁天堂

七福神の一人・弁財天を祀っています。 

権現堂

当山建立の折、地鎮のため権現様を祀ったことに始まります。

如意輪堂(女人堂)

如意輪観音を祀っております。
女性の諸願成就に霊験があります。                                         奥の院

高野山奥の院を江戸後期に勧請したもので弘法大師を祀ります。

出世稲荷

五穀豊穣の神 稲荷明神を祀っています。

書院

各種行事、団体参詣の為の広間です。 

東門

平成26年落慶。

牡丹園

4月中旬から下旬には、
約100種2500株のボタンが咲きます。

ここは、

光明殿

法事等の仏事はここで行われます。

 


渋谷スカイ

2024年12月28日 23時00分00秒 | 名所めぐり

今年最後の「名所めぐり」は、
渋谷スカイ(SHIBUYA SKY)です。

この超高層ビル、渋谷スクランブルスクエアの屋上にあります。

渋谷スクランブルスクエアは、
東急東横線渋谷駅及び東急百貨店東横店東館跡地の
再開発計画で作られた建物。
2019年(令和元年)11月1日に開業。
高さは229m
低層階から中層階は大規模商業施設、
高層階はハイグレードオフィス、
最上階に「SHIBUYA SKY 」。

渋谷スカイへの入口は14階にあります。

急行レベーターで行くのが便利。

14階で、ここに並びます。

入場料は当日2500円、ネット予約で2200円

予約時間は20分刻み。

エレベーターの乗り場。


天面の鏡や床面の反射板を使って、
空間が少し歪んで見える構造になっており、
来場者の意識を日常から非日常に導く演出となっています。

このエレベーターに乗って、45階へ。


分速360m。あっという間です。

天井全面にはディスプレイと音響システムがあり、
映像と音響がエレベーターの上昇・下降に連動しています。
日常から非日常への移行を体験化しているそうです。

エスカレーターで、46階へ。

46階が屋内展望回廊「SKY GALLERY 」
その上が屋上展望空間「SKY STAGE 」

安全のため、ポケットに入るカメラ、
ネックストラップのついているカメラ、
携帯電話以外の手荷物は持ち込みが禁じられており、
ロッカーに預けなくてはなりません。

まず「SKY GALLERY 」を一周。

ここからスクランブル交差点を見た景色。

回廊のオブジェ。

飲み物とスナックを求めることができます。

ソフトクリームを食べようと思いましたが、売り切れでした。

おみやげショップ。

では、屋上へ。

このエスカレーターで
屋上展望空間「SKY STAGE 」へ。

2500平方メートルあります。

ここからの眺め。

明治神宮と代々木公園。

国立競技場。

国立体育館。

宮下パーク。

階段状のステージが。

ヘリポート。

並んでいるのは、

ここで写真を撮るため。

こんな風に。

今度は座って。

GEO COMPASS は、最も高い位置から
360度のパノラマビューを楽しめるスポット。


足元には世界地図が描かれています。

ここは、

夜になると、ドリンクを提供するらしい。

空を見上げるように寝そべることができるハンモック。

下に降ります。

昔の渋谷の写真。

夜景がきれいでしょうね。

ということで、拝借した写真を。(富士山が見えます)

 

                                       


浅草寺・その3

2024年12月12日 23時00分00秒 | 名所めぐり

それでは、浅草寺の支院を巡りましょう。

駒形堂

隅田川に架かる駒形橋↓

の西詰にある小堂。
本尊は馬頭観音立像(秘仏)。

浅草寺は、その昔、兄弟の漁師が
隅田川で漁をしていた時に、
1躰の仏像が網にかかったのが始まり。


その仏像が陸に上げられた地が駒形堂。


浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、
かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、
駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったという。

一等地にある堂なので、
どこぞの不動産業者が目を付けそうですが、
そういういわれがあっては売買されるはずがありません。

現在の堂は鉄筋コンクリート造で、
平成15年(2003)に建て替えたもの。
元は隅田川に向いて建てられていたが、
現在の堂は江戸通り側を正面とし、
川には背を向けた形になっている。
本尊は毎月19日の縁日に開扉され法要が行われる。

境内に付近の魚類の殺生を禁じた
「戒殺碑(かいさつひ)」がある。


隅田川の南、諏訪町より、
北は聖天町までの漁を禁じた。
都指定文化財。

 

遍照院(へんじょういん)

浅草寺の北東、浅草6丁目にある支院のひとつ。
安土桃山時代に順慶法印によって中興されたという。


往時は安楽院と称し、
宝暦12年(1762)に遍照院と改称された。


遍照院の諸堂は大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、
現在の本堂は昭和39年(1964)の再建。


本堂内の本尊は、阿弥陀如来坐像。

遍照院は浮世絵師・葛飾北斎終焉の地としても知られている。
かつて遍照院の境内西側に「狸長屋」という長屋が建ち、
そこに北斎は住んでいた。
北斎は生涯に93回転居したが、
狸長屋が終の住み処となった。

                          
墓地の入口にある箱には、

野良猫か地域猫の宿が。
でも、冬空では大変でしょう。

家に帰ってから、その写真を家人に見せようとしたら、
「そんなかわいそうな写真、見せないでよっ」
と叱られました。

 


待乳山聖天(まつちやましょうでん)

浅草寺の北東にある待乳山は、
標高約10mの丘で、
東京で最も低い山と言われる。
(愛宕山もそうですが、
 関東ローム層の平野で、
 どうしたら山が出来るのでしょうか。) 

ここに伽藍を構える待乳山聖天は、
正式には本龍院といい、
浅草寺の支院のひとつ。
縁起によると、推古天皇3年(595)9月20日、
一夜のうちに涌現した(!)霊山で、
その時金龍が舞い降り山を廻り守護した。

その後、
干ばつで人々が苦しみあえいでいたときに、
十一面観音の化身である
大聖歓喜天が姿を現して人びとを救済し、
聖天さまとして祀られたのが草創という。
霊験あらたかなことで古来より知られており、
身体健全、夫婦和合、商売繁昌にご利益があるとして
篤い信仰を集めている。

歓喜地蔵尊と二十八地蔵尊

奥の階段を上って本堂へ。

待乳山は広い江戸の平野にある小高い丘であることから、
古くから名所として文人墨客に愛され、
多くの絵画や歌の題材となった。

10mといっても登るのはきつく、
駐車場からは、
ケーブルカーで登山(?)出来る。

足が不自由な方や高齢者のために設置されたもの。

山の頂上の本堂。

境内各所には大根と巾着の印が見られるが、

大根は身体健全、夫婦和合、
巾着は財福の功徳を表わしたものとされる。
特に大根は
食べたら辛さに顔をしかめる、怒った顔になるので、
人間の怒りの象徴として、それを納めることから、
参拝者の怒りや欲望を鎮めて、
心身を清浄にする
聖天さまの「おはたらき」を象徴するものとして、
お供物とされている。

境内でお供え用の大根を販売。

供えられた大根は、
「おさがり」として、

印が打たれたものを、
参拝者が無料で持ち帰ることが出来る。

寺が漬物屋に卸しているわけではありません。

糸塚

ここから見える東京スカイツリー。

3回にわたる浅草寺。
知らないことが沢山ありました。
最後に、ライトアップされた夜景をどうぞ。

 


浅草寺・その2

2024年12月08日 23時00分00秒 | 名所めぐり

浅草寺の続きは、参道西側から。

五重塔

天慶5年(642) 、平公雅が塔を建立したと伝わる。
この塔は三重塔であったといわれ、
江戸時代・寛永年間の浅草寺境内図を見ると、
本堂の東側に五重塔、
西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存していた。
江戸時代は、上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、
谷中天王寺五重塔とともに「江戸四塔」として親しまれた。
明治19年(1886)、各所が傷んでいた塔を修復することになり、
塔のまわりに足場が組まれた。
このとき修復の費用を捻出するために、
一般の参拝者に有料で足場を登らせた。
足場に設けられたスロープ沿いに
最上層の屋根部分にまで登れたため、
人々は遥か遠くまでの眺望を楽しんだ。

本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが
昭和20年(1945)の
東京大空襲では焼失した。
現在の塔は、
寛永8年(1631)に焼失した
三重塔の跡伝承地付近に場所を移して
昭和48年(1973)に再建されたもので
鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、
塔の高さは約48m。
外から見ると、五重塔は地上面から建っているように見えるが、
実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っている。
インドのストゥーパを起源とし、
最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から奉戴した
仏舎利が納められている。

鳩ポッポの歌碑

東くめ作詞、瀧廉太郎作曲で
明治33年(1900年)に発表された
童謡「鳩ぽっぽ」の歌詞と楽譜を表した碑。
昭和37年(1962)に建立された。

ここから、未知の西境内に入ります。

影向堂(ようごうどう)

平成6年(1994年)の建立。
影向とは、神仏が姿かたちとなって現れること。
堂内は内陣と外陣に分かれ、
内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、
その左右に千手観音、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、
勢至菩薩、大日如来、不動明王、阿弥陀如来を祀る。
また、外陣には浅草名所七福神の大黒天を祀っている。

薬師堂

影向堂の南に建つ、三間四方の堂宇で
当初の薬師堂は本堂の北側にあったので、
「北薬師」と呼ばれていたが、
慶安2年(1649)、
三代将軍徳川家光が本堂の北西に再建。
これが現在の建物で、
浅草寺に残る江戸時代以前の建築では
六角堂、二天門とともに古い。
平成6年(1994)に現在地に移された。

六角堂

影向堂の左に建つ六角堂は
室町時代の建立で、
境内最古の建物。
東京都指定有形文化財。
堂内には日限地蔵(ひぎりじぞう)を本尊として祀る。

淡島堂

影向堂の更に西側に建つ。
元禄年間に紀州の淡島明神(淡嶋神社)を勧請したことから
この名がある。
平成7年(1995年)、
境内地の再整備の際に
旧影向堂を移して淡島堂としたもの。
東京大空襲で本堂が焼失した後、
昭和30年(1955年)までは浅草寺の仮本堂であった。
堂内には本尊阿弥陀如来坐像、
淡島神の本地仏とされる虚空蔵菩薩像を安置する。
毎年2月8日にこの堂で針供養が行われることで知られる。

銭塚地蔵堂

この地蔵尊の由来は次のようなもの。
享保年間(1716~36)に摂津国有馬郡(現在の兵庫県西宮市)に
山口某という武士の妻がおり、
夫とふたりの子供と暮らしていた。
貧しいながらも彼女は武士の妻としての誇りを失わず、
他人からの援助を断って清貧の生活を送っていた。
ある時、子供らが庭先に埋まっていた沢山の寛永通宝を掘り当てた。
しかし彼女は、理由のない金を自分のものにするのは恥と考え、
金を埋め戻させた。
この賢い母に育てられ、子供らは立派に成長し、家が繁栄したので、
子供らは金を埋めた場所に地蔵尊を祀ったという。
これが現在、西宮市山口町に残る銭塚地蔵尊で、
この地蔵尊の御分霊を勧請したのが浅草寺の銭塚地蔵堂。
商売繁昌のご利益を求めて祈願する人が多い。

三峯神社

写経供養塔

針供養塔

                                  石橋

国の重要美術品。
かつて境内にあった東照宮への参詣用に造られたもので、
元和4年(1618年)、東照宮が勧請された際に建造された。

恵比寿・大黒天堂

銅造宝篋(ほうきょう)印塔

阿弥陀如来坐像

銅造観音菩薩坐像

めぐみ地蔵

子育地蔵尊

商徳地蔵尊

出世地蔵尊

銭塚弁財天

一言不動尊

金龍権現

 釘供養塔

新奥山

江戸時代、今の浅草寺本堂の北西一帯は、
「奥山」と呼ばれ、江戸随一の盛り場だった。
参拝者が休息する水茶屋が並び、
芝居、見世物、独楽回し、猿芝居、居合、軽業、手妻(奇術)などの
大道芸人が人々を楽しませた。
水茶屋や楊枝屋の看板娘は、いわば当時のアイドルで、
鈴木春信や喜多川歌麿などの美人画の題材となって評判となった。
奥山の名の由来は記録にないが、
おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと考えられる。

明治になり、寺地が浅草公園に入れられ、
浅草の盛り場が「六区」に移るにともない、
奥山の名は消えていった。
現在、本堂西側の一画が新たに「新奥山」として整備され、
さまざまな碑、像が立つ。

映画弁士塚

無声映画時代に活躍した弁士を称えるために
昭和33年(1958年)建立された。
題字は鳩山一郎の書。

喜劇人の碑

昭和57年(1982年)建立。
川田晴久を筆頭に、
物故者となった日本の喜劇人の名が刻まれている。

「喜劇に始まり、喜劇に終わる」という森繁久彌の言葉も。

「喜劇王」として活躍した曽我廼家五九郎の顕彰碑

力石(ちからいし)

江戸時代後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、
酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、
その力を競うことが流行した。
ここにある力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で
競い持ち上げられたものである。
「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、
熊治郎という男が持ち上げた百貫(約375 キロ)ほどの力石であり、
新門辰五郎らがその記念として建てた。

この他、浅草神社境内には久保田万太郎句碑、
川口松太郎句碑、河竹黙阿弥顕彰碑、
市川猿翁(二代目市川猿之助)句碑、
初代中村吉右衛門句碑などがある。

「暫」の像

浅草寺の一番北、駐車場っ時の奥にある、
「劇聖」と賞賛された明治時代の歌舞伎役者、
九代目市川団十郎(1838~1903)の
十八番「暫(しばらく)」の銅像。
主人公である鎌倉権五郎の力強さにあやかり、
毎年4月、この像の前で威勢良く赤ちゃんの泣き声を競う
「泣き相撲」が奉納される。
現在の像は、十二代目市川団十郎(1946~2013)襲名を機に復元されたもの。

伝法院(でんぼういん)

参拝者で賑わう仲見世の西側に、
閑静な庭園が広がっていることは意外に知られていない。
伝法院は浅草寺の本坊であり、
大玄関・客殿・使者の間、
大台所・大書院・住職の間などの建築と、
江戸時代初期の庭園からなる一画。
江戸時代初期の頃は「観音院」や「智楽院」と呼ばれていたが、
浅草寺中興四世の宣存僧正の坊号をとって、
元禄3年(1690)頃より伝法院と称されるようになった。

庭園の大部分を占める大池泉は、
北東部と南西部の池に大きく分かれ、
2 つの池は細い流れでつながれている。
池の周囲に小径がめぐらされた「廻遊式庭園」であり、
歩むごとに景観の変化を楽しめる。
寛永年間(1624~44)に、作庭家として著名な
小堀遠州により築庭されたと伝わる。


庭園の諸所に石塔や石灯籠などが置かれ、景観に趣を添える。
客殿には阿弥陀三尊像が奉安され、
その左右には徳川歴代将軍、浅草寺歴代住職の位牌が安置されている。

平成23年(2011)に伝法院の庭園が国の名勝に、
平成27年(2015)には「客殿、玄関、大書院、小書院、新書院、台所」の6棟が
国の重要文化財に指定された。
一般公開はしていないが、不定期で特別公開されることがある。 

          
鎮護堂(ちんごどう)

伝法院は非公開だが、
敷地の南西にある鎮護堂は公開されており、
ここから柵越しに伝法院の回遊式庭園が瞥見できる。
ここに祀られる「鎮護大使者」とはタヌキである。
江戸市中に「狸阪」「狸穴」などという地名があるように、
かつて江戸には狸が多く棲んでいた。
上野の山や、浅草の奥山にも狸が棲んでいたが、
官軍と彰義隊が戦った上野戦争や奥山の開拓などで逃げ出して、
明治の初めには浅草寺の伝法院あたりに棲みつくようになった。
一説には狸らは、草履を釜に投げ入れたり、
座敷に砂をまいたりなどのいたずらをしたという。
浅草寺も狸らの乱行に困っていたが、
時の住職、唯我韶舜大僧正の夢枕に狸が現れ、
「われわれのために祠を建てて保護してくれれば、
伝法院を火災から守り、永く繁栄させましょう」
というお告げがあった。
そこで、明治16年(1883)に
鎮護大使者として祀ったのがこの鎮護堂。
その霊験あってか、伝法院、鎮護堂ともに
関東大震災や東京大空襲での焼失を免れている。
火除け祈願のほか、
この祠に祈ったところ失せものが見つかったという霊験から、
盗難除けの祈願をするご信徒も多い。
また、狸を「他を抜く」という語呂としてとらえて、
落語家や歌舞伎役者など、
芸能関係者の信仰が篤いことで知られている。
境内にはいくつかの狸の焼き物がある。

続きは支院を巡ります。