[映画紹介]
佐藤正午の直木賞受賞作を映画化。
小山内堅は事故で妻・梢と娘・瑠璃を同時に亡くし、
傷心のまま、故郷の八戸で暮らしていたが、
娘の親友・緑坂ゆいから呼び出しを受け、
東京のホテルの喫茶室で会う。
親友は娘を連れて来ていた。
そこから、数十年を隔てての数奇な物語が展開する。
まず、高田馬場を舞台にした、
正木瑠璃と大学生の三角哲彦との物語。
雨宿りで知り合った二人は恋に落ちるが、
それは許されないもので、
夫の正木竜之介からDVを受けていた瑠璃は、
離婚を決意して、荷物をまとめて家を出た途中、
踏切で電車にはねられて死んでしまう。
(ここは、原作とは違う)
それから数年後、
小山内夫妻のもとに娘が生まれる。
母・梢は
「夢の中でこの子に、名前は瑠璃にしてほしいと言われた」と、
娘を瑠璃と名づける。
瑠璃は7歳の時、1週間ほど高熱で寝込んでしまい、
それ以降、奇妙な行動をするようになる。
急に大人び、知らないはずの英語の歌を歌い、
(原作とは曲が違う)
デュポンのライターの知識を持っていたりする。
ある日、家出して、高田馬場で保護される。
ビデオ屋を探していたというが、
(そこは、三角と瑠璃が初めて出会った場所だった)
瑠璃は小山内と
「高校を卒業するまでは遠くに行かない」と約束をする。
そして、高校を卒業した時、
母と共に東京に出かけ、交通事故で死亡する。
悲しみにくれる小山内のもとに、
三角哲彦と名乗る男がやって来る。
その話では、瑠璃は、
事故当日に面識のないはずの自分を訪ねようとしていたのだという。
そして、瑠璃が、かつて自分が愛した女性・正木瑠璃の生まれ変わりではないかと言う。
三角を追い返した小山内だったが、
親友の緑坂ゆいに呼び出された小山内の前に現れた娘も、
名前を瑠璃というのだった・・・
という、輪廻転生の物語。
正木瑠璃は2度(原作では3度)生まれ変わり、
三角との再会を果たそうとするのだが・・・
冒頭近くの、ホテルの喫茶室の描写で、
あ、この監督は「凡人」ではないか、と危惧したが、
その予感は的中してしまった。
ファンタジーならファンタジーらしい撮り方がある。
小説で成り立っていたホラ話を
映像で展開するなら、
それなりの工夫がないと観客を納得させることは出来ない。
脚本も問題で、錯綜する物語と時系列をまとめるのに必死で、
輪廻転生の物語を展開するには、工夫が足りない。
たとえば、原作の骨とも言える、次の会話。
「不死身?」
「不死身じゃないよ。
死ぬのは死ぬ。
でも死に方が人とは違う。
あたしは月のように死ぬから」
「……?」
「神様がね、この世に誕生した最初の男女に、
二種類の死に方を選ばせたの。
ひとつは樹木のように、死んで種子を残す。
自分は死んでも、子孫を残す道。
もうひとつは、月のように、
死んでも何回も生まれ変わる道。
そういう伝説がある。
死の起源をめぐる有名な伝説。
知らない?」
「人間の祖先は、樹木のような死を選び取ってしまったんだね。
でも、もしあたしに選択権があるなら、
月のように死ぬほうを選ぶよ」
「月が満ちて欠けるように」
「そう。月の満ち欠けのように、生と死を繰り返す。
そして未練のあるアキヒコくんの前に現れる」
この脚本では、
あっさり「伝説」の部分を削除した。
小説の一番のキモを捨ててしまった。
この場面こそ、
月を背景に語られるべきなのに、
凡庸な描写で終わってしまう。
監督は廣木隆一、
脚本は橋本裕志。
俳優も問題で、
父親を演ずる大泉洋は、この役には適役とはいい兼ねる。
容貌と雰囲気は配役において重要な要素だが、
大泉のキョトンとした顔では、この数奇な物語を負いきれない。
瑠璃を演ずる有村架純は、
可愛いが、
どうしても三角と再会を果たしたい、
という執念のようなものは感じられない。
子役はうまいが、輪廻転生の結果生まれた妖気あるものとは、ほど遠い。
演出が行き届いていないのだ。
それなのに、肝心のキモを外して、
親子の情愛を前面に出し、
観客の涙を誘うように誘導する。
安っぽい音楽付きで。
どんなに大泉洋の泣きの演技がうまくても、
私は泣けなかった。
私は、本ブログでは、
「わざわざけなして観客を減らすことはない」
という観点から、
元々欠点のある作品は掲載しない方針だ。
だが、「日本の監督は小説を読めない(読みこなせない)」
という私の持論のとおり、
「ある男」に続いて、
凡庸な監督によって
素晴らしい小説の映像化に失敗した例として、
このブログを掲載する。
ただ、80年代の高田馬場を再現したセット↓は、
注目に値する。
5段階評価の「3」。
拡大上映中。