[映画紹介]
パリの観光名所であるエッフェル塔の建造を手掛けた
ギュスターヴ・エッフェルの伝記ドラマ。
アメリカの自由の女神像の完成に協力したことで名声を獲得したエッフェルは、
1989年の「パリ万国博覧会」のシンボルモニュメントの制作を企図する。
しかし、当時世界で最も高い建造物とされていた
ワシントン記念塔の169mをはるかに越える
300mの鉄塔は、
人々の想像を越えており、
倒壊を恐れる住民や
景観破壊を恐れる芸術家たちが反対運動を起こし、
資金不足や職人のストライキなど、
様々な困難が立ちはだかる。
しかし、エッフェルが初志を貫いて完成までこぎつけたのには、
一人の女性の存在があった・・・。
というわけで、
エッフェルが若い時に恋に落ちたアドリエンヌという女性との間が描かれる。
両親に間を引き裂かれ、
再会した時、激烈な愛に身を投じる。
二人の仲は、夫である記者アントワープの知るところとなり、
スキャンダルの発覚と引き換えに別れさせられる。
エッフェル塔の建設が
当時の市民と識者たちの反対にあった、
というのは、有名な話。
それにもかかわらず建設を成し遂げた影に
愛する美女がいた、
というのは、脚本家と監督の創作で、
「史実を元に自由に作った」と映画の冒頭で断っている。
「自由に」というのがミソ。
こういう恋愛沙汰に走るのは、
フランス映画ならではの傾向か。
しかし、この恋愛劇は、ありきたりで不要に思えた。
第一、時間経過が分かりにくい。
選考委員会の決定問題とか、
資金難や周囲の反対、工事の困難さなど、
いくらでも題材があったはず。
展望台設置の際のセンチ単位の調整、
ジャッキ&砂圧といった細かな技術調整で成し得た
緊迫感のあるシーンもあるが、
それ以外は結構簡単にスルーしている。
当時反対されたとしても、
その後、パリのランドマークとなり、
観光資源となったことで、
エッフェルの仕事が正しかったことは証明されている。
そのあたりの反対運動との確執など面白かっただろうに。
だが、メインはあくまでもメロドラマになっていて、
夫ある女性が過去の恋に焦がれて、
破滅的な恋愛に溺れていく様子を描いてる。
製作者は、
エッフェル塔は、ある恋愛を犠牲にして完成された、
としたいのだろうが、
あまりに陳腐ではないか。
エンドクレジットで、
エッフェル塔の外観が「A」に見えるが、
それはアドリエンヌの頭文字、
などと書かれると、
ふざけるのもいい加減にしろ、と言いたくなる。
監督はマルタン・ブルブロン。
エッフェルをロマン・デュリス、
アドリエンヌをエマ・マッキーが演ずる。
5段階評価の「3.5」。
シネスイッチ銀座他で上映中。
以下、エッフエル塔にまつわるトリビアを。
エッフェル塔は、フランス語でLa tour Eiffel、
英語でEiffel Towerといい、
個人名が冠された建造物。
東京都庁を「丹下タワー」、
国立競技場を「 隈スタジアム」などと命名したら、
日本では問題になるだろう。
エッフェル塔を発案したのは、
実は、エッフェル本人ではなく、
建設会社エッフェル社の技師である
モーリス・ケクランとエミール・ヌーギエが、
高さ300mの鉄の塔を建てて
万博のシンボルとする案を立てたもの。
この案に同じく社員であるステファン・ソーヴェストルが修正を加え、
現在見られるエッフェル塔とほぼ同じ計画案を作成した。
(だから、「A」の形は、恋人アドリエンヌの頭文字、
というのは、全くの創作)
この案は社長であるギュスターヴ・エッフェルの賛同と強力な支援を受け、
万博の目玉となる大建造物を選定するためのコンペティションが開かれると、
エッフェルはソーヴェストルおよびケクランと連名で計画案を提出。
候補として委員会が選んだのは3案(美術館など)あったが、
エッフェルらの案は満場一致で採択された。
1889年3月31日を工期の期限とすること、
20年後の1909年に塔をパリ市に引き渡すことで契約を締結。
工期中に政府からの補助金150万フランが交付されることとなったが、
予算の650万フランの4分の1以下にすぎず、
残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった。
株式会社エッフェルが建築し、
金策はエッフェルの努力だから、
エッフェル塔という命名もいたしかたないかもしれない。
まず、語感がいい。
エッフェル塔の入場料は1909年まではエッフェル自身の収入となり、
これによって建設費を返済していくこととなった。
1887年1月28日に起工式が行われ、
まず基礎工事、
ついで4本の脚から塔本体の建設が始まり、
1階の展望台、2階展望台、3階展望台と進み、
1989年3月30日に竣工。
予定通り3月31日には
首相ピエール・ティラールらを招いて竣工式が行われた。
建設は万博に間に合わせるため2年2カ月5日という驚異的な速さで完成した。
5300枚のデッサンを描き、1万8000の部品を工場で生産して送り出し、
常時150~300人が現場で組み立てるプレハブ工法を採用。
エッフェルは熟練作業員による少数精鋭主義をとるとともに
工事中の安全対策には特に注意を払い、
期間中の死者は1人にとどまった。
総工費は予定通り650万フランであった。
建設当時としては奇抜な外見のため、賛否両論に分かれた。
1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出。
反対派の文学者モーパッサンは、
エッフェル塔1階のレストランによく通ったが、
その理由として
「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ
唯一の場所だから」
と言ったという。
1889年5月6日に開幕したパリ万博においてエッフェル塔は目玉となり、
パリのみならず世界中から観光客が押し寄せた。
開幕時にはエレベーターが完成しておらず、
観光客は1710段の階段で展望台へと向かった。
後にエレベーター運行までの間にエッフェル塔に入場し、
階段を昇った客の数は約3万人にのぼった。
塔の最上階には来客用のサロンを備えた
エッフェルの小さな私室が設けられた。
私室の隣には、様々な実験を行うための研究室も設けられ、
気象観測や空気抵抗の実験などが行われていた。
エッフェル塔は大盛況となり、
11月8日の博覧会終了までの入場者数は
189万6987人、
1889年の入場者数は200万人を記録した。
やがて、エッフェル塔の来訪者は減少し、
塔の権利がパリ市に移る1909年には
解体されることが確実視されていた。
しかし1904年、
フランス軍で通信を担当していたギュスターヴ・フェリエが
軍事用の無線電波をエッフェル塔から送受信することを提案し、
国防上重要な建築物ということで、
取り壊しを免れることとなった。
この電波塔としての役割は非常に重要なもので、
現代に至るまでエッフェル塔の主目的の一つとなっている。
東京タワーは、最初から電波塔として建設されたが、
1889年当時は、電波塔の必要性はなく、
単なるモニュメントだったのだ。
1921年にはエッフェル塔からラジオ放送が開始された。
1925年にはシトロエンがエッフェル塔に巨大な照明看板を出し、
1936年までの11年間この広告は続いた。
1930年にニューヨークでクライスラー・ビルディングが完成し、
エッフェル塔は世界一高い建造物の地位を失った。
2002年11月28日にはエッフェル塔の通算入場者数が2億人に達した。
エッフェル塔は鋼製ではなく、
鋼よりも炭素含有量が少なく、強度の低い
錬鉄でできている。
それで、防錆のために塗装は欠かせなかった。
塗装の色はかつては赤褐色だったが、
1968年の塗り替えの際に
エッフェルブラウンと呼ばれている現在のブロンズ色へと変更された。
これは1色ではなく、
パリの風景に溶け込みやすいように3 つの色調が使い分けられており、
塔の下部はより暗い色調(明度の低い色)、
塔の先端部はより明るい色調(明度の高い色)に塗り分けられている。
展望台は3つあり、高さは第1展望台が57.6m、
第2展望台が115.7m、
第3展望台が276.1mである。
第2展望台までは階段でも昇ることが可能。
建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、
1957年、アンテナなどを設置して約321mとなった。
2000年に放送用アンテナを設置して約324mとなった。
2022年、地上デジタルラジオ放送用アンテナが設置され、約330mとなった。
(東京タワーの高さは334m)
2017年9月には通算来場者数が3億人を突破して記念式典が開催された。
エッフェル塔は、世界で最も多くの人が訪れた有料建造物で、
一日平均で2万5千人が塔にのぼる。
エッフェル塔自体の著作権は、既にパブリックドメインに属している。
しかし、2003年に施されたライトアップ装飾によって
「エッフェル塔に新たな創作性が付与された」と解釈され、
2005年に改めてパリ市が著作権を取得した。
つまり、ライトアップされたエッフェル塔の画像・映像の公表には制約がある。
日本ではこのような規制はない。
ところで、エッフェルの身長は152㎝だった。
西洋人としては、ごく小さい部類に入る人が
当時世界一高い建造物を作ったのだから、興味深い。
身長が低いと恋愛はしない、とは言わないが、
映画で描かれるような美女との悲恋は想像しにくい。