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映画『6月0日 アイヒマンが処刑された日』

2023年09月13日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

オットー・アドルフ・アイヒマン(1906年3月19日~1962年6月1日)は、
ナチスドイツの親衛隊中佐。


ゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、
アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送を指揮し、
数百万人に及ぶユダヤ人を
殺害するための絶滅収容所へ運ぶ役割を担った。

第二次世界大戦終結後、
アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、
偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、
捕虜収容所から脱出した。
なおアイヒマンは死んだと思われていた。

1947年から西ドイツ国内で逃亡生活を送り、
1950年初頭には難民を装ってイタリアに移住、
リカルド・クレメント名義で国際赤十字委員会から
難民対象の渡航証の発給を受け、
1950年7月15日、
アルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸した。
その後ブエノスアイレス近郊に住まいを構え、
工員やウサギ飼育農家など様々な職に就き、
ドイツから家族を呼び寄せ新生活を送った。

アイヒマンがアルゼンチンにいる、
という情報を入手したイスラエル政府は
アルゼンチンにモサド(諜報特務庁)の要員を送り込み、
アイヒマンの居所を突き止めて拉致。
1960年、極秘のうちにイスラエルに連行。
(当時イスラエルとアルゼンチンの間には
 犯罪人引き渡し条約が結ばれていなかったため、
 偽装して運搬するという国際法違反。
 捜索、拘束、移動の話は一篇の映画にしたくなるほど劇的である。)

1961年4月から
人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われてエルサレムで裁判にかけられ、
12月15日に有罪、死刑判決が下されて、
翌年6月1日未明に絞首刑に処された。

死刑制度のないイスラエルで、
どうやって死刑が執行されたか、
遺体はどうしたのか。

「死刑制度のない」と書いたが、
それは、通常犯罪のことで、
イスラエルでは通常犯罪には死刑は適用されず、
反逆罪や人道に対する罪にのみ適用される。
アイヒマンの死刑は建国以来同国で執行された2例目であり、
また、同国最後の死刑となった。

(日本にも「外患誘致罪」というのが刑法に存在し、
 日本の安全を侵害する目的で外国と共謀し、
 日本への攻撃を誘発する行為を処罰する規程で、
 国家反逆罪であり、法定刑は死刑のみしか規定がないため、
 有罪になれば必ず死刑になる。)

題名の「6月0日」は、
5月31日から6月1日の真夜中だけが
イスラエルで死刑を行使する唯一の時間との定めによる。
刑執行後、遺体は裁判医が確認するまで、
1時間ほどぶら下がったままだったという。

問題は遺体の処理で、
墓など作れば、ナチ信奉者の聖地にされてしまう。
そこで、アイヒマンの遺体を焼却して灰にするため
秘密裏に焼却炉の建設が進められた。
そして、遺灰は、地中海にまかれた。

(ウサマ・ビン・ラディンの遺体も
 聖地化されないために、同様に海にまかれた。)

死刑、焼却、散布までの
歴史の裏話を描くのが、この映画。

実は、人口の9割をユダヤ教徒とイスラム教徒が占めるイスラエルでは
復活を信ずる教義により
律法で火葬が禁止されており、
火葬設備が存在しなかった。

そこで、刑務所の所長が、
友人の鉄工所の社長に、
秘密裡に焼却炉の製造を依頼する。


しかし、設計図など、どこにも存在しない。
入手した設計図はドイツ製。
つまり、強制収容所で使用されたのと同じものだった。

この話に、焼却炉製作に関わった
リビア系移民の13歳の少年ダヴィッド、
アイヒマンを警護する刑務官、
ホロコーストの生存者である警察官、
特ダネを得ようとする新聞記者などが関わる。


特に、アイヒマンを警護し、
私的な報復を阻止するために
神経を尖らせる刑務官の存在が興味深い。
なにしろ、アイヒマンを「無事」処刑まで生き延びさせるために、
心を砕くのだから、複雑だ。

散髪に呼ばれた理髪師にさえ疑いをかけ、
最後は幻影まで見る。

焼却炉の試作品を作っては、試しに羊を焼いてみるが、
生焼け状態に終わり、
その匂いをうまそうな匂いと感ずるなど、
深刻な内容でありながら、
どことなくユーモラスな作品に仕上がっている。

もうナチものはいいかな、
と思いながら、
ついつい観てしまう。
それだけ、歴史的な題材といえるだろう。

監督は、グウィネス・パルトロウの弟のジェイク・パルトロウ

5段階評価の「4」

TOHOシネマズシャンテ他で上映中。

なお、
当時中学生だった私は、
「アイヒマンが捕まって死刑になった」
というニュースはうっすらと憶えているが、
歴史的知識のない悲しさ、
その重要さはよく分からなかった。
当時公開されていた「十三階段への道」(1958)というドキュメンタリーも観たが、


興味本位で、
ナチの犯罪の人類的闇の深さは理解するに至らなかった。
ナチとユダヤ人虐殺の事実を知るのは、
もっとずっと後のことである。



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