カエサルの世界

今年(2019年)1月中旬から「休載中」ということになっているのだけど、まあ、ときどき更新しています。

●平安美人

2016年01月27日 | ☆おえかき    

 「平安美人」というものを描いてみました・・・っていうか、描いてみようと思ったんですけど、うまくいきませんでした。
 カエサルは平安美人を見たことがないし、平安美人の写真というものもありません。平安美人の絵はあるんだけど、中世になってから描かれたものだったりするのであまり参考にできませんでした。
 もっとも、リアルな平安美人を描いてみようと思っていたわけでもないんですけどね。
 あえて言えば、「かつては美人とされていたものが、現代ではむしろ不美人の範疇に入ってしまう」みたいなのを描きたかったんですけど、なんか難しいですね。


 今回は、どうして「美人の基準」は時代とともに変わってしまうのか、ということを考察してみたいと思います。
 ウィキペディア先生によると、「女性の何をもって美とするかは、究極においては主観的なものであり、個人の嗜好によって美人の基準は異なる」ということになります。まったくその通りですね。大前提の大原則ということになると思います。
 面白いと思ったのは「平均美人説」という仮説で、「美人とはそのコミュニティにおいて最も平均的な容姿を持つもの」なんだそうです。鼻の高い人が多い場合は鼻が高いということが美人の要素になるんだそうです。そう言われてみるとそうかなという気もします。
 その他にも、いくつかの学説が紹介されていました。


 ここでカエサルが提出するのは「いい人=美人説」です。
 どんな時代、どんな集団にも「いい人」がいるわけですけど、まず、その人自身が「美人」に見えます。それから、その人に似ている人も「美人」ということになります。似ている人の場合は、「いい人」ではなくても、「美人」なんですね。
 この場合の「いい人」っていうのは、「性格のいい人」と考えてもいいんだけど、頭のいい人とか、料理の上手な人とか、歌の上手な人とか、お金持ちの人とか、広い意味で考えて下さい。そういう人は、そうじゃない人に比べて、美人に見えると思います。
 ここに、集団性が絡みます。どういう人を「いい人」と思うかは、人によって違うわけです。また、似ていると思うか、思わないかも、人によって違います。したがって、多くの人から「いい人」と思われるような人に、多くの人が似ていると思うような人が「美人」ということになります。


 「美人は三日見れば飽きる、不美人は三日見れば慣れる」という言葉があります。「三日」というのを言葉の綾だとすれば、その通りだと思います。
 たとえば、自分の妻とか母とか妹とか娘とかを見ていて、他人と比べて美人だと思ったり思わなかったりすることはあると思います。しかし、そうしたことをのべつまくなしに感じていられるかというと、感じないんじゃないかと思うのです。
 あるいは、会社の部下がすごい美人だとしても、一緒に仕事をしているときにはそうしたことを意識しなくなってしまうのではないかと思います。
 そんなことはない・・・という人がいるかもしれません。彼女といると見とれてしまって仕事にならない・・・などという人もいると思いますけど、それは、一緒に仕事をしているということにはなりません。一緒に仕事をしているときは、美人かどうかを意識することはないわけです。
 一緒に生活したり、一緒に仕事をするような「身内」に対しては、美人であるかどうかよりも、性格とか、能力とか、言動の方が大切です。つまり、「いい人」であるかどうかが重要なのです。
 美人であるかどうかというのは、「身内」ではない、「他人」に対して感ずることだと思います。この場合、その人の性格・能力・言動などについてはわからないわけで、見た目で推測するしかありません。「いい人」に似ていれば、「いい人」じゃないかもしれないけど、「いい人」であるような気がします。そういう人のことを「美人」というのではないでしょうか。
 なんか屁理屈をこねまわしているのも疲れてきました。平安美人のこととかについては言及できなかったわけですけど、このへんで切り上げます。


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