すっかりご無沙汰してしまいました。
『茶遊庵』の2月の体験も終わり、
大人茶道 はじめてのお点前 Step1(盆略点前)のお稽古も始まり、
毎日慌しくも充実した日を過ごしています。
体験会の様子についてはHPとインスタに簡単にアップしております。
今週中にはブログにもお道具組み含め、様子を書きたいと思っております。
さて、今日で2月も終わり。
2月28日は利休忌です。
命日は旧暦の2月28日で、新暦で、表千家は3月27日、裏千家は3月28日に追善茶会を行っています。
朝から利休忌のことを思い、大人茶道のお稽古の準備をして、新聞に目を通すと、天声人語にまさに利休忌のことが書かれていました。
興味深い内容だったので、以下に引用記載します。
2022年2月28日 天声人語より******************
2月28日は利休忌である。茶人、千利休が70歳の生涯を閉じた旧暦のその日に春の穏やかさはなく、大雨と雷の荒天だったと伝えられる。二人三脚で歩んできた豊臣秀吉から蟄居させられた末、切腹を命じられた。
「侘び茶」の印象のため忘れそうになるが、利休が生きたのは戦乱の世だ。ときの覇者である織田信長、そして豊臣秀吉に仕え、茶事を司った。なのになぜ死を命じられたのか。
表向きの理由は、寺院の山門に利休が自分の木造を置いたのが無礼だというものだ。しかしそれだけではないはずだと、後世いくつもの説が取りざたされた。娘を秀吉の側室に出すのを拒んだ。秀吉のもくろむ朝鮮出兵に反対した・・・・。おそらく永遠のなぞだろう。
重要なのは、その死が天下統一の実現した時期に起きたことだと歴史学者の池上裕子さんが指摘している(『織豊政権と江戸幕府』)。「内々の儀は宗易(利休)が存じている」との言葉が残るように、秀吉に密かに話を取り次ぐ役割も利休は果たしていた。そんな政治のやり方を脱し、石田三成ら若手官僚が前面に出たのが統一後の政権だった。
強固な統一体制のもと秀吉は明の征服をめざし、その前段階として朝鮮に出兵した。当時の国際関係の現実を無視した行動だったが止める者はいなかった。自軍に、そして何より朝鮮の人々におびただしい死をもたらした。
専制君主の暴走が止まらなくなる。戦乱期の日本に限らないことが最近のニュースから痛いほど伝わってくる。
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まさか利休様の話が、現代の話に通じるとは思わなかった。
昨今のニュースを見ていると、今私たち個人が享受している平和な日常も、国という大きなグループのトップの行動次第で、あっという間に崩れてしまう可能性があるということをひしひしと感じる。恐ろしい。
会社にしろ、国にしろ、組織の一番上に立つ人は、権力があり、偉いわけではなくて、
その組織の皆が幸せに過ごせるように、あるいは同じ目的に向かって安心して進んでいけるように、心を配る義務を課され、組織を少しの間だけ、託されているだけなんだと思う。
どうか、お互いが大事にするものを認め合い、話し合い、仲良く暮らせる地球になりますように、と祈らずにはいられない。
一服の茶を点てながら、利休忌に思った。
伊東潤 「茶聖」を読みましたが、利休が秀吉にあまりにも近づき、信頼を得過ぎて・・・
武士でもないのに切腹だったのですね。
連日ウクライナとロシアの事が報道されておりますが心が痛みます。
トップの権力者の考え一つで、こんなバカげたことは起こらなかったはずです。
大宗匠のおっしゃる、「どうぞお先に」「お先にどうぞ」というお互いの気持ちこそが争いの芽を出させない事だと思います。
お茶の世界では、政治の話、お金儲けの話はしてはいけないと言われておりますが、一言言いたいです
ね。苦しむのは一般の人々だという事を・・・。
茶聖は読んでいないのですが、、、
確かに商人の利休様が切腹、あの時代に。
秀吉は何を守ろうとしたのか、利休様は何を知っていたのか。
色々考えてしまいますね。
本当に日々の報道に心が痛みます。
同じ人間同士、お互い様、お先にどうぞの気持ちを忘れずにいたら、争いごともなくなるでしょうに。
自分が相手の立場だったらどうか、と想像力を働かせたら自然と答えは出そうですが。
茶道の世界、亭主は常に相手がどうしたら心地良いか、過ごしやすいかを考えるし、客も亭主の心配りを受け止め、感謝する。お互いを思いやる。
人間一人では生きていけないのだし、協力し合い、補い合い、感謝を持って暮らしたいですね。