
カタログハウスで、元祖もろみ酢を定期購入しています。
ノニジュースを飲むようになってから、4か月おきの定期購入ですが、飲みやすく美味しいので続いています。
今年から、健康食品の定期購入者に、「月刊 益軒さん」という小冊子が送られてくるようになりました。
江戸の儒学者、貝原益軒の83歳の時の健康論『養生訓』の現代版をめざして、”食と笑いで養生する”をテーマに記事を編んでいる小冊子。
毎回、巻頭は ”今月の益軒さん” のインタビューが載っています。
これを読む度に、高齢の方がとても生き生きと頑張っているのに触発されて、
私も頑張らなくちゃと元気をもらっているのですが、
今回の益軒さんは、芝山漆器職人の宮崎輝生(みやざきてるお)さん
でした。
え、誰?と思われた方も多いかと思います。
実は私も、宮崎さんというお名前は覚えておらず、芝山漆器という言葉で記憶が蘇ったのです。
私の尊敬する先生が、芝山漆器は地元の大事な伝統だから大切にしたいとよくお話されていたこと。
先生は港の見える丘公園横にある大佛次郎記念館での呈茶を毎年担当されており、私もよくお手伝いにまいりました。
そこには大佛次郎愛用の品が色々あり、ピカソのお茶碗など、なかなか普段は見られないお道具を拝見しておりました。
その茶会の為に、先生は横浜らしいものとして、芝山漆器の、ベイブリッジと氷川丸の棗と、山下公園と大桟橋の文箱をオーダーし、よく使われておりました。
見事な細工で、これだけのものを作るのは大変だろうなあと思っていました。
確か写真があったはず、と思い、古いアルバムを探しましたが、やっと出てきたのは、先生のお宅での初釜でかざられていた文箱だけでした。

本当は細工が素晴らしいのに、画像が悪すぎて良さが伝わらない。。。。。残念。
今となってはきちんと写真に残しておかなかったことが悔やまれてなりません。
今や芝山漆器を作るたった一人となった宮崎さんですが、何度もやめようと思った時に
すばらしい人との出会いがあり、続いてきたと「月間 益軒さん」の中で語っています。
その逸話がなるほどなあと思うものでした。
やはり、人生とは、人との出会い、人からの心からの応援で感じるものがあり、繋がっていくのでしょう。
そして、83歳の宮崎さん、
「長くやっていればいいというものではない、引き際も肝心だとようやくわかってきました。だからいい作品が作れるうちに、個展をやりたいと考えています。それには最低でも20点は必要ですから、芝山漆器の作品と記録を後世に残すためにも、もうひと踏ん張りしたいと思います。」
と結んでいました。
次回開かれるであろう個展には是非足を運びたいと思いました。
芝山漆器は、かながわの名産100選にも選ばれている、横浜市で製作されている漆器です。
漆器に白蝶貝、夜光貝などの貝類や象牙、鼈甲などを象嵌したものをはめ込むことにより、細工が立体的に浮かび上がることが特徴で、象嵌以外にも蒔絵も用い、華やかな仕上がり。
茶道具として見かけることは少ないかと思いますが、芝山漆器という名前を知って、広めて下さい!
伝統が消えてしまうのは、本当に寂しい。。。
横浜芝山漆器研究会
こちらに行くと実際に宮崎さんの作業工程も拝見できるようです。
最後に、芝山漆器の歴史をご紹介しておきます。
江戸時代の安永年間(1772-1781)、上総芝山村(現在の千葉県芝山町)に生まれた大野木専蔵さんが考案。その後、芝山専蔵と改姓して、江戸に出て芝山象嵌を広げた。
1859年の横浜開港により欧米諸国からの注文が増え、職人が横浜に集まるようになり、分業制(塗り師・蒔絵師・象嵌師)による輸出向けの生産が本格化。
1893年のシカゴ万博において入賞した真珠貝花紋小箱を契機に、横浜の職人は芝山象嵌とは異なる独自の芝山漆器を作り始めるようになる。
明治時代は海外貿易用を中心に盛んに生産が行われ、芝山師と呼ばれる職人が100人ほどいたが、関東大震災と第二次世界大戦を経て職人は各地に散り散りになった。戦後、輸出業者が横浜に「鈴蘭荘」という芝山師集団の共同住宅兼工房を作り、そこで生産が続けられたが、職人は減少の一途をたどり、現時点では宮崎さんお一人、全ての工程を担っている。
少し前の記事ですが、”和楽”で紹介された芝山漆器
ご参考まで。
<ご参考 芝山象嵌作品>
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41G7時代 芝山象嵌緒締玉 珊瑚貝碧玉螺鈿細工根付提げもの緒締め玉蒔絵印籠金工前金具煙管筒煙草入れ海象一角鯨歯 古商品 |

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