さて大学2年目1979年のミュージックシーンからオフコースです。
私がオフコースに興味を持ったのは、例のアルバイトからですが、コンサートを一緒にやったメンバーの中の2人がオフコース好きでアルバム「THREE AND TWO」に入っている「思いのままに」の導入部などを一緒にハモッたりして楽しんでいました。
忘れていましたが、あのコンサートのラストではみんなでオフコースのアカペラ曲「いつもいつも」を合唱しました。小曲ですがこれが一番良かったかも。
また、卒業した先輩にもオフコースのファンがいて「愛の唄」や「老人のつぶやき」などを編曲してくれた方もいました。
2年目の定演ではアンコールに「愛の唄」をやり、我が団の売りであるセンスのよさ?を発揮できたのではないかと思います。
オフコースの結成は1970年。
その前年にヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場し第2位。
このときの第1位があの「赤い鳥」で外に出場者はチューリップも!何とレベルの高い大会だったのか。
この大会で優勝して音楽にけじめをつけようとしていたところが2位に終わったことで、小田さんと鈴木さんはプロになることを決意。ポプコンで音楽を終われなくなってしまったのです。
その後、フォークデュオとして「眠れぬ夜」などのヒットを飛ばしますが、高校時代の私は小田さんの綺麗過ぎる声とメロディがいまいち馴染めませんでした。
ところが、5人のバンドになり発表した「愛を止めないで」は今までの曲と違いスケールの大きな曲だな~と思っていましたが、79年に発表された「Three and Two」(写真)は素晴らしい出来でした。もうフォークというよりはロックに近い感じでしたが、小田さんの声が非常にマッチしていてすんなりと受け入れることが出来ました。
思いのままに、恋を抱きしめよう、その時はじめて、歴史は夜つくられる、愛を止めないで、SAVE THE LOVE、汐風のなかで、愛あるところへ、生まれ来る子供たちのために・・・
すべての曲がよかった。
この1枚で私はすっかりオフコースの魅力にとりつかれてしまうのでした。
シングルではこの79年12月に「さよなら」が大ヒット。
今でも冬のスタンダードナンバーとして多くの人の心に残っています。
1979年はオフコースにとっても大きなターニングポイントとなった年だと思います。
後編へつづく
私がオフコースに興味を持ったのは、例のアルバイトからですが、コンサートを一緒にやったメンバーの中の2人がオフコース好きでアルバム「THREE AND TWO」に入っている「思いのままに」の導入部などを一緒にハモッたりして楽しんでいました。
忘れていましたが、あのコンサートのラストではみんなでオフコースのアカペラ曲「いつもいつも」を合唱しました。小曲ですがこれが一番良かったかも。
また、卒業した先輩にもオフコースのファンがいて「愛の唄」や「老人のつぶやき」などを編曲してくれた方もいました。
2年目の定演ではアンコールに「愛の唄」をやり、我が団の売りであるセンスのよさ?を発揮できたのではないかと思います。
オフコースの結成は1970年。
その前年にヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場し第2位。
このときの第1位があの「赤い鳥」で外に出場者はチューリップも!何とレベルの高い大会だったのか。
この大会で優勝して音楽にけじめをつけようとしていたところが2位に終わったことで、小田さんと鈴木さんはプロになることを決意。ポプコンで音楽を終われなくなってしまったのです。
その後、フォークデュオとして「眠れぬ夜」などのヒットを飛ばしますが、高校時代の私は小田さんの綺麗過ぎる声とメロディがいまいち馴染めませんでした。
ところが、5人のバンドになり発表した「愛を止めないで」は今までの曲と違いスケールの大きな曲だな~と思っていましたが、79年に発表された「Three and Two」(写真)は素晴らしい出来でした。もうフォークというよりはロックに近い感じでしたが、小田さんの声が非常にマッチしていてすんなりと受け入れることが出来ました。
思いのままに、恋を抱きしめよう、その時はじめて、歴史は夜つくられる、愛を止めないで、SAVE THE LOVE、汐風のなかで、愛あるところへ、生まれ来る子供たちのために・・・
すべての曲がよかった。
この1枚で私はすっかりオフコースの魅力にとりつかれてしまうのでした。
シングルではこの79年12月に「さよなら」が大ヒット。
今でも冬のスタンダードナンバーとして多くの人の心に残っています。
1979年はオフコースにとっても大きなターニングポイントとなった年だと思います。
後編へつづく