〔生きる力〕というのは,よくわからない言葉である。
我々は,力のあるなしに関わらず,生きているのである。
あるいは,生かされているのである。
そして,自らの与えられた場所で,
自らの乏しい力の限りを尽くして生きているのである。
力のある者は,ある者なりに,
力のない者は,ない者なりに,
生きているのである。
そして,どちらがよい生き方をすることができているかを,
軽々に判断することはできないのである。
よい生き方ができるかどうかをを決めているのは,
実は「力」と呼べるようなものではないのではないか。
確かに,学校は,確かな学力や豊かな心や健やかな体をもつ
人間を育てたいと願っている。
しかし,それ以上に,確かな学力を持ち得なかったり,
豊かな心や健やかな体を持ち得ない人がいたとしても,
そのような人にも,よりよく生きていってほしいという
願いや祈りをもって教育を続けているのが,本当の教師なのである。
力のあるなしに関わらず,よりよく生きていってほしい,
そのために必要なものは,
〔生きる力〕といわれているような内容のものではない。
古くから言われていて,最近あまり聞かなくなった
克己,博愛,清廉,忍耐,勇気,礼儀,度量,誠実,矜持,孝行,勤勉,
といった心のあり方,そういったものなのかもしれない。
「生きる」ということに対して,
単に「力」という言葉を結びつける言語感覚に,
鼻持ちならないエリート主義や選別主義,
あるいは,国家のための人材育成といった功利的な意味合いを
感じ取ってしまうのは私だけだろうか。
我々は,力のあるなしに関わらず,生きているのである。
あるいは,生かされているのである。
そして,自らの与えられた場所で,
自らの乏しい力の限りを尽くして生きているのである。
力のある者は,ある者なりに,
力のない者は,ない者なりに,
生きているのである。
そして,どちらがよい生き方をすることができているかを,
軽々に判断することはできないのである。
よい生き方ができるかどうかをを決めているのは,
実は「力」と呼べるようなものではないのではないか。
確かに,学校は,確かな学力や豊かな心や健やかな体をもつ
人間を育てたいと願っている。
しかし,それ以上に,確かな学力を持ち得なかったり,
豊かな心や健やかな体を持ち得ない人がいたとしても,
そのような人にも,よりよく生きていってほしいという
願いや祈りをもって教育を続けているのが,本当の教師なのである。
力のあるなしに関わらず,よりよく生きていってほしい,
そのために必要なものは,
〔生きる力〕といわれているような内容のものではない。
古くから言われていて,最近あまり聞かなくなった
克己,博愛,清廉,忍耐,勇気,礼儀,度量,誠実,矜持,孝行,勤勉,
といった心のあり方,そういったものなのかもしれない。
「生きる」ということに対して,
単に「力」という言葉を結びつける言語感覚に,
鼻持ちならないエリート主義や選別主義,
あるいは,国家のための人材育成といった功利的な意味合いを
感じ取ってしまうのは私だけだろうか。