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(ヴィオレット) あなたは誠実なひとだとわたしは確信しているわ。でも、一度ならず、あなたはわたしを傷つけた… あなたがわたしのことを、計算ずくの人間だと思えるなんて、わたしは一度だって思わなかったのに。
(ジェローム) いずれにせよ、きみが自分の将来とモニクの将来を気に懸けるのは、ごく当然のことだよ。
(ヴィオレット) あなたは、はっきり言ったばかりじゃないの、経済的な問題は…
(ジェローム) 子供っぽいもの言いだなあ。ぼくがそれを言ったのは、もうすこし純粋で、もうすこし高潔な感情というものがあるということが、フェルナンドには信じられないからに他ならないんだよ… いいかい、ぼくがきみとは方向が反対のように、きみを疑っているように、見えるのは、ただ、ぼくが生き埋めになっているから…
(ヴィオレット) ええ…
(ジェローム) おかしなことさ。かなり恥ずかしいことでもある。でも、ぼくたちの破産以来なんだ、ぼくが、生活の持つあらゆる不条理さと、もつれてほどけない有り様を、ほんとうに感じるようになったのは。
(ヴィオレット) そのことで恥じてはいけないと思うわ。敷居があるのよ、考える力が、与えられている自分の方策だけでは飛び越えることのできないような。或る経験が必要なのよ、貧困の経験、病気の経験のような。
(ジェローム) うん、だけどそれは恐ろしいことだよ、そしてとても(つづく)
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(つづき)疑わしいことだ。なぜなら、そういう経験は、やはりぼくたちを変えてしまうからだ。例えば、アリアーヌだよ… それからキリスト教徒たち。彼らは、不具者たちや貧困者たちが或る特権を享受していると信じているように見える。そうだな… ぼくには分からないが… そのような弱者たちが、まるで白内障を治してもらったように、自分たちの感覚を正常に使える状態に回復したと、キリスト教徒たちは信じているように見えるんだ。でもぼくは、幸福しか信じないよ。ヴィオレット、幸福とは素晴らしいものだ。
(ヴィオレット) アリアーヌも、幸福を信じているわ。
(ジェローム) だけど彼女がその言葉で呼んでいるものは何だろう? きみはシューマンの『子供の情景』の中の、あの、ピアノのための小作品、「全き幸福」を知っているよね。ぼくはあの曲を涙がこぼれそうにならずに聴けたことが無い。
(ヴィオレット) わたしもそうよ。
(ジェローム) あふれこぼれる充溢。人間を、物を、生そのものを、抱き締めたくなる。きみの演奏は、まさにぼくにとってそういうものだ。平和な高揚。失われたエデンの園、きみはそれをぼくたちに戻してくれる。伝説の言うことは嘘だ。ぼくたちは楽園から追放されてはいない。楽園は現に在るんだ、すぐ間近に。あまりに間近なのでぼくたちは楽園を見ることができないんだ。生がぼくたちから楽園を隠していると言ったほうがよいだろうか… 一度ならずぼくはきみと一緒に死にたいと思ったことを、きみは全然気づいたことがないのかい?
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(ヴィオレット) いいえ、あなた、わたし知らなかったわ。
(ジェローム) ただしきみには娘がいる。それでぼくは内心思っている、死というものは、もしぼくたちが自分で自分に与えるなら、その最も純粋な秘密を、ぼくたちに明かしはしないだろう、と。
(ヴィオレット、ふるえる声で。) あなたの言うとおりにちがいないわ。死のうと欲してはならないわ。
(ジェローム、熱烈に。) ぼくたちは、遂に、トンネルから出かかっているようにぼくは思う。きみには解るよね、ぼくたちが、ぼくたちの関係を純粋なものにするに至るなら、つまり、率直に言って、ぼくたちの関係を引き受けようとする勇気をもつに至るなら、いっさいは、多分、もっと容易になるだろう、ということが。いろんな障碍が鎮静するだろう、忌まわしいお金の問題すらも。この問題はぼくを時々精神的に苛み、ぼくの眠りを妨げるんだ… このお金の問題が、現代のぼくたちには想像できない仕方で、おのずから解決されることがないと、誰に分かるだろう? ただ、ぼくたちは、この問題がどのようにして解決されるのか、自分であれこれ想像しようとしてはならない、と思う… そういうことは信仰を欠いていることだろう、きみには解るよね。
(ヴィオレット) あなたは、普段と全然ちがった話し方をしているわ。
(ジェローム) それは、彼女がもうじき発つからだよ。この出立は、(つづく)
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(つづき)ほかの出立とは違ったものになる。ぼくたち次第で、何かが永遠に変わるんだ。
(ヴィオレット、低い声で。) ほんとうに、彼女のためのこのひとの苦労を思うと…
(ジェローム) ぼくは、これを最後に、彼女の立場に自分を置くことをきっぱりとやめる — なぜなら、ぼくは一度だってそれが出来なかったから。ぼくが彼女の感情を想像しようとすると、彼女はいつも、ぼくはぼく自身の感動に騙されていることを、ぼくに分からせるようにした。考えてごらんよ、知られない次元で生じている心像や出来事を見定めようとすることが、どういうことか。アリアーヌは、まさしく他の空間に生きているのではないか、そして其処とはぼくたちは連絡できないのではないか、とぼくは考えているんだ。
(ヴィオレット) それにしても、気をつけましょうよ。わたしたちには、彼女の感情を、どこか近寄りがたい領域の中に追いやっておくことのほうが、ずっといいわ — 敢えて何の考慮も払わずにおくことができるために…
(ジェローム) きみは喜んで同意する、ということだね? ぼくたちの無二の好機だ、ヴィオレット。否を言うことは、ぼくを放棄することだ。(沈黙。ヴィオレット、彼に手を差しのべる。彼はその手を取り、そして彼女に、心を籠めた優しさで接吻する。)
(ヴィオレット) 呼び鈴が鳴ったわ… アリアーヌではないかと不安だわ。彼女からわたしに、前もって知らせがあったの、(つづく)
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(つづき)多分わたしにお別れを言うために、昼間の終りに来るって。
(ジェローム) 彼女に会いたくないな… ぼく、モニクのために小さなおもちゃをひとつ持って来ているんだよ。それをあの子にあげていいかい? そうしたら直ぐに帰るよ。
(ヴィオレット) あなたが入れるか見てくるわ。(ヴィオレット、左側のドアの処へ行き、そっとドアを少し開ける。)あのね、ジェロームさんが、おまえを抱きに来たいって。おまえを喜ばすものを持っているらしいわよ。(ジェローム、左の部屋へ入る。ヴィオレット、ドアをそっと後ろ手で閉める。呼び鈴があらためて鳴る。ヴィオレット、部屋を横切って右側へ渡り、玄関のドアを開けに行き、フィリップと出会う。)
第八場
フィリップ、ヴィオレット
(フィリップ) 私はルプリユール夫人の兄です、マドモアゼル。あなたのことは、妹が私に、よく話しておりまして、あなたの才能をたいへん讃嘆しております。私が参りましたのは、ほかでもなく、(つづく)
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