高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」50

2022-10-16 14:17:37 | 翻訳
169頁

(つづき)改めてくれないかしら。(ヴィオレットに一枚の紙を差し出す。

(ヴィオレット) 誰から? まあ!… 関心の持ちようが無いわ。何度も言ったでしょう、この男とはもう関わる気は無いと…

(フェルナンド) お友だちは事情を知ってるの? 

(ヴィオレット) もちろん知らないわ。 

(ジェローム) どうしたんだい? 

(ヴィオレット) 何の関係も無いことよ。はっきり言っておくわ。

(フェルナンド、その紙をジェロームに差し出しながら。) 読んでいいですよ。(ジェローム、その紙を手に取る。) 

(ジェローム、署名を見て。) バシニー… 興行者ですか? 

(フェルナンド) そのとおりです。

(ジェローム) 契約が問題なのでしたら… 

(フェルナンド) 契約だけが問題なのではありません。 

(ヴィオレット、いら立って。) おねがいだから… 

(ジェローム) この隠し立てはどうしたんだい? もう、この前… 

(フェルナンド) 彼はヴィオレットにとくべつな関心があるのですよ。高く評価しているように見えたのですが…


170頁

(ヴィオレット) 嘘よ。

(フェルナンド) …いきなり、猛然と活動し始めまして。

(ヴィオレット) 何てわたしの趣味に合ってるんでしょう!

(フェルナンド) 彼は何週間ものあいだ留守にするつもりで、彼女に、最後にもう一度よく考えるよう促しているのです。

(ヴィオレット) まったく親切な方だこと。

(フェルナンド) あなたのお友だちに、あなたの将来を確かなものにする気があるのではないのならば、といっても、これはお友だちの意思にも、多分お友だちの能力にも、まず釣り合わないように感じるのだけれど… 私には、あなたが慎重によく考えてみるのがいいという気がするわ、最終的に拒否する前に…

(ジェローム) きみの姉さんの言うことは正しい…

(ヴィオレット) 何を言いたいの?…

(ジェローム) きみに供されている選択は、まったくはっきりしている。もし、きみがぼくの申し出を断るのならば…

(ヴィオレット) 何ですって?

(ジェローム) 繰り返して言うよ、どうしたって今の状況は長引かせることはできない。きみがぼくの妻となることを拒否するのなら、それはまったく率直に言って、きみがそいつの契約申し出を受け入れる気があることを意味する。


171頁

(ヴィオレット) ジェローム…

(ジェローム、フェルナンドに。) この劇を討論にしてくださってありがとうございます。これで彼女は最大限に啓発されます。

(フェルナンド) その結構な結婚計画が、もし実現に至るとして、その場合、あなたはどうやって三人の生計を確保するおつもりなのか、お訊きすることは、慎みが無さすぎるでしょうか? あなたがルプリユール夫人に下宿を提供してもらおうと期待してらっしゃるとは、私は想像していません。

(ジェローム) いずれにしても、経済問題はここでは重要である必要はありません。

(フェルナンド) 素晴らしい! 天晴れですわ。感嘆します。

(ヴィオレット、聞いていなかった。) ようするにあなたは、わたしに、結婚か身売りかの選択をさせるのね。

(ジェローム) きみは誇張が好みであるのなら、それを妨げる力はぼくには無い… ただぼくは、ぼくが見逃していた或る事を考えているところなんだ。(フェルナンドに。) 今回もまた、あなたはぼくに手掛かりを与えてくれました。意地悪さというものの親切な役割から。

(フェルナンド) 私が意地悪? とんでもない! (つづく)


172頁

(つづき)ちょっとあんまりですわ… どうしてそんなことを?… すこし現実主義に過ぎたでしょうが、それだけのことです。

(ジェローム) あなたの妹さんが現実主義であることは、あなたに殆ど劣らない位だということに、ぼくはやっと気づいてきました。(ヴィオレットに。)きみは、ぼくと結婚することで或る種の戸口を自分に閉めることになる、予め或る種の… 機会を断念することになる、と、明らかに思っている。バシニーのような連中はたくさんいるんだよ。もっと若い連中にだっている。そいつらの評判はもっと芳しくない!

(ヴィオレット) ジェローム! あなたはそんなこと、本気で思ってるの? 

(ジェローム) 説明となるものは唯一これだけで、それに、これで充分じゃないか。とにかく、ぼくが最も嫌いなのは、きみが想像してきた、この種の道徳的あるいは感情的なアリバイだ。

(ヴィオレット) どういうこと?

(ジェローム) ぼくは、今では分かる、何のためにきみが、あんなに場違いで、あんなに気に障る、あの親密な関係に尽くしてきたのかということを… そうさ、きみはやっと自分自身で得心したところにちがいない、きみがこの日常の偽りを片付けるのを拒否しているのは、きみの新しい女友だちに配慮してのことだということを。

(ヴィオレット) それが、あなたがわたしについて思っていることなら、どうしてあなたがわたしに、あなたの妻になることを求めているのか、わたしにはよく解らないわ。


173頁

(フェルナンド) 安心なさい、彼はあなたが拒否することをおおいに当てにしているわ。それは、自分の良心と折り合いをつけるための安上がりなやり方なのよ。

(ジェローム) ちがいますよ。

(フェルナンド) もっとも、あなたがたふたりの難癖のつけ合いには、私は何の関心もありませんけれどね。(誰かがドアを叩く。)何なの? (フェルナンド、ドアを少し開く。外で声がする。)そうですか。明日またいらっしゃる必要がおありなのですね? マダム。

(ヴィオレット) 出てゆくのはマダム・ジュキエ?

(フェルナンド) そうよ。

(ヴィオレット) 彼女に、出来ればここには九時以降に来るように言ってくれる?(フェルナンド、外に出てドアを後ろ手に閉める。


第七場

ジェローム、ヴィオレット

(ジェローム) 彼女はいつもあんなに意地悪だったっけ? (ヴィオレット、あいまいな仕草。)あの当てこすりがきみを害しなかったことを願いたいよ…
















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