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makoto's daily handmades

神奈川県小田原市・下曽我辺りをウロウロする

先日、テレビ番組に写った背景に酒匂川にかかる足柄大橋を見つけました。

へー、あの方のアトリエは国府津松田断層(こうづまつだだんそう)にあるんだ、と思った次第です。
 
国府津松田断層は、足柄平野の東側に位置してJR御殿場線(ごてんばせん)とだいたい並行しています。
Google Mapsで確認をしていたら、下曽我(しもそが)辺りでちょっと立ち寄りたい場所がいくつかありました。
ちょうど今日はMIFさんが所用のために足柄平野に車で行くので、下曽我辺りで連れて行ってもらいました。

まずは宗我神社(そがじんじゃ)の鳥居からスタート。
県道72号線の曽我派出所前から撮影しました。


鳥居をくぐってすぐ左側に文学碑がありました。
足柄平野の西側の箱根板橋駅周辺は、戦前の政治家の別荘が多かったのですが、東側は文化人の別荘地だったのか…。
箱根板橋駅は、小田原駅で乗り換えて1つ目。
下曽我駅は、国府津駅で乗り換えて1つ目。
足柄平野の両端は別荘地向け?と楽しくなりました。
ここからまた鳥居まで戻って城前寺に向かいました。

縄文遺跡があるそうです。
そうでしょうね、遺跡がありそうな地形だもの。

縄文遺跡の看板隣から、富士山を望みました。




曽我兄弟之遺跡碑。
昭和4(1929)年に建立されて、東京の俳優協会が寄贈しました。
戦前は曽我兄弟を題材にした映画がたくさん作られたからでしょう。
元々浄瑠璃や歌舞伎の演題なので、映画でも興行成績がよかったのでしょうね。

お地蔵さま
城前寺には幼稚園があり、幼稚園の建物の壁面に曽我兄弟が描かれています。
 
このお寺さんの境内は殆ど幼稚園の園庭になっていまして、私が伺った時は朝礼と朝の運動の時間でした。
先にご本堂周りの石碑を見物しました。












上記までが全部曽我兄弟関連の石碑です。

曽我兄弟のお墓です。
曽我兄弟のお墓は各地にあり、ここはその1つです。

城前寺本堂。
さてこの近くに太宰治ゆかりの雄山荘跡地があるので行ってみました。



2007年12月26日に不審火で、雄山荘は焼失しました。
ここは、太宰治の「斜陽」の元になっている日記を記した太田静子さんがお母様と暮らしていた場所です。
周辺の様子から、富士山も西丹沢も箱根山麓も東伊豆も相模湾も望める場所です。
しかも当時なら眼下には、梅畑とみかん畑と田んぼだもの、別荘地よねぇ、と感心しました。
また相模湾も近いからおいしい海鮮もお安く買えるし、まさに別荘地。
丘陵が織りなす風景、そして南からの温かい風、曽我兄弟の物語という歴史があり、魅力ある土地柄だったのでしょう。
私は太宰作品はそれほど好きではありませんが、この場所の眺めが太宰作品にも影響を与えているかと思うと感慨深いです。
 
さてここから曽我館跡に行こうかと思いましたが、二宮尊徳遺髪塚が1キロくらい先にあるとの看板を見つけたので、行っていることにしました。



途中でこのような石碑をよく見かけました。
多分道祖神や馬頭観音等の交通安全関連とは思いますが、その説明板がなくよく分かりません。

近くで「大山道」の案内板を見つけました。
道祖神等の石碑がたくさんあったので、その理由を考えたら交通の要衝だったことが想像できます。
大山道(おおやまみち)は、現在の伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんしゃ)を目指す道です。
私が住んでいる川崎市辺りでは、国道246号線を指すのですが、一方で国道246号線は矢倉沢往還という呼び方もあり、足柄平野の扇頂あたり(北端)を通って、矢倉岳に至る足柄道のことです。
 
この看板の近くに二宮尊徳遺髪塚があります。



二宮金次郎(のちの二宮尊徳)像と富士山。
二宮尊徳先生の母親の実家がこの近くの川久保家(かわくぼけ)だそうです。
尊徳先生は栃木県で亡くなり、遺髪がこの地に持ち帰られたと聞きました。
 
小田原市は尊徳先生の生まれ故郷ですが、生家は足柄平野を貫く酒匂川右岸。
ここは足柄平野の東端に近く、酒匂川左岸のずっと東にあります。
 
さてここから満江御前の館跡に向かいました。
地域の公民館になっていました。
私は「小袖の別れ」(満江御前が仇討ちに向かう息子の十郎に小袖を渡す場面)の場面を妄想して向かったので、あれ?なんか思っていたのと違うなぁ、と思いつつ…。
 
公民館が意外と住宅っぽい風情だったので、民家に迷い込んでしまったのか?と焦りました。

公民館の敷地内に水神さまがありました。

曽我別所地区の簡易水道事業の解散記念碑。
この地区では昭和58年まで井戸水を簡易水道として使っていたそうです。
でも井戸の水量では需給が追いつかず、この事業が終焉を迎えてそれに関わる権利関係の合意を石碑に残しています。
 
長く人々の記憶に留めたいことは石碑に残す…やはり石碑は重要なんだよなぁ、と再確認しました。


この建物の裏山は、国府津松田断層です。
 
足柄平野は災害が多く発生する要素があります。
過去の災害では、富士山の噴火、箱根の噴火、断層による地震、噴火物の堆積による川底上昇による酒匂川の氾濫、大陸プレートの沈み込みによる地震が主なもの。
ほかにも台風もそれなりに通過するポイントなので、沿岸部は高潮による塩害もあるし、足柄平野の南端を通過する西湘バイパスはよく高波で破壊されています。
そのせいか、この付近の防災訓練は、私が住む川崎市とは全然違う気合いが入った訓練をしています。

さてここから県道72号線沿いを歩きながら、曽我館跡を目指しました。

東光院に立ち寄りました。







東光院の目の前に国土地理院の水準点の案内板がありました。

水準点の場所(水準点そのもの)が分からず、もしかしてこのごみ集積の下にあるのかな?とも思いましたが詳細は分かりませんでした。
 
さて曽我館跡を探してウロウロしていたら、五郎の沓石(ごろうのくついし)を見つけました。
曽我兄弟の弟、五郎が足をケガしたので養生していましたが、身体がなまるからと運動をしたら石が凹んだ、という言い伝えだそうです。



足が悪くなった方々がお供えをして、五郎にあやかろうとする信仰があるそうです。
いつも地図を持たずに町歩きをするので、こういう偶然の発見もあるものです。
ところがお目当ての館跡が見つかりません。
館跡や神社はだいたい高まりがあるところにあるのがセオリーです。
ウロウロして探し続けました。

この道は私道っぽいのですが、この辺りで1番標高が高そうです。
でも梅畑なのでどうも違います。
道なき道とまではいきませんが、本当に通っていいのか?と不安になる道ばかりを通りました。

梅畑の隣の敷地、ここに本当に入っていいのか?と思うような場所に曽我氏館跡の石碑を発見しました。
 
案内板によると、発掘調査はしたけれど館跡は発見できなかったそうです。
そのため伝承地としているそうです。

館跡のすぐ近くに曽我一族郎党の供養堂があります。
ここにも案内板があります。
このほんの少し奥に物見塚古墳があります。

僅かな高まりがありますが、古墳の境界が曖昧です。

館跡伝承地。
どう見てもどなたかの畑で、案内板等があってもなかなか1人では入りづらいような場所にあります。
簡単にいうと、一般住宅の勝手口か?と思うような場所に案内板があります。
ハイキングコースにもなっているとはいえ、ここを訪れる時はお静かに過ごすことを強くお勧めします。
 
さてここから最初の鳥居まで戻って宗我神社(そがじんしゃ)にお参りに行きました。
曽我兄弟とは違う字ですが、誤植ではなく、この文字で「そが」と読むそうです。


ここも遺跡があったそうです。

社殿。

狛犬ちゃん。
デザインから昭和中期と思ったのですが、昭和15年でした。





郷社なので敷地はそれほど広くありませんが、整然とした印象でした。
とくに参道がすごく整備されている印象です。
最初の鳥居からずっとキツい上り坂で、この地形なら、曽我館跡と並んでこれは砦として使えるな、とも。
この辺りは中世には小田原城の支配下にあり、総構え(中世の城の守りの構造)の東端にも当たります。
地形を防御力とした後北条氏の力量や底力を感じます。
 
この地区は学生時代から散歩してみたかった場所の1つでした。
前述の通り、国府津松田断層の露頭があると聞いていたからです。
でもあれから25年ほど経て、露頭はどうやらのり枠工法でコンクリート壁になっているようです。
 
実際に歩くと、断層だけではなく酒匂川の河岸段丘かな?と思うような地形も実感できたり、水路の水量が思っていたよりも少なかったことに気づきました。
足柄平野を貫く酒匂川は、伏流水が多いのですが、それは右岸側のことで、左岸は意外と断層の湧水頼りなのかもしれません。
 
この後は、鳥居近くのコンビニでおにぎりを買い込んで、どこか眺めのいいところでお昼ご飯を食べようと思いました。
続きは明日書きます。
 






 
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