数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

久しぶりの卓球の試合(3)

2025-02-12 06:20:53 | 日記
 翌日の日曜日,友人との待ち待ち合わせは午後2時なので,時間も余裕があるので,35階のゲストルームから見える多摩川の景色を眺めながら,ゆっくり朝食をとります.一人では広すぎるゲストルームですが,部屋から周りを見ても一番高い建物なので,視界を遮るものがなく,遠くまで眺めることができます.窓の向きが北側で,遠く東京の高層ビル群も眺めることができます.長女は25階に住んでいて,窓が南西なので,天気のいい日には富士山を眺めることができて,感動した覚えがあります.
 10時ごろに部屋を出て,東京に向かいます.時間まで少し余裕があったので,東京駅で降りてまた「丸善」に向かい,昨日食べられなかった早矢仕ライスをと喫茶室を覗くと,日曜の昼なのに空いていて,余裕で窓際の席を確保でき,早速,早矢仕ライスを頂きました.また,少し本を渉猟しながら友人との待ち合わせ場所の三鷹駅に行きます.
 三鷹駅で降りるのは45年振り位です.大学を出て就職して,仕事で,半年ほど当時の電電公社(今のNTT)の武蔵野電気通信研究所に通っていました.三鷹駅で降りて,北側のロータリーで研究所行のバスが出ていた記憶があります.そんな懐かしさも思い出してくれる三鷹駅に着くと改札口で友人が待っていてくれました.思わず,握手を自然としてしまいます.
 向かう場所は,ITS(アイティーエス三鷹)卓球クラブで,1988年に設立された伝統あるクラブで,友人はその会員になっていて,いつもそこで練習しているようです.駅から南側出口を出て,歩くこと数分で数階建てで,通りに面したビルでした.1,2階が卓球上でその上は住居になっているそうで,有名な卓球人である荻村伊知郎氏が設立したクラブです.

 荻村伊知郎氏は,世界選手権で12個のメダルを獲得し,国際卓球連盟の会長として卓球の普及に努めたMr.卓球と言われた人物です.私も卓球を始めてから書籍等を通じてその存在感の大きさを感じてきました.

特に,現役後半からスウェーデンで卓球の指導をして,日本式の攻撃卓球をカット主体の当時のヨーロッパ卓球に導入して,今のヨーロッパの攻撃卓球の礎を気づいた人です.その初期の指導した選手で最初に世界チャンピオンになったステラン・ベンクソン選手は1971年名古屋で行われた世界選手権の男子シングルスで,その指導の成果を発揮して優勝した時,私も同じ世代でしたので,大きな衝撃を受け,その後大学で再びラケットを握ったとき,ペンホルダーグリップからシェイクハンドグリップに変え,ベンクソン選手に憧れていたものでした.当時,スウェーデンの卓球メーカーで今も有名な,スティガ社の攻撃型のラケットが日本の卓球メーカーのヤサカが輸入して,日本での攻撃型のシェイクハンドラケットの草分け的存在になりました.北欧の合板技術を生かして,その厚さ5.5mmの5枚合板のコンパクトなラケットにより,日本でも今のシェイクハンドのグリップの卓球の原点がこのラケットにあるとも言えます.


左から,スベンクソンモデル,真ん中はカールソンモデル,右がリンドモデルと世界選手権のメダリストの名前がそのモデルにもなっていました.写真のベンクソンモデルは素材がクリッパーウッドと言われ,40年以上もたった今でも発売されている超ロングセラーのラケット,写真のラケットはその初期モデルで木材の7枚合板です.当時はまだカーボンラケットもない時代で,シェイクハンドのラケットはカット用でしか日本にはなく,今とは違って,90%以上がペンホルダーグリップでした.当時,京都の卓球強豪高校の東山高校ではいち早くこのスティガーのラケットを使う選手が出て,活躍し始めました.
 京都は男子で言えば田坂登起夫選手いやその前の世代では女子の西村登美江選手など世界選手権でのメダリストを輩出して,卓球が盛んでした.今年の全日本選手権男子シングルスで優勝した松島選手は,上記の田坂卓研で小さい頃から練習して,今に至っています.

 私がよく練習していた町の卓球場が京都卓球センターで,河原町今出川を少し下った西側に入ったところにあって,そこにはスティガのラケットも置いてあり,販売もしていました.いつも受付のおばちゃんが愛想よく迎えい入れてくれて,そのうち名前も覚えていただき,毎週訪れる私たちを息子のように接してくれるようになりました.
 その後,京都を訪れた際に行ってみると,アパートに変わっていて,茫然とした覚えがありましたが,1階と2階が卓球場で,いつも練習は2階で貸し切ってもらって練習させてもらっていました.あるとき,上記の西村選手がその娘さんと練習しているのを見ましたが,西村さんの卓球専門店が河原町三条にあり,時々そのお店にも足を運んでいました.その西村さんは時々,この卓球センターで娘さんの練習相手をされていたのですが,娘さんは全日本ジュニアで準優勝して,その後,近畿大学に進学され,活躍されましたが,娘さん相手にその強打をブロックしてのすごい練習が始まると,周りの人たちはラケットを持つ手を休めて,その練習に見入ってしまうという光景が何度もありましが,今は昔です.

 さて,友人が案内してくれて,ITS卓球クラブの建物に入って,受付をして,2階の更衣室で着替えて2階の練習場で開始です.練習場に入ったときには,誰もいない状況でしたが,暫くすると,男女5名ほどがユニホーム姿で入って来られました.年齢的には,我々より少し下かなと思われる方々ですが,私の友人に挨拶をされて,同じこのクラブの会員らしい方達です.友人曰く,よく練習に来られていて,東京選手権等にも出場されたりして,いかにも熱心に取り組んでいる雰囲気がこちらにも伝わってきます.とにかくミスが少ないところからそれが伺い知れます.
 しばらくウオーミングアップをして,45年ぶりの試合開始です.ウオーミングアップの時から感じていたのですが,昔より友人の打つボールが遅くなっていて,年月の流れを感じますが,フォームは昔を思い出させてくれます.3試合程ゲームをして,1セットだけ失っただけで,私が全勝です.友人はこんなはずではと悔しい雰囲気がこちらにも伝わってきます.昔は,21点ゲームで,サーブは5本交代で,ボールはセルロイドの38㎜でしたが,今は11点ゲームでサーブは2本交代で,ボールはプラスチックの40㎜です.昔ほどスピードも出なくなり,スピンもかからなくなったと言われていますが,それに伴ってラケットやラバーも進化して,プレースタイルも変わってきています.

 少し休憩して,友人はスペアのラケットを取り出し,さらに3試合のゲーム開始です.友人のスペアラケットはラケットのブレードは同じですが,ラバーのバック側がスポンジが入っているのと入っていないの違いです.友人はカットマンでバック側が粒高ラバーです.私は両面裏ソフト(バタフライのディグニクス05特厚)でラケットはSTIGAのサイバーシェイプカーボンです.
4年ほど前に発売されて,その形状からセンセーショナルなデビューでしたが,これを使って,スウェーデンのモーレゴード選手が世界選手権で銀メダルを獲得して,有名になったラケットでもあります.私も実質,10年振り位にラケットを持った感じで,新しく新調するに際して,思い切ってこの斬新なラケットを使うことにしました.上述したように初めてのシェイクハンドラケットがSTIGA社のラケットでしたが,この新しいラケットは,形状からスイートスポットが広く,ドライブよりはスマッシュ系の強打を打つのに有利な感じがします.
 友人はラケットを変えても結果は同じで,3試合とも私の全勝で終わりました.昔は私が負け越していたのですが,45年ぶりの再試合では私が全勝したので,友人は口には出しませんでしたが,ショックを受けていたようです.裁判官として激務をこなしながらも,定期的にきちんと卓球も続けてきたようですが,一方の私は,高生の卓球部の顧問・監督として,生徒相手には,本格的には自分でプレーしてはいませんでしたが,練習相手でラケットを握っていたことが,今回の結果につながったかもしれません.
 2年ほど前から週1回で,2,3時間ほどラケット握って,今度は自分のために練習し始めて,また新たに卓球の面白みを味わっているのが,今の私です.

 2時間ほどしっかりプレーをして,シャワーを浴びて,予約してくれていた居酒屋で夕食です.時間のたつのも忘れる感じで,45年の月日を2時間ほど,お互いが巡りながらの楽しい卓球,人生談議に花を咲かせましたが,時間を忘れるとはこのことのような感覚です.以前このブログで紹介した


についても,聞くことができ,実際のこの著者の本の内容に関しては,真実という点では,20%くらいかなというのが,友人の元高裁の長官の正直な話でした.任官時期も近く,よく知っている様子でしたが,本を読むより,実際に友人に聞くことで,リアルな感覚をこちらももつことができました.原発の事や,リニア新幹線等これまでもこのブログで書籍を通じて言及してきたことに関しても,裁判官としての友人の意見を交わすことで,大いにこちらの勉強にもなりました.(続く?)




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