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わが母の記

2012-03-23 | 日記

映画「わが母の記」の寄せて
わが母を語る

母は女3人、男4人の長女
大正初期に生まれ、下の弟妹の面倒の子守りで
学校にも行かせてもらえないこともあったと聴いている。

戦争中に青春期を迎え
好きだった人から、嫁にと言われたそうだが、
弟達が戦地に行っていて親を助けて田畑を守らなければならない立場にあり
泣く泣くお断りせざるを得なかった。
「おまえ達は好きな人を一緒になれるのだからこんな幸せなことはないんだよ」
私たちの結婚が決まったとき、そんな若かりし頃のことを話していた。

その好きだった人が別のところからお嫁さんを迎えてしまって
少しでも遠いところに嫁いでしまいたい!」
とたまたまお見合い話が来たところに飛び乗って嫁いできたそうな
母の時代は18歳頃から婚期で
戦争のおかげで28歳になってしまった母は晩婚だったのです。
小さなことかもしれませんがこれも戦争の犠牲ですね

母はそんなに大きくない農家に嫁いで来ました。
今まで男並みに農家を守ってきた母
何でも仕事は早く、農家が生きていく知恵を持っていました。
父はおとなしい人で、ひとつ歳上の姉さん女房の母でもっているような
そんなところでした
でも外に対しては父を立て、家計はしっかり母が守る
お互いに信頼しあっていましたね、両親は

夜なべ仕事に縄を編んだり、俵を作っている両親の姿を憶えています

今ほど農家が市場に出荷していない頃から
キュウリ、なす、ほうれん草、椎茸栽培などを試みて
出荷の手伝いを良くさせられました

小さな農家は農業だけでは食べていけません
農閑期には、父は土木作業員として働いていました
母は倹約家でした

私がこの辺では有名な高校に合格して行くことになったときも
「高校へ行かせてもらうことは贅沢なことだから心して行くように」と言われました
厳しい母でした。

しっかりした母でしたが、女は控えめであれ、
男の前に立つものではないような教えでした(口には出しませんでしたが)
私も少し反発したものがあっても身に付いてしまっていますね(^^;)

子育てを終えたあとの母はいきいきしていました。
楽しんで田畑を耕し、孫を愛してくれました。

歳を重ね、父の血圧が高くなると
体に良いとされる漢方の薬草を摘んできては父に煎じて飲ませていましたね
姉弟妹の中でいちばん長生きさせるんだ」なんて言っていました。
父は父で
「ばあさんの作ったものがいちばんうまい!」と晩酌を楽しんでいたし

子供達が巣立って父との二人暮らし
そんな穏やかな日
喘息の発作を起こして病院に行った父が急死
平成3年3月のことでした

母のショックは相当なものでした
あの気丈な母がこんな風になってしまうの・・・

でも一年経ってようやく回復
弟夫婦との同居が始まりました
それもつかの間
母は父の後を追うように逝ってしまいました。平成5年9月
74歳でした。

私たちは母を助けられませんでした。
長い苦しみを時の流れが消してくれました。

まだ母の歳まで達していませんが
その歳のならないと判らない様々な出来事がたぶんあることでしょう。

母が子供に期待した思いを
できうる限り
そうでありたいと思うこの頃です。