○○504の1『自然と人間の歴史・日本篇』元号と国歌と日本の文化

2021-07-05 18:37:31 | Weblog
○○504の1『自然と人間の歴史・日本篇』元号と国歌と日本の文化

 2016年からは、天皇の生前譲位の意向を受けての、新元号制定の話が広がりっていった。その法的根拠だとされる元号法には、こうある。
「1、元号は、政令で定める。
2、元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附則
1、この法律は、公布の日から施行する。
2、昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」 
(法律第43号(1979年6月12日))
 では、これまでどんなやりとりが為されてきたのだろうか。顧みるに、この元号法制化の時には、幾つかの論点が出された。具体的には、敗戦から30年余りが過ぎた1979年2月、皇位継承があった場合に改元すると定めた元号法案が、政府(大平正芳首相)により国会に提出された。

 参考までに、毎日新聞(2017年1月6日付け)に、その時の論点整理がしてある。

 「(1)法制化について。政府・与党:「元号制度を明確で安定したものとする。」/社会・共産党:「天皇を神格化させることによって、戦前の天皇主権へ道を開く。」
(2)法制化後の元号の扱い。政府・与党:「一般国民に元号の使用を義務づけているわけではない。」/社会・共産党:「事実上の強制が行われようとしている。」
(3)一世一元制について。政府・与党:「象徴天皇と国民とを結ぶ深いきずなとしてふさわしい。」/社会・共産党:「絶対主義的天皇制の専制支配を支える役割を果たしてきた。」
(4)元号は文化か。政府・与党:「わたしたちの日常生活に根をおろしている尤も身近な国民文化。」/社会・共産党:「法制化しなければ存続し得ないものは、受け継ぐべき文化の名に値しない。」
(5)憲法との関係。政府・与党:「憲法は象徴天皇制を定めており、憲法違反は生じる余地がない。」/社会・共産党:「憲法の国民主権の清新に反する。」」
 これらの5項目の論点の他にも、「西暦で充分」とか、「日本でだけしか通用しない元号では、西暦との換算が大変」、「元号は天皇の一代限りであるこので、元号間の通算でもわかりづらい」、さらに「国際化時代において元号に拘るのはわからない」など、多様な意見が国民から出されていた。
 かつて、財政学者の大内兵衛(おおうちひょうえ)は、元号存続に難色を示していた(『1970年』もしくは『実力は惜しみなく奪う』などの評論集を参照されたい)。彼があえて述べたのには、いわゆる「元号問題」は政府や著名人から成る「有識者」が議論し決めて、上からおろすものでなく、主権者である国民がどうするかを決めるべきだとの思いからであった。

 一方、新聞紙上では、国民からの意見がチラホラながら散見される、その中から、一つ紹介しよう。

 「天皇陛下の退位を巡り、新元号に関する議論が進んでいる、2019年1月1日付で新元号にする案もあるようだ。
 しかし、私はあえて言いたい。国民生活への影響を最小限に抑えるというのなら、いっそ元号を廃止すべきだ。そして今後は西暦一本でいけば、国民の利便性は確実に高まると思う。
 現在は、元号と西暦が併用され、特に役所関係の書類は、元号しか書かれていないことが多い。ケースに応じて西暦を元号に換算したり、その逆をしたりすることが、どれほど面倒か。元号を廃止した場合、どれほどの不便があるのか、私にはわからない。
 そもそも、もうわが国は天皇主権の国ではない。国民主権となって70年が経つ。天皇が代替わりしたら元号を変えるという制度は時代錯誤もはなはだしく、民主主義にもそぐわない。
 国民生活を不便にする上、日本はあたかも天皇が治める国であるかのような錯覚を生じさせる元号は、この機に根拠となる元号法とともに廃止する勇断をすべきだと思う。みなさんの意見を知りたい。」(2017年1月18日つ付け朝日新聞、『声』欄、H氏)

 2019年には、それまでの元号「平成」が、「令和」になり変わった。以来、これを「西暦」に替え第一に用いたり、唱えたりする向きがかなり多いようだ。もちろん、私生活では、これまで道り各人の自由にすればよいのだが、社会で時をいう場合には、不便さがつきまとう。

 それというのも、21世紀に入った現代では、「西暦」はもはや「世界暦」として大抵の国や国際機関で用いられている。東洋の、我が国に近くでは、中国や朝鮮の二つの国もそうしている。この道理とは、すでに1970年の大内兵衛も提唱したのであって、今さらのことではない。かれは、当時、保守層からも一目おかれる存在としてあり、国際感覚にも長けていた。

 しかして、時代は変わったのかもしれないが、その変わりようが、日本人の国際感覚の後退と軌を一つにすることにも、なりかねない。あの中華思想であった中国も、現在に通じる建国後は、「世界暦」を用いている。かの国のような、「四千年」の歴史を世界に認められているところが改めているのに、文明ということでは、その半分かそこらの歴史しか持っていない我が国が、なぜ「日本暦」にこだわり続けるのかは、漠然かつ意味不明である。

 ちなみに、仏教学者の中村元(なかむらはじめ)は、我が国ではじめて仏陀の肉声を体系的に伝えた。その彼は評論にて、日本人の権威や権力に対しての受動性、その民族としてのひ弱な特徴を指摘している。最晩年においては、日本の伝統的な「縦社会」の中での、天皇を頂点とする、人間存在のクラス分け(この場合、天皇その人はその体制的な人間支配に利用されているのではないか)に、警鐘を鳴らす。
 かの福沢諭吉の、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とは、この場面においても、額面道りの解釈であらねばなるまい。

 はたして、この種の問題は、優れて日本の文化と関わりがあろう。それらは、国民の間で大いに議論すべきであって、立憲君主制ではなく国民主権の戦後体制の今、遠慮すべきではあるまい。国の未来は、国民自身が責任を持って切り開いていくべきものだろう。

 元号法制化からはや30年以上が経過し、世界での日本を取り巻く状況も大きく変わった。元号も日本と日本人の持つ一つの文化であるというだけで模様眺めでいるなら、これを巡っての変化はこれから、さらに大きなものになっていくのかもしれない。

 また、これに関連した出来事として、この度の天皇の即位式についても、簡単に触れたい。それというのも、新たな天皇が2019年10月の「即位礼正殿の儀」で昇った「高御座」(たかみくら)とは、八角屋根の頂点に、鳳凰(ほうおう)という中国古典に出てくる伝説上の生き物がくっ付けてあると伝わる。

 参考までに、これまでは、天皇の代がわりの際に挙行されてきた最初の新嘗祭(にいなめさい)のことを「大嘗祭」(だいじょうさい)といい習わしてきた。国家と人民の安寧や「五穀豊穣」を願って行う、とされてきた。
 この場面、かかる儀式に用いられる主要な舞台が高御座なのであって、これに新天皇が昇って即位の儀式を行う。その大元をたどれば、中国の古代王朝が代がわりに泰山に登り行っていた「封禅の儀」なのであろうか。今回のそれの高さは約6.5メートル、重さは約8トンもあるというから、驚きだ。
 ついては、8世紀になりまとまる日本神話との関係にて、この一大構築物が天上世界とを繋げる空間だというのなら、もはやこの地球上の物理法則は役に立たないであろう。そればかりか、これを作らせたのは時の政府であり、国税が投入されたというのであって、そうなれば憲法で定められている政教分離との関係はどうなるのだろうか。
 ちなみに、これを擁護する説からは、「大嘗祭は皇位継承に不可欠な伝統儀式を行うことが目的で、効果も特定宗教の援助に当たらないから、憲法違反ではない」(日大名誉教授の百地章氏の弁、2019年11月15日付け毎日新聞での4人の専門家へのインタビューから抜粋)という。だが、このような論理付けでもって人々を説得できるほど、世界は狭くない、近代世界では文句なしの政教分離なのであって、決して通用しないであろう(たとえば、アメリカ第2代大統領ジェファーソンの所見を参照されたい)。
 また、これを「現実にはあり得ない」とする人(筆者を含む)の中には、「表だっていえば、睨まれる」と非公式な場を選んで述べたり、「真実を語ると我が身が危なくなる」、さらには「生きるため」肩をすぼめているしかないなどと、心配げに語る人もいるなどして、今更ながら、この国は「時代閉塞」に向かっているかのような感じがしてならない。

🔺🔺🔺

 次に、いわゆる国旗国歌法(こっきこっかほう)は、世紀末となっての1999年8月13日に公布・即日施行されたもの。

 「第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。
附則、施行期日の指定、商船規則(明治3年太政官布告第57号)の廃止、商船規則による旧形式の日章旗の経過措置。
別記 日章旗の具体的な形状、君が代の歌詞・楽曲。」

 まず、国旗というのは、平たくいうと「日の丸」であって、歴史に登場するのは、平安時代末期からのようだ。大方、武士の掲げる扇子や絵巻物に描かれるケースが指摘される。戦国時代に入ると、多くの大名や国衆などが、扇子や旗、さらに豊臣秀吉は朝鮮戦役のおり、自軍の船印に用いたりもしている。

 そして迎えた江戸時代末期の安政元年、島津斉彬が「日本船と外国船とを区別するため、船印を定めては、どうか」と提案したのに、幕府において、日の丸を採用したことになっている。それからは、明治維新となって(正確には、戊辰戦争の時)、新政府が、いわゆる「錦の御旗(菊の紋章」を掲げて、幕府方を威圧するのに用いたのは、まだ記憶に新しい。かくて幕府を滅ぼした明治政府が、日の丸を国旗に定めるのは、1870年(明治3年)のことである。 

 それから、日の丸の持つ意味合いについては、要は太陽によって命を吹き込まれている国という理屈であろうか。デザインや単なる配置のことではない。大まかな輪郭として、この国の太陽との関わりの一断面を切り取って図案化したものだと考えており、当たらずとも、遠からずの理解としてよいだろう。

 もう一つの国歌を巡っては、平安時代の頃から、「君が代」の言葉は貴族を中心に散見されるものの、それの国家とのかかわり合いとなると、出元からして、本当のことはよくわかっていない。中には、近代になってからの軍楽と絡めて問い質すことにもなっているようだ、
 議論としては、賛否両論がある。このうち、戦後、純粋な音楽論を展開してきたのは、多くは反対論の側であって、以下にその一つを紹介してみよう。

 「よい楽曲は、言葉(歌詞)とメロディーがよく合っていて、自然に聞こえなければなりません。海が膿(うみ)になっては困ります。これを歌うと、君が代は、でなくてどうしても君がぁ用は、と聞こえます。それに音楽的フレーズが、千代に八千代にさざれ、で切れて、さざれ石という言葉が、さざれ、と石、と真中で割れてしまうように、歌われやすいのです。最後の所、こけのむすまで、が、むうすうまああで、と無理な引き伸ばしが、さらにこの曲を不自然なものにしています。
 要するに、歌詞の長さとメロディーの長さが全くつりあわず、メロディーに較べて歌詞が身近すぎるので、無理に引き伸ばしているのです。ですから、この曲を大勢で歌うと、お経のように意味がわからなくて、間のびした、だらしのない感じになってしまいます。」(中田喜直「メロディーの作り方」音楽之友社刊)

 ここに述べられるのは、楽曲としての『君が代』には、「歌詞の長さとメロディーの長さが全くつりあわず、メロディーに較べて歌詞が身近すぎる」という、作曲の上での問題が認められる、だから、「君が代」は歌としていい歌ではないことになっている。要するに、日本伝統の音楽というのは自然に歌え、かつ意味が通じるものなのであって、「君が代」が日本伝統の音楽であるというのは間違いだ、というのである。

 その一方で、『君が代』の歌詞は、雅楽朝のメロディーであってこそ冴(さ)え冴えとする、という擁護論がある。また、既に長いことこの歌を耳にし、時には歌っている向きにあっては、「親しみが感じられる」「馴染みがある」との声も根強くあることだろう。
 げんに、オリンピックの表彰式で日の丸が掲揚され、国歌のメロデイーが流される時、それを口ずさんでいる国民は、相当数おられるのではないかと推測する。それでも、この歌の歌詞が、人びとが権威にひれ伏す類から完全に逃れているとは言い難い。また、メロディーも、日本の山河や晴れたる平野の美しさなりを思い起こさせてくれるような響きがあればよいのだが、それがない。

 やはり、国歌というのは、この先の大いなる国民の経験の中(それには、いみじくも先の東日本大震災において、秀麗な「花は咲く」の歌が自然に広まったようにして)から生まれるであろう、国民総意の見守る中で創られてゆくものではないだろうか。

 およそこのようにして論じればかなりの盛り上がりが期待されたと考える。ところが、制定の手続きからも禍根を残した、といえなくもなかろう。
 同法は、1999年8月9日の参議院本会議において賛成多数で成立して、8月13日に公布・施行されたのだが、その成立までにあてがわれた時間はわずか2か月に過ぎなかった。
 こうした短兵急な審議・可決のあり方に対しては、「なぜいま、そんなに息せき切るようにして制定を急がねばならないのか、審議を尽くすべきだ」との声が上がったものの、政府側は耳を貸さないままに採決に持ち込んだの形なのである。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐

○○493『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(20世紀、大来佐武郎)

2021-07-05 10:14:51 | Weblog
○○493『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(20世紀、大来佐武郎)

 大来佐武郎(おおきたさぶろう、1914~1993)は、外交官、経済研究者、さらに政治家だ。旧満州国大連市の生まれ。 
 1937年(大正12年)に、東京大学工学部を卒業する。そして、同年逓信省に入る。さらに、大東亜省に転じる。
 第2次世界大戦後の1945年(昭和20年)には、外務省調査局に転じる。その当時から経済に明るく、戦後問題をテーマに会合を組織する、報告書「日本経済再建の諸問題」を中心になってまとめる。1952年には、国連アジア極東経済委員会の職員としてバンコクに赴任する
 その後経済安定本部 (現経済企画庁) に移り、1956年(昭和3年)には、計画部長となる。第2~5回の『経済白書』の執筆に加わる。
 1960年には、池田内閣のもとで「国民所得倍増計画」を作成する、実務での主要メンバーといえるだろう。1963年(昭和38年)には、経済企画庁を退き、同参与となる。
 この間、外国との交流も広げていく。外務省とのかかわりとあり、1963年12月には、同省参与となるあたり、当世の「引っ張りだこ」であったようだ。19 63年に退官すると、翌年には日本経済研究センターの初代理事長に就任するというから、いわゆる「天下り」とは、少しながら異なるコースを選んだことになろう。
 その名前を世間に広く知らしめたのは、その後の歩みであって、中国から日本政府に、経済専門家を紹介してもらいたいとの依頼があり、快諾する。
 1979年には、大平内閣の外相として入閣する。大平もまた、中国の発展に何かしら貢献したいと考えていた。後年にいわく、「未来永劫に渡って、仲良くしなければならない。そのことが両国双方に、取って利益になることなのだ」と考えていたのだろう。
 そのことから、共に中国の開発・開放政策への支援に動く。実業(経済)の稲山嘉寛(いなやまよしひろ)、土光敏夫らとも連携して、これを推進していく。


(続く)

⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐

○○494『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(20世紀、大原総一郎)

2021-07-05 09:43:49 | Weblog
494『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(20世紀、大原総一郎)

 大原総一郎(1909~1968)は、この地方の随一クラスの富裕な家の生まれ。1939年(昭和14年)に倉敷絹織株式会社の社長に就任する。続く1941年(昭和16年)には、倉敷紡績株式会社の社長にも就任する。まだ若くして、新興財閥の主となった訳だ。
 果たして、順風満帆であったのだろうか。それというのも、親譲りの地盤のうえにあぐらをかいていたのとは異なり、某か民主主義思想にも染まっていたようだ。なので、おりからの軍国主義(日本型ファシズム)の下では、馴染めず、鬱積していたようなのだ。
 
 戦後の1947年(昭和22年)になっては、財閥解体という嵐が実業界をおそう。持株会社整理委員会が83の持株会社などを指定する中に、「大原合資」(9月26日に、他の地方財閥15社とともに指定を受ける)の名前も含まれていた。これにより、大原家の資産管理会社大原合資会社は解散となる。
 当時、大原家は倉敷紡績(クラボウ)と倉敷絹織(クラレ)の二社の支配権を握っていたから、結局、倉敷紡績は持株会社に指定されて所有する株式は全部放出させられた。総一郎は責任をとって倉敷紡績の社長を辞任する。1948年(昭和23年)には、化学事業へと歩みつつある倉敷絹織の社長(再)となる。
 そんな激動の実業界にあって、総一郎は、理論家をもって知られ、経営の多角化を行うことで会社も順調、関西財界の人としても名を馳せていく。その識見と手腕を見込まれて1947年(昭和22年)には、請われて物価庁の次長に就任するという多忙さであり、苦労が重なったようだ。
 「インフレ昇進期の日本経済の収拾のため」とのことで呼ばれたらしいものの、当時は混乱期であって、相当に難しい立場であったに相違あるまい。それから、日経連常任理事日本ユネスコ国内委員などを務め、こちらの方が学者肌の彼に合っていたのではないか。
 1949年(昭和24年) には、財閥解体での変更以来の社名「倉敷絹織株式会社」を「倉敷レイヨン株式会社」に変更する。同年 同社社長を降りるも、グループの経営に引き続きたづさわる。
 戦前・戦中からの心機一転ということであったろうか、迎えた1950年(昭和25年)には、ポリビニルアルコール繊維としての商品名「ビニロン」を事業化するにいたる。これは、日本で初めての国産合成繊維として名前を馳せていく。
 そんな中、1958年(昭和33年)に中国の訪問団が日本に来て、倉敷レーヨンのポバール・ビニロンプラントを見学した。その時、彼らはこれに並々ならぬ興味を示したらしい。
 そもそもビニロンとは、衣料などを作る合成繊維の一種で、ポバールはそのビニロンの原料だという。倉敷レーヨンは、石灰石を原料にポバールを作り、そこからビニロンを生産する技術をもつ。戦後、二代目社長の総一郎が陣頭指揮で開発し、1950年(昭和25年)に世界で初めて工業化に成功していたのだ。
 訪問団としては、そのビニロンプラントを中国に導入し、自国で量産して人々の「衣服不足の問題」解決に役立てたい。一方、総一郎は「鑑真和上」を尊敬していた。そして、「過去に日本人は戦争を通して中国に大きな被害をもたらした。そのことへのいくばくの償いになれば」との思いで、中国からの要請に応じることにする。
 その後、1962年(昭和37年)に、中国と日本との間で「長期総合貿易に関する覚書」(通称・LT貿易)が調印される。そして迎えた1963年に、ようやくすべてのハードルが取り除かれ、中国技術貿易公司と西日本貿易株式会社、倉敷レーヨンの間で正式契約が結ばれる。この中国へのビニロンプラント輸出は、その後の日中貿易を具体的な形に実らせていく一歩となる。
 その同じ1963年(昭和38年)には、商号商標としての「Kクラレ」を編みだし、1965年(昭和40年)には、人工の皮革(ひかく)としての「クラリーノ」の販売を始める

 さても、実業家の中でもやや趣が変わったところでは、総一郎には、社会経済上のよって立つべき理論というものがあったようだ。その名を「フェビアン社会主義」という。
 これをいうフェビアンたちは、イギリスにおいて力を持っていた。それは、マルクス主義と同じく資本主義社会における搾取の事実を認めている。しかし、国家を階級抑圧の機関とみる階級国家論をとることなく、国家の中立性を信じる。それというのも、イギリスでは、1885年までに労働者階級が参政権を獲得していたことから、いわゆる立憲的手段によって平和的に社会主義社会に到達できると考えた。
 したがって、労働階級は国家機構、その最高機関たる議会の場を目一杯に利用して社会主義の物質的基礎をつくりだすことができるという。経済理論としては、フェビアンたちは、マルクスの影響をかなり受けるも、労働価値説を退ける。かといって、近代経済学のように、やがて価値概念そのものを放棄してしまう流れとも異なる、さりとてスミスやリカードなどの経済学までの話から抜け出しているとも言いがたい。

 これを日本の社会にあてはめると、どうなるだろうか。総一郎の考えは、かなりユニークなもので、例えば、こういう。
 「純自由経済的分配に対する社会政策的分配、社会政策的修正ではなく、所有権の社会化による社会主義的修正であるとも言い得る。」

 では、そうであるなら、かかる「独立能力なき人々の生活費」を意識した
分配はどのようにしたらよいのだろうか。
 「隣人愛と協同体の道徳とを有する文化国家たるべき国家に於ては、本質的に独立能力なき人々の生活費は、社会的余剰財源である利潤の中から優先して確保されるべきが当然である。」

 また、その具体的な仕組みとしては、こうある。
 「営利法人(生産、金融、商業等の総てを含む)に対して、一定規模以上、一定内容以上のものを選定してこれを対象法人とする。規模の基準は資本金、内容の基準は収益力、基準の決定、対象法人の決定は国会に於てなされる。専門委員会が之に当る。
 右の法人株式のうち一定率(例えば30%)のものに配当されるべき利潤を救済目的のために直接利用し得るように、その相当株式の所有権の移転を行わしめる。その率並びに移転の方法は国会が決定する。

 自発的移転が本質的に願わしいことは言を俟たぬ。受納側の主体は中央社会事業財団(仮称)、或は個々の社会事業団とする。その株式には優先的配当をなさしめる。その形態及率等に関する細目は国会が決定する。」(大原総一郎「資本並に分配の社会化への試案」、生田頼孝「戦後史の中の倉敷大原家ー戦後日本政治経済史からの批判的考察(上)」)
 これにある、「自発的移転が本質的に願わしいことは言を俟たぬ」というのは、そのことはあくまでも理想であって、実際には、国会が大資本の所有権移転に動いても、その同じ所有権を盾に現場を支配している大資本家は同意しないかもしれない。

 これには、彼は、次の通りの解決策を用意していて、ごく大まかには、こうある、
 「労働者の所得は自由経済下に於ては労働組合の力によって獲得されることが主役である。」

 しかして、次なる課題は、かかる政治的な舞台が整った上での技術論であつて、次のようなスキームを提案している。
 「受納側の主体は中央社会事業財団(仮称)、或は個々の社会事業団とする。その株式には優先的配当をなさしめる。その形態及率等に関する細目は国会が決定する」というのであって、言うなればこれは、緻密で隣人愛に根ざした一人の社会主義者による、資本主義に代わる社会主義の主張だといえよう。


 そのほか、大原には、文化の庇護者もしくは趣味人としてばかりではない、洋画・陶器・音楽などを楽しむ風があったようで、願わくば、「至誠天に通ず」ということであろうか、例えば、こんな文章を書いている。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

283○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(最上徳内、緒方洪庵)

2021-07-05 09:36:52 | Weblog
新283○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(最上徳内、緒方洪庵)


 緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。
 1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。
 その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。
 そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。
 1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。


 ちなみに、病の洪庵を看取った八重夫人の述懐には、こうある。


「昨秋より一方ならぬお勤め、今までは我がままにお暮らしなられ候御身が御殿向きの事、また医学の御用向き、何につけてもご心配の多く、世上は騒がしく、子供は大勢なり。
 ご心配ただの一日も安心と思い召さずに、こ病気もかねて胸の痛みもなく、・・・にわかに咳が出て、その時少々血が出て、また咳が出て候えば、この時はもはや口と鼻の両方に、一時に血がとんと出て、そのまま口をふさぎ、縁側のところに出て、血を吐かれ候ところ、追々出て、もはや吐く息は少しも相成らず候と相見え、・・・こと切れ申し候・・・。」(柳田昭「緒方洪庵生誕200年前夜ー病弱な洪庵が偉大な業績をあけた原動力ー」に引用される、八重夫人が洪庵の死後、名塩の妹に送った手紙から)


(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○537の2『自然と人間の歴史・日本篇』核の削減か近代化か、核の傘に執着する日本(核兵器の現状と核兵器廃絶への道遥かなり)

2021-07-05 09:23:26 | Weblog

537の2『自然と人間の歴史・日本篇』核の削減か近代化か、核の傘に執着する日本(核兵器の現状と核兵器廃絶への道遥かなり)


 2021年4月10日付けの新聞各紙において、アメリカのオバマ政権の時以来の、かれらの内部で核兵器をどうするかの議論の一端が伝えられた。
 それによると、以来、アメリカでは、核兵器の近代化計画を定め、次いで見直す動きにあるという。

 そこで、まず、最近の世界の核兵器がどうなっているかを、概観してみよう、かなりの信用度を持つであろう、資料を紹介したい。

  
(資料1)
国名、配備核弾頭、その他核弾、核兵器数(2020年1月時点)


米国は1,750、4,050、5,800、6,185。ロシアは、1,570、4,805、6,375、6,500。英国は、120、95、215、200。フランスは、280、10、290、300。中国は、–、320、320、290。インドは、–、150、150、130~140。パキスタンは、–、160、160、150~160。イスラエルは、–、90、90、80~90。北朝鮮は、–、[30~40]、[30~40]、[20~30]。
 以上の合計としては、3,720、9,680、13,400、13,865。


注釈:「-」は0(ゼロ)をいう。[○~○]は不明確のため,合計数には含まれていない。
出典:「SIPRI YEARBOOK 2020」



(資料2)

 その中でも、他の国々に比べて断トツの規模で核兵器を保有しているのは、アメリカ、ロシア、それに中国ということになるだろう。

○核弾頭数は、アメリカが5800発、ロシアが6370発、中国が320発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(ICBM(大陸間弾道))は、アメリカが400発、ロシアが340発、中国が88発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(SCBM(潜水艦発射弾頭))は、アメリカが280発、ロシアが160発、中国が48発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(MRBM(準中距離弾頭))は、アメリカがー発、ロシアがー、中国が216発。

○核弾頭ミサイル搭載原潜数は、アメリカが14隻、ロシアが10隻、中国が4隻。

○核弾頭ミサイル航空機数は、アメリカが66機、ロシアが76機、中国が104機。

 引用は、2021年4月10日付け朝日新聞より引用。原典は、「2020年6月現在。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)による。退役・解体待ちを含む」とされる。

🔺🔺🔺

 かたや、この流れに合流する向きのあるのが、2020年来の日本での、軍事研究を巡っての論戦にほかならない。詳細はそちらに譲るが、学術会議の推薦した複数委員の任命を政府が拒否した件につき、政府の姿勢を擁護する側は、例えば、下記のような「指摘されるも問題点」をまとめている。

 「・学術会議の声明は大学・学会を萎縮させ、研究の自由を阻害しかねない
・近年、民生技術と軍事技術は区別ができなくなっている。防衛装備庁の制度は基礎研究が対象で成果は公表できるなど問題はない。
・中国が「軍民融合」を国家戦略とする中、日本だけが軍事研究をやらないことは日本の防衛にとってマイナス
・日本の研究者が「軍民融合」戦略を担う中国の大学・企業などと技術を共有することを学術会議が問題視しないのはダブルスタンダード(二重基準)だ」(「読売新聞」2020.5.14付け)

 見られるように、これらの大方は、「防衛研究阻(はば)む学術会議」なり、「予算に影響力」のある学術会議が政府にものをいつことで「民間活用停滞」が起きている、もしくは起きかねないとの筋道を立てている。そうした彼らの主張には、「経済安全保障」の後ろ楯についているようであり、しかも、ここには憲法の平和条項や先の大戦での、我が国による、中国などへの侵略戦争協力・加担は眼中にないようである。

 また、こうした言い回しでは、中国が軍事研究を進めているのに日本はどうするのかと述べており、これだと追々「戦争への準備」への序曲へとつながっていく道なのであろうか。それと、今や軍事力でもアメリカと肩を並べつつある、また経済力では近い将来中国がアメリカを名実ともに上回るであろう、それだけに、大国化した中国に、日本が対抗心むき出しの軍事研究を志向して何の国益があるのだろうか、大いに疑問である。その文脈でいうと、日本はそろそろアメリカの核兵器の傘の下にいるべきではなく、アメリカや中国、ロシアといった核兵器・軍事大国に対して核兵器廃絶と軍縮を促すのを本道(ほんみち)とすべきであって、それでこそ平和憲法を21世紀の世界平和へ向けて生かす選択なのではないだろうか。



(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆