新212○○190『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農民一揆(美作での元禄一揆(1698~1699)、山中一揆(1726~1727)

2021-07-19 09:53:25 | Weblog

新212○○190『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農民一揆(美作での元禄一揆(1698~1699)、山中一揆(1726~1727)

 1699年(元禄12年)、津山藩で元禄一揆(げんろくいっき)が起きる。その頃、江戸では「元禄」という爛熟の世が出現していた同じ時代に、美作の地では百姓たちが結束して強訴しないでは収まらないだけの騒憂があった。

 ここでいう津山藩とは、江戸時代の最初に幕府により布置された森家のことではない。百姓たちに相対峙していたのは、同家が改易となった翌年、新たに封じられた松平家のことである。その家柄は、始祖に二代将軍徳川秀忠の異母兄にして、北の庄の徳川秀康を戴く徳川将軍家親戚筋として「親藩」(しんぱん)に列せられていた。

 ついては、これより十数年前の1681年(元和元年)、越後(えちご)高田藩26万石が改易処分となる。「家国を鎮撫すること能わず。家士騒動に及ばしめし段、不行届の至り」(『廃絶録』)との理由で、所領を没収される。これを受け、藩主の松平光長は稟米(りんまい)1万石を与えられ伊予松山藩に預けられていた。その光長が1687年(貞享4年)に幕府から赦免されると、従兄弟の子に当たる陸奥白河藩松平直矩(まつだいらなおのり)の三男を養子に迎えたのが、この宣富(矩栄(のりよし)改め)にほかならない。

 この松平氏が美作の新領主となって封に就き、領主として初めて年貢を徴収しようとした際、領民が幕府天領時代の「五公五民」への年貢減免を求め、強訴を起こした。この事件は、江戸期の美作において最初の大がかりな惣百姓一揆である。その背景には、年貢の変更による増徴があった。森藩が断絶してから松平氏が入封する1698年(元禄11年)、旧暦正月14日までおよそ10か月の間に幕府の天領扱い、代官支配下での年貢収納は「五公五民」の扱いになっていた。それが松平氏の支配となるや、その年貢率が反古にされ、森藩自体と比べても厳しめの「六公四民」になったことがある。具体的には、美作の歴史を知る会編『みまさかの歴史絵物語(6)元禄一揆物語』1990年刊行に収録の「作州元禄百姓一揆関係史料」に、こう解説されている。

 「一六九八年(元禄一一年)旧暦八月、領内に出された年貢免状によると、年貢量は森藩時代と同じような重税の上、森藩の時認められていた災害時の「見直し」や、「奥引米制」という値引き等が、全く認められない厳しいものでした。」
 この一揆では、大庄屋の責任で百姓たちが藩に嘆願する形式をとる。百姓の代表格の
東北条郡高倉村の四郎右衛門、佐右衛門、東南条郡高野本郷村の作右衛門らは、郡代の畑(?)田次郎右衛門、山田仙右衛門に、年貢を幕制時代に戻すよう主張する。これに対し郡代は、諸藩は独自の税法を有する。だから、願いの筋を聞き届けることはできないと突っぱねた。代表は、これを村に持ち帰った後、大衆の力をもって要求を通すしかないと衆議一決してから、1698年(元禄11年)の旧暦11月11日大挙して津山城下に侵入した。

 これはてごわいとみた藩は、明けての同旧暦11月12日、いったん農民たちの要求を受け入れる。これにより、百姓達の強訴はかわされて鎮静に向かい始める。その後の津山松平藩は、すでに足並みが乱れて始めていた庄屋の団結を破壊し、百姓たちから完全離反させようと画策を重ねる。そして、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで百姓に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。

 翌1699年(元禄12年)旧暦3月27日、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束を見た。彼らは、「幕藩体制」という封建社会において、その与えられた人生を力強く生き抜いて死んでいった。そうした彼らの志の高さに比べ、正義のため立ち上がった百姓達に対抗するため、藩側が一貫してとったのは武士の名分をかなぐり捨てた騙しの戦法であった、と言われても仕方がない。

 この元禄一揆により、さしもの年貢率にも修正が加えられ、「翌元禄十三年よりは、森家時代の年貢より弐割下げにして定められる」(『三間作一覧記』)とある。

 その水準がいかほどであったかは、『鏡野の歴史・鏡野町山城村年貢免定』の事例が明らかにされている。これによると、元禄九年(森)の毛付け高が三一八石に対し、年貢高は一八五石にして、年貢率は五八・二%。元禄十年(幕府)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一五八石にして、年貢率は四六・三%。元禄一一年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二五一石にして、年貢率は七三・二%。元禄一一年(松平、しゃ免引き)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二〇二石にして、年貢率は五九・二%。そして元禄12年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一七七石にして、年貢率は五一・五%であったと見積もられる。


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 次には、山中一揆(1726~1727)について、紹介しよう。美作の地では、津山松平藩の治世になっても、領内に善政が敷かれることはなかった。これには、藩政が徳川の親藩大名としての格式にこだわったこともある。あれやこれやで行き詰まりつつあった藩の財政は、1710年(宝永7年)津山蔵役人による蔵米横領事件が起こるも藩政の刷新は実現しなかった。1716年(享保元年)には、美作に大飢饉があった。これにより、津山藩内の飢民は1万2000名余に及んだとも伝わる。

 さらに1720年(享保5年)には、家老渥美図書の汚職が判明するなどがあって、津山藩の財政は、悪化の一途を辿っていく。1725年(享保10年)にも、美作に大旱魃(かんばつ)が起こる。この年の初夏から夏本番まで目立った雨が降らなかったことで、美作の大地は乾き切った、と言われる。この間、津山藩による農民らに対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の姿勢は、一層厳しさを増していく。


 1726年(享保11年)には、山中一揆(さんちゅういっき)が勃発する。この騒ぎはさらに勝北郡(苫田郡・勝田郡)、吉野郡(苫田郡)の一部にも波及していく。ここで「山中」というのは、狭くは、当時の真嶋郡(まじまぐん)と大庭郡(おおば)の二郡に跨る一帯で、いずれも2005年3月に合併で出来た現在の真庭市にある。そして広くは、久世(くせ)、勝山(かつやま)そして湯原(ゆばら)を中心にしつつ、北は蒜山高原(ひるせんこうげん)一帯に及ぶ。

 この地域に於いては、農民の政治や経済のあり方への関心なり意識が、相当に高くなっていた。蒜山地方で、この時期までに田んぼの水の田畑への取り入れ口に「ヒヨセ」と呼ばれる水溜の掘を設けて、山間部からの冷たい水が流れ込まないようにしたのは、私の子供の頃にも聞いたことがある。

 また、この地方で1681年(天和元年)から1683年(天和3年)の間、「山中煙草(さんちゅうたばこ)」が農家の副業として盛んに栽培されるようになっていたことにも、この地域の額に汗して働く人々の生活への工夫が読み取れる。

おりしも、藩では2代目の松平浅五郎(まつだいらあさごろう)が6歳で家督を継ぐ。ところが、彼が111歳になった1726年(享保11年)、江戸で病気により危篤に陥る。これに驚いたのは、藩当局と「山中(さんちゅう)」の農民の双方であった。まず藩では、

 このままでは領地が危なくなってしまうから、必死で幕府に取りすがる。その功あってか、藩主浅五郎が死んだ6日後の1726年12月17日(享保11年11月24日)には、江戸から浅五郎の従弟の亦三郎(またさぶろう)への相続が認められるとの報が入る。ただし、石高は5万石に半減されることになる。しかも、減地される領地は、「山中」の2地域になるのではないかという情報もあったのではないか。

 これは、藩の財政を大いに揺るがすことになるとの危機感が藩首脳部に広がっていたことは、疑いない。また農民の方でも、こののち統治が津山藩を脱して幕府領に組み入れるのであれば、すでに納めた年貢はとられ損になるし、これまでの不満が一挙に噴き出していくことになる。こうして、藩内は未曾有の緊迫した、騒擾の空気に包まれるのであった。

 その騒ぎに紛れて、12月21日(旧暦11月28日)、藩の勘定奉行の久保新平(くぼしんぺい)が庄屋たちを使って西原(現在の真庭市落合)の貢米蔵・郷蔵(ごうぐら)といって藩が設けた年貢米の一時的収納穀倉から、山中地域を含む「西六触」分の納米の某(なにがし)かを持ち出し、いわゆる高瀬舟に載せて吉井川(当時は、「中川」とも呼ばれていた)ルートで運び出そうとした。ここに「西六触」(にしろくふれ)とは、大庄屋の差配単位にて、小童谷(ひじや)、三家(みつえ)、湯本(ゆもと)、目木(めき)、上河内(かみこうち)、富(とみ)の6区域をいう。

 おそらくは、瀬戸内海ルートを辿って、その頃の「天下の台所」大坂の堂島(どうじま)に向かおうとしていたのかもしれない。そこには全国各地から年貢米が集められ、諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。津山藩の蔵屋敷の区割りの地図も残っている。ちなみに1730年、この場所において「堂島米会所」と呼ばれる米の先物取引を行う処ができる。この取引とは、将来のある時点である商品を対象に売買することであって、その取引での売買価格とその取引数量を予め約束しておくのをいい、「帳合米商い」と呼ばれるのだが、その成立には4年ばかり早い。だから、その頃はまだ現物取引、米(こめ)でいうと「正米商い」までの商取引の段階であったことだろう。

 こうなると、この地の年貢米は最終的に誰に納めるのかがわからなくなってしまう。こんなこともあろうかと、農民たちは、藩の動きに監視の目を光らせていた。すると、彼らが預けている蔵米が無断で積み出されるのを発見し、激怒したのだった。

 そこで義憤の念に駆られた農民たちは、藩の役人(勘定奉行の命を受けての)とその手先きの庄屋、村御蔵元たちの、夜陰に紛れての船積みをやめさせようと真庭郡久世(くせ、2005年3月末に近隣との合併で真庭市久世となる)近くの堂社にいったん集まり、そこから藩のコメ売却処分を阻止する行動に出発した。久世の蔵元をうちこわし津山城下を目指した。その途中に藩役人に示した、この決起における山中地域の百姓たちの願いの筋は、次の願書にしたためられた、次の6項目にあった。

 「一、当御年貢、右口米、糠藁代米、諸給米、右御年貢本途八歩六厘は先達って上納をとげ候、相残る一歩四厘の未納米は御免可被下候事。
一、四歩可免は御免可被下候事。
一、大庄屋加判の借米の返済は御免可被下候事。
一、大豆納並に山働年貢、諸運上銀は御免可被下候事。
一、大庄屋、中庄屋、庄屋役御取り上げ村々へは状着相立て御弁じ可被下候事。
一、大庄屋、中庄屋、庄屋に有之候御下札諸帳面残らず村方百姓へお渡し可被下候事。」

 この願書の第1項は「相残る一歩四厘の未納米」、つまり14%分は「御免」被りたいとの事である。それに、第2項に「四歩可免」とあるのは、年貢率に4%を加えることを免除してもらいたいとの事であった。さらに第5~6項において、藩が任命する大庄屋、中庄屋、村庄屋に与えられていた村の役人をやめさせ、農民の選んだ代表をおくことや、かれらにある特別な権益や諸帳簿を農民代表に引き渡すことが入っていた。これは、封建制度の根幹を揺るがしかねない要求であって、この一揆をいやが上にも激烈なものにしていく。

 そして迎えた1726年12月25日(享保11年12月3日)、藩の代官たちと、農民達との交渉は久世(現在の久世町)の「大旦芝(おおたんこうげ)」で行われた。これより前、村々にはこの日久世に集結せよとの「天狗状」が回っていた。この大旦芝での藩側が差し向けた役人との話し合いで、4番目の要求を残して妥結となる。4番目の要求の趣旨は、大豆納、山年貢、炭焼き、木地引きなどの「諸運上銀」の免除を願い出るものであったのたが、藩側は、これを一藩だけでは裁量できないことを理由に拒絶した。こうしてほぼ要求が貫徹されたことから、一揆勢はひとまず解散した。

 なお、この動きは津山藩東部の伝搬していく。1726年12月31日(享保11年12月9日)には、これの中から小中原(こなかばら)、綾部(あやべ)、一宮(いちのみや)、野介代(のけだ)、川辺(かわなべ)の5触の衆と、二宮(にのみや)、院庄(いんのしょう)、塚谷(つただに)、田辺(たなべ)の4触の衆が、それぞれに決起している。両者とも、津山城下に向かうことなくして、西6触並の回答を得て、一揆は解散している。ここまでは、当時の全国各地で頻発する全藩一揆と大して違わない。

 ところが、山中の西6触の内、小童谷(ひじや)、三家(みつえ)、湯本(ゆもと)の3つの触を中心として、大旦芝(おおたんこうげ)の交渉で獲得した成果である本途14%(1項目)と4%の加免米(2項目)の即時返還を目指しての、第2段階の闘争が始まった。それというのも、農民達は、津山藩の減封に伴う国分けに伴い自分達の地区が津山藩から分離されるであろうことを確信していた。そこで新領主が赴任するまで村々に呼びかけ、各触2名の惣代(そうだい)と各村1名の「状着」(じょうちゃく)を選出して、事実上この地の管理の一端を担う動きを見せ始める。

 一説には、「納め過ぎた米と算用帳の請取を求め、庄屋等のもとに押しかけ、実力で奪い取った」(保坂智「百姓一揆とその作法」吉川弘文館、2002)とも言われるものの、仔細までははっきりしない。

 結局のところ、この大一揆は藩の大方針が下って鎮圧される。時は、明けて1727年1月26日(享保12年正月5日)のことであった。それまでは、連日のように津山城内で評定が続いた。そして、彼らが持てる武力をフル動員して、鎮圧を決意するに至ったのは何であったのだろうか。評定の詳細な記録は残っていないので、これに反論があったのかどうかについては分からない。
 そこで手元の類書を紐解く限り、その一つは、やがて幕府の支配に返されることになるであろう山中地域を、平穏かつ従順な状況にして返さねばならなかったことがある。しかし、それはあくまで表向きの理由であった気がしてならない。

 真実は、むしろ別のところにあったのではないか。すなわち、このまま放置しておけば、この地に入府以来の農民に対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が白日に晒される事態になることを恐れたからではないか。結局は、一揆の頭取人ならびに参加した農民は盗賊として処分することに一決した。この暴政を止めようとする者が藩内に一人としていなかったことに、いたく驚かされるのである。

 当日に動員された正規軍には鉄砲隊までもが動員され、目付の山田兵内と三木・山田両代官の指揮で一揆勢の中心がいる山中地方に踏み入ろうとした。一揆側は、「大山道」の三坂峠の頂上付近に8百人余りの農民が集結し、ここを拠点に鎮圧軍が山中地域に侵入してくるのは備え、頑強なる抵抗の姿勢を見せる。

 このままでは苦戦に陥りかねないと見たのであろう、藩側は、久世の三坂峠から湯原への進入路を諦め、1727年1月28日(享保12年正月7日)には、出雲街道から山中地域を新庄(新庄村)へ向かった。一揆勢の背後をねらったのであったが、この作戦により、さしもの一揆勢も総崩れとなっていく。

 このときを境にして、一揆を起こした側に多くの犠牲(51名が今日で言うところの死刑)を出して、終結に向かった。この一揆が鎮圧された後、津山藩は当該地域の農民の怒りをかわすため、年貢率をそれまでの7割程度から6割程度へと復す。一揆勢の6項目要求の中では、他に2番目の要求である「四歩可免は御免可被下候事」だけを認めた。一揆の間に取り返した米も、藩当局に没収される。さらに、「状宿・状着」の農民代表は廃せられ、藩政の下部組織としての庄屋制による支配が復活するのであった。

 1727年(享保12年)5月、幕府は津山藩の石高を10万石から5万石に減らす。幕府は、津山藩領として残った以外の地域に代官所を置いて、いわゆる「天領」として幕府が直接支配した。その当初の年貢率は「五公五民」であった。この事件は美作ばかりでなく、日本全国にさまざまな伝承と共に広く伝わっている。

 演芸においても、1958年(昭和33年)、岡山新劇場が真庭郡湯原町(現在の真庭市湯原)で山中一揆を扱った劇を上演したことがある(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー戦後の歩み」山陽新聞社刊、1993による)。

 なお、『美国四民乱放記』の中では、指導者の池田徳右衛門(牧村、現在の湯原町)の人となり、その豪快にして繊細な人格は、かの島原の乱の首領天草四郎の孫に見立てた、高揚感で包まれたフイクションによる表現でこう述べられている。ただし、この本の著者が本件に対し臨んでいる態度は、一揆の行動が正義によるものではなく、「津山ヲ蔑二致」したための「天罰」であったとして、批判しているところに特色がある。
 「徳右衛門ヲ大姓ニ定メ、家名ヲ改、アマノ四郎ノ左衛門佐藤原時貞ト名乗時貞語テ曰、誠ヤ川上不清時ハ、必其下濁ル。国不納時、民乱ルルトハ、古キ言葉ニ見タリ。見ヨ、見ヨ。七年ハ過間敷、郷士ドモハ己ト亡国有、諸ノ佞人ハ天ノ冥罰ヲ可請。我命ハ終トモ、一念ハ死替、生替、鬼トモ蛇トモ成テ、世々影向、恨ヲナサデ可置カト、血ノ泪ヲハラハラト、断責テ哀也。」

(続く)

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233○○『自然と人間の歴史・日本篇』農民一揆などの頻発(17~18世紀)

2021-07-19 09:11:13 | Weblog
233○『自然と人間の歴史・日本篇』農民一揆などの頻発(17~18世紀)
 
 江戸時代の17~18世紀には、全国各地において、広い意味での一揆が頻発した。なお、ここでいうのは、一揆や強訴、打ちこわしなどから逃散(ちょうさん)なども含まれよう。

 およそ千数百件ともいわれる、歴史にその名前が残るこの時期の出来事のうち、主なものをざっと拾うだけでも万石騒動(安房)、南山御蔵入騒動(陸奥)、山中一揆(美作)、美作元禄一揆・高倉騒動、元文磐城平一揆(陸奥)、因幡伯耆一揆(同)、久万山騒動(伊予)、内の子騒動(伊予)、久留米騒動(筑後)、千人講騒動(しなの)、伝馬騒動(信濃)、大原騒動(飛騨)、上州絹一揆(上野)、天明福山一揆(備後)、大州騒動(甲斐)、浅川騒動(むつ)、土平治一揆(相模、幕府領)などがあろう。

 それらの原因を一括して概観することは難しいものの、大方の傾向ということであえていうなら、例えば、次に紹介する1749年(寛延2年)に勃発した二本松藩での一揆を題材にした「夢物語」においてのように、のっぴきならない、生存に照らしてのぎりぎりの状況が揃っていることがあろう。
 
 「爰(ここ)に陸奥国安積・安達両郡を守護職丹羽若狭守高庸公御仁徳にして賢守たり、然るニ領分の百姓近年打続く水損、干損の凶作、就中(なかんずく)寛延二年七月より雨降り続き五穀実(みの)らず、公納不安(安からず)して百姓困窮目の前なり、愁訴止(や)もう得ざる事百姓挙(あげ)て検地(ここでは、検見といって、作物のでき具合を調査して、検地で定めてある基準に則(のっと)って年貢量を決めることをいう、引用者)の願ひ取り取りなり、この旨上聞(じょうぶん)に達し、則ち検地せしむると雖も郷方役人当座の利徳に心を寄せ、百姓の難渋をも顧ず、纔(わずか)に検地の場所を増進し、収納公納の事急なる故、百姓日を逐(おお)て痩せ衰え、(中略)上納も半途なり、(中略)飢饉の愁訴頻(しきリ)なり、」云々。
 
 もう一つあって、それは、暴動などとは異なるということである。なにしろ、各々かぎりの一命ではなくて、皆々の命が、一蓮托生の形て懸かっている。ついては、それらの大方が、農民たちが自分たちが定めた「法度」を定めるなどして、集団としての姿勢を固め、要求を掲げ、装束や持ち物までを定めるなとして、行動へと移るという体裁となっている。
 
 ちなみに、前述の「夢物語」には、こうある。
 
 「扨(さて)、百姓共装束は、麻にてさしたる指着物を上着と定め(中略)、或(ある)いは鉈(なた)、まさかりを押入て、一俵宛背負たり、扨又此時、強訴に付、仲間一同不法の仕方無之様、法度を極、左に記之(中略)。
 一、道筋田畑へ障(さわ)り申間敷候事、附、町家戸障子へ一切障り申まじく事。
 一、町人へ対し惣(そう)て悪口雑言(ぞうごん)無用之事。
 右之通急度可相慎、若相用者有之は、仲間にて打殺可申事。」(
「夢物語」)


(続く)


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