○223『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の産業(大坂油稼株の設置、絹織物業など)

2021-07-15 22:25:41 | Weblog
223『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の産業(大坂油稼株の設置、絹織物業など)
 
 その当時、灯りとりに欠かせない油の種というのは、中世の頃までは、荏胡麻(えごま)油であった。それが、江戸時代に入るうちに、都市化の進展とも相俟って需要が拡大していく。
 そうこうする間には、油を絞る技術も向上し、原料も菜種(なたね)と綿実(めんじつ)が主なものとあり、なる。
 とりわけ菜種は、油分が多く、燃やしてと煙が出ないということで、町方も含め人気を博す(なお、庶民の間での灯り取りには、安価な魚油が馴染みであったようである)。

 これが引き金となって、供給側の産地の形成も急で、換金性に優れた産品として、冬季の裏作物として大規模な産地が形成されていく。

 こうした中、大消費地の江戸では、灯油の上物(じょうもの)とは、菜種油と綿実油を合わせたとので供給されていたという。そのため幕府としては、最大供給元の大坂を目安に、原料・製品価格の安定、品質の向上へと動く。

 そうはいっても、元々の政策としては、関東においても多様な油脂原料、とりわけ菜種の増産に「ハッパ」をかけていたとのことなのだが、「概して、冬撒き菜種は、関東以北での栽培には適していなかった。冬に播種され晩春に収穫される菜種は、雪の積もる地方では栽培には適していなかった。また米との2毛作であり、農民にとっては大きな負担になることも、隘路(あいろ)となった」(東京油問屋市場「百万都市江戸の灯を支えた油問屋」東京油問屋史追補版)とあり、なかなかに込み入った事情を抱えていた。

 結局、1758年(宝暦8年)に大坂油稼株の設置をして、油方仕法の制定や、江戸市場への直送を禁止し、大坂への集中を図るなどに誘導していく。大坂に菜種と綿実の両油種問屋を設けることにより、大坂の絞油業者への原料供給を取り扱わせていた。しかるべく、大坂周辺の菜種生産農家は、自分たちで使う分以外は、すへて大坂市場へ出さなければならなくなる。

 かようにして、いいところ取りをしたいかのような幕府のびほう策であったのだが、この大坂偏重の政策は、関東、ひいては西日本の菜種生産農家の反発、法令に反する搾油施設の稼働が相次ぐ。そんなことから、1791年(寛政3年)には、幕府は、灘目、兵庫の搾油業者の菜種買い取りを緩和して、江戸への直積みも認める。

 折しも、1826年(文政9年)の江戸では「油切れ」が起こり、その反省に立って、幕府は、江戸への分につき、すぜて霊岸島に油寄所を設け、江戸着の油はすべてここを通る、すなわち、同所にて油問屋及び問屋並み仕入方のものに売り渡すことを命じる。
 
 
🔺🔺🔺
 
 二つ目として、絹織物といえば、江戸時代の後半からは、「西の西陣、東の桐生」とあるように、二つの大産地が出揃う。
 桐生については、古くは南北朝時代、桐生国綱が築城し城下町として馴染んでいく。産業では、16世紀になり桐生新町を建設し、そこを中心に絹織物生産地、絹市場(交易の場)として台頭していく。
 江戸時代に入ると、桐生は幕府領に組み入れられる。
江戸中期になると、かねてからの絹織物産地、京都の西陣との関わりが出てくる。その始まりは、思いがけなくやって来た。
 その背景には何があったのだろうか。一つには、長崎貿易で中国からの生糸の輸入に頼っていた西陣の絹織物業が、同地の幕府直轄領化により、貿易が管理され、まつまた量も抑えられるようになった、そうなると、その分コストも上がってしまう。
 もう一つは、1730年(享保15年)の大火により、かなりの旗元など、それに紋織職人が職を失う。
 それと相前後してというか、西陣の高機の技術が、全国各地へ伝播していく。その主なルートとしては、西へは峰山(1720)や加悦(1729頃)へ、東や北へは長浜(1751~1752)、岐阜(1720頃)といった産地へ、であろうか。
 
 
 桐生にもその流れがとどく。738年(元文2年)頃からは、職人を桐生に迎えいれるなどして、伝わっていく。しかも、染色、紗綾などの織技術の全般が、もたらされていく。西陣に特有の大型の製織技術も、某か運ばれていったのではないか。その結果、桐生の絹織物業は大きく発展し、白縮緬、御召、銘仙、帯地、刺繍物などの高級品をも製造するようになる。
 さらにそれからは、桐生から足利、八王子、伊勢崎、埼玉などの新興産地へと、技術が伝搬していく。こうして、全国各地に絹織物の技術が、さらに養蚕地とも結びついて、産地とそれを支える養蚕、そして絹織物の流通網が形成されていくのである。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
 
 
 
 

○211『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の4つの窓(アイヌ、琉球、対馬、長崎)

2021-07-15 21:34:34 | Weblog
211『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の4つの窓(アイヌ、琉球、対馬、長崎)

 

 さて、アイヌというと、この列島での先駆者の一つであって、当時の「日本人」の大方は、彼らのかなり後にやって来た、そんな間柄なのが、いつしかアイヌを圧迫して、彼らの生存領域を狭め、それがシャクシャインの戦い(1669)などを引き起こしてきていた。
 17世紀前半のアイヌの人々を振り返ると、東北から北海道にかけての河川の、彼らにとっての「聖地」であり「城」であるところの「チャシ」を中心に住まいし、小規模な部族に分かれての生活共同体を構成していた。

🔺🔺🔺

 そもそも、琉球王国は、15世紀の初めには、島津氏を通じ、日本に入貢してくる。そして、明朝、李氏朝鮮、日本との間を取り持って、仲介貿易で利益を受けてきた。

 それが、豊臣秀吉の朝鮮出兵により明朝との連絡がつかなくなる。代わっての徳川氏は、琉球に日本への来へいをもくろんだのだが、琉球はこれを拒んだ、そのための出兵であった。
 17世紀前半からの琉球といえば、薩摩の島津氏の武力によって抑圧されていたであろうことは、疑いあるまい。そこで、1609年(慶長14年)、幕府は、島津藩に琉球せの出兵を許す。3000余りの島津軍が、沖縄本島の首里城を攻め落とし、琉球王の尚寧(しょうねい)と一部の重臣が薩摩に連行され、約2年の間勾留される。

 
 
🔺🔺🔺

 かたや朝鮮には李があり、儒教に基づく国政を行っていた。こちらとの連絡には、対馬の宗氏(そうし)を通じて交易に努めており、1609年(慶長14年)の己酉(きゆう)条約の後にも、朝鮮からの使節がやって来たりしている。
 
 参考までに、当該条約は、1609年(慶長14年)に李王朝が、対馬の宗義智に与えた通交貿易上の諸規定にして、同年が己酉の年に当たるのでこの名がある。
 全13ヵ条からなり、宗氏へは米・大豆の供給、日本からの使節の接待法、宗氏の歳遣船数の取決めなどを含む。
 とはいっても、豊臣政権下での、文禄・慶長の役で迷惑をかけたことがあり、通交者を日本国王(徳川幕府)、対馬島主(宗氏)、対馬島受職人(対馬の朝鮮官職を授けられた者)に、歳遣船数を20隻に限るなど、対馬にとって不満足な内容であろう。
  このような膳立ての上、両国をつなぐ意味で、1636年(寛永13年)に、初めて朝鮮から日本へ通信使がやって来る。
 
 それから、両国の間では平和裡(へいわり)にかなりの時が経過していく。将軍が6代目徳川家宣(とくがわいえのぶ)に代わっての、1711年(正徳元年)に来訪した朝鮮通信節の待遇では、接待儀礼を「御三家」と同等としていたのを簡略化するとともに、将軍を「日本国大君」から「日本国王」に変えての国書とする。
 
🔺🔺🔺
 
 1634年(寛永11年)、長崎の出島の建設が始まる。その目的としては、貿易の制限とキリスト教禁止政策があった。
 これを現地通貨で請け負ったのは、長崎の豪商25人。それからは、突貫工事であったのたろう、1636年(寛永13年)にはひとまず完成、その規模は、約3000坪にして、長崎市内に住むポルトガル商人が移り住む。
 1639年(寛永16年)に彼らが追放されると、一時空き地となるも、1641年(寛永18年)には、今度は平戸からオランダ商人が入って、住み着く。
 
 1676年(延宝4年)には、長崎代官の末次平蔵親子が、隠岐島に流罪となる。彼の家は、代々博多の豪商にて、朱印船貿易で富を得た。台湾のオランダ商館長ヌイツと紛争を起こした(台湾事件)があったものの、4代続けて長崎代官を世襲していた。この役職だが、何かと旨味のある地位であったのは、疑いあるまい。
 咎(とが)めを受けたのには、4代目平蔵の使用人がカンボジアと密貿易を企てたことが発覚したからである。
 具体的には、平蔵の番頭が通詞とともに、平蔵の資金を借りる形で清国人の船を買い取り、清国人の船頭を雇う。その末次平蔵だが、幕府の詮議(せんぎ)により、和泉国において、二重底の船をしつらえることを計画していた。その中では、刀剣などといった産物のみならず、日本地図を密かに持ち出して輸出することも計画しているのが明らかになったというから、驚きだ。
 
 それを見つかって財産没収の上、末次家は断絶する。また、これに並んで同代官所も、これ以降1739年(元文4年)に長崎町年寄の高木作右衛門が就任するまで、同代官所は断絶することになる。
 
 それからの長崎は、輸出用産物の基地となっていく。1738年(元文3年)9月18日には、幕府は、長崎からの輸出に充てられる銅を確保するべく、銀座の加役として銅座「元文銅座」を復活させる。
 
 
 なお、こうした脈絡での大坂との関係もかなりのものであって、本渡章氏がひもといておられる「摂津名所図会」の解説には、こうある。

 

 「棚に見えるのは西洋のガラス器、手前には中国の陶磁器。鎖国時代というのに、こんな舶来品専門店が流行った背景には、貿易の窓口だった長崎と大坂をつなぐ太いパイプがあった。

 長崎貿易での買い入れは、はじめ金銀で行われていたが、寛文8年(1668)に銀の輸出が禁じられると、銅が重要な決済手段になった。日本で唯一の精錬所があったのは大坂である。

 元禄14年(1701)には銅座が大坂の石町に設けられ、長崎会所と協力体制を組んで銅貿易がすすめられた。また日本の主要な輸出品だった俵物(干あわび、ふかのひれ、キンコ(なまこの干したもの)の三品)は、いちばんの産地の北海道から大坂の俵物会所にまず集まり、長崎へとはこばれた。かわりに長崎から入ってくる外国の品々の多くは大坂に送られ、そこから各地に流通していった。

 

 木綿、白糸、薬種など朝鮮からの輸入品は対馬が窓口で、大坂にあった対馬屋敷から問屋に流れた。琉球の砂糖なども大坂の薩摩屋敷から問屋を経て、各地に売りさばかれた。大坂港と張り合っていた堺港が、大和川の付け替えでできた新大和川がはこぶ土砂で衰退したことも、舶来品の大坂への集中をうながした。」(本渡章(ほんどあきら)「大坂名所むかし案内ー絵とき「摂津名所図絵」」創元社、2006)

 
 
(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

新219○○『日本の歴史と日本人』江戸時代における支配思想と仏教

2021-07-15 10:46:43 | Weblog
新219○○『日本の歴史と日本人』江戸時代における支配思想と仏教

 その地域、その時代には、支配的な思想なり、平たくいうとその社会の状況を反映した文化が開くことは、今日では、かなり知られている。
 そればかりではない、そのことに注目することで、それぞれの地域・時代の全体、つまり人類総体としての思想・文化のあり方も変化しているのではないだろうか。
 従来なかなか光の当たらなかった原始仏教と、現代にいたるそれぞれの国での仏教のあり方について、中村元は、あえてこう切り込んで述べている。

 

 「したがって、日本においては本来の意味における宗教集団が十分に成立していなかった。神社神道はまとまった堅固な教団を成立させるに至らなかった。儒教の場合はいうまでもない。世界的宗教である仏教の場合も、同様であった。
 日本の仏教集団は、実際においては、国家あるいは藩候の政治的意図のもとに隷属していた。本来国家の上にあるべき宗教の権威が、かえって国家あるいは封建的な藩の下に隷属していた。仏教各宗は、国家あるいは藩を指導するというよりは、むしろそれらに奉仕すべきものと解せられた。 
 したがって日本の仏教集団は、世俗的権力に対してきわめて屈従的・妥協的であり、ときには阿ゆ的でさえもあった。「沙門不敬(きょう)王者」すなわち、出家した仏道修行者は国王に敬礼してはならぬ、という仏教本来の伝統は、日本ではついに実現しなかった。のみならず、問題にさえされなかった。皇室あるいは藩候からくだされた栄誉に、最上の価値を認めていた。 
 このような事情にあるため、日本の仏教教団の勢威は中世においてもきわめて弱く、とうてい西洋中世の比ではなかった。また南アジア諸国における仏教教団ほどの尊敬をも受けていなかった。」(中村元「日本人の思惟方法」春秋社、2012)

 このような分析は、いうなれば、一つの科学のなせる技ではなかろうか。なかでも驚くのは、長らく仏教(日本では稀な原始仏教)を研究してきた当代の権威が、日本仏教を比較文化の手法を交えながら批評していることである。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆