そうこうする間には、油を絞る技術も向上し、原料も菜種(なたね)と綿実(めんじつ)が主なものとあり、なる。
そうはいっても、元々の政策としては、関東においても多様な油脂原料、とりわけ菜種の増産に「ハッパ」をかけていたとのことなのだが、「概して、冬撒き菜種は、関東以北での栽培には適していなかった。冬に播種され晩春に収穫される菜種は、雪の積もる地方では栽培には適していなかった。また米との2毛作であり、農民にとっては大きな負担になることも、隘路(あいろ)となった」(東京油問屋市場「百万都市江戸の灯を支えた油問屋」東京油問屋史追補版)とあり、なかなかに込み入った事情を抱えていた。
結局、1758年(宝暦8年)に大坂油稼株の設置をして、油方仕法の制定や、江戸市場への直送を禁止し、大坂への集中を図るなどに誘導していく。大坂に菜種と綿実の両油種問屋を設けることにより、大坂の絞油業者への原料供給を取り扱わせていた。しかるべく、大坂周辺の菜種生産農家は、自分たちで使う分以外は、すへて大坂市場へ出さなければならなくなる。
かようにして、いいところ取りをしたいかのような幕府のびほう策であったのだが、この大坂偏重の政策は、関東、ひいては西日本の菜種生産農家の反発、法令に反する搾油施設の稼働が相次ぐ。そんなことから、1791年(寛政3年)には、幕府は、灘目、兵庫の搾油業者の菜種買い取りを緩和して、江戸への直積みも認める。
折しも、1826年(文政9年)の江戸では「油切れ」が起こり、その反省に立って、幕府は、江戸への分につき、すぜて霊岸島に油寄所を設け、江戸着の油はすべてここを通る、すなわち、同所にて油問屋及び問屋並み仕入方のものに売り渡すことを命じる。
桐生については、古くは南北朝時代、桐生国綱が築城し城下町として馴染んでいく。産業では、16世紀になり桐生新町を建設し、そこを中心に絹織物生産地、絹市場(交易の場)として台頭していく。
江戸時代に入ると、桐生は幕府領に組み入れられる。
江戸中期になると、かねてからの絹織物産地、京都の西陣との関わりが出てくる。その始まりは、思いがけなくやって来た。
その背景には何があったのだろうか。一つには、長崎貿易で中国からの生糸の輸入に頼っていた西陣の絹織物業が、同地の幕府直轄領化により、貿易が管理され、まつまた量も抑えられるようになった、そうなると、その分コストも上がってしまう。
もう一つは、1730年(享保15年)の大火により、かなりの旗元など、それに紋織職人が職を失う。
それと相前後してというか、西陣の高機の技術が、全国各地へ伝播していく。その主なルートとしては、西へは峰山(1720)や加悦(1729頃)へ、東や北へは長浜(1751~1752)、岐阜(1720頃)といった産地へ、であろうか。
さらにそれからは、桐生から足利、八王子、伊勢崎、埼玉などの新興産地へと、技術が伝搬していく。こうして、全国各地に絹織物の技術が、さらに養蚕地とも結びついて、産地とそれを支える養蚕、そして絹織物の流通網が形成されていくのである。
(続く)
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