108『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドリア

2021-07-29 21:20:13 | Weblog
108『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドリア

 アレクサンドリアとは、アレクサンドロス大王が命令して建てさせたたギリシア風の都市だ。前331年ナイル川の河口に建設される。その後、アレクサンドロス大王の武将であったプトレマイオスが建国したエジプト・プトレマイオス朝の首都となる。
 
 現時点において、市域の一部であったところがその後の地殻変動なりで海面下になってしまっているか、かつては、碁盤状の通りをもった市部と、約1200mの突堤 (とってい) で結ばれた前面のファロス島からなっていたという。
 当時のアレクサンドリアの中心部には、王宮・セラピス神殿・ムセイオンとその付属図書館が立ち並んでいて、そしてファロス島の東端には、一説には、高さ160mの大灯台があったことが知れている。

 その突堤の両側に船が停泊でき、港の機能が整備されていた、そのことから、ヘレニズム時代の地中海貿易の中継地として、中心的な役割を果たしていたであろうことは、疑いあるまい。

 そればかりか、この地は、当時の多様な文化形成を担う役割を果たしていたのであろう。特に、プトレマイオスが、この地に研究所を持った図書館(前述)を建設してからは、それまでのギリシア文化なり、そこで培われてきた学問の中心がアレクサンドリアに移る。

 多くの著名な学者を輩出していたこととの絡みでいうと、かかる図書館には、数十万巻もの本が収められていたとも言われる。ユークリッドの「原論」の内容をまとめたエウクレイデス(前300頃)や、今日「アルキメデスの原理」で有名なアルキメデス(前287~212)は、直角円錐の切り口によってできる図形の面積などについても研究していた。当時は、図形は直線と円とで構成されているという考えが強かったらしい。

 その研究を受け継いだのがアポロニオスであって、彼は円錐を平面で切った切り口の研究を進める。一つの円錐を切る平面の傾きに応じてその切り口の形が変わることに目をつける。その場合において、平面と円錐の軸とのあいだの角の大きさが、円錐の軸と母線とのあいだの角よりも大きいか、等しいか、小さいかによって、エリップス、パラボラ、バイパボラと名付ける。

 これらのうちのエリップス(楕円)については、特別の場合としての円を包括するというか、これら3つの曲線は、円錐を切る平面の角度を変えることによって現れる一連の姿、いわば「円の兄弟」ともいわれている。

 またパラボラについては、それから約1800年も経過しての、イタリアの科学者ガリレオが、「天文学対話」(1632)の発刊して世の中を惑わしたことを咎められ禁固(きんこ)に処せられた後の「新科学対話」(1638)において、こう述べている。
 
 「投げた物がある種の曲線をえがくことはすでに観察されているが、この曲線こそ、すでにアポロニオスによって論ぜられた円錐をその母線に平行な平面で切った切り口の曲線、すなわちパラボラにほかならぬ、ということは何人も指摘していないのである。」

 このガリレオの文章の現代的意味につき、黒田孝郎(くろだたかお)は、こう解説している。
 
 「アポロニオスによってパラボラの性質が研究されてから1800年、その間、パラボラはほとんど取り上げられることはなかったのです。その円錐の切り口の曲線が、なんと物を投げたときの曲線であったのです。
 このように、円錐を母線(ぼせん)に平行な平面で切った切り口としてのアポロニオスのいうガリレオ以前のパラボラと、その形は物を投げたときえがかれるものであることがガリレオによって証明されたあとのパラボラとの二種類があるのです。二種類といっても、パラボラそのものに変わりはないのですが、人間がその形に対して考えている内容については大きなちがいがあります。」(黒田孝郎「円の兄弟ーー図で考える数学」大日本図書、1976)


 アレクサンドリアのその後のありようだが、ローマ時代には哲学者・神学者が現れるなど、いぜん活気があったものの、ローマ帝国の衰亡とともに7世紀半ばアラビア人に占領されてから衰えていく。
 
 ちなみに、このパラボラにちなんだ現代の仕掛けとして、パラボラアンテナがあり、放物面をお椀の形で作っている。わざわざこうしているのは、外から平行にやってくる電波をアンテナの軸に一点集中させると、受信用のアンテナは電波を受信しやすくなる理屈だ。
 逆に、電波を送信するには、焦点に当たる一点から電波を出して平行にし、各家庭のアンテナに電波を送り出すことにより、電波を効率よく送受信できる、平行でないといろいろな方向に信号が拡散してしまうから)。

(続く)

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新243◻️◻️『岡山の今昔』倉敷(玉島エリア)

2021-07-29 10:09:07 | Weblog

新243◻️◻️『岡山の今昔』倉敷(玉島エリア)

 このエリアは、倉敷市の西部にあり、瀬戸内海を望む海沿いが中心のエリアだ。

 そもそもの玉島といえば、日本の古代から律令制にかけては、今日とは様変わりというか、大方は浅海の底にあったろう。かの「万葉集」には、難波から出発した遣新羅(しらぎ、朝鮮語ではシルラ)使人(朝鮮半島の新羅に使いをする人)が玉島で一夜を明かしたらしいことが窺えよう。
 
 「ぬばたまの 夜よは明けぬらし 玉(多麻)の浦に あさりする鶴たづ 鳴き渡るなり」(15.3598)
 「玉の浦の干潟でエサをあさっていた鶴が鳴いて飛んでいくのが聞こえてくるではないか」
 これほ、遣新羅使の人物であろうか、玉の浦の夜明けに、鶴の鳴き声ではたと目覚めたようだ。
 
 もう一つ紹介しよう。
 
  「玉の浦の 沖つ白玉 拾へれど またそ置きつる 見る人をなみ」(15.3628)」 
 「玉の浦の沖の白玉を拾ったけれども、その玉を見て喜ぶ妻はここに居ない、だからまた元のところに置いてきたよ」
 こちらも遣新羅使人の詠んだ歌ながら、遠浅の白い砂浜に干潟が広がっているところへ、ふるさとを遠く離れることでの旅情がこみ上げてきたのであろうか。

 さて、江戸時代初期に港が開かれてからは、「山陽の小浪華(こなにわ))」と呼ばれ、児島・下津井エリア以上に、この辺りを代表する港町としてあった。
 今でも玉島の町の中には、問屋や船着場の跡などが見られる。現代の交通路では、JR児島駅からは岡山方面にも四国にも通じる。また、当時農業もなくなっておらず、北部では白桃の栽培が盛んである。

 そこで、の昔を少し振り返ってみよう。玉島・船穂エリアの辺りの大方は、浅海であったろう。景観よろしく、かつて瀬戸内海に点在する小さな島々であったことが、各種史料などから読み取れよう。
 それが、江戸時代になると、備中松山藩が新田開発を繁く行う。ちなみに、このエリアには、干拓工事成功を祈願した羽黒神社がある。具体的には、この地に入った水谷氏(水谷勝隆、勝宗)の治世において、主なものだけでも合わせて約700町歩もの新田開発がなされた(詳しくは、森脇正之「玉島風土記」岡山文庫169、日本文教出版、1988)。


 ところで、元々この地は、海運の便利もあって、江戸時代、玉島は備中松山藩の港町として、千石クラスの船が出入りし活況を呈していた。特に元禄時代には北前船と高瀬舟の水運により、玉島は港町として大いに栄える。


 前述の羽黒神社の西側には、かつて問屋街として栄えた新町がある。かくて、瀬戸内海の浅瀬に面して、潮止堤防の上に築かれたこの町は、江戸時代の初期、この堤防上に西日本有数の港の賑わいを見せていたという。

 そんな玉島港も、元禄年間を最盛期として、衰退へ向かっていく。1702年(元禄15年)以後、天領の阿賀崎新田村の新町、備中松山藩の玉島港町、丹波亀山藩領の玉島村町分と三分割されてしまう。備中産綿花の品質にも陰りが出てくる。19世紀に入ると、西の浦、寄島の港も開かれ、綿花などの取り扱いの一部を奪われていく。

 それからはや300年余り、今では閑散ながらも、虫籠窓や格子、漆喰窓やなまこ壁を持つ本瓦葺きの商家や土蔵が数多く残されて、往時を偲ばせている。


 現在は、玉島ハーバーアイランドが建設されており、国際物流の重要拠点として整備されつつある。

 この近く、かつては酒造、醸造などの伝統の地場産業の場所柄であったところを、国際物流の重要拠点として、玉島港の沖合に造られた、その願いを込めて、総面積約245ヘクタールを誇る人口島だ。
 その後、水島国際コンテナターミナルが設けられ、ガントリークーレンが2基活躍する。また、特定重要港湾にも指定され、国際海上輸送網の拠点としても有望株だという。

(続く)


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