新80○○『岡山の今昔』江戸時代の三国(庶民の暮らし)
富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものだろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)の江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として当局の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。
その後についても、簡単に触れておこう。幕府においては、天保の改革で禁止令が出て、それ以後再興されることはなかった。これを巡っては、諸藩のうちやや前のめりであった津山藩も、「建設的でない」などとの批判から、幕末の文久年間(1861~1864)になって禁止された。
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狭義での社倉が、民衆が一人ひとりの財力に応じた分を囲米として出し合い、管理も民間で行うのに対し、同義倉は、そうしたことを公的な機関や富裕な人物が民衆の救済のために施す場合に使われる。
富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものだろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)の江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として当局の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。
その後についても、簡単に触れておこう。幕府においては、天保の改革で禁止令が出て、それ以後再興されることはなかった。これを巡っては、諸藩のうちやや前のめりであった津山藩も、「建設的でない」などとの批判から、幕末の文久年間(1861~1864)になって禁止された。
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狭義での社倉が、民衆が一人ひとりの財力に応じた分を囲米として出し合い、管理も民間で行うのに対し、同義倉は、そうしたことを公的な機関や富裕な人物が民衆の救済のために施す場合に使われる。
江戸時代の17世紀中頃には、会津藩を皮切りに、福山藩をはじめ、かなりの諸藩などで義倉が行われている。
その後の中央での目ぼしい展開としては、寛政の改革で松平定信は七分積金の制度を設ける。当世は飢饉が全国的に頻発しており、諸藩でも、相前後して、運用していたものと見られる。幕府の場合は、その運用のために、七分積金で積み立てられるカネや米(米切手を含む)は地主や家主から支出させ、保管しておき、飢饉などで必要な時に配給して人々を救うという仕組みだ。
岡山藩(1671)においては、津田永忠の提案で創設され、また津山藩でも18世紀になってその動きが見られた。ここでは、藩が中心になってのものではなく、江戸時代中期の1769年(明和6年)に備中国窪屋郡倉敷村(現在の岡山県倉敷市)において、民間主導にて設立された相互扶助組織「倉敷義倉」について、簡単に触れておこう。
その内容としては、「義衆」と呼ばれる倉敷村の有力者たちがが盟約して集い、それぞれが麦なりを拠出する。その上で、災害や飢饉などが起これば、それの貸付利息をして、難民や生活困窮者の救済に充てられる。
義衆ら74名の富裕な町衆だけで「義倉条約」を作成したのは、日本全体で見ても、類例があまりないのではないだろうか、流石である。
(続く)
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