新80○○『岡山の今昔』江戸時代の三国(庶民の暮らし)

2021-07-12 14:05:01 | Weblog
新80○○『岡山の今昔』江戸時代の三国(庶民の暮らし)

 富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものだろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)の江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として当局の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
 江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
 そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
 やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
 これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。

 その後についても、簡単に触れておこう。幕府においては、天保の改革で禁止令が出て、それ以後再興されることはなかった。これを巡っては、諸藩のうちやや前のめりであった津山藩も、「建設的でない」などとの批判から、幕末の文久年間(1861~1864)になって禁止された。

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 狭義での社倉が、民衆が一人ひとりの財力に応じた分を囲米として出し合い、管理も民間で行うのに対し、同義倉は、そうしたことを公的な機関や富裕な人物が民衆の救済のために施す場合に使われる。
 江戸時代の17世紀中頃には、会津藩を皮切りに、福山藩をはじめ、かなりの諸藩などで義倉が行われている。

 その後の中央での目ぼしい展開としては、寛政の改革で松平定信は七分積金の制度を設ける。当世は飢饉が全国的に頻発しており、諸藩でも、相前後して、運用していたものと見られる。幕府の場合は、その運用のために、七分積金で積み立てられるカネや米(米切手を含む)は地主や家主から支出させ、保管しておき、飢饉などで必要な時に配給して人々を救うという仕組みだ。

 岡山藩(1671)においては、津田永忠の提案で創設され、また津山藩でも18世紀になってその動きが見られた。ここでは、藩が中心になってのものではなく、江戸時代中期の1769年(明和6年)に備中国窪屋郡倉敷村(現在の岡山県倉敷市)において、民間主導にて設立された相互扶助組織「倉敷義倉」について、簡単に触れておこう。

 その内容としては、「義衆」と呼ばれる倉敷村の有力者たちがが盟約して集い、それぞれが麦なりを拠出する。その上で、災害や飢饉などが起これば、それの貸付利息をして、難民や生活困窮者の救済に充てられる。
 義衆ら74名の富裕な町衆だけで「義倉条約」を作成したのは、日本全体で見ても、類例があまりないのではないだろうか、流石である。



(続く)



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新256○○222『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(薩摩藩)

2021-07-12 11:21:46 | Weblog
新256○○222『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(薩摩藩)

 19世紀も30年代にさしかかっていた薩摩藩の財政は、かなり前から出費がかさんでいた。一説には、500万両の借金を抱えていたという。藩財政を立て直すべく、1832年(天保3年)に、調所広郷(ずしょひろさと、1776~1849)を家老格に任じる。
 大権を手にした調所が行ったのは、債権者たちに藩の借金を負けさせるどころか、その大半を棚晒し、もしくは大幅にまけさせることであった。具体的には、「250年の年賦での返済、および無利子返済」を打ち出し、商人たちに通達した。これは、なかばは「踏み倒し」を目指した試みともいえよう。

 そして調所が藩主の権威を借りてなしたのは、税収の向上の施策を手広く講じることであった。そんな中でも、南方の島々で栽培させた黒砂糖の藩による専売強化を図ることだった。

 具体的には、奄美大島、徳之島、喜界島では、そのことにより、いわゆる「黒糖地獄」が現出していた。ついては、その苛練達誅求ぶりの様子だが、1616年(元和2年)の借銀が1000貫目(金両でいうと2万両)余りであるのに対し、1632年(寛永9年)の借銀が7000貫目(金両でいうと2万両)余りである。1640年(寛永17年)の借銀が2万1000貫目(金両でいうと34.5万両)余りであるのに対し、1749年(寛延2年)の借銀が3万4000貫目(金両でいうと56万両)余りである。

 1754年(宝暦4年)の借銀が4万貫目(金両でいうと66万両)余りであるのに対し、1801年(享和元年)の借銀が7万2600貫目(金両でいうと117万両)余りである。1807年(文政10年)の借銀が7万6128貫目(金両でいうと126万両)余りであるのに対し、1827年(文政10年)の借銀がなんと32万貫目(金両でいうと500万両)余りに膨れ上がっているという(山本博文監修、武井弘一、千葉真由美・原淳一郎・福留真紀・藤田英昭著「見る・読む・調べる江戸時代年表」小学館、2007)。

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 ここで薩摩藩における琉球国との関係をひもとくと、これがなかなかに複雑なのだ。そもそもの1609年(慶長14年)、琉球王国は島津氏から攻略された。この国は、その後も日本とは異なる独立国には違いない。だが、中国との朝貢(ちょうこう)関係は続けていた。江戸幕府の体制下に組み込まれてからの琉球王国には、「在番奉行所」(御仮屋(うかりや))と呼ばれる薩摩藩からの出先が設けられていた。その琉球の那覇の湊に、1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊がやってきた。

 首里城に入ったペリーは、石炭貯蔵庫の設置などを要求した。その翌年の1854年(嘉永7年)、琉球国はアメリカとの修好条約を結んだ。そればかりでなく、薩摩藩の島津斉彬(しまずなりあきら)が、「奄美大島と沖縄の運天港を開港させ、フランスから軍艦と最新鋭の銃を、琉球を介して購入する計画を立て、両者間でこの取引は成立」(喜納大作・上里隆史「琉球王朝のすべて」河出書房新社、2015年に改訂新版)したものの、斉彬の急死で計画が中止になったいきさつもある。

 総じては、財政改革の切り札として徹底的な管理体制を敷いた。加えて、琉球を通した清国との貿易を盛んにしたのが、大きい。それらのかいあってか、1840年(天保11年)の頃、薩摩藩の財政再建はほぼ完了したといわれる。調所が大役に抜擢されてから13年の歳月が流れていた。ところが、1848年(嘉永元年)幕府に薩摩藩が密貿易をしていることを咎められ、調所はその責任をとらされ服毒自殺した。こうして彼の犠牲の上に、薩摩藩は力を温存できたのである。

(続く)

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