♦️118の2『自然と人間の歴史・世界篇』旧約聖書から新訳聖書へ

2021-07-13 11:10:55 | Weblog
118の2『自然と人間の歴史・世界篇』旧約聖書から新訳聖書へ

 ところで、旧約聖書というのは、キリストの出現より前、もう少しいうと、予言者モーセを通して唯一神ヤハウェとの間の契約で結ばれた「旧い契約」をいう。ここでいう予言者モーセのイメージは取っつきにくい方もおられようが、さしあたり、映画「ベンハー」で白衣を着て、杖をついている老人とかを参照ありたい。
 その主なる構成については、古い時代からより新しい時代へのうつりかわりの中で、五書(創世記から申命記)、歴史篇(ヨショア記からエスエル記)、それに詩歌あるいは文学書籍(ヨブ記からは雑歌)を経て、預言書(イザヤ書からマラキ書)へと連なる配列となっている。
 いわば、過去、現在、そして未来という時系列に沿って、預言者たちか次々と登場してきて、かかる神の偉大さを強調、これにより滞ることのない救済の歴史を描いて見せる。それはまた、「新しい契約」を人々に告げるとともに、かかる「新しい契約者」としてのイエス・キリストの登場と契約の成就(じようじゅ)が、新訳聖書において示されていくのである。

🔺🔺🔺
 それではまず、旧約聖書は、どのようにして作られたのだろうか。ちなみに、現代の標準的な解説では、例えば、こうなっている。

 「アッシリア帝国なくしては、旧約聖書はけっして存在しなかったであろう。前9世紀から前7世紀末までレバント地方を支配していたアッシリア人たちは、イスラエル王国とユダ王国を属国とし、722年にイスラエル王国の滅亡を招いた。しかし彼らは、ユダ王国の設立文書を執筆するためのモデルを、はからずも王国の知識人にもたらした。
 ユダ王国の設立文書は、アッシリア文書のレトリックや思考様式から大いに着想を得ている。たとえば、申命記はアッシリアの宗主権(そうしゅけん)条約のような手法で書かれている。この書には、アッシリアの条約文と同じようなこうせや語彙(ごい)が見られる。しかし、申命記に、おいてイスラエルが絶対的忠誠を誓う宗主は、アッシリア王ではなくてヤハウェである。ようするに、神がアッシリア王にとってかわっているのだ。」(トーマス・レーマー著、久保田剛史「100語でわかる旧約聖書」文庫クセジュ、2021)

🔺🔺🔺

 さらに天と地の創造の話に立ち入ってみると、メソポタミアては愛憎を持った神々の戦いからこの話を導くのに比べ、これと同じような考えは部分的に旧約聖書にも見られるものの、創世記の第1章は、このような見解に立っておらず、いっさいは神の言葉から生じることになっている。
 しかも、この創造物語を作ったのは、名もなきユダの祭司(さいし)たちとのことで、レーマーはこう加えている。

 「彼らは、前587年のエルサレム陥落後にバビロンに連行されたか、あるいは、ペルシア時代初期にバビロンから戻ってきた。これらの祭司たちは、バビロン滞在のさいにバビロニア創世神話を知った、彼らはバビロニア文明の知識や思想を借用しつつも、神は唯一であるとする自分たちの見解にしたがって修正した。しかし、この神の呼称にあたる❮エロヒム❭は複数形(「神々」)としても理解できるがゆえに、彼らは一神が多神を包摂しうることを示唆しているのである。」(前携書)


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

246○○『自然と人間の歴史日本篇』江戸時代の財政金融政策(後半期)

2021-07-13 08:46:33 | Weblog
246○○『自然と人間の歴史日本篇』江戸時代の財政金融政策(後半期)


 江戸時代のおよそにおいては、金1両につき4分(ぶ)イコール16朱(しゅ)という通貨単位にて、おおむね銀50~60匁(もんめ)の通貨換算で両者が交換されていたという。

 ところが、その内実でいうと、大坂を中心とする西日本では丁銀・小玉銀といった秤量貨幣の銀貨を使用、一方、江戸を中心とする東日本では小判・一分判という金貨が一般的に利用されていた。前者は、その重さを秤(はかり)にかけて計量することで商取引に使う秤量貨幣(ひょうりょうかへい)として、また後者の単位は両(りょう)・分(ぶ)で枚数で数えられる計数貨幣として、それぞれが流通していた。

 このように、西と東とで異なる決済通貨が使用されていたことのみならず、両者の間での為替レートが変動相場制で不安定だった。幕閣はそのことをかねてから是正したいと考えていたようである。世の中的にも、江戸中期になると、商品流通が全国的に広がる状況にあり、市中でも従来型の金融では不便だという声が高まっていたであろうことは、想像に難くない。

 そして迎えた1772年(明和9年)9月7日、田沼意次(たぬまおきつぐ、老中筆頭)ら時の幕府は、両を単位とする金貨(小判・一分判)に統一する構想を背景に、まずは、金貨と銀貨のレートを固定することの一助として、「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」という銀貨を鋳造し、発行する。

 この通貨は、金貨の通貨単位である2朱に相当する価値を持つ「金代わりの通用銀」で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」(8枚で以(もっ)て小判1両に換(か)える)と刻印されているとのこと。
 なお、以降に作られた時代によって「古南鐐二朱銀」は「新南鐐二朱銀」にいずれも銀の含有量が97.81%と高く、前者はおよそ10.19g、「新南鐐二朱銀」はおよそ7.53gでやや小さいことから、計量することで簡単に見分けることができよう。
 ついでにいうと、安政年間に至ると、日米和親条約による安政6年6月2日の横浜港の開港に備えて「安政二朱銀」も発行され、こちらは南鐐二朱銀とは異なり、表面に「二朱銀」と刻印されているとのこと。

 この措置により金貨と銀貨とはリンクされ、流通が一本化されることになり、1774年(安永3年)には、京都や大坂でも増鋳が続いて、すべからく流通していったようである。かくて、その結果としては、田沼意の失脚ののち松平定信が代わって寛政の改革に乗り出すのだが、その中でも、本通貨について、1790年(寛政2年)には流通の円滑を促すよう幕府が命じる。その後、一時的に廃止されたものの、1800年(寛政12年)になると鋳造か再開されており、これには市中からの要望が熱かったようである。

 なお、江戸中期以降をさらに眺めると、かかる南鐐二朱銀以外にも、文政一朱銀、天保一分銀などの計数通貨が発行されているとのこと。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆