はじめに、社会主義(ソーシャリズム)というのと、共産主義(コミュニズム)というのとでは、かなりの違いがあるという。
前者では、「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」というのであって、資本主義でのような資本家による労働の搾取はなくなっているのが、前提だとされる。
それでも、各人の労働能力には差がみられるのであって、その大小なりは、さしあたり市場で評価されたものなのだろう。とはいえ、その揺らぎなり、偏りは絶えず起こっていると考えられよう。したがって、その分を何らかの方法で補うことがなされるべきだと考える。
それから、後者の共産主義(コミュニズム)というのは、「コミュニティ」とか「コミュニケーション」などの系列に属する言葉なので、言葉そのものの印象の差はさほどではないだろう。
蛇足ながら、前者の「社会主義」にあててであろうか、「天は自ら助くる者を助く」というのは、中村正直が「西国立志編」(1871)でそう訳してから、日本にも定着したらしい。
かくて、こういう言い回しの元は、ラテン語以来の古いことわざ(「fortes fortuna adjuvat」)なのだともいう。
やがての17世紀、イングランドの政治家アルジャーノン・シドニーの著作「Discourses Concerning Government」の中に「God helps those who help themselves」という一文があるとのこと(「google books」で閲覧できるとのこと)。
やや遅れての有名どころでは、18世紀のアメリカの技術者であり政治家、その他様々な才能で知られるベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャードの暦」において、「God helps them that help themselves」なる思いを、誰に伝えたかったのだろうか。
それでは、その意味としては、どうなのだろうか。これには諸説あるも、人に頼らず自分の力で生きていきなさい、というのが馴染みの解釈ではないだろうか。これだと、人生どうなるかはあなた自身の責任だ、ともなりかねない。
もう一つ、共産主義思想とは直接的な関係はないものの、「聖書」には、キリスト教ならではの、こんな下りが見られる。
「2(使徒行伝):43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。 2:44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、 2:45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。 2:46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、 2:47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」(インターネット配信の「聖書」日本語訳から引用)
さて、前おきはその位にしておいて、ここでの本題に入ろう。こちらの堅固な意味での初めての提唱者は、これまたカール・マルクスであって、彼は19世紀に生きた人物だ。そのマルクスが社会主義の高度な段階としての共産主義社会について述べているのは、数か所に限られよう。その中から、幾つか紹介することにしよう。まずは、労働者の政党の綱領文書について、こう語っている。
「共産主義社会のもっと高度な段階において、すなわち、ひとりひとりが分業のもとに奴隷のごとく組み込まれることがなくなり、したがって精神労働と肉体労働の対立もまた消失したのちに、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなくそれ自体の生命欲求となったのちに、さらにはひとりひとりの全面的な発展とともに彼らの生産力もまた成長を遂げ、協同組合の持つ富のすべての泉から水が満々と溢れるようになったのちにーそのときはじめて、ブルジョワ的な権利の狭隘な地平が完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう記すことができるだろう。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(「ドイツ労働者党綱領評注」:カール・マルクス著、辰巳伸知ほか訳「マルクス・コレクションⅥ、フランスの内乱/ゴータ綱領批判/時局論(上)」、1993)
(注)その原文については、「Jeder nach seinen Fa(aはウムラウト付き)higkeiten ,jedem nachseinen Bedu(uはウムラウト付き)rfnissen !」(この原文の出所は、KARL MARX「KRITIK DES GOTHAER PROGRAMMS」DIETZ VERLAG社、ベルリン、1965、25ページ)
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「自由の国は、実際、窮迫と外的合目的性とによって規定された労働が、なくなるところで初めて始まる。したがって、それは、事柄の性質上、本来の物質的生産の領域の彼方にある。
未開人が、彼の欲望を充たすために、彼の生活を維持し、また再生産するために、自然と闘わねばならないように、文明人もそうせねばならず、しかも、いかなる社会形態においても、可能ないかなる生産様式のもとにおいても、そうせねばならない。
文明人が発展するほど、この自然的必然性の国は拡大される。諸欲望が拡大されるからである。しかし同時に、諸欲望を充たす生産諸力も拡大される。この領域における自由は、ただ次のことにのみ存しうる。
すなわち、社会化された人間、結合された生産者が、この自然との彼らの物質代謝によって盲目的な力によるように支配されるのをやめて、これを合理的に規制し、彼らの共同の統制のもとに置くこと、これを、最小の力支出をもって、また彼らの人間性にもっともふさわしく、もっとも適当な諸条件のもとに、行うこと、これである。
しかし、これは依然としてなお必然性の国である。この国の彼方に、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国が、といっても必然性の国をその基礎として、そのうえにのみ開花しうる自由の国が、始まる。労働日の短縮は根本条件である。」(カール・マルクス著、向坂逸郎訳「資本論」第三巻、岩波文庫、1967)(なお、この原文の出所は、KARL MARX「DAS KAPITAL ーKritik der politischen O(ウムラウト付き)konomie」Dritter Band、DIETZ VERLAG社、ベルリン、1980、828ページ)
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三つ目には、宣言文書から、当該の箇所の一つを紹介しておこう。共産主義を目指す政府が政権をとった場合に、さしあたり実現をめざすであろう、「所有権とブルジョア的生産関係への専制的干渉」の措置は、国情に応じて違うのを認めてから、マルクス・エンゲルス著「共産党宣言」(1848)は、次のようにいう。
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そして四つ目には、これまで見たのとはゆ異なるアプローチとして、
マルクスは、こんなことを言っている。
直接的形態での労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間はその尺度であることをやめ、またやめざるをえないのであって、したがってまた交換価値は使用価値の尺度であることをやめざるをえないのである。
そうなれば、大衆の剰余労働が社会的富の発展の条件であるという事態は終わるし、同様にまた、少数者が労働を免れることによって人間の一般的な知的能力を発展させるという事態も終わる。そして、それとともに交換価値に立脚する生産様式は崩壊する。」(マルクス「政治経済学要綱」)
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