320『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義社会、共産主義社会とは何か(原典解説から)

2021-07-24 21:29:58 | Weblog
320『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義社会、共産主義社会とは何か(原典解説から)
 
 この項では、資本主義後の人類社会の在り方について、参考になりそうな文面なりを、幾つか拾ってみたい。

 はじめに、社会主義(ソーシャリズム)というのと、共産主義(コミュニズム)というのとでは、かなりの違いがあるという。

 前者では、「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」というのであって、資本主義でのような資本家による労働の搾取はなくなっているのが、前提だとされる。

 それでも、各人の労働能力には差がみられるのであって、その大小なりは、さしあたり市場で評価されたものなのだろう。とはいえ、その揺らぎなり、偏りは絶えず起こっていると考えられよう。したがって、その分を何らかの方法で補うことがなされるべきだと考える。

 それから、後者の共産主義(コミュニズム)というのは、「コミュニティ」とか「コミュニケーション」などの系列に属する言葉なので、言葉そのものの印象の差はさほどではないだろう。
 しかして、こちらになると、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(注)になるという。

 それというのも、資本主義社会では、私有財産制度をとっていて、各人はその能力に応じて働き、各々の資本の評価によって受け取る建前となっているからである。

 蛇足ながら、前者の「社会主義」にあててであろうか、「天は自ら助くる者を助く」というのは、中村正直が「西国立志編」(1871)でそう訳してから、日本にも定着したらしい。
 かくて、こういう言い回しの元は、ラテン語以来の古いことわざ(「fortes fortuna adjuvat」)なのだともいう。
 それが後代へと語り継がれていくうちに、格言にまで昇華したものか、はたまた世の中に流されていくうちに、今日見るような意味合いになったものだろうか。
 やがての17世紀、イングランドの政治家アルジャーノン・シドニーの著作「Discourses Concerning Government」の中に「God helps those who help themselves」という一文があるとのこと(「google books」で閲覧できるとのこと)。
 やや遅れての有名どころでは、18世紀のアメリカの技術者であり政治家、その他様々な才能で知られるベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャードの暦」において、「God helps them that help themselves」なる思いを、誰に伝えたかったのだろうか。
 それでは、その意味としては、どうなのだろうか。これには諸説あるも、人に頼らず自分の力で生きていきなさい、というのが馴染みの解釈ではないだろうか。これだと、人生どうなるかはあなた自身の責任だ、ともなりかねない。

 もう一つ、共産主義思想とは直接的な関係はないものの、「聖書」には、キリスト教ならではの、こんな下りが見られる。

 「2(使徒行伝):43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。 2:44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、 2:45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。 2:46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、 2:47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」(インターネット配信の「聖書」日本語訳から引用)

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 さて、前おきはその位にしておいて、ここでの本題に入ろう。こちらの堅固な意味での初めての提唱者は、これまたカール・マルクスであって、彼は19世紀に生きた人物だ。そのマルクスが社会主義の高度な段階としての共産主義社会について述べているのは、数か所に限られよう。その中から、幾つか紹介することにしよう。まずは、労働者の政党の綱領文書について、こう語っている。

 「共産主義社会のもっと高度な段階において、すなわち、ひとりひとりが分業のもとに奴隷のごとく組み込まれることがなくなり、したがって精神労働と肉体労働の対立もまた消失したのちに、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなくそれ自体の生命欲求となったのちに、さらにはひとりひとりの全面的な発展とともに彼らの生産力もまた成長を遂げ、協同組合の持つ富のすべての泉から水が満々と溢れるようになったのちにーそのときはじめて、ブルジョワ的な権利の狭隘な地平が完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう記すことができるだろう。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(「ドイツ労働者党綱領評注」:カール・マルクス著、辰巳伸知ほか訳「マルクス・コレクションⅥ、フランスの内乱/ゴータ綱領批判/時局論(上)」、1993)
 

(注)その原文については、「Jeder nach seinen Fa(aはウムラウト付き)higkeiten ,jedem nachseinen Bedu(uはウムラウト付き)rfnissen !」(この原文の出所は、KARL MARX「KRITIK DES GOTHAER PROGRAMMS」DIETZ VERLAG社、ベルリン、1965、25ページ)


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 二つ目の文章を紹介すると、彼の主著「資本論」には、こうある。

 「自由の国は、実際、窮迫と外的合目的性とによって規定された労働が、なくなるところで初めて始まる。したがって、それは、事柄の性質上、本来の物質的生産の領域の彼方にある。
 未開人が、彼の欲望を充たすために、彼の生活を維持し、また再生産するために、自然と闘わねばならないように、文明人もそうせねばならず、しかも、いかなる社会形態においても、可能ないかなる生産様式のもとにおいても、そうせねばならない。
 文明人が発展するほど、この自然的必然性の国は拡大される。諸欲望が拡大されるからである。しかし同時に、諸欲望を充たす生産諸力も拡大される。この領域における自由は、ただ次のことにのみ存しうる。
 すなわち、社会化された人間、結合された生産者が、この自然との彼らの物質代謝によって盲目的な力によるように支配されるのをやめて、これを合理的に規制し、彼らの共同の統制のもとに置くこと、これを、最小の力支出をもって、また彼らの人間性にもっともふさわしく、もっとも適当な諸条件のもとに、行うこと、これである。
 しかし、これは依然としてなお必然性の国である。この国の彼方に、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国が、といっても必然性の国をその基礎として、そのうえにのみ開花しうる自由の国が、始まる。労働日の短縮は根本条件である。」(カール・マルクス著、向坂逸郎訳「資本論」第三巻、岩波文庫、1967)(なお、この原文の出所は、KARL MARX「DAS KAPITAL ーKritik der politischen O(ウムラウト付き)konomie」Dritter Band、DIETZ VERLAG社、ベルリン、1980、828ページ)


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 三つ目には、宣言文書から、当該の箇所の一つを紹介しておこう。共産主義を目指す政府が政権をとった場合に、さしあたり実現をめざすであろう、「所有権とブルジョア的生産関係への専制的干渉」の措置は、国情に応じて違うのを認めてから、マルクス・エンゲルス著「共産党宣言」(1848)は、次のようにいう。
 
1として、土地所有を収用して、地代を国費に当てる。
2として、強度の累進税を課税する。
3として、相続権を廃止する。
4として、すべての亡命者及び反逆者の財産を没収する。
5として、国家資本と排他的独占権とを持つ国立銀行を通して、国家の手に信用を集中する。
6として、運輸機関を国家の手に集中する。
7として、国有企業、生産用具を増加し、共同計画のもとに土地を開発し改良する。
8として、すべての者に平等に労働を割り当て、工業軍を、殊に農業に対して、設置する。
9として、農業と工業の経営を統合して、都市と農村の差別を次第に除くようにつとめる。
10.すべての子供を公共的に無償で教育する。今日の形態に、おける子供の工場労働を廃止する。教育を物質的生産と結合する、等々。(ドイツ語原文については、対訳版の「詳解、独和・共産党宣言」大学書林、1956、96~97ページ)


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 そして四つ目には、これまで見たのとはゆ異なるアプローチとして、
マルクスは、こんなことを言っている。

 「大工業が発展すればするほど、素材的富の創造は、労働時間と支出労働量とに依存するよりも、むしろ労働時間中に動員される生産手段の力に依存するようになる。
 そしてこれらの生産手段はーーそれがもたらす強い効力についてもそうだがーーそれの生産に要する直接的労働時間には比例しないで、むしろ科学が達成した水準や技術の進歩、さらにはこの科学が生産過程で応用されることに依存する。(中略)
 人間労働はもはや生産過程に内包されたものとしては現れないで、むしろ人間が生産過程それ自体にたいし監視者ないしは統御者として関係する、(中略)
 労働者は生産過程の主作用因ではなくなって、生産過程のいわぱ外に立つこととなる。このような転機が生じると、生産や富の主柱は、人間自身が行う直接的労働でもなければ、かれが労働する時間でもなくて、人間自身の一般的生産力の自己還元、すなわち人間が社会的存在であることを通して自らのものとしているその知識と自然の支配という意味での一般的生産力の自己還元、一口でいえば、社会的個体の発展をその内容とするようになる。(中略)
 直接的形態での労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間はその尺度であることをやめ、またやめざるをえないのであって、したがってまた交換価値は使用価値の尺度であることをやめざるをえないのである。
 そうなれば、大衆の剰余労働が社会的富の発展の条件であるという事態は終わるし、同様にまた、少数者が労働を免れることによって人間の一般的な知的能力を発展させるという事態も終わる。そして、それとともに交換価値に立脚する生産様式は崩壊する。」(マルクス「政治経済学要綱」)

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 そういえば、未来社会について、マルクスは、こんなことを述べている。

 「自らのものとしているその知識と自然の支配という意味での一般的生産力の自己還元、一口でいえば、社会的個体の発展をその内容とするようになる。(中略)
 直接的形態での労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間はその尺度であることをやめ、またやめざるをえないのであって、したがってまた交換価値は使用価値の尺度であることをやめざるをえないのである。
 そうなれば、大衆の剰余労働が社会的富の発展の条件であるという事態は終わるし、同様にまた、少数者が労働を免れることによって人間の一般的な知的能力を発展させるという事態も終わる。そして、それとともに交換価値に立脚する生産様式は崩壊する。」(マルクス「政治経済学要綱」)


(続く)

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244○○『自然と人間の歴史・日本篇』久万山騒動(1741)と因伯一揆(1939)

2021-07-24 18:28:44 | Weblog
244○○『自然と人間の歴史・日本篇』久万山騒動(1741)と因伯一揆(1939)

 さて、久万山(くまやま)とよばれた地域は、江戸時代には伊予松山藩の治世にあり、1741年(寛保1年)3月8日にこの地で起きたのが、久万山騒動である。
 その実は、松山藩の年貢(茶を含む)増徴、紙方新法などに反対して、農民たちが、隣の大洲(おおず)藩領内に逃散(ちようさん)したのだという。
 この逃散するということは、農民たちが土地を捨て、集団行動にて居住地以外の地に逃げ込むことであって、下手をすれば生産手段から切り離され、流浪の民となりかねない。
 それでは、騒動のきっかけ、その出発点は、享保の飢饉で甚大な被害が出たところへ、松山藩(時の家老は、奥平久兵衛)では、重税を課すのをやめなかった。そればかりか、紙の専売制を打ち出すなどしたから、農民たちは耐え切れない。
 そう判断した農民たちは、同領内久万山26か村の農民約3000人を動員して、かかる藩政に反旗を翻す。
 しかして、その闘争手段が変わっていて、逃散と聞いて、同藩ではさぞかし驚いたことだろう。当時この行為は、幕府に漏れたら、藩とり潰しとか、大変なことになるとされていた。したがって、同藩としては、久万山菅生寺住職に説得を依頼して、なんとか中止させようとする。
 結局、農民たちはこの調停を受け入れ、帰村した。その結果、奥平らは処罰され、、年貢もなにがしか減額となり終息する。
 
 
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 もう一つ、因伯一揆(いんぱくいっき)というのは、1739年(元文4年)に起きた、鳥取藩池田氏の領する因幡(いなば)、伯耆(ほうき)両国にわたり起こった農民一揆である。鳥取元文(げんぶん)一揆ともいう。さらに、指導者の名を冠し「勘右衛門(かんえもん)騒動」とも言い慣わす。
 一揆勢は、まずは、八東郡西御(現在の八頭町)に集結し、その後、若桜・船岡・智頭と因幡各地を廻り、ついには鳥取城下に押し寄せていく。最盛時の参加人員は、一説にはおよそ5万人というから、我が国有数の規模であったろう。
 この一揆の原因は、前年までの凶作に遡ろう。これには、洪水被害も加わって、領内は、広くに渡り惨状を晒したという(注)。

 (注)江府町・江府県町人権・同和教育推進協議会「あかるいこころー差別のない明るい社会を目指して」第37集(インターネット配信)には、「鳥取藩史」からの抜粋として、「鳥取藩財政、苦難の歴史」が箇条書きされており、1632年(寛永9年)の岡山池田家との「国替え」以来幕末間近までの同藩の有り様が一目瞭然に感じられよう。

 ちなみに、山中寿夫氏の論考には、こうある。

 「元文4年(1739)の一揆の直接の原因は前年の飢饉であり、年貢未進者が続出し、となって鳥取城下に出る百姓も多く、四年初頭から不穏な状態がみられたが、それが八東郡東村勘右衛門(かんえもん)わその弟武源治らによって組織され、二月中旬八上郡した船岡村において百姓一揆が勃発したのである。
 一揆は在吟味役の説得をはねつけ、下旬に入って若桜宿の大庄屋宅を打ちこわしたのをはじめ、各地の大庄屋・同手代・俄分限(にわかぶんげん)の家を破壊し、次々と数を増して城下に近い千代河原に集結したときはその数三万余人といわれた(「因伯民乱太平記」)。他方また、伯州(ほうしゅう)の久米・八橋・汗入三郡の百姓約二万人も来会することになっていた。」(山中寿夫「鳥取藩」、児玉幸多・北島正元編「中国・四国の諸藩」人物往来社、1966にて所収)


 そればかりではなく、そのかなり前の1673年(延宝元年)位からの度重なる洪水、大風などにより、人民の生活は困窮が続いていた。
 それにもかかわらず請免(うけめん)制や、定免制(じょうめんせい)を維持し破免しなかった収奪強化にある。そこで、農民たちは、年貢軽減を掲げ、五歩借上米の返還なども求める。

 このような大勢での行動に対して、藩側は、巧みに対応してことになろう。山中前掲論文には、こうある。

 「十一か条の要求のうち「麦年貢を一反につき一升としてほしい」「年貢米に欠米(かんまい)があったときは別俵で納めさせてほしい」「新しく取り立てられた伯州の大庄屋の処置を考えてほしい」「大豆も米払いと同様に扱ってほしい」の四か条は、藩は全面的に承認したが、他の三か条は部分的に認め、四か条は回答を留保した。」(山中寿夫「鳥取藩」、児玉幸多・北島正元編「中国・四国の諸藩」人物往来社、1966にて所収)

 そのうちに、要求の一部を認めさせて一旦は終息に向かっていく。その後の藩側は、一旦それそれの在所に戻った農民たちを、先の指導者を相次いで捕縛し、勢力を削ごうと動く。その実、そうこうする間に、第二波の一揆が起こるのである。

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 それもつかの間、伯耆国で再発し、借銀10か年賦を要求に加えて再燃していく。途中にて、大庄屋(おおじょうや)などを打毀(うちこわ)したり、借金証文を奪ったりしている。

 その辺り、具体的には、こうある。
 
 「三月下旬、会見郡では坪上山に一揆がたてこもり、八橋郡では剣ケ野の御立山(おたてやま)に集まった一揆が大庄屋や豪農宅など4軒を破壊し、また借銀の十年賦の手形などを奪取した。久米郡では倉吉近傍の一揆は大庄屋・宗旨(すうし)庄屋・庄屋などの宅を破壊している。藩側では、四月に入って徒士5人に足軽30人をつけて伯州(ほううしゅう)に出張させ、各地の鎮圧に当たらせた結果、四月下旬まてには鎮静化した(「御曹目付日記」)。」(前掲書)


 これらには、別藩からの応援もあったりで、やがて鎮圧される。これにより、年来の年貢増徴の責任者、郡代の米村広当(よねむらひろまさ)が追放されたものの、農民側は、19名が死刑となる。


(続く)


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新400『自然と人間の歴史・日本篇』金解禁(1930)

2021-07-24 10:21:15 | Weblog
新400『自然と人間の歴史・日本篇』金解禁(1930)
 
 1929年(昭和4年)7月に成立したのが、立憲民政党の浜口雄幸内閣であって、この浜口内閣が翌1930年(昭和5年)1月11日に行ったのが、金解禁(金輸出禁止解除)政策である。蔵相の井上準之助は、こういう。

 「然らばどうして金の解禁をすることが出来るかと申しますと、用意が要ります。準備をしなくてはなりませぬ。準備をせずに、現状のままで金の解禁は出来ませぬ。然らば準備は何かと云(い)えば、政府は財政を緊縮する、其(そ)の態度を国民が理解して国民も消費節約をなし、国民も緊張しますれば、ここに物価も下がる大勢が出て来る。輸入も減るだけの状態になります。そうなると、為替相場もずっと上って参ります。」(井上準之助「国民経済の立直しと金解禁」)
 
 見られるように、井上としては、為替相場安定のためにこの政策が必要であり、その分財政緊縮を進めて物価の引下げを誘導していくのだと
 すなわち、金輸出禁止を解除し再び金の自由な輸出を認めるもので、これをもって金本位制度に復帰する。当時の欧米では、すでに行われていた政策にて、世界経済大変化(貿易などによる各国経済の相互依存の深化)を受けての措置だといえよう。
 金解禁は、それを実施するときの金平価によって旧平価解禁と新平価解禁とに分けられよう。前者は、金輸出禁止前の金平価で行うもの。また後者は、金輸出禁止後の実勢為替相場を基準にして、金解禁する場合のことをいう。
 折しも、1929年10 月にはアメリカ発大恐慌か勃発していた、そのしわ寄せによる不況の大波が、この解禁を行ったばかりの日本経済に襲いかかる。
 あわせて、かかる解禁については、100円が49.85ドルの旧平価で行われた。そのためか、円高となり、生糸などの輸出が激減してしたう。もって、繭価の大暴落があり、養蚕農家の暮らしを直撃する。米の卸売価格も幅に下落したから、農民たちは、たまらない。 
 
 一方、そうこうするうちには、生糸や綿糸などの輸出品にととまらず、肥料や鋼材などの分野でも価格暴落が起こってくる。工場の休業や会社の倒産が相次ぎ、労働者の賃金げらく、首切りなどが増大する。
 これらに対して、農村においても、都会においても、小作争議や労働争議が頻発するようになって、日本経済は底なしの不況へと入っていく。

 1931年(昭和6年)4月には、井上大蔵大臣が先導しての、重要産業統制法が成立し、カルテルの結成を公認して、この不況に対処、中でも中小資本の犠牲を通じて乗り切ろうとする。結果として、財閥による資本の集積・集中が進んでいく。一方、農業生産の回復は進まず、浜口内閣のみならず政党政治への国民の不満と怒りが高まっていく。
 
 同1931年4月には、その前年に首相の浜口が凶弾に倒れていたのが、辞職。同年末には、代わっての犬養内閣が、金輸出を再禁止する。
 
 
 参考までに、この政府の政策の事後での評価については、現在にいたるまで、おおむね次のような失敗だとする論調がほとんどであり、幾つか紹介しよう。

○「まずいときにおこなわれた無謀な措置」、また「こうした事実があった以上、たとえ世界恐慌の影響がなかったとしたところで、急激なデフレーション政策と金解禁による金融の逼迫(ひっぱく)および外国の競争の激化は、日本経済にそうとう強いショックを与えたに違いない。すでに7月8日、浜口内閣が金解禁にふみきるだろうというおそれから、株式市場に小パニックがおこっていることからも、それは予想されることであった。」(大内力「ファシズムへの道」)

○「新平価(ここでは切下げ・引用者)で金解禁を実行していたならば、あれほど激しい不景気もこず、もう少し成果を上げることができてたのではないか。」(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」)
 
○「不可避な経済現象ではなく、百パーセント為政者の金輸出解禁に対する施策の拙劣(せつれつ)ないし過ちに基づくものであった。」(高橋亀吉「大正昭和財界変動史」) 

○「日本の金解禁にあっては、その準備でありその前提であるべきデフレーション政策、すなわち財政縮小・金融引締め・輸出増大・産業合理化が、金解禁の前にではなく、金解禁とほとんど同時にか、あるいはその後に、強硬されたという齟齬(そご)があり、これが、(中略)金解禁失敗の原因の一つにもなった。」(森七郎「日本における金解禁の特殊性」



(続く)

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新214○○196『自然と人間の歴史・日本篇』明暦の大火など(江戸、1657)

2021-07-24 08:22:01 | Weblog

新214○○196『自然と人間の歴史・日本篇』明暦の大火など(江戸、1657)

 世に言う「明暦の大火」は、江戸(東京)を襲った史上最大規模の火災であった。おりしも、1657年3月3日(明暦3年旧暦1月18日~20日)の冬は乾燥していた。そこに立て続けに3件の火事が起こった。まずは本郷丸山の本妙寺から出火した。翌日小石川から出火。さらに翌日、麹町から出火した。


 「扨(さて)も明暦三年丁酉、正月十八日辰の刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出し、しきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て、空にたなびきわたる有さま、雲かあらぬか、煙のうずまくか、春のかすみのたな引かと、あやしむほどに、江戸中の貴賎門戸をひらきえず、夜は明けながらまだくらやみのごとく、人の往来もさらになし。やうやう未のこくのおしうつる時分に本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より、俄に火もえ出で、くろ煙天をかすめ、寺中一同に焼あがる。折ふし魔風十方にふきまはし、即時に、湯島へ焼出たり。はたごや町より、はるかにへだてし堀をとびこえ、駿河台永井しなのの守・戸田うねめのかみ・内藤ひだのかみ・松平しもふさの守・津軽殿・そのほか数ケ所、佐竹よしのぶをひじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の屋形、たちまちに灰燼となりたり。(中略)
 扨又、右のするがだいの火、しきりに須田町へもえ出て、一筋は真直に通りて、町屋をさして焼ゆく。今一筋は、請願寺より追まはして、押来る間、江戸中町の老若。こはそもいかなる事ぞやとて、おめきさけび、我も我もと家財雑具をもち運び、西本願寺の門前におろしをきて、休みけるに、辻風おびただしく吹きまきて、当寺の本堂より始めて、数か所の寺々,同時に鬨と焼たち、山のごとく積あげたる道具に火もえ付しかば、集りゐたりし諸人、あはてふためき、命をたすからんとて井のもとに飛び入、溝の中に逃入ける程に、下なるは水におぼれ、中なるは友におされ、上なるは火にやかれ、ここにて死するもの四百五十余人なり。
 さて又はじめ通り町の火は、伝馬町に焼きたる。数万の貴賎、此よしを見て、退あしよしとて、車長持を引つれて、浅草をさしてゆくもの、いく千万とも数しらず。人のなくこゑ、くるまの軸音、焼くずるる音にうちそへて、さながら百千のいかづちの鳴おつるもかくやと覚へて、おびただしともいふばかりなし。親は子をうしなひ、子はまたおやにをくれて、おしあひ、もみあひ、せきあふ程に、あるひは人にふみころされ、あるひは車にしかれ、きずをかうぶり、半死半生になりて、おめきさけぶもの、又そのかずをしらず」(『むさしあぶみ』)


 この火事による被害がいかほどであったかには、諸説があって数ははっきりしていない。
「今度焼失の覚
一、万石以上類火、百六十軒。但し、万石以上焼失の残りは五十四軒。
一、物頭・組頭・番頭類火、二百十五軒。
一、新番組火、二百十軒。
一、小十人組類火、六十三軒。
一、御書院番組類火、百九十軒。
一、大御番衆、百四十軒。
一、町屋の類火は両町にして四百町、片町にして八百町、但し道程二十二里八町三十六町壱里にしてなり。間数四万八千間。但し六尺一間積。
一、家主知らざる町屋八百三十軒余。
一、橋残りたるは呉服町丁の一石橋、浅草橋ばかり、此の外は皆焼失す。
一、焼死者三万七千余人、此の外数知らず、牛馬犬猫をや」(『明暦炎上記』)


 当時の江戸には町家に約28万人、武家に約50万人の人々が暮らしていたとの推定があり、当時の欧州諸都市と比べても「ダントツ」の人口規模であった。人々は風に煽られて燃えさかる炎に追われて逃げ惑ったらしい。江戸城の天守閣も焼け落ちた。そんな中でも東へ逃げた人々の前には、隅田川があった。当時は橋が架かっていなかったので、そこまで来て多くの人が焼かれたり、煙に巻かれたりして死んでいったらしい。死者数には諸説あるも、数万人は下らなかったのではないかと言われている。
 

(続く)

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新204○○196『自然と人間の歴史・日本篇』天下の台所(大坂) 

2021-07-24 08:19:30 | Weblog

新204○○196『自然と人間の歴史・日本篇』天下の台所(大坂) 

 その当時の大坂については、江戸の「明暦の大火」(1657)のような大災害は伝わっていない。江戸と異なり、「天下の台所」として、物資が集散する賑わいを増しつつあった。井原西鶴は、北浜の米市の模様をこう伝える。

 「惣じて北浜の米市は、日本第一の津なればこそ、一刻の間に、五万貫目のたてり商も有事なり。その米は、蔵々にやまをかさね、夕の嵐朝の雨、日和を見合、雲の立所をかんがへ、夜のうちの思ひ入れにて、売人有買人有、壱分弐分をあらそひ、人の山をなし、互に面を見しりたる人には、千石万石の米をも売買せしに、両人手を打て後は、少しも是に相違なかりき。世上に金銀の取やりには預り手形に請判慥に『何時なりとも御用次第』と相定し…契約をたがへず、其日切に、損得をかまわず売買せしは、扶桑第一の大商。人の心も大服中にして、それ程の世をわたるなる。
 難波橋より西、見渡しの百景。数千軒の問丸、甍をならべ、白土、雪の曙をうばふ。杉ばへの俵物、山もさながら動きて、人馬に付おくれば、大道轟き地雷のごとし。上荷・茶船、かぎりもなく川浪に浮びしは、秋の柳にことならず、米さしの先をあらそひ、若い者の勢、虎臥竹の林と見へ、大帳、雲を翻し、十露盤、丸雪をはしらせ。天秤、二六時中の鐘にひゞきまさって、其家の風、暖簾吹きかへしぬ。
 商人あまた有が、中の嶋に、岡・肥前屋・木屋・深江屋・肥後屋・塩屋・大塚屋・桑名屋・鴻池屋・紙屋・備前屋・宇和嶋屋・塚口屋・淀屋など、此所久しき分限にして商売やめて多く人を過しぬ。昔こゝかしこのわたりにて纔なる人なども、その時にあふて旦那様とよばれて置頭巾、鐘木杖、替草履取るも、是皆、大和・河内・津の国・和泉近在の物つくりせし人の子供。惣領残してすゑずゑをでっち奉公に遣し置、(以下、略)」(『日本永代蔵』)

 これにあるように、江戸時代、諸藩の多くは大坂に蔵屋敷をもっていた。何しろ「天下の台所」と言い慣わされていた訳で、当時の大阪は水運の便利さもあって、堂島、中之島あたりに各藩がこぞって蔵屋敷を
建てていた。


 大阪に蔵屋敷を設けていた藩は、一説には、1655年(明暦元年)には66だったものが、1703年(元禄16年)には90、1835年(天保6年)には103に達したという。さらに天保年間(1830~1844)には、堂島川や土佐堀川沿い130以上も建ち並び、一大景観をなしていたという。中でも、中之島には、さして広いとは言えまい川沿いに約40もの蔵屋敷があったというから、驚きだ。


 それでは、その役割について、簡単に触れよう。その大方というのは、諸藩が知行地から運ばれてきた米その他の物資を売りさばく、あわせて、上方で入手しうる必需物資を購入し、また財政資金を調達し、その元利を支払うための、大坂に設けた倉庫と管理事務所と詰役の宿舎からなる施設である。


 そこには国元から派遣された武士(蔵元)と働き手のみならず、掛屋(かけや)と呼ばれる商人もいて、蔵米などの販売と代金の管理の大方を請け負い、取り仕切っていた。いま蔵米についていえば、彼らによって米蔵におさめられる前に入札され、落札した米仲買の商人には米切手が渡される。その米切手は現物の米と交換できることから、堂島の米市場(やがては、先物市場もできる)で売買されていた。

 つまるところ、米切手というのは、高値で落札した米仲買が、藩に米の代銀を支払い、代わりに支払証明書を受け取る。それを蔵屋敷で米を管理する蔵元に提示して、買った分だけの「米切手」の交付を受ける。後日には、この米切手を蔵屋敷に持参して、蔵屋敷から米の積み出しとなる訳だ。


 ついでにいうと、堂島米市が始まった当初は、現物の米を取引する「正米(しょうまい)取引」であった。それが、米切手が大坂の米商人の間でさかんになり、米相場の変動を利用して、その差益を得る「帳合米取引も行われるようになる、これはある種の先物取引と言えよう。1730年(享保15年)には、堂島米市場は幕府から米取引の公的機関として、帳合米取引とともに許可を得る。

 

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 大坂の魚市場は、「三遷」といわれる程に移転を繰り返した。
大坂城ができると、東横堀(現在の伏見町)に移転したのご、江戸時代に入って17世紀の中頃までには、上魚屋町(現在の中央区)に移住し、更に17世紀後半には雑喉場町に移転した。
 この雑喉場町辺りはもとは鷺島という海岸にちなんだ土地柄にして、最初は、上魚屋町の生魚問屋が出張所を設けてあったのが、だんだんに多数の魚業者が群居し、ジャコ(雑魚)を販売する 者も集まってきていた。
 その後、上魚屋町からこちらに本店を移す魚問屋が増えるに及んで、1682年(天和2年)頃には、上魚屋町のほぼすべての生魚問屋が雑喉場町に移住し、大坂最大の生魚市場となる。
 1771年(安永3年)には、問屋株が免許されて、大坂市中で消費される生魚取引の独占的地位が認められる。

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 大坂における青物市場の始まりは、大坂城築城以前の石山本願寺の門前であった。それが、大坂城下町が建設されると、大川に架かる京橋南詰へと移り変わる。江戸時代に入っては、何度か場所を変えながら1653年(承応2年)には、天満(現在の南天満公園付近)に落ち着く。諸国に類のない、新鮮な野菜、果物の供給地として名を馳せていく。あわせて、大川に面する水運の便から、大阪三郷周辺各地から青果物が集まってくる絶好の土地柄でもあったからだ。
 当市場は大坂市中の青物やみかんをはじめとする果物なども、それらの供給を独占的に握ろうと、新市や新規店などに対し反対の訴願を度々行ったというから、驚きだ。

 

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 大坂はまた、幕府の鎖国政策の中でも、長崎のともに、他国に開かれた貿易都市であった。本渡章氏がひもといておられる「摂津名所図会」の解説には、こうある。

 「棚に見えるのは西洋のガラス器、手前には中国の陶磁器。鎖国時代というのに、こんな舶来品専門店が流行った背景には、貿易の窓口だった長崎と大坂をつなぐ太いパイプがあった。

 長崎貿易での買い入れは、はじめ金銀で行われていたが、寛文8年(1668)に銀の輸出が禁じられると、銅が重要な決済手段になった。日本で唯一の精錬所があったのは大坂である。

 元禄14年(1701)には銅座が大坂の石町に設けられ、長崎会所と協力体制を組んで銅貿易がすすめられた。また日本の主要な輸出品だった俵物(干あわび、ふかのひれ、キンコ(なまこの干したもの)の三品)は、いちばんの産地の北海道から大坂の俵物会所にまず集まり、長崎へとはこばれた。かわりに長崎から入ってくる外国の品々の多くは大坂に送られ、そこから各地に流通していった。

 木綿、白糸、薬種など朝鮮からの輸入品は対馬が窓口で、大坂にあった対馬屋敷から問屋に流れた。琉球の砂糖なども大坂の薩摩屋敷から問屋を経て、各地に売りさばかれた。大坂港と張り合っていた堺港が、大和川の付け替えでできた新大和川がはこぶ土砂で衰退したことも、舶来品の大坂への集中をうながした。」(本渡章(ほんどあきら)「大坂名所むかし案内ー絵とき「摂津名所図絵」」創元社、2006)

 


(続く)

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