○○14『自然と人間の歴史・日本篇』神々の時代(列島の創造伝説)

2021-07-06 16:09:35 | Weblog
14『自然と人間の歴史・日本篇』神々の時代(列島の創造伝説)

 人類のすべては、ここから始まった。というのは、遠い昔アフリカを出発したホモ・サピエンスなりの一部が東アジアに入り、やがて日本列島に移動してきてから、実に大いなる時間が経過したことだろう。

 さて、日本列島では、世界四大文明のような大規模かつ組織的な人間活動は起きなかったものの、この列島・新天地でそれぞれの集団としての暮らしを立ててゆかねばならなかったのだろう。

 やがて、小規模ながらも社会というものが形成されるようになると、人々の使う言葉も独特のものとして分岐し、あるいは集合を繰り返していくうちに、言語集団なるものがつくられていったことだろう。人々は、小さな共同体内での協業や分業、さらに連合体などで労働・生活の大きな枠組みのつくっていく過程では、さまざまな伝達手段、運輸手段を編みだし、実践しつつ、古代の社会というものを形成していったと考えられる。

 その過程で、徐々に生まれ、形成されてきたのが、現代の諸外国でも「そういう時代のあったこと」が脈々と伝わっているところの、天地創造、国生み、天孫降臨などの言葉で言い慣わされてきた伝説、物語の数々に他ならない。ちなみに、「日本書記」には、こんな話が載っている。

 「昔、天と地が、まだ分れず、陰陽の別もまだ生じなかったとき、鶏の卵の中身のように、固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。
 やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった。澄んで明らかなものは、一つにまとやりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。だから天がまずでき上って、大地はその後でできた。そして後から、その中に神がお生まれになった。」(宇治谷孟編集「日本書記(上)全現代語訳」講談社学術文庫、1988)

 ここで興味深いのは、天地は混沌の状態から生まれたとしているのは、例えばギリシア神話と似ているようなのだが、ギリシア神話では天より対して大地が先行しているのに比べ、日本のそれでの見立てでいうと、天が地より先に成立しているかのように述べられている。
 もっとも、いずれの神話においても、天地が出来たその後になって、神々が生まれたとしている。なお、列島神話としては、この他に「古事記」にも含まれている。しかしながら、こちらは、問題意識として列島の歴史を述べたものというより、狭義の神話そのものの世界観を醸し出す類いなのであろう。

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 では、この列島での発端の話はどのようであったのだろうか。これについては、大してわかっていない。乾燥地帯でのような洞窟壁画のようなものは、まだまとまって見つかっていないからである。けれども、時代がさらに大きく下って、小さいながらも諸国家が並立するようになっていくにつれ、人々の共通の意識として用いられるべくして、多様な物語が育まれていったものと想像される。
 その中の多くは、今となってはたぐり寄せられない。それにしても、この列島に古代の統一国家が現れる段においては、それらをできるだけ発掘、継承、体系化する必要性が権力を司る側において発生したことだろう。その最たるものとしては、まとめた『訓紀』と称される『古事記』と『日本書記』などにおいて通覧されているところの天地創造、国生み、天孫降臨の類の話なのである、と言って差し支えあるまい。これらはむろん事実ではない、つくり話なのだが、古代の人々の世界観は、今日のわたしたちの大方のそれとは大いに異なっていた。
 ちなみに、『古事記』の大まかな創世記の筋書きは、こうなっている。人間の姿をしたイザナキの神(陽神)とイザナミの神(陰神)とが結ばれて最初の夫婦となる。これが最初である。もちろん、人間の姿をしているものの、『聖書』に出てくるアダムとイブの如き人間だけではない。この夫婦は、淡路島を生み、続いて四国、隠岐島(おきのしま)、九州、壱岐(いき)、対馬、佐渡島(さどがしま)、さらには本州を産んだ。こうしてできた地上すべてを「葦原の中つ国」と呼ぶ。この話は、世界にあまたある、単独の神が自然界を造っている創造主に他ならないという類の話とは、大いに異なる。

 さて、前述のように、『古事記』は伝承なりの集大成であっても、時の政権による公式見解、すなわち正式な歴史書ではなく、伝承のままで書かれているとしても、編集の外部にいる人間からなんら、もしくは相当に責められる筋合いはなかろう。しかし、その直ぐあとにまとめられた『日本書記』は、相当に扱いが異なる。何しろ、この国(統一国家)の「これが正しい歴史だ」といってはばからないものだからである。
 だから、ある程度の検証なり、平たく言えば上から下からの疑問なり批判にも耐えるものでなければならない。ついては、書きぶりを見ると、本文に続いて幾つもの「一書曰く」と銘打った叙述が頻繁に出て来て、関連してこういう情報もありますよ、ここは補強させてもらいます等々、時には本文を凌駕するほどの量の注釈がなされる。その『日本書記』の「神代」の項には、まるで見てきたかのように、日本列島の形成からの天地創造の歴史が、『古事記』より濃密な形でこう記される。

 「伊弉諾尊・伊弉冉尊、立於天浮橋之上、共計曰「底下、豈無國歟」廼以天之瓊瓊、玉也、此云努矛、指下而探之、是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮、凝成一嶋、名之曰磤馭慮嶋。二神、於是、降居彼嶋、因欲共爲夫婦産生洲國。便以磤馭慮嶋爲國中之柱柱、此云美簸旨邏而陽神左旋、陰神右旋、分巡國柱、同會一面。時陰神先唱曰「憙哉、遇可美少男焉。」
 少男、此云烏等孤。陽神不悅曰「吾是男子、理當先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥、宜以改旋。」於是、二神却更相遇、是行也、陽神先唱曰「憙哉、遇可美少女焉。」少女、此云烏等咩。因問陰神曰「汝身、有何成耶。」對曰「吾身有一雌元之處。」陽神曰「吾身亦有雄元之處。思欲以吾身元處合汝身之元處。」於是、陰陽始遘合爲夫婦。
 及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大日本日本、此云耶麻騰。下皆效此豐秋津洲。次生伊豫二名洲。次生筑紫洲。次雙生億岐洲與佐度洲、世人或有雙生者象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。由是、始起大八洲國之號焉、卽對馬嶋壹岐嶋及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣、亦曰水沫凝而成也。」(『日本書紀』神代・上)
 これらをつくったとされるのは、『古事記』と同様に、最初の夫婦となって結ばれたイザナキ(伊弉諾尊)の神とイザナミ(伊弉冉尊)の神とであって、かれら二人は、最初に「天浮橋の上に立たし、共に計りて曰(のたま)はく、「底下に、もし国無(む)けむや」とのたまひ、すなわち天之瓊(ぬ、真珠)矛(ほこ)を以(も)ちて、指し探りたまひ、是れに滄溟(あおうなばら、青海原)があった」という。そこで二人は、相談しながら、そして夫婦となり、その営み・交合を繰り返しながら、この国の大地と海などをだんだんにつくっていくのである。

(続く)

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新○○203の1『自然と人間の歴史・日本篇』「マウンダー極小期」の日本

2021-07-06 09:44:56 | Weblog
新○○203の1『自然と人間の歴史・日本篇』「マウンダー極小期」の日本


 現代では、小氷期15世紀から19世紀半ばにかけては「小氷期」であった、とされている。ちなみに、氷河期は氷期と間氷期とに区別されていて、前の方は寒冷期ともいう。その中でも、「マウンダー極小期」(1645~ 1715)というのは、この時期に太陽活動が大きく低下したことがわかっている。

 それというのは、ヨーロッパや北アメリカにおいて、かなり詳細な記録が残っており、それらの地域を中心として近年でもっとも氷河が拡大していた寒冷期として有名だ。 

 その原因は、今でもよくわかっていない。多数説でいうと、この時期の太陽活動の弱化(表面に現れる黒点と呼ばれる低温領域が減少)と火山活動の活発化が、かかる小氷期の一因ではないかという。

 もう少しいうと、局所的に強い磁場を持ち,太陽活動の活発さの指標とされている。それに加えて、1800年から1824年にも太陽黒点の極小期が見つかっており、こちらは「ダルトン極小期」と呼ばれている。


 けれども、これと、たとえば、日本でいうところの天明の大飢饉(1782年から1787年)に東北地方を中心に発生した飢饉の原因とをストレートに結びつけることには、かなりの無理があるのだろう。けだし、後者においては、まず1707年(宝永4年)に富士山大噴火が起き、つづいて1775年(安永4年)に三原山の噴火が起き、さらに1779年(安永8年)8年には櫻島の大噴火が、そして 1783年(天明3年)に浅間山の大噴火が起きている。


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 そもそも現在の間氷期にいたる氷期と間氷期のサイクルは、ごく大まかに地球の公転軌道と自転軸の傾きの変化(これには、一説には、木星などの重力の影響も考えられるという)、火山活動などにより太陽からの日射の分布が変化して引き起こされているというべきであろう。
 そのことを自然要因とするならば、例えば次の氷期の到来がいつのことになるかという話は、現代では人間活動の影響も加わり、おおよそ何万年周期という地質年代レベルのスパンで微妙に変化することによってもたらされる、と考えるのが自然な成り行きなのだろう。
 それでは、この間の人類の歴史においては、どうだったのだろうか。例えば、1600年代中頃から1700年代前半にかけて太陽活動が低調な時期があって、この影響を受けた当時の北半球では「マウンダー極小期」と呼んでいて、氷期とまでは行かないという意味であろうか、「小氷期」の一部と説明されている。
 おりしも日本では、1600年頃に約1400万人~1600万人だったと推定される人口は、1721年には人口3128万人(実数調査による)まで膨らんだ。この100年間に日本列島の人口がほぼ倍増したことになっている。これを支えたのが、おもに全国的な田畑の開墾・干拓や、東北地方などで行われた灌漑などによる米をはじめ穀物の生産増だった。
 現代から振り返っては、マウンダー極小期においての平均気温は、その前後と比較して、一説には、「摂氏約0.1度から0.2度、最大で0.3度低かった」と考えられているという。

 また、別の専門家により、こうも言われる。
 「300年前に寒い時期があって、グラフにはそれが示されています。注目したいのは300年前です。太陽活動が非常に弱い「マウンダー極小期」と呼ばれていた時代です。太陽の黒点が現れないことが70年くらい続いたといわれています。それで地球も非常に寒かったのではないかということで、やはり太陽は大事だという一つの根拠になっています。
 その頃どれくらい寒かったかというと、産業革命前の平均気温より摂氏0.5度、どんなに大きく見積もっても摂氏1度くらい低い気温です。太陽だけが原因ではなく、火山の原因も入っていますので、太陽活動が弱まったとしてもその影響は摂氏1度未満だろうというのがこのデータからいえることです。」(地球環境研究センター、江守正多「本当に二酸化炭素濃度の増加が地球温暖化の原因なのか」、同氏の論考が掲載されている、国立環境研究所発行の「地球環境研究センターニュース」2018年6月号、インターネット配信より引用)

(続く)

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新○○216『自然と人間の歴史・日本篇』18世紀後半における災害、飢饉(天明大飢饉、浅間山噴火など)

2021-07-06 08:57:58 | Weblog
新○○216『自然と人間の歴史・日本篇』18世紀後半における災害、飢饉(天明大飢饉、浅間山噴火など)

 ところで、この時期には大いなる天災が重なった。1783年6月25日(天明3年5月26日)からの浅間山の大規模噴火であった。これのつながりについて、当地に残っている「信州浅間山大焼凶年にて佐久郡騒動覚書(騒動覚書)」には、こうある。

 「天明三年六月二十四日頃より、浅間山焼出し日毎に強く鳴り渡り、七月二三日の頃大焼け大鳴り、家々の戸障子殊の外に揺れ、夜に入り焼け登り候。」
 「八日の晩方より少々ゆれ静まり、夫より上州吾妻郡利根川の川上、浅間の北方より長さ十二間、横八九間、高さ二三丈の大石、十七里余り流れ出し、百姓家五十八カ村押し流し、上州五鈴村より二三里下、死人沢山出来し、其の外川筋へ死人大分かかり之有り候との事。
 碓氷峠人馬通路之無く、妙義、高崎、榛名辺りは砂四五寸降り、武州八王子、江戸惣家(草加)辺りは寺にも降り、浅間の鳴り音は一円二三十里四方へ聞こえ候との事也。」

 そして、これが、騒動へと発展していく。曰く、「天明三年九月十八日の夜、上州一ノ宮北方、人見ケ原に何人(なにひと)の高札を立て、「此の節至って米価高値に相成り、末々の者難儀至極に付き、下仁田、本宿両村の穀屋(米屋)を打潰し、続いて信州穀物囲い置き処(御蔵)の富人、並びに買置きの者共を打ち潰し米価豊かに仕るべく候以上」と記されたり。」

 この浅間山の大噴火の有様は、多くの絵師によって描かれている。私の現在住んでいる比企丘陵の金勝山からは、晴れの日にはこの浅間山が「おむすび」の頭の如くに見えているが、浅間山噴火の際には関東のかなりの範囲には火山灰が降ったのではないか。これに対する諸藩の対応は色々であった。あるところは、凶作の予兆がある年には、米価が高騰するのを見越して、領内の米を江戸や大坂に送ってできるだけ高く売りさばこうとしたり、商人たちも手持ちの米を売り惜しむ動きが見られた。そうなると、領内での米の流通が連鎖的に滞るようになって、多くの栄養失調の者、餓死者、離散者が出ることになっていった。

 この噴火があってからは、東北地方を中心に冷害が多発するようになっていく。関東においても天変地異が相次ぐ。例えば、1784年(天明4年)、武蔵国の上福岡新田村(現在の埼玉県神福岡市)の役人から「夫食」(食料)拝借を求める嘆願書が、次の文言にて川越藩に提出されている。

 「乍恐以書付奉願上候事
一、当村後小前御百姓、去ル寅年水損仕、又候去夏中、度々長雨ニ而(しかして)水損仕候、田畑格別違ニ而(しかして)、悉困窮仕候、依之小前御百姓夫食一向無御座、及飢ニ候躰之御百姓多御座候付、夫食御拝食願上候、何卒以御慈悲夫食御拝借被為仰付被下置候ハ者、相他偏ニ難有仕合ニ奉存候以上
天明四甲辰年正月
福岡新田、百姓代・善右衛門(印)、百姓代・惣右衛門(印)、組頭・市兵衛(印)、同 弥右衛門(印)、名主・権右衛門(印)、御代官御役所」(福岡新田、柳川哲家文書にして、埼玉県上福岡市教育委員会「市史調査報告書第6集、水害資料集成ー明治43年大水害を中心に」1995年3月収録より引用)

 1781年(天明元年)から1788年(天明8年)までの天明年間には、全国的には、あの「天明の大飢饉」があった。餓死者は数十万、飢えに晒された者はその数倍とも言われる。1750年2月当時の幕府による日本の全国人口調査の結果は、男が1381万8654人、女が1209万9176人、合計では2591万7830人であったから、大変な被害であったといえる。 
 1786年(天明6年)の被害は将軍の膝元である関東においても、深刻な状況であった。『徳川実記』は、こう伝える。

 「七月十七日の頃。ことしの春は日ごとに風烈しく。火災しげきこと常にこえしかば。四民ただ雨をのみのぞみしが。夏のほどより連日雨ふり風つよく不時の冷気にて。時の衣をきるものなし。のちには雨をやみなく神なりはためき。おどろおどろしかりしかば、又いかなることやいで来らんと。人ごとに安きこころもなかりしに。この月十二日より。わけて雨風はげしく。昨日の夕よりにはかに川々の水みなぎり来たりて、両国。永代をはじめ橋梁ををしながし、青山。牛込などいへる高燥(こうそう)の地さへも山水出で。屋舎をやぶるに至りければ(中略)
 まして郊塙(こうかく)の外は堤上も七八尺。田圃は一丈四五尺ばかりも水みち。竪川。逆井。葛西(かさい)。松戸。利根川のあたり。草加。越谷(こしがや)。粕壁。栗橋の宿駅までも。ただ海のごとく。森々としてわかず。岡は没して洲となり。瀬は変じて淵となりぬ。(中略)
 すべて慶長のむかし府を開かれしより後。関東の国々水害をかうぶることありし中にも、これまでは寛保二年をもて大水と称せしが。こたびはなほそれにも十倍せりといへり。
(後略)」(『徳川実記』の「しゅん明院殿御実記」巻五十五、1786年(天明6年)より引用)


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(注)ちなみに、江戸時代を通じて、次に述べるような大規模な凶作が起き、俗に「四大飢饉 」と言われる。具体的には、次の通り。

○1642(寛永19年)には、寛永の大飢饉が起こり、東日本の日本海側を中心に被害が出た。全国的な異常気象 により、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害などに苦しんだ。
○1732年(享保17年)には、享保の大飢饉が起こり、中国 ・四国 の中国地方や九州地方において大きな被害が出た。とりわけ、瀬戸内海 沿岸一帯が冷夏と虫害に見舞われた。
○1782年(天明2年)から1787年(天明7年)にかけては、天明の大飢饉が起こり、東北地方や北関東を中心に、史上被害が出た。 中でも、前述の浅間山の噴火のほか、アイスランドのラキ火山などの噴火の影響もあったというから、驚きだ。
○1833年(天保4年)から1839年(天保10年)にかけては、天保の大飢饉が起こる。こちらは、東北、陸奥国 ・出羽国の多くの地域において、大雨、洪水と、それに伴う冷夏に見舞われた。

(続く)

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