新283○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(最上徳内、緒方洪庵、山田方谷、高田屋嘉兵衛)
緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。
1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。
その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。
そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。
1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。
ちなみに、病の洪庵を看取った八重夫人の述懐には、こうある。
「昨秋より一方ならぬお勤め、今までは我がままにお暮らしなられ候御身が御殿向きの事、また医学の御用向き、何につけてもご心配の多く、世上は騒がしく、子供は大勢なり。
ご心配ただの一日も安心と思い召さずに、こ病気もかねて胸の痛みもなく、・・・にわかに咳が出て、その時少々血が出て、また咳が出て候えば、この時はもはや口と鼻の両方に、一時に血がとんと出て、そのまま口をふさぎ、縁側のところに出て、血を吐かれ候ところ、追々出て、もはや吐く息は少しも相成らず候と相見え、・・・こと切れ申し候・・・。」(柳田昭「緒方洪庵生誕200年前夜ー病弱な洪庵が偉大な業績をあけた原動力ー」に引用される、八重夫人が洪庵の死後、名塩の妹に送った手紙から)
(続く)
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山田方谷(やまだほうこく、1805~1877)は、それ、儒学の中でも、中国の明代の頃、活躍した王陽明(おうようめい)が打ち立てた陽明学によるものと聞く。
そればかりではない、なかなかの経済にも通じた理論家であることは、例えば、次のような寓話を用いての話からも、かなりが窺えよう。
なお、この論文は、佐藤一斎塾の塾頭をしていたときに書いた経済政策論にして、「事の外に立ちて事の内に屈せず」のみならず、「義を明らかにして利を図らず」ともいう。
「財の外に立つと、財の内に屈するとは、已に其説を聞くことを得たり。敢へて問ふ、貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る。其の患ひを免れんと欲すれば、財に非ざれば不可なり。然れどもなほ其の外に立ってその他を謀らずとは、またはなはだ迂ならずや。
曰く、此れ古の君子が義利の分を明らかにするを務むる所以なり。それ綱紀を整へ政令を明らかにするものは義なり。饑寒死亡を免れんと欲するものは利なり。君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。ただ綱紀を整へ政令を明らかにするを知るのみ。
饑寒死亡を免るると免れざるとは天なり。それサイ爾の滕を以て斉楚に介し、侵伐破滅の患ひ日に迫る。而るに孟子の此に教ふるには、彊て善をなすを以てするのみなり。侵伐破滅の患ひは饑寒死亡より甚だしきものあり。而るに孟子の教ふるところはかくの如くに過ぎず。
則ち貧土弱国其の自ら守る所以のものは、また余法なくして、義利の分の果して明らかならざるべからざるなり。義利の分一たび明らかになれば、守るところのもの定まる。日月も明らかとなすに足らず、雷霆も威となすに足らず、山獄も重しとなすに足らず、河海も大なりとなすに足らず。天地を貫き古今にわたり、移易すべからず。また何ぞ饑寒死亡の患へるに足らんや。
しかして区々たる財用をこれ言ふに足らんや。然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり。なほ此の言を迂となして、吾に理財の道あり、饑寒死亡を免るべしと曰はば、則ち之を行ふこと数十年にして、邦家の窮のますます救ふべからざる何ぞや。」(山田方谷「理財論」)
これの初めの問いに、「貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る」とあるのは、いかにも切羽詰まった話なのだが、方谷の返答としては、最終の部分で、「然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり」とあるのは、いかにも捨てがたい。
それというのも、ただ義を明らかにして、利を計らないことが、かえって、その利にいたる道を万人に指し示すのだといいたいのだろうか。いづれにしても、方谷本人は、かのフェニキア人の「汝の道を歩め、人をして語るに任せよ」との格言にも蔵されているのであろう、絶対の自信に裏打ちされての、気迫の決意表明だとも受け留められよう。
その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
そんな引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載)
彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。
そればかりではない、なかなかの経済にも通じた理論家であることは、例えば、次のような寓話を用いての話からも、かなりが窺えよう。
なお、この論文は、佐藤一斎塾の塾頭をしていたときに書いた経済政策論にして、「事の外に立ちて事の内に屈せず」のみならず、「義を明らかにして利を図らず」ともいう。
「財の外に立つと、財の内に屈するとは、已に其説を聞くことを得たり。敢へて問ふ、貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る。其の患ひを免れんと欲すれば、財に非ざれば不可なり。然れどもなほ其の外に立ってその他を謀らずとは、またはなはだ迂ならずや。
曰く、此れ古の君子が義利の分を明らかにするを務むる所以なり。それ綱紀を整へ政令を明らかにするものは義なり。饑寒死亡を免れんと欲するものは利なり。君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。ただ綱紀を整へ政令を明らかにするを知るのみ。
饑寒死亡を免るると免れざるとは天なり。それサイ爾の滕を以て斉楚に介し、侵伐破滅の患ひ日に迫る。而るに孟子の此に教ふるには、彊て善をなすを以てするのみなり。侵伐破滅の患ひは饑寒死亡より甚だしきものあり。而るに孟子の教ふるところはかくの如くに過ぎず。
則ち貧土弱国其の自ら守る所以のものは、また余法なくして、義利の分の果して明らかならざるべからざるなり。義利の分一たび明らかになれば、守るところのもの定まる。日月も明らかとなすに足らず、雷霆も威となすに足らず、山獄も重しとなすに足らず、河海も大なりとなすに足らず。天地を貫き古今にわたり、移易すべからず。また何ぞ饑寒死亡の患へるに足らんや。
しかして区々たる財用をこれ言ふに足らんや。然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり。なほ此の言を迂となして、吾に理財の道あり、饑寒死亡を免るべしと曰はば、則ち之を行ふこと数十年にして、邦家の窮のますます救ふべからざる何ぞや。」(山田方谷「理財論」)
これの初めの問いに、「貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る」とあるのは、いかにも切羽詰まった話なのだが、方谷の返答としては、最終の部分で、「然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり」とあるのは、いかにも捨てがたい。
それというのも、ただ義を明らかにして、利を計らないことが、かえって、その利にいたる道を万人に指し示すのだといいたいのだろうか。いづれにしても、方谷本人は、かのフェニキア人の「汝の道を歩め、人をして語るに任せよ」との格言にも蔵されているのであろう、絶対の自信に裏打ちされての、気迫の決意表明だとも受け留められよう。
その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
そんな引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載)
彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。
できたばかのり明治新政府の要人として出仕するよう誘いを請けたとも伝わる方谷なのだが、固辞したらしい。すでに隠居の身の上にて、いまさら宮勤めは勘弁してくれというのであったのかもしれない。この点、今更ながら、断らなければより有名な身の上になったのではないかとの評にも出くわす。けれども、彼の名声の真骨頂は政治事に臨んでの勇断実行のほかにもあったはずで、それは上から目線で人に相対しなかったことにあるのではないか。
新政府に出たら出たで、「富国強兵」が国是となる中、財政を担当する者には、終わりなき修羅場に違いあるまい。旧と新が激しく混ざり合う、混濁の世での対応には、気力と体力の消耗を強いられよう。必ずや出くわしたであろう、有象無象の政敵などに足元を狙われることもありうる。のみならず、晩年の方谷にとって、表舞台にて功なり名誉をほしいままにすることが人生の最終目的ではないことを、何かしら読み取ってのことだったのではないか。
(続く)
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高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)については、外国との関わりを含め、説明を行おう。
18世紀も後半に入ると、日本列島の入り組んだ、長い海岸線に沿って外国船の渡航が相次ぐようになり、西洋列強との関係が煩雑になってくる。1792年(寛政4年)、ロシア船のラクスマンが根室に到来する。漂流民送還や我が国との通商を要求した。幕府はこれを拒絶し、長崎への廻船を支持した。
1798年(寛政10年)、探検家の近藤重蔵が千島と択捉島(えとろふ島)を周回する。彼は、その調査の結果を「大日本恵土呂府」にまとめる。1799年(寛政11年)、松前藩が治めていた東蝦夷地を幕府の直轄領とする。1802年(享和2年)、幕府が東蝦夷地直轄のため箱館(現在の函館)に奉行所を設置する。
1804年(文化元年)、ロシアの使節レザノフが長崎にやってきて通商を要求するも、幕府は拒絶する。同年の幕府は、弘前、盛岡の両藩に蝦夷地の警備を命じる、沿海の諸藩にも外国船警戒を通達する。
1807年(文化4年)には、幕府が蝦夷地全体を直轄領とし、奉行所を松島におくとともに、松前藩を陸奥梁川に転封するのであった。1808年(文化5年)、今度はイギリスのフェートン号が通商を求めて長崎にやって来るが、幕府は食糧などを与えて追い返した。
1811年(文化8年)、ロシアの士官ゴローニンが国後島(くなしりとう)にやって来て、測量を始める。ロシアの旺盛な領土拡大への意思がくみ取れる事件となる。幕府はこれを咎め、幽閉する。彼はこの間に「幽閉記」を書いている。
おりしも高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)がロシア側に拘束されていた。その嘉兵衛の身柄と引換に、翌年になってから幕府はゴローニンを釈放する。嘉兵衛による密貿易の疑いは晴れたものの、その後の幕府の嘉兵衛への追求は厳しく所有する千石単位の所有の船12隻を没収の上、淡路へ謹慎を命じられる。
また、彼の養子の嘉市に対しては船家業を差し止めるなどで商売の息の根を止めようとするのであった(この事件の経緯について詳しくは、塩澤実信著・北島新平絵による『新しい大地よー探検と冒険の時代』理論社、1987)。
1811年(文化8年)、ロシアの士官ゴローニンが国後島(くなしりとう)にやって来て、測量を始める。ロシアの旺盛な領土拡大への意思がくみ取れる事件となる。幕府はこれを咎め、幽閉する。彼はこの間に「幽閉記」を書いている。
おりしも高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)がロシア側に拘束されていた。その嘉兵衛の身柄と引換に、翌年になってから幕府はゴローニンを釈放する。嘉兵衛による密貿易の疑いは晴れたものの、その後の幕府の嘉兵衛への追求は厳しく所有する千石単位の所有の船12隻を没収の上、淡路へ謹慎を命じられる。
また、彼の養子の嘉市に対しては船家業を差し止めるなどで商売の息の根を止めようとするのであった(この事件の経緯について詳しくは、塩澤実信著・北島新平絵による『新しい大地よー探検と冒険の時代』理論社、1987)。
1837年(天保8年)になると、さらにアメリカのモリソン号が鹿児島と浦賀の沖合に現れ、我が国に漂流民の送還と通商を求める。
我が国外交が、諸事全般慌ただしくなっていくのは、世界の趨勢であったに違いない。その圧力を振り払おうとしても、相次ぐ来航と諸要求を突きつけられるのは、避け続けることができない。ゆえに、内外にわたる人々の意志決定の蓄積がものをいう時代となってきていた。
我が国外交が、諸事全般慌ただしくなっていくのは、世界の趨勢であったに違いない。その圧力を振り払おうとしても、相次ぐ来航と諸要求を突きつけられるのは、避け続けることができない。ゆえに、内外にわたる人々の意志決定の蓄積がものをいう時代となってきていた。
1853年(嘉永6年)の8月10日には、ロシアのプチャーチンの艦隊4隻が、長崎に入港してくる。その前の7月26日に、彼らは寄港地の小笠原に立ち寄っていた。
長崎でのプチャーチンは、ロシア皇帝からの国書を幕府に渡し、通商を求める。幕府の引き延ばし策により、一行はそれからおよそ3ヶ月を長崎で過ごす。
1854年12月には、そのうちのディアナ号が駿河湾で沈没する。1855年2月になり、幕府は重い腰を上げる形で、日露和親条約の調印を行う。
これらの様子については、日本側からは川路聖あきら、ロシア側からは1953年にプチャーチン提督の秘書官として来日していたゴンチャロフが、その交渉に参加していた。
1854年12月には、そのうちのディアナ号が駿河湾で沈没する。1855年2月になり、幕府は重い腰を上げる形で、日露和親条約の調印を行う。
これらの様子については、日本側からは川路聖あきら、ロシア側からは1953年にプチャーチン提督の秘書官として来日していたゴンチャロフが、その交渉に参加していた。
そのゴンチャロフの弁として伝わる一端としては、初めて長崎では日本人見てからどのくらい経っての印象であろうか、「鎖国をしていると、しらずしらずのうちに、こうまで子供にかえってしまうものか」と辛らつだ。
一方、交渉相手の幕府代表の川路聖あきら(かわじとしあきら)については、こう評している。
「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁(はんばく)する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった。その一語一語が、眼差(まなざ)しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと、炯敏(けいびん)と、練達をなしていた。」(ゴンチャロフ著「日本渡航記」岩波文庫)
ちなみに、ゴンチャロフの帰国後には「フレガート・パルラダ」(「日本におけるロシア人」を含む)が刊行される。
(続く)
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