新283○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(最上徳内、緒方洪庵、山田方谷、高田屋嘉兵衛)

2021-07-08 22:03:10 | Weblog
新283○○『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(最上徳内、緒方洪庵、山田方谷、高田屋嘉兵衛)


 緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。
 1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。
 その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。
 そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。
 1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。


 ちなみに、病の洪庵を看取った八重夫人の述懐には、こうある。


「昨秋より一方ならぬお勤め、今までは我がままにお暮らしなられ候御身が御殿向きの事、また医学の御用向き、何につけてもご心配の多く、世上は騒がしく、子供は大勢なり。
 ご心配ただの一日も安心と思い召さずに、こ病気もかねて胸の痛みもなく、・・・にわかに咳が出て、その時少々血が出て、また咳が出て候えば、この時はもはや口と鼻の両方に、一時に血がとんと出て、そのまま口をふさぎ、縁側のところに出て、血を吐かれ候ところ、追々出て、もはや吐く息は少しも相成らず候と相見え、・・・こと切れ申し候・・・。」(柳田昭「緒方洪庵生誕200年前夜ー病弱な洪庵が偉大な業績をあけた原動力ー」に引用される、八重夫人が洪庵の死後、名塩の妹に送った手紙から)


(続く)
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 山田方谷(やまだほうこく、1805~1877)は、それ、儒学の中でも、中国の明代の頃、活躍した王陽明(おうようめい)が打ち立てた陽明学によるものと聞く。

 そればかりではない、なかなかの経済にも通じた理論家であることは、例えば、次のような寓話を用いての話からも、かなりが窺えよう。
 なお、この論文は、佐藤一斎塾の塾頭をしていたときに書いた経済政策論にして、「事の外に立ちて事の内に屈せず」のみならず、「義を明らかにして利を図らず」ともいう。

 「財の外に立つと、財の内に屈するとは、已に其説を聞くことを得たり。敢へて問ふ、貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る。其の患ひを免れんと欲すれば、財に非ざれば不可なり。然れどもなほ其の外に立ってその他を謀らずとは、またはなはだ迂ならずや。


 曰く、此れ古の君子が義利の分を明らかにするを務むる所以なり。それ綱紀を整へ政令を明らかにするものは義なり。饑寒死亡を免れんと欲するものは利なり。君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。ただ綱紀を整へ政令を明らかにするを知るのみ。

 饑寒死亡を免るると免れざるとは天なり。それサイ爾の滕を以て斉楚に介し、侵伐破滅の患ひ日に迫る。而るに孟子の此に教ふるには、彊て善をなすを以てするのみなり。侵伐破滅の患ひは饑寒死亡より甚だしきものあり。而るに孟子の教ふるところはかくの如くに過ぎず。

 則ち貧土弱国其の自ら守る所以のものは、また余法なくして、義利の分の果して明らかならざるべからざるなり。義利の分一たび明らかになれば、守るところのもの定まる。日月も明らかとなすに足らず、雷霆も威となすに足らず、山獄も重しとなすに足らず、河海も大なりとなすに足らず。天地を貫き古今にわたり、移易すべからず。また何ぞ饑寒死亡の患へるに足らんや。

 しかして区々たる財用をこれ言ふに足らんや。然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり。なほ此の言を迂となして、吾に理財の道あり、饑寒死亡を免るべしと曰はば、則ち之を行ふこと数十年にして、邦家の窮のますます救ふべからざる何ぞや。」(山田方谷「理財論」)


 これの初めの問いに、「貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る」とあるのは、いかにも切羽詰まった話なのだが、方谷の返答としては、最終の部分で、「然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり」とあるのは、いかにも捨てがたい。
 それというのも、ただ義を明らかにして、利を計らないことが、かえって、その利にいたる道を万人に指し示すのだといいたいのだろうか。いづれにしても、方谷本人は、かのフェニキア人の「汝の道を歩め、人をして語るに任せよ」との格言にも蔵されているのであろう、絶対の自信に裏打ちされての、気迫の決意表明だとも受け留められよう。

 その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
 そんな引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載)
 彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。
 できたばかのり明治新政府の要人として出仕するよう誘いを請けたとも伝わる方谷なのだが、固辞したらしい。すでに隠居の身の上にて、いまさら宮勤めは勘弁してくれというのであったのかもしれない。この点、今更ながら、断らなければより有名な身の上になったのではないかとの評にも出くわす。けれども、彼の名声の真骨頂は政治事に臨んでの勇断実行のほかにもあったはずで、それは上から目線で人に相対しなかったことにあるのではないか。
 新政府に出たら出たで、「富国強兵」が国是となる中、財政を担当する者には、終わりなき修羅場に違いあるまい。旧と新が激しく混ざり合う、混濁の世での対応には、気力と体力の消耗を強いられよう。必ずや出くわしたであろう、有象無象の政敵などに足元を狙われることもありうる。のみならず、晩年の方谷にとって、表舞台にて功なり名誉をほしいままにすることが人生の最終目的ではないことを、何かしら読み取ってのことだったのではないか。

 (続く)
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 高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)については、外国との関わりを含め、説明を行おう。
 18世紀も後半に入ると、日本列島の入り組んだ、長い海岸線に沿って外国船の渡航が相次ぐようになり、西洋列強との関係が煩雑になってくる。1792年(寛政4年)、ロシア船のラクスマンが根室に到来する。漂流民送還や我が国との通商を要求した。幕府はこれを拒絶し、長崎への廻船を支持した。
 1798年(寛政10年)、探検家の近藤重蔵が千島と択捉島(えとろふ島)を周回する。彼は、その調査の結果を「大日本恵土呂府」にまとめる。1799年(寛政11年)、松前藩が治めていた東蝦夷地を幕府の直轄領とする。1802年(享和2年)、幕府が東蝦夷地直轄のため箱館(現在の函館)に奉行所を設置する。
 1804年(文化元年)、ロシアの使節レザノフが長崎にやってきて通商を要求するも、幕府は拒絶する。同年の幕府は、弘前、盛岡の両藩に蝦夷地の警備を命じる、沿海の諸藩にも外国船警戒を通達する。
 1807年(文化4年)には、幕府が蝦夷地全体を直轄領とし、奉行所を松島におくとともに、松前藩を陸奥梁川に転封するのであった。1808年(文化5年)、今度はイギリスのフェートン号が通商を求めて長崎にやって来るが、幕府は食糧などを与えて追い返した。

 1811年(文化8年)、ロシアの士官ゴローニンが国後島(くなしりとう)にやって来て、測量を始める。ロシアの旺盛な領土拡大への意思がくみ取れる事件となる。幕府はこれを咎め、幽閉する。彼はこの間に「幽閉記」を書いている。
 おりしも高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)がロシア側に拘束されていた。その嘉兵衛の身柄と引換に、翌年になってから幕府はゴローニンを釈放する。嘉兵衛による密貿易の疑いは晴れたものの、その後の幕府の嘉兵衛への追求は厳しく所有する千石単位の所有の船12隻を没収の上、淡路へ謹慎を命じられる。
 また、彼の養子の嘉市に対しては船家業を差し止めるなどで商売の息の根を止めようとするのであった(この事件の経緯について詳しくは、塩澤実信著・北島新平絵による『新しい大地よー探検と冒険の時代』理論社、1987)。
 1837年(天保8年)になると、さらにアメリカのモリソン号が鹿児島と浦賀の沖合に現れ、我が国に漂流民の送還と通商を求める。
 我が国外交が、諸事全般慌ただしくなっていくのは、世界の趨勢であったに違いない。その圧力を振り払おうとしても、相次ぐ来航と諸要求を突きつけられるのは、避け続けることができない。ゆえに、内外にわたる人々の意志決定の蓄積がものをいう時代となってきていた。
 1853年(嘉永6年)の8月10日には、ロシアのプチャーチンの艦隊4隻が、長崎に入港してくる。その前の7月26日に、彼らは寄港地の小笠原に立ち寄っていた。  
 長崎でのプチャーチンは、ロシア皇帝からの国書を幕府に渡し、通商を求める。幕府の引き延ばし策により、一行はそれからおよそ3ヶ月を長崎で過ごす。

 1854年12月には、そのうちのディアナ号が駿河湾で沈没する。1855年2月になり、幕府は重い腰を上げる形で、日露和親条約の調印を行う。

 これらの様子については、日本側からは川路聖あきら、ロシア側からは1953年にプチャーチン提督の秘書官として来日していたゴンチャロフが、その交渉に参加していた。
 そのゴンチャロフの弁として伝わる一端としては、初めて長崎では日本人見てからどのくらい経っての印象であろうか、「鎖国をしていると、しらずしらずのうちに、こうまで子供にかえってしまうものか」と辛らつだ。
 一方、交渉相手の幕府代表の川路聖あきら(かわじとしあきら)については、こう評している。
 「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁(はんばく)する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった。その一語一語が、眼差(まなざ)しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと、炯敏(けいびん)と、練達をなしていた。」(ゴンチャロフ著「日本渡航記」岩波文庫)

 ちなみに、ゴンチャロフの帰国後には「フレガート・パルラダ」(「日本におけるロシア人」を含む)が刊行される。

(続く)

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新676○○『自然と人間の歴史・日本篇』消費税と企業の内部留保

2021-07-08 21:49:06 | Weblog
新676○○『自然と人間の歴史・日本篇』消費税と企業の内部留保

 本邦企業の内部留保が積み上がっていることについては、世間ではかなり知られるようになっている。例えば、「思惑実感へ滞留資金動かそう」と題してのこんな新聞記事が載っている。
 「今回の景気拡大期では、日本銀行の金融緩和に伴う円安や、世界経済の回復が企業収益を押し上げた。需要は拡大し、物価下落が継続するデフレ状態を脱した。
 雇用も改善し、有効求人倍率はバブル期を超える。政策が一致の成果を上げたといえよう。
 だが、この間の実質国内総生産(GDP)成長率は年平均で1.2%と、これまでの拡大期より低く、回復の実感は乏しい。賃金や消費は力強さを欠く。税金や社会保険料の
負担が増え、手取り収入が伸び悩んでいるためだ。企業や家計が守りの姿勢を転換し、内需主導の成長を実現できるかが問われている。
 企業の内部留保は約450兆円と過去最高に達する。家計の現預金も約970兆円に上り、この6年で100兆円近く増えた。滞留する巨額の資金を、経済活性化に生かすことが大切である。」(読売新聞、2019年4月13日付け) 
 ちなみに、内部留保とは、企業の売上高から人件費や原材料費を差し引き、法人税(赤字法人の場合は徴収されない)や株主への配当などを支払った利益を積み上げたものだ。
 複式簿記(フローでいうと損益計算書(PL))をとっていることから、売上げ分は帳簿でいうと右側の、「おカネをどのような手段で調達したか」をあらわす収益欄に、「売上」として計上されよう。
 そして、それをどのような形で保有しているか(または、使用しているか)は、左側の費用・利益欄にひとまず「現金」として記載することになろう。そういうことだから、今度は、その企業が製品を売り上げることにより調達された現金を使って設備投資をしたり株式を買ったりすると、かかる現金が工場設備や株式、それに配当などに置き換わり、残ったものは現金・預金ということになるのだろう。
 次に、ストックとしての貸借対照表(BS、バランスシート)だが、こちらの左側は資産を記入するのに対し、表の右側の貸方の上部には負債、その下には資本、つまり資産から負債を差し引いた残りである正味資産が入る。
 そして、この資本のところに、今取り上げている内部留保としての利益剰余金などの項目が入る。それから、こちらの資産のところには、前の損益計算書の左側の欄で触れたような観点からの、それぞれの資産項目が入ってくる訳だ。
 この間の内部留保(財務省「法人企業統計調査」による、金融・保険業を除く全産業、資本金1000万円以上が対象)の推移は、1989年度が約116兆円、2003年度が約185兆円、2015年度が約185兆円、2017年度に至っては約446兆円にもつみあがっている。2017年度の結果をやや詳しく見ると、売上高は前年度比6.1%増の1544兆142万円8億円、経常利益は11.4%増の83兆5543億円の過去最高を記録した。
 なお、新基準に基づく国内の設備投資については、前年度比5.8%増の45兆4475億円とこれまた過去最高だったものの、内部留保の伸び率9.9%増には及ばなかった。
 次に、国民経済計算の資金の受け渡しの状況を見ると、一国の部門の貸出と借入との差が記されており、年間にどれだけの金額が貯蓄と投資の差額として残るかを示す。この値がプラスの場合は「純貸出」、逆にマイナスになると「純借入」という。それらのうち、企業部門(非金融企業、つまり金融企業を除く)の2015年のデータを見ると、GDP比で約5.0%もの貯蓄超過となっているのに対し、「ドイツは約2.7%、米国は約0.5%、英国は約0.1%」(OECD(「先進国」の集まりである経済協力開発機構のウェブサイト、伊藤元重「GDP分析―企業の貯蓄、日本は突出」2018年1月15日付け読売新聞において引用)と、日本の貯蓄が突出した形となっている。
 ちなみに、日本での2015年度の値は、「非金融法人企業」の同実績は25.3兆円のプラスであって、対名目GDP比は4.8%だったのに対し、「一般政府」(地方政府を含む)の場合は17.4%のマイナス、対名目GDP比は3.3%のマイナスであった(内閣府経済社会総合研究所「2015年度国民経済計算年次推計(2011年基準改定値、フロー編)」2015年12月22日)。
(続く)
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新新154○○145『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(山城の国一揆など)

2021-07-08 21:00:55 | Weblog
新新154○○145『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(山城の国一揆など)

 まずは、応仁の乱の後の「下剋上(げこくじょう)」の風潮について、こうある。
 「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。
 さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。
 守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)
 これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。
 
 次に、1485年(文明17年)に起きた山城の国一揆もこの時代に起きている。こちらは反乱にとどまらず、地方レベルながら、政治的な支配まで進んだ。『大乗院寺社雑事記』に、こうある。
 「文明十七年十二月十一日、今日山城国人集会す。上は六十歳、下は十五六歳と云々。同じく一国中の土民等群集す。今度両陣の時宜を申し定めんが為の故と云々。然るべきか、但し又下極上の至也。両陣の返事問答の様如何、未だ聞かず。


 十七日、古市(ふるいち)山城(やましろ)より帰陣。六十三日の在陣なり。筒井(つつい)同じく退散す。十市(といち)同前。越智(おち)も同じ。両陣の武家衆各引き退き了ぬ。山城一国中の国人等申し合す故也。自今以後に於ては両畠山方は国中に入るべからず。本所領共は各々本の如くたるべし。新関(しんせき)等一切これを立つべからずと云々。珍重の事也(現代訳は、まことに結構なことである)。

 文明十八年二月十三日、今日山城国人、平等院に会合す。国中の掟法猶以て之を定むべしと云々。凡そ神妙なり。但し興成せしめば天下のため然るべからざる事や。」


 これらにあるように、山城国(現在の京都府)南部地域において、国人(地侍)と農民が共同戦線を張って守護の畠山氏に相対峙した。

 それというのも、この話のそもそもとは、応仁の乱の後の1482年(文明14年)、山城南部、河内、大和においては、畠山政長が率いる東軍に、畠山義就が率いる西軍が南山城に侵攻したという。
 1485年(文明17年)になっては、畠山政長の東軍が反攻を開始して、争いが収まる気配はなかった。
 そういうことだから、田畑は荒れるし、治安は乱れ放題という具合であったろう。一番迷惑を受けていたのは、この地域にかめてから平穏に暮らしていた人々であって、文明17(1485年)の旧暦12月10日、宇治、久世、綴喜、相楽4郡の国人たちは、農民たちの支援を受けて集会を開き、畠山両軍に退陣を迫る相談を行った。


 その翌日の11日、彼らは蜂起して、かかる申し入れを武力を背景にして、行ったという。


 そして迎えた同月17日には、両陣営の武士たちが陣営を引き払い、出ていった。
 念のため、「十七日、古市(ふるいち)山城(やましろ)より帰陣。六十三日の在陣なり。」の後に「筒井(つつい)同じく退散す。」とあるのは、それぞれ、「古市」が大和の国人にして畠山義就の被官、その勢力は約300とも。「筒井」と「十市」というのは大和の国人にして畠山政長の被官をいう。さらに「越智」とあるのは大和の国人にして畠山義就方をいう。

 これからは、横暴を許さないとの行動が、両勢力を退去された訳だ。そして、その後にいわく、「今より以後、畠山方の者、国中に入るべからず」「本所領ども(=荘園の権利関係)は、おのおのもとの如くたるべきこと」(現代訳は、「本所が支配する所領はもとのように本所支配に戻すこと」)「新関(しんせき)等は、一切これを立つべからざること」(新しい関所は一切立ててはならない)と。

 更に、文明18年(1486年)旧暦2月13日には、彼らは平等院に集まり、これまての運動の主旨にのっとり、「国中掟法」を定めるのだという。
 その後に作者が、「凡そ神妙なり。但し興成せしめば天下のため然るべからざる事や」(現代訳は、まことに感心なことだ。ただし、これ以上盛んになると、天下のためには良くないことになるだろう。)

 それからのこの地方では、ほぼ8年の間、畠山らの武家の影響力を排除して、自治を行ったことになっている。

(続く)

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新240◻️◻️『岡山の今昔』倉敷(水島エリア)

2021-07-08 09:44:36 | Weblog
新240◻️◻️『岡山の今昔』倉敷(水島エリア)

 このエリアが水島と呼ばれるようになったのは、いつ頃からであろうか。一説には、対英米戦争に踏み切った(1941年12月8日)のと同じ年(昭和16年)に、海軍の要請で三菱重工が高梁川廃川地先の広大な空き地に、航空機製作所の建設に着手する、その頃から誰となく「水島」の名前が当時のマスコミに繁く登場するようになったという。

 そして出来た工場は、いわゆる「ゼロ戦」の最新鋭機を送り出し、水島一帯には関連工場もフル稼働にて、さながら一大軍需地帯となっていたのは、周知のことであったのだろう。
 その工場も、敗戦の年(1945)の水島空襲で完膚なきまでに破壊されたのであったが、1950年代半ばからの高度成長期において、この地域をさらに拡大して整地あるいは埋め立て、港湾を建設し、鉄道を引き入れるなどを計画して、我が国の四大工業地帯に匹敵するプロジェクトに打って出る。

 かくて現在、自動車や鉄鋼などの製造業を支える西日本有数の工業地帯がこの水島の地にあるのは、自明のこと。一方、農地もそれなりに残っており、良質な土壌と水に恵まれ、レンコンやごぼうなど農産物の生産も維持されているとのこと。


(続く)


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新242◻️◻️『岡山の今昔』倉敷(児島・下津井エリア)

2021-07-08 09:42:14 | Weblog
新242◻️◻️『岡山の今昔』倉敷(児島・下津井エリア)

 児島・下津井エリアに移ろう。江戸時代の下津井港には、肥後の細川など参勤交代の大名や、江戸参府途上のオランダ商館長、朝鮮通信史の一行が立ち寄る。

 それに、北前船の来航が加わり、備前における諸物資の一大集散地となり、海運業が発達することにもなっていく。

 おりしも、その東隣の児島地区では、米作りへの中間作物としての綿花栽培がはじまり、また、江戸時代の後半からは、その木綿を束ねて織る繊維業(小倉織、真田織姫、雲斎織など)が広まっていく。それに、北前船の運ぶにしんかすは、米作りへの中間作物としての、塩に強い綿を栽培するための肥料に使われた。

 その頃からの「児島三白」とは、一つには、繊維の原料となる綿花の花の色が白いこと。二つは、塩田の塩の色が白いとこと。三つには、瀬戸内海で捕れる魚のイカナゴの腹部の色が白いことにちなむ。
 かくて、下津井港に競合する港が現れ、その便利が相対的に低下するは、児島と下津井とはつながって、広域の経済圏をつくっていたと言っても、過言ではなかろう。

 商港・下津井のその後については、1910年(明治43年)、国鉄宇野線の全線開通により四国航路の座をを宇髙連絡船に明け渡し、商港下津井の繁栄は終焉を迎える。児島にはまた、時代が明治になっての1882(明治15)年に下村紡績所(現在の倉敷市児島下の町)が開業する、日本における初期綿糸紡績工場の草分け的な存在に列する偉業であって、その後に所有者の変遷を経るも、1980年(昭和55年)に琴浦紡績が廃業するまで、同じ敷地で綿糸紡績を継続してきた。

 それにもう一つ、振り返っての下津井電鉄線の創設に触れよう。これには、児島の塩田王・野崎家や大畠の永山家をはじめとする児島・下津井の有力者、また対岸である丸亀の有力者の出資や協力があった。

 そして迎えた1914年(大正3年)、下津井と倉敷市茶屋町(宇野線茶屋町駅)を結ぶ商港下津井線が開通する。
 しかし、難点もあったという。それは、茶屋町駅で乗り換えなければならないこともあり、四国航路の利用者には不便であること。

 それでも、児島周辺の繊維業の発達による貨物輸送に利用されたり、戦後の高度成長期からは、水島など倉敷市南部へのアクセス拡大や鷲羽山への観光客を運ぶなどに使われる。

 その後は、県南おしなべての道路網が整備されるにつれて、利便性が低下していき、利用者は減っていく、1972年(昭和47年)には、児島~茶屋町間が廃線になる。
 続いての1988年(昭和63年)に、瀬戸大橋が開通すると、これによって会社のバス部門の収入も減少したため、会社は、下津井電鉄線全体を廃線にする。

(続く)

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