新218『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代における神と人間

2021-07-14 20:49:53 | Weblog
新218『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代における神と人間
 
 広くは、この国はどうあるべきか、私たちはどのような気構えで生きていくべきなのだろうか、そのことにも、某か通じることになるのかもしれない。

 そこで、あえていうと、江戸時代、日本人の思想的な基盤というのは、どんなであったのだろうか。これには、現在に至るも、日本人の権威というものへのタブー意識も見られて、なかなかに公開の場での、忌憚のない議論となりにくい
 ちなみに、本居宣長の神への姿勢、それに基づく世俗的権威の階層構造のあり方につき、こんな風に述べている。
 
 「さて人の中の神は先(まっ)かけままくもさしこき天皇は、御代(みだい)々々々神に座こと、申すもさらなり。其は遠き神とも申して、凡人とは遥(はる)かに遠く、尊く可畏(かしこ)く座しますが故なり。かくて次々にも神なる人、古(いにし)えも今もあることなり。
 又天の下にうけばりてこそありね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり(本居宣長(もとおりのりなが)「古事記伝」)。
 
 これにあるのは、なかなかに一本気というか、正直な宣長の性格の所産なのであろうし、当時の知識人の相当部分がこのような世界観を抱いて、世の中というものに臨んでいたのだろう。
 
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 それでは、こうした論調に対して、専門家はどのように受け止め、もしくは批評をしているのだろうか。そうはいっても、この種の事柄は、前述のようになかなか正面から述べてくれる人が少なくて困る訳で、これから二、三例紹介したいのは、それらの圧力なりに打ち克って、貴重な意見を私たちに明らかにしてくれている。

 「本居宣長のこの解釈を平田篤胤もまた受けている。そうして神々の地位は、人間によって定まり、人間との関係にもとづいて地位も上下させられた。
 このような神観においては、超越的にも、内在的にもせよ、個別的な人間結合組織に規範を与えるのうな神は考えられがたい。だから、仏教が移入されても、なお個別的な人間結合組織を基準として価値判断をくだすような思惟(しい)方法か顕著であったことは、すでに述べたとおりである。
 すなわち、過去の日本人は、祖先・親・主君・国・天皇などの権威を絶対視し、宗教をそれに従属させ奉仕させていたのである。」(中村元「日本人の思惟方法」春秋社員、2012)

(続く)


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新261○○226の2『自然と人間の歴史・日本篇』幕末期における撫育資金の放出(長州藩)

2021-07-14 19:06:19 | Weblog

新261○○226の2『自然と人間の歴史・日本篇』幕末期における撫育資金の放出(長州藩)

 長州藩において、幕末期に特に必要とされたのは、軍備増強であった。顧みれば、撫育局(ぶいくきょく)が創設されたのは1763年(宝暦13年)にして、これは同年実施の検地によって浮い土地からあがる租税を主な基金にしている。
 その使い方には、あれこれの利殖の工夫がなされていた。具体的な例を幾つかひろうと、1771年(明和8年)には、田中藤六の建議を踏まえ「三八換持法」を実施して、塩業の復興に着手する。また、藩は鑞の生産事業にも深く関わり、例えばこう説明される。

「このとき重就は帰国中であった。検地の結果を聞いて大いに満足したが、しかし、このたびの検地は時存の計画に基づき、新事業のための資金をうることが目的であった。

 これをもって経営の不足を補うべきでない。そこで翌13年の春、残務整理の終わるのをまって新たに仕法を定め、城内に一局を設けて「撫育方」と称した。今後この増高からえられる租税その他の収入は、すべて所帯かたから切り離して撫育方の所管とし、別途の貯蓄として他日の用に備えることにしたのである。」(三坂圭治『長州藩』、児玉幸多、北島正元編「物語藩史」6、人物往来社、1965)

 さらに、1764年(明和元年)以来下関において越荷方(こしにがた)役所が運営され、追々、北陸航路の北前船を始め諸国の回船を相手に倉庫業や金融業を営み、1840年(天保11年)の事業大拡張へとつながっていく。
 そのほか、港湾の整備による商港開発、それに埋立て工事による耕作地の拡大についても、撫育局の事業として、幕末期に至るまで投資と活動、それらによる収益拡大への営みが続いていく。
 そんな中にあっても、時代が幕末に近づいていくにつれ、撫育局資金の支出項目のうち、軍政改革、中でも兵器の購入できたの占める割合が増していくのは、攘夷と勤王からやがて倒幕を掲げる中では避けられないことであったのだろう。

(続く)

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新53○○『自然と人間の歴史・日本篇』倭の空白の時代(4~5世紀)

2021-07-14 16:42:50 | Weblog
新53○○『自然と人間の歴史・日本篇』倭の空白の時代(4~5世紀)
 
 振り返ってみれば、248年頃、邪馬台国の卑弥呼が亡くなると、男王が立てられる。けれども、人々はこれに服さず内乱となる。そのため、宗女(そうじょ)の壱与(いよ)を代わりの盟主として立て、ようやく治まったという。
 その壱与も、266年、西晋(中国・魏後継の王朝)に使節を派遣している。ところが、ちゃんとした記録に基づく史実かぎりていうならば、倭から大陸王朝への国使派遣は、このあと413年まで途絶える。

 「晋書」安帝本紀にみえる倭王に関するこの記事とは、「義熈(ぎく)九年(413)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」とあり、倭王の名前が示されていない。そこで一説には、この時の倭王の使節とは、後の「日本書記」における、応神大王が阿知使主らを派遣した一件を指すのだと主張している。

 しかし、これより後にできた「梁書」倭伝には、「晋の安帝の時、倭王賛有り」とあるので、これとの関係如何も取り沙汰されよう。こちらの通りだと、高句麗王高(長寿王)は、このときの遣使入貢で「征東将軍高句麗王楽浪公」に任じられており、当該年には、その前年に好太王が死去し、長寿王が即位し、翌年には好太王碑が建立されている、だからして、かような「政治の季節」時に、高句麗が倭と並んで晋王朝に朝貢することがありうるのだろうかと。

 ついては、別の一説では、再開後最初の遣中国使は、421年、宋に向けてのものであるとし、この時の倭国王の「倭讃」の表記、「倭」を姓とするもので、「当時の国際慣行であった」、したがって、こちらをもって、この間の歴史の空白(大陸王朝の歴史書に記録がないという意味)が再開されたことを主張している。
 

 なお、これに関連して、古代の推定人口の推移を知ることは有益だと考えられる。とはいえ、算定方法が色々の諸説が並んでいる状況であり、ここでは小澤一雅(おざわかずまさ)氏の論考から引用しておこう。

 「50年にては67万人、100年にては78万人、150年にては92万人、200年にては108万人、250年にては127万人、300年にては149万人、350年にては175万人、400年にては205万人、450年にては241万人、500年にては282万人(以下、略。小澤一雅「卑弥呼は前方後円墳に葬られたかー邪馬台国の数理」雄山閣、2009)


(続く)


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新52○○47『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(好太王碑文など)

2021-07-14 10:29:21 | Weblog
新52○○47『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(好太王碑文など)

 ここでは、倭と朝鮮半島との外交関係を、簡単に振り返ってみよう。4世紀初めの朝鮮半島は、北方の高句麗(コグリョ、紀元前37年に建国)とその南方に百済(ペクチェ、紀元前18年に建国)と新羅(シルラ、57年に建国)の3国が、いずれも王朝国家を形成していた。
 そのほか、半島最南部には「伽羅・伽耶連盟(から・かやれんめい)」も展開していて、複雑な諸国家分立の状況にあった。

そこで高句麗の動きだが、その勢いは、楽浪郡を滅ぼした後も益々盛んであった。中でも4世紀の終わり頃の好太王(19代)の治世には、大いに外征を行い、領土を広げていった。西は現在の中古具の東北三省の南の地方から、東はトンヘ(日本の立場で言うと日本海)の沿岸にまで領土を広げ、さらに海岸沿いに北へ勢いを伸ばしつつあった。

 4世紀後半に至ると、今の中国の東北三省に拠点を置き、朝鮮半島北部まで進出していた高句麗がさらに半島を南下し、北進してきた百済と戦いを交える。これらのうち「加羅・伽耶連盟」では、かねてから少数豪族の分立が続き、その団結は強くなかった。ところが、南朝鮮にはその頃すでに、倭の勢力が入り込んでいたことがわかっている。それが、大和朝廷によるものであるかどうかは、はっきりしていない。5世紀に入る頃には、倭は百済と力を合わせて、北から南へと勢いを伸ばしていた高句麗と対峙することになっていく。

 ちなみに、かの有名な好太王(通称では、広開土王)の碑文は、現在の中国の吉林省集安市に建つ。碑は、長寿王が父の好太王の功績をたたえるために414年に建てた。碑文に彫られた正確な名前は、「國岡上廣開土境平安好太王」とのことで、それが刻まれている石柱の高さは6.4メートルもあるというから、驚きだ。
 そして、碑の4面すべてには、合計で1759文字が刻まれている。そこには、王の治世のさまざまな出来事が、手柄話を中心に記されている。なかでも、高句麗と百済・倭との17年に及ぶ戦い(391年、396年、399年、400年、404年及び407年)が記されている。

 まずは、391年に至るまでの出来事から、簡単に説明しよう。すなわち、第1面の8行から9行にかけて、「百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民」と彫られている。ここに、高句麗はかつて百済と新羅を属民としていた。それゆえ、両国は高句麗に朝貢して来た。しかし、倭は391年(辛卯年、以下略)よりこのかた、海を渡って百済、新羅を破って臣民としたという。

 この文章を、当時の倭が百済と新羅を従えていたと読むのであれば、飛躍に過ぎよう。そこで、この碑が言いたいのは倭との戦いにおける大義名分であって、倭はそれ程までに朝鮮半島の深くまで進出していた。それに脅威を覚えた高句麗は、やむなく大軍を差し向けて倭と戦う、そして勝利を収めたことになろう。

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 ところが、その後のことは、はっきりしていない。続けてあるのは、
396年には、好太王が、水軍を率いて百済と新羅(しらぎ)を破り、108城を落とす。
 399年になると、百済が高句麗との約束を破って倭と通じた由。そこで好太王は、平じょうに南進して、新羅の地が倭に占拠されていると聞き、新羅救援に乗り出す。
 400年には、好太王は、5万人の兵を繰り出して、新羅から倭の兵を追い出すのであった。高句麗軍は、これを追撃して任那の、加羅に至る。これにより、任那、加羅も帰服する。
 そして迎えた404年には、倭が、帯方郡に侵入したので、好太王は、軍を率いて出陣し、これを追い払う。


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 かくて、これらの次第を倭の側の史料なり伝承とつき合わせると、双方のいうところは異なっているというのだが。
 そうなると、どうやら確かなところは藪の中にあることになってしまう。翻って、この碑文の細かいところでは、何しろ好太王の事績を褒め称えてある。古代ローマなどでも、都合のいいところだけを並べ立てていたのではないか。そうである可能性があるからして、今でもいろいろな解釈が並び立っているようである。4世紀末から5世紀初めの倭(日本)と朝鮮半島の姿を東アジアの視点から知ることができる貴重な歴史的資料であることに変わりはないものの、やはり何らかの考古学的な裏付けが必要だと考られる。

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 もう一つ、4世紀の倭と朝鮮との関わりを推測させるものとして、七つの矛先をもつ七支刀(しちしとう)に触れたい。これは、神がかりの剣であって、古代の4世紀、朝鮮半島から伝わった。ヤマト王権の武器庫であったとも言われている石上神宮(いそのかみじんぐう、現在の奈良県天理市)にあって、国宝となっている。2000年5月の上野国立美術館で開催中の「国宝展」にも陳列された。その説明文にはこうあった。
「奈良県天理市石上神宮伝世
古墳時代4世紀
特異な形状の鉄剣で、表裏に61文字金象嵌される。
銘文は朝鮮半島をめぐる当時の倭の国際関係をうかがわせる記録的
文章である。」
 銘文に何が書いてあるかははガラスケース越しではよく読みとれなかったので、ここでは現場での注釈にさせていただこう。
「泰(和)四年(五)月十(六)日、丙午正陽造百練(鉄)、七支刀(出)百兵、宣供供侯□□□□付、先世以来有此刀百済(王)世(子)、奇生聖音故為倭王旨造伝示(後)世」
 なぜ七つの刃先なのかということについては、祭祀用に用いる剣だからということだろうか。倭王とは誰なのかを考える時、「宣供供侯□□□□付」のところの読みの一部が不詳となっている。朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」による推測には、こうある。
 「「七支刀」(奈良県・石上神宮所蔵)は、369年に、百済が作製して倭王に送ったもので、こうした百済との関係樹立を記念したものである。ここに百済・加耶南部・倭の軍事的な同盟関係が成立したことになる。」(朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」三省堂、1995より)
 「石上神宮の宝物として、鉄盾とともに伝えられたもので、身の両側にそれぞれ3本の枝刃を左右交互に出す特異な形からこの名がある。鍛鉄製の剣身に金象嵌(きんぞうがん)の銘「泰□四年□月十六日」があり、ここでの元号は「泰和」とみるのが有力である。
 『日本書記』」神功皇后52年の条に百済王が献じた重宝のなかに「七支刀」の記録があるのは注目される。」NHK出版編「国宝全ガイド」日本放送出版協会、1999より)
 この解説文のなかで腑に落ちないのは、泰和4年(369年)に百済王が倭王に「献上」したというなら、臣下なり同盟員が主人なり盟主なりに送ったことになりはしないか。この点について上田正昭氏の『古代史の焦点』は、こう推測される。
「(石上神宮の七支刀は)全長74.9センチ(刀身65センチ)の鍛鉄の両刃づくりで、刀身の左右に3つずつの枝が違い違いに出ている呪刀である。その刀身の表裏に、金の象嵌で六十余字が刻されている。三度実物を吟味したことがあるが、惜しいことに下から約三分の一のところで、刀身は折れており、銘文もまた錆落ばかりでなく、故意に削ったところがあって、銘文の判読に困難な個所がある。
 そのため苦心の解読が多くの人々によってなされてきたが、これまでの読み方で、決定的に誤っているのは、396年(泰和四年)に、百済王が倭王に「献上した」刀などと解釈してきたことである。銘文の表に「候王に供供(供給)すべし」とある候王とは、裏の「倭王」をさす。まずなりよりもこの銘文の書法は、上の者が下の者に下す下行文書形式であって、けっして「献上」を意味する書法でもなければ文意でもない。それは百済王が候王たる倭王にあたえたことを意味する銘文であった。それなのに、これを「献上」とか「奉った」とかなどと恣意に読みとったのは、我を優として彼を劣とする差別思想にわざわいされたものというほかない。
 21世紀の今、これまでの「歴史を直視せよ」といわれる。東アジアでは、歴史認識を巡っていろいろと面倒なことばかりが目立つ。その中では、共通する部分を明らかにしていこうという仕事が軽視されているきらいがある気がしている。そういう非和解とされる部分を辛抱強く紐解いていくと、どうなるだろうか。お互いの連関性を明らかにしてこそ、双方、多方面との違いも明らかになるのではないか。この国の文化も歴史も、そうすることによってこそ、生き生きと蘇ってくるのではないかと考えている。一九八〇年代のドイツとフランスの歴史的和解は「ついに握手ができたか」の灌漑ひとしおであったし、欧州12か国の歴史家が額をつきあわせて編集した歴史教科書「ヨーロッパの歴史」が1992年から出版されており、1997年には増補改訂版も出されていると伝えられる(朝日新聞の声欄、倉持三郎氏の「東アジアも共通の歴史教科書を」2015年3月27日に収録)。
 このようにして日本列島に勃興していた、もしくは大きな力を貯えつつあった勢力と、古代の朝鮮との外交関係がどうであったかは、2世紀頃までの外国との関係はなお、あまりよくわかっていない。こちらは中国との関係よりも、もっと「灯台もと暗し」で、双方の考古学の成果をかき集めても、それらの事実のひとつひとつを結びつけ、連続し、一貫した知識の体系として整理するまでには至っていない。朝鮮半島からは、主として対馬や隠岐を経由して、この列島のいずれかの地に行き渡る。3世紀から7世紀にかけて本格化した。それには少なくとも3回の波があった。一つは、民衆レベルのもので、朝鮮半島の飢饉などに悩んでいた人々が渡ってきた。二つは、貴族とか豪族が新天地を求めて渡ってきた。更なる一つは、7世紀からのものである。

(続く)

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新240○○『自然と人間の歴史・日本篇』会津寛延一揆(1749)、播州寛延一揆(1748~1749)、明和木曽騒動(1769)、河内騒動(1769)と幕府の取締強化令(1769)

2021-07-14 09:02:58 | Weblog
新240○○『自然と人間の歴史・日本篇』会津寛延一揆(1749)、播州寛延一揆(1748~1749)、明和木曽騒動(1769)、河内騒動(1769)と幕府の取締強化令(1769)

 会津寛延一揆(あいづかんえんいっき、金曲騒動とも)は、1749年(寛延2年)12月、会津藩に発生した農民一揆だ。猪苗代(いなわしろ)川東組金曲(かねまがり)村(現在の福島県猪苗代町)などの農民が借米利息の引下げを要求したことに端を発したので、「金曲騒動」とも称された
 背景には、1745年(延享2年)以来、この地域では、の連年の不作にもかかわらず過酷な年貢賦課を緩めなかったのが、大きい。


 そもそもは、金曲村などの農民約1000人余が猪苗代に参集する。そして、「一、三十年程以来御取立高年々箇々にかはり、或は高上中下反取に被仰付、上一反に何斗何升何合、中一反に何斗何升、下何斗何升、畑一石に何百何十文と被仰付候儀も之有り、又畑一石に銀何匁何分と仰付候儀も之有り、或は山改に立会節も被遣候も之有り、又家財等御渡しにも立会、その後は相止候。(以下、略)」(庄司吉之助「寛延二年会津藩の強訴・打ちこわし一揆」)に始まる諸要求、大まかには、土地の割当耕作反対、定免(じょうめん)制実施、年貢半免、労役軽減、貸米強要反対、郡代官や検地役人罷免、前郡奉行の復帰などの要求を衆議一決し、掲げる。


 その上で隊列を組んで、大寺から四手に分かれて若松城下へと押し寄せていく。同年12月24日には喜多方(きたかた)地方の農民も加わり、その数1万余に達したとも、いわれる。


 一揆勢が城下に乱入したのに対して、藩側は家臣の総登城を命じ、鉄炮(てっぽう)を撃ち一揆勢を追い出した。それからも、一揆は領内各地に波及し、郷頭(ごうがしら)、豪商、肝煎(きもいり)などに打毀(うちこわし)などを行う。
 藩はやむなく弾劾された役人の罷免、年貢半免、定免制の施行など農民の要求を呑む動きを見せる。
 前述の庄司氏の論文は、要求貫徹の概略につき、こう伝える。

 「この要求貫徹によって年貢は半免となり、しかも定免制がしかれ、夫食貸米も行われるに至った。多数の犠牲者をだしたが、要求実施によって新たな段階を割するに至った。
 特にこの一揆の前と後を比較すると藩の農民政策に変化を来たし、年貢率の五分下げ低額の上に定免制をしいたことは、前の時期では定免をしても下免はしていないので、たとえ凶作のための下免であるにしても、農民に多少有利な条件を、あたえることである。しかも、定免によって作付の自由と労役、労費負担の軽減が行われ、自立の条件をあたえるに至った。」(前掲の庄司論文)


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 その頃、なにしおう播州平野でも、一大劇が準備されつつあった。池田輝政の死後、姫路藩は分割され15万石となる。それから後は、本多氏、奥平家松平氏、越前家松平氏、榊原氏、越前家松平氏、本多氏、榊原氏と来て、これも1741年(寛保元年)には越前家松平氏と成り代わる。


 こちらも徳川一門の名流なのに、放漫経営の上に、台風の被害があったことや、朝鮮通信使の接待を命じられたりで、さらに借財を重ねた模様だ。
 そこへ藩主の松平明矩が急死してしまう。後継者はまだ幼い。そうした中、人々の募る不安をよそに藩は、農民たちに年貢納入の督促を行う。 
 1748年(寛延元年)12月21日、我慢の緒が切れた形で、ついに印南郡の農民約3000人が蜂起する。当局は一揆の代表者を捕縛したものの、年貢納期の猶予(延納)を認め、一揆はいったん収束へ向かう。

 そして迎える1749年(寛延2年)には、領主は酒井氏に代わることになっていた。そこへ印南郡と加古郡で一揆が再発し、やがて飾磨郡に拡大する。ここで前之庄組古知之庄村の百姓甚兵衛の率いる一揆勢は、翌年1月2日に全領で蜂起する。急速に勢力を拡大して、参加者が約1万人という西日本最大の一揆に膨れ上がる。

 それからの藩側は、なすすべがなくなっていく。そのうちに、船場本徳寺の仲介を受け入れ一揆勢は、解散する。それを察して、姫路藩の力量を見限った幕府は、大坂城代に首謀者の捕縛へ向かう。


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 その後も、明和木曽騒動(1769)、河内食料騒動(1769)と続く。前者は、尾張藩の宿場などの農民たち麦が、不作のおりから米買い占めに反対し強訴に及んだもの。また後者は、河内国の丹南藩の22か村の農民たちが、麦の不作から来る食糧事情の深刻化を回避するべく、近隣合わせての庄屋が先頭に立ち越訴を行ったのに対し、藩はこれを弾圧、庄屋11人が獄死した。
 こうしたことから、全国的な世情不安を払拭しようとしたのであろうか、1769年(明和6年)には、幕府の取締強化が出される。一つには、前年からの騒動やらを受け、西国の諸藩に対し所領を越えての取締りを命じる。もう一つは、「百姓そうじょう武力鎮圧令」といい、一揆発生の際には近隣の藩の出兵を促す措置などを盛り込んだ。

(続く)


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