そこで、あえていうと、江戸時代、日本人の思想的な基盤というのは、どんなであったのだろうか。これには、現在に至るも、日本人の権威というものへのタブー意識も見られて、なかなかに公開の場での、忌憚のない議論となりにくい
これにあるのは、なかなかに一本気というか、正直な宣長の性格の所産なのであろうし、当時の知識人の相当部分がこのような世界観を抱いて、世の中というものに臨んでいたのだろう。
(続く)
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新261○○226の2『自然と人間の歴史・日本篇』幕末期における撫育資金の放出(長州藩)
長州藩において、幕末期に特に必要とされたのは、軍備増強であった。顧みれば、撫育局(ぶいくきょく)が創設されたのは1763年(宝暦13年)にして、これは同年実施の検地によって浮い土地からあがる租税を主な基金にしている。
その使い方には、あれこれの利殖の工夫がなされていた。具体的な例を幾つかひろうと、1771年(明和8年)には、田中藤六の建議を踏まえ「三八換持法」を実施して、塩業の復興に着手する。また、藩は鑞の生産事業にも深く関わり、例えばこう説明される。
「このとき重就は帰国中であった。検地の結果を聞いて大いに満足したが、しかし、このたびの検地は時存の計画に基づき、新事業のための資金をうることが目的であった。
これをもって経営の不足を補うべきでない。そこで翌13年の春、残務整理の終わるのをまって新たに仕法を定め、城内に一局を設けて「撫育方」と称した。今後この増高からえられる租税その他の収入は、すべて所帯かたから切り離して撫育方の所管とし、別途の貯蓄として他日の用に備えることにしたのである。」(三坂圭治『長州藩』、児玉幸多、北島正元編「物語藩史」6、人物往来社、1965)
さらに、1764年(明和元年)以来下関において越荷方(こしにがた)役所が運営され、追々、北陸航路の北前船を始め諸国の回船を相手に倉庫業や金融業を営み、1840年(天保11年)の事業大拡張へとつながっていく。
そのほか、港湾の整備による商港開発、それに埋立て工事による耕作地の拡大についても、撫育局の事業として、幕末期に至るまで投資と活動、それらによる収益拡大への営みが続いていく。
そんな中にあっても、時代が幕末に近づいていくにつれ、撫育局資金の支出項目のうち、軍政改革、中でも兵器の購入できたの占める割合が増していくのは、攘夷と勤王からやがて倒幕を掲げる中では避けられないことであったのだろう。
(続く)
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なお、これに関連して、古代の推定人口の推移を知ることは有益だと考えられる。とはいえ、算定方法が色々の諸説が並んでいる状況であり、ここでは小澤一雅(おざわかずまさ)氏の論考から引用しておこう。
「50年にては67万人、100年にては78万人、150年にては92万人、200年にては108万人、250年にては127万人、300年にては149万人、350年にては175万人、400年にては205万人、450年にては241万人、500年にては282万人(以下、略。小澤一雅「卑弥呼は前方後円墳に葬られたかー邪馬台国の数理」雄山閣、2009)