新新184○○169の1『自然と人間の歴史・日本篇』「自由都市」堺(14~16世紀)、近江商人など

2021-07-22 21:35:55 | Weblog
新新184○○169の1『自然と人間の歴史・日本篇』「自由都市」堺(14~16世紀)、近江商人など


 現在の堺市は、かなり広い範囲をしめ、臨海部に工業地帯を抱える。そもそも北西部は、小さな海辺の集落に過ぎなかったという。後背地としては、和泉(いづみ)、河内(かわち)があり、長尾と竹内の両街道で大和盆地(やまとぼんち)と繋がる。

 遡ること南北朝内乱期には、軍事物資の集散地として名前を馳せる。1467年に勃発の応仁の乱においては、瀬戸内海の航行と兵庫津は大内政弘の勢力下に入る。ついては、これを避けるべく、対明貿易船は、四国の南を迂回して堺に発着する海路を開いたという。そのことで堺は、兵庫津に代る貿易船の発着地として、栄える。

 勢い、勘合貿易の利益の某かが堺にもたらされていく。日本有数の商人町へと成長を始める。当時の「南蛮船」は、九州の平戸(ひらど)や長崎に来航したため、堺の商人は船団を組んで九州よりの輸送を担う。そういえば、対馬氏からの鉄砲に関する人や技術の一端も、このルートで堺に運ばれていったのではないだろうか。

 1419年(応永26年)までには、「納屋貸十人衆」と呼ばれる富裕な商人が合議をなしての自治を始める、16世紀になると、「会合衆(えごうしゅう)三六人衆」として力を振るう、かかる強力な自治組織と環濠を備え、雇われ武士が治安を担う自衛都市、堺がだんだんに出来上がっていく。



 ちなみに、16世紀中頃に堺を訪れていたのだろうか、ポルトガル人宣教師のガスパル・ビレラは、こう書き送っている。

○「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。此町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる。」(1561年(永禄4)年8月17日付け、「耶蘇会士日本通信」所収の、インドのイエズス会修道士ら宛のガスパル・ビレラによる書簡)


○「日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし。市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。」(1562年(永禄5年)付け、「耶蘇会士日本通信」所収の同書簡)

 参考までに、同じ文面のことながら、別の日本語訳では、こうなっている。
 

○「(前略)ここ堺の市は非常に大きく、有力な商人を多数擁し、ヴェネチアと同様、執政官が治める共和国のような所である。」(1561年8月17日付けでの、堺発「ガスパル・ヴィレラのインドのイエズス会修道士ら宛書簡」)

○「(前略)日本全国において、この堺の市ほど安全な場所はなく、他の国々にどれほど騒乱が起きようとも、当地においては皆無である。敗者も勝者も当市に宿れぱ皆平和に暮らし、たがいによく和合して何びとも他者に害を加えない。

 街路では決して騒ぎか起こらず、むしろ諸人は街路で互いに大いに親愛の情と礼節をもって話すので、敵味方の区別がつかない。これは、すべての街路に門と門番がいて、いかなる紛争に際しても門を閉じ、騒ぎを起こす者は犯人もその他の(関係)者も捕らわれて皆罰せられることによるのかもしれない。(中略)

 市自体がいとも強固てあり、その西側は海に、また東側は常に満々と水をたたえる深い堀によって囲まれている。」(1562年、堺発「ガスパル・ヴィレラのインドのイエズス会司祭及び修道士宛書簡」)」)

 しかしながら、彼らの栄華には、やがて陰りが射してくる、やがて、信長がその力を伸ばしてくるのに対し、抵抗する堺という構図となっていく。
 それというのも、かねてから頼みの綱とした「三好三人衆が、1568年(永禄11年)、信長との戦いに破れ四国に敗走したため、状況が大きく変わる。ちなみに、「続応仁記」には、こうある。

 「扨又畿内繁昌の地、在々所々寺社等迄、公方家再興の御軍用、今度大切の御事なれば、各々金銀を差上げ然る可き由相触れられける程に、皆人是を献上す。中にも大坂本願寺は一向宗門の惣本寺大富裕なれば迚、五千貫を課せられしに、住持光佐上人難渋に及ばず五千貫を献上す。

 信長此金銀を上納させて諸軍勢の兵粮軍用、且又公方家御在京御官位等の御入用に、各是を相行はる。寔に余儀なき政道也。扨泉州ノ堺津ハ大富有ノ商家共集居タル所ナレバ、三万貫ヲ差上グベキ事子細有ラジト申付ラル。

 然ル処堺ノ津ハ皆三好家ノ味方ニテ庄官三十六人ノ長者共、中々御請申スコトナク、同心セザルノ由ヲ申ス。然ラバ早速ニ堺ノ津ヲ攻破ラント有ケレバ、三十六人ノ者ドモ弥以テ怒ヲ含ミ、能登屋、臙脂屋ノ両庄官ヲ大将トシ堺津一庄ノ諸人多勢一味シ、溢レ者諸浪人等相集テ、北口ニ菱ヲ蒔キ堀ヲ深クシ、櫓ヲ揚ゲ専ラ合戦ノ用意シテ信長勢ヲ防ガントス。

 信長是を聞て何とか思案致されけん。今度公方家の御共して、和泉・河内・摂津・山城四箇国、不日に退治して京都へ凱旋有べき事、武功天下に隠れ無し。堺の庄の町人共をば只其まゝに左置べしとて、更に取かけ攻伐の事無く、 和州は未だ帰服せず。松永父子に加勢して連々和州を退治すべしと、隠便に沙汰せらる。」(「続応仁記」、著者は不明)

 そして迎えた1569年(永禄12年)に、堺はついに「万策尽きる」形であったろうか、織田信長の軍門に降る、すなわち信長は堺を支配下に収める。

 
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 近江(おうみ)商人をご存知だろうか。その発端は、中世、さしあたり鎌倉時代から室町時代にかけてに遡る。

 それというのも、日本の回廊地帯ともいうべき近江については、東山道、東海道、北国街道などの多くの道が交差するなどしていて、さながら商人たちの「動く市庭(いちば)」なり、「商業圏」の有り様だったのではないたろうか。
 中でも、若狭(わかさ、現在の福井県)方面へ至る、琵琶湖上り経由の九里半街道を通って、後にふれる「五箇商人」の面々は、主に塩をふって長仕様とした塩魚を取り扱う卸売り商として名を馳せていた。
 一方、伊勢(いせ、現在の三重県)に向けては、八風街道や千種街道を通って、これも後に触れる「四本商人」ないし「山越商人」(鈴鹿山脈を越えることからの命名)と呼ばれる同業の面々が、こちらは海産物一般や塩、布など多彩な商品を幅広(市売りや里売りなども)に取り扱っていたという。

 そこで、この両方の商人勢力の関係如何なのだが、「今堀日吉神社文書」というのが、相当数残っていて、それらには、当時の近江国(おうみのくに)とその周辺を舞台に、どんな商売上のやりとりが行われていたかを、ある程度窺い知ることができよう。

 ここでは、それらのうちから一つ、紹介したい。

 「一、九里半(くりはん)の事は、高嶋南市(たかしまちなみいち)、同南五ケ、又今津の馬借(ばしゃく)、同北五ケの商人進退仕る事、その隠れ有るべからざる候。然るところ、野々川衆(ののかわしゅう)彼の道を罷り通り、若州え商売仕るべき造意、新儀に候。(中略)
 一、野々川衆申す事、いか様の証拠を帯び申し上げ候や、(中略)国々津湊各別に立場候て商売仕り候、商売のしな数ある儀候、何もその座々に立ち入りせきあい候、市売(いちうり)・里売(さとうり)まで、悉(ことごと)く差別次第、商売道(しょうばいどう)の古実(こじつ)に候。(中略)
 一、九里半道に付いて、往古以来、数度大事の公事出来候、樽銭(たるせん)・礼物、或いは商売に付き候て、出銭・礼物等の事、南北五ケ・南市の商人、その支配仕り候、野々川衆かつてもって存知仕らず候。」(年月日未詳「五箇商人等申次状案」)

 この史料が出された事情としては、四本商人(小幡(おばた)・保内・とう掛・石塔がメンバー)のうちの保内商人と五箇商人(薩摩・八坂・田中江・小幡(おばた)・高嶋南市の5者で構成)との商売上の争いがあり、そのことを巡る相論を、当該地の国衆である六角氏に、なんとかしてほしいと五箇商人側が持ち込んだ、

 その言い分としては、若狭小浜と琵琶湖岸の今津を結ぶ九里半街道において、高嶋南市の商人が、保内商人の荷物を奪うという事件が起きる。しかして、荷物を押さえた高嶋南市の商人側は、「野々川衆(保内商人のこと)の商売は新儀であり、認められない」と主張した。

 

 およそこのような流れで踏まえておくべきは、商品の種類ごとに、というか、座なりがあって、それらご流通へ回っていく。その回り方にも、商人集団ごとに商慣行があり、それらの多くは、自分たちの独占的な地位を築いて、或いは築こうとしていた。
 そして、そういうものの総体が、諸国の津や湊(みなと)のそれぞれの場において、すなわち市場での小売や村々、町々への行商に至るまで、それぞれの慣習なり権利が自分たちが有利な立場となるように、各々の商圏として具現化していたことであろう。
 だからこそ、これら街道上の要衝や港湾に成立した商圏がしだいに拡大していく中で、あるところでは常設店舗か増えることが起爆剤となって小都市的な商品流通・交換の場(町場)ができていく。のちならず、さらにそれらの中から、地方都市が生まれ、より拡大した商圏、ひいては地方経済圏が形成されていった。
 しかして、それらの作用が働くことでの「代表的な都市として、外国とな貿易で栄えた堺・博多のほか、備後の尾道、摂津の平野、伊勢の大湊、武蔵の品川」(木村茂光・樋口州男編集「史料でたどる日本史事典」東京堂出版、2012)などが、歴史の表舞台へと現れてくるのである。

 

(続く)

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新新62『岡山の今昔』江戸時代の宗教政策(日蓮宗不受布施派、キリスト教徒弾圧など)

2021-07-22 15:20:02 | Weblog
新新62『岡山の今昔』江戸時代の宗教政策(日蓮宗不受布施派、キリスト教徒弾圧など)
 
 まずは、日本全体の動きから、日蓮宗不受布施派(にちれんしゅうふじゅふせは)が、どう扱われたか、そこから簡単に紹介しよう。

 1595年(文禄4年)、豊臣秀吉は東山の方広寺に大仏殿を建て千僧(せんそう)供養を営み、諸宗の僧とともに日蓮宗も招請したのだが、独立精神からこれを拒む日奥(にちおう)と柔軟派の日重(にちじゅう)とが対立する。

 徳川家康の時代となると、それなりの決着がもたらされる。すなわち、日奥の主張は国主の権威を損なうものとして1600年(慶長5年)には、対馬(つしま)に遠流される。1623年(元和9年)には、幕府は不受不施派に公許状を与える。それにもわらず、布施を受けることを認める京都側と、不受不施(他からの布施のやり取りを拒む)を主張する関東側との対立は続く。
 1660年(万治3年)頃、幕府は、全国寺社領の朱印を調査し、改めて朱印を与える。それでも、かかる朱印を放棄し出寺した不受不施僧(法中(ほっちゅう)と呼ばれる)は、表面は一般日蓮宗や天台宗、禅宗などの檀家(だんか)となる。それと、内心に不受不施を抱く(内信(ないしん))者などができ、彼らは、(法立(ほうりゅう))者との対立していく。こうした関係に対応するかのように、内信―法立―法中と連係する秘密の教団組織が形成され、これを不受不施派という。
 
 
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 こちらキリシタン弾圧の話も、、まずは日本全体の動きを、そのあらましを確認しておこう。
 1612年(慶長17年)には、幕府が、直轄領にキリスト教禁止令を出す。翌年には、全国に同令を適用する。また、1613年(慶長18年)には、キリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)ら148名を、マカオやフィリピンへ国外追放処分とする。
 1616年(元和2年)になると、徳川家康を継いで2代将軍となっていた徳川秀忠が、改めてキリシタン禁止令を発布するとともに、ヨーロッパからの船の来航を平戸と長崎に限る。

 1622年(元和8年)には、幕府が、長崎において、キリスト教の宣教師・信徒を死刑にする、これを「元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)」と呼ぶ。
 
 もう少しいうと、この年の9月10日(旧暦では8月5日)、長崎の立山(たてやま)において、宣教師21名に加え中心的信徒4名、及び彼らをかくまった宿主(やどあるじ)ら30名、あわせて55名が、火刑それに斬首で処刑された。前者には、司祭9人が含まれていて、厳しさを増す幕府のキリシタン取締まりを反映するものとなった。

 さらに、3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)となっての1633年(寛永10年)には、ついに17か条から成る最初の鎖国令が発布される。これにより、海外渡航の船が老中作成の奉書を持たない場合、その船の渡航を禁じることになる。1635年(寛永12年)になると、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国も禁じる。

 ところが、1637~1638年(寛永14~15年)には、あの島原・天草一揆(島原の乱)が勃発し、鎮圧の過程で実に多くの血が流される。あわせて、幕府は、この戦いを経験して、ヨーロッパからの外圧と受け止め、危機感を新たにしたのであろう。

 それから、1639年(寛永16年)には、だめ押しということか、ポルトガル船の来航を禁じるとともに、1641年(寛永18年)には、オランダ人を長崎の出島を移して、鎖国体制を完成させる。
 
 およそこのような政治・経済と、キリスト教及びキリシタン弾圧とが織り成す歴史として、かかる全体を見渡すことができよう。
 
 
 
(続く)
 
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新80の2◻️『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)

2021-07-22 09:13:30 | Weblog
新80の2◻️『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)



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 その一端、「延享(えんきょう)の朝鮮通信使」でいうと、彼らはどのような日程で江戸へとやってきたのだろうか。
 当時の李朝の都・漢城(ハニャン)を出発したのは1747年11月28日のことだった。そこから慶州(キョンジュ)を経由してやって来た釜山(プサン)にて12月18日~1748年2月11日まで滞在する。
 それからは船で行かねばならぬ。対馬を通って府中に来て、2月24日~3月16日滞在する。それから九州に間近な藍島に着き、そこで4月1~2日を過ごす。
 さらにそれから西へ進んで赤間関へ、そこで4月4~5日を過ごし、再び出発。以降、上関には4月7~8日、蒲刈島(かまがりじま)では4月10~12日を過ごす。
 さらに牛窓(うしまど)へ、そこでは4月16~17日にかけて滞在する。牛窓でどの位のもてなしがあったのかは、後に触れよう。なにしろ数十人もの来訪なので、当該の藩(ここでは岡山藩)それまでの朝鮮使一行の行程において、歓迎やら、日本流のもてなしやら。とここまでは、概ね順調な旅ではなかったか。
 それからは、5月2日に京都に着いている。それが大坂となると、4月20~29日にかけてかなりの時を過ごしている。
 旅は続いて、東へ向かい、岡崎には5月8~9日、名古屋には5月7日と来る。その後は、掛川(かけがわ)に5月12~14日滞在し、そこから小田原に5月18日、品川に5月20日、ここはもう江戸の南の境といって差し支えあるまい。そしていよいよ、目指す江戸に到着したのが1748年5月21日だという。

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 富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものでおろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)にの江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として幕府の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
 江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
 そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
 やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
 これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。

 津山では、こうした富くじが年に1~2回行われていた。その多くは、寺の修繕、改善を目的にしていたとされ、札の総売上げから幾らか差し引いてそれらの費用などに当てていたようである。
 かくて、中央(江戸)でも、地方でも、大騒ぎのな中にも悲喜交々の錯綜するうちに、庶民の夢が爆裂していたのであったが、やがての天保の改革で、幕府は禁止令を打ち出す。これに呼応して、地方でも、かねてからの「建設的でない」などの声が高まる。津山藩でも、幕末にさしかかった文久年間(1861~1864)に禁止扱いとなる。


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 種痘(しゅとう)とは、何だろうか。1820年(文政3年)には、中川五郎治が持ち帰ったロシア語牛痘書を馬場佐十郎が訳す。「遁花秘訣」は、わが国最初の牛痘書だ。
 
 ここに「牛痘」のそもそもとは、イギリスの医者ジェンナーが、乳搾りの主婦達の間に自然流行の天然痘が少ないことに着目し、開発する。乳牛の乳房の「おでき」・「かさぶた」の膿汁(うみじる)、すなわち、牛痘液を「痘苗」として利用するものだ。これを人に植え付けることで、免疫を獲得させる治療法のことであり、「牛痘法」という。
 これを載せての彼の論文の発表は、1796年であった。果たして、この手法は、ドイツでも試みられ、やがて、画期的な療法として認められていく、それからは、世界各地へ伝えられていく。ちなみに、英語の「vaccine(「ワクチン」)は、「牛痘液」に由来する「痘苗」を言い、ラテン語の「vacca」(牝牛)がその語源なのだという。
 アジアでは、1805年には、中国まで牛痘法の材料となる「痘苗」も到達しており、ルソン(フィリピン・ルソン島)経由でマカオ(中国南部・澳門)にまで届けられたという。

 およそこのような背景の下、1823年(文政6年)には、オランダ人シーボルトが来日する。彼は、牛痘苗を持参し、日本人に接種するも、成功しない。1830年(天保元年)には、大村藩が古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行う。
 1848年(嘉永元年)、オランダ商館医モーニケは、その長崎赴任の際、痘苗としての牛痘を持参するも、種痘は失敗する。同年には、佐賀藩主の鍋島直正が、同藩医師の楢林宗建に対し牛痘を持ち帰るよう命じる。
 1849年(嘉永2年)には、その楢林が、良好な痘痂(とうか、牛痘を宿したかさぶた)がモーニケのもとにバタヴィアからの輸入で届いたという情報を受ける。なお、船の長崎への到着日は、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)が有力視される(アン・ジャネッタ著、廣川和花、木曽明子訳「種痘伝来」岩波書店、2013、英文は2007」)。
 さっそく、自分の息子を伴って長崎の商館に赴く。そして、モーニケに彼への接種をしてもらう(こちらの日付けは、3日後の8月14日が有力視される、同著)。この接種が「善感」といって、その息子のみに発疹が現れ、接種に成功したことで持ち帰られ、佐賀藩内での普及に繋がっていく。
 それからは、京都・大坂などを中心にして、短期間のうちに各地に広まる。これには、蘭学医のネットワークがものをいう。同年には、緒方洪庵らが、大阪に除痘館を開設する。同年11月には、かかる牛痘が、佐賀藩より江戸にいる、藩医の伊東玄朴らのところに到着する。


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(続く)




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