現在の堺市は、かなり広い範囲をしめ、臨海部に工業地帯を抱える。そもそも北西部は、小さな海辺の集落に過ぎなかったという。後背地としては、和泉(いづみ)、河内(かわち)があり、長尾と竹内の両街道で大和盆地(やまとぼんち)と繋がる。
ちなみに、16世紀中頃に堺を訪れていたのだろうか、ポルトガル人宣教師のガスパル・ビレラは、こう書き送っている。
○「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。此町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる。」(1561年(永禄4)年8月17日付け、「耶蘇会士日本通信」所収の、インドのイエズス会修道士ら宛のガスパル・ビレラによる書簡)
○「日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし。市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。」(1562年(永禄5年)付け、「耶蘇会士日本通信」所収の同書簡)
参考までに、同じ文面のことながら、別の日本語訳では、こうなっている。
○「(前略)ここ堺の市は非常に大きく、有力な商人を多数擁し、ヴェネチアと同様、執政官が治める共和国のような所である。」(1561年8月17日付けでの、堺発「ガスパル・ヴィレラのインドのイエズス会修道士ら宛書簡」)
○「(前略)日本全国において、この堺の市ほど安全な場所はなく、他の国々にどれほど騒乱が起きようとも、当地においては皆無である。敗者も勝者も当市に宿れぱ皆平和に暮らし、たがいによく和合して何びとも他者に害を加えない。
街路では決して騒ぎか起こらず、むしろ諸人は街路で互いに大いに親愛の情と礼節をもって話すので、敵味方の区別がつかない。これは、すべての街路に門と門番がいて、いかなる紛争に際しても門を閉じ、騒ぎを起こす者は犯人もその他の(関係)者も捕らわれて皆罰せられることによるのかもしれない。(中略)
市自体がいとも強固てあり、その西側は海に、また東側は常に満々と水をたたえる深い堀によって囲まれている。」(1562年、堺発「ガスパル・ヴィレラのインドのイエズス会司祭及び修道士宛書簡」)」)
しかしながら、彼らの栄華には、やがて陰りが射してくる、やがて、信長がその力を伸ばしてくるのに対し、抵抗する堺という構図となっていく。
それというのも、かねてから頼みの綱とした「三好三人衆が、1568年(永禄11年)、信長との戦いに破れ四国に敗走したため、状況が大きく変わる。ちなみに、「続応仁記」には、こうある。
「扨又畿内繁昌の地、在々所々寺社等迄、公方家再興の御軍用、今度大切の御事なれば、各々金銀を差上げ然る可き由相触れられける程に、皆人是を献上す。中にも大坂本願寺は一向宗門の惣本寺大富裕なれば迚、五千貫を課せられしに、住持光佐上人難渋に及ばず五千貫を献上す。
信長此金銀を上納させて諸軍勢の兵粮軍用、且又公方家御在京御官位等の御入用に、各是を相行はる。寔に余儀なき政道也。扨泉州ノ堺津ハ大富有ノ商家共集居タル所ナレバ、三万貫ヲ差上グベキ事子細有ラジト申付ラル。
然ル処堺ノ津ハ皆三好家ノ味方ニテ庄官三十六人ノ長者共、中々御請申スコトナク、同心セザルノ由ヲ申ス。然ラバ早速ニ堺ノ津ヲ攻破ラント有ケレバ、三十六人ノ者ドモ弥以テ怒ヲ含ミ、能登屋、臙脂屋ノ両庄官ヲ大将トシ堺津一庄ノ諸人多勢一味シ、溢レ者諸浪人等相集テ、北口ニ菱ヲ蒔キ堀ヲ深クシ、櫓ヲ揚ゲ専ラ合戦ノ用意シテ信長勢ヲ防ガントス。
信長是を聞て何とか思案致されけん。今度公方家の御共して、和泉・河内・摂津・山城四箇国、不日に退治して京都へ凱旋有べき事、武功天下に隠れ無し。堺の庄の町人共をば只其まゝに左置べしとて、更に取かけ攻伐の事無く、 和州は未だ帰服せず。松永父子に加勢して連々和州を退治すべしと、隠便に沙汰せらる。」(「続応仁記」、著者は不明)
それというのも、日本の回廊地帯ともいうべき近江については、東山道、東海道、北国街道などの多くの道が交差するなどしていて、さながら商人たちの「動く市庭(いちば)」なり、「商業圏」の有り様だったのではないたろうか。
中でも、若狭(わかさ、現在の福井県)方面へ至る、琵琶湖上り経由の九里半街道を通って、後にふれる「五箇商人」の面々は、主に塩をふって長仕様とした塩魚を取り扱う卸売り商として名を馳せていた。
一方、伊勢(いせ、現在の三重県)に向けては、八風街道や千種街道を通って、これも後に触れる「四本商人」ないし「山越商人」(鈴鹿山脈を越えることからの命名)と呼ばれる同業の面々が、こちらは海産物一般や塩、布など多彩な商品を幅広(市売りや里売りなども)に取り扱っていたという。
そこで、この両方の商人勢力の関係如何なのだが、「今堀日吉神社文書」というのが、相当数残っていて、それらには、当時の近江国(おうみのくに)とその周辺を舞台に、どんな商売上のやりとりが行われていたかを、ある程度窺い知ることができよう。
ここでは、それらのうちから一つ、紹介したい。
「一、九里半(くりはん)の事は、高嶋南市(たかしまちなみいち)、同南五ケ、又今津の馬借(ばしゃく)、同北五ケの商人進退仕る事、その隠れ有るべからざる候。然るところ、野々川衆(ののかわしゅう)彼の道を罷り通り、若州え商売仕るべき造意、新儀に候。(中略)
一、野々川衆申す事、いか様の証拠を帯び申し上げ候や、(中略)国々津湊各別に立場候て商売仕り候、商売のしな数ある儀候、何もその座々に立ち入りせきあい候、市売(いちうり)・里売(さとうり)まで、悉(ことごと)く差別次第、商売道(しょうばいどう)の古実(こじつ)に候。(中略)
一、九里半道に付いて、往古以来、数度大事の公事出来候、樽銭(たるせん)・礼物、或いは商売に付き候て、出銭・礼物等の事、南北五ケ・南市の商人、その支配仕り候、野々川衆かつてもって存知仕らず候。」(年月日未詳「五箇商人等申次状案」)
この史料が出された事情としては、四本商人(小幡(おばた)・保内・とう掛・石塔がメンバー)のうちの保内商人と五箇商人(薩摩・八坂・田中江・小幡(おばた)・高嶋南市の5者で構成)との商売上の争いがあり、そのことを巡る相論を、当該地の国衆である六角氏に、なんとかしてほしいと五箇商人側が持ち込んだ、
その言い分としては、若狭小浜と琵琶湖岸の今津を結ぶ九里半街道において、高嶋南市の商人が、保内商人の荷物を奪うという事件が起きる。しかして、荷物を押さえた高嶋南市の商人側は、「野々川衆(保内商人のこと)の商売は新儀であり、認められない」と主張した。
およそこのような流れで踏まえておくべきは、商品の種類ごとに、というか、座なりがあって、それらご流通へ回っていく。その回り方にも、商人集団ごとに商慣行があり、それらの多くは、自分たちの独占的な地位を築いて、或いは築こうとしていた。
そして、そういうものの総体が、諸国の津や湊(みなと)のそれぞれの場において、すなわち市場での小売や村々、町々への行商に至るまで、それぞれの慣習なり権利が自分たちが有利な立場となるように、各々の商圏として具現化していたことであろう。
だからこそ、これら街道上の要衝や港湾に成立した商圏がしだいに拡大していく中で、あるところでは常設店舗か増えることが起爆剤となって小都市的な商品流通・交換の場(町場)ができていく。のちならず、さらにそれらの中から、地方都市が生まれ、より拡大した商圏、ひいては地方経済圏が形成されていった。
しかして、それらの作用が働くことでの「代表的な都市として、外国とな貿易で栄えた堺・博多のほか、備後の尾道、摂津の平野、伊勢の大湊、武蔵の品川」(木村茂光・樋口州男編集「史料でたどる日本史事典」東京堂出版、2012)などが、歴史の表舞台へと現れてくるのである。
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