♦️45『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(ウマイア朝)

2018-01-17 09:54:40 | Weblog

45『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(ウマイア朝)

 アラブ世界の正統カリフ時代(632~661)に続くのが、イスラム勢力のウマイヤ朝(661~750)である。これに至る前段の630年代には、彼らはチグリス・ユーフラテス河畔一体を支配する。642年になると、ササン朝ペルシアを、イラン高原からカスピ海南方に追いつめ、撃滅する。一方、東ローマ(ビザンツ)帝国に対しても、攻撃を行う。エルサレムからシリア方面、またエジプトのナイル川下流を攻撃して手に入れる。
4代にわたる「正統カリフの時代(632~661)」を過ごして、その領域は、東はインドと接し、西はアフリカ北岸をカルタゴにまで到達するという、驚くべき勢いであった。
 その数年前の656年から661年にかけて第一次の内乱をくぐり抜けるのだが、この間アリーなる人物がイスラーム教団の正統カリフ時代第4代のカリフの座にあった。ムハンマドと同じくメッカのハーシム家の出で、ムハンマドの娘ファーティマの夫となっており、内乱の初年にカリフ・ウスマーンが暗殺された後、ムハンマドに最も近いということでカリフに選出される。
 そもそも、この王朝の初期のカリフたちは、まだ専制君主というにはふさわしくなく、族長の寄り合わせ、その共同体の代表者としての色あいも兼ね備えていた。最初の礼拝の方向であったのは、エルサレムであり、ムハンマドの教えを忠実に継承していくのを心得ていた。曰く、「前ムスリムは兄弟であり、互いに争ってはならぬ」と。アラブはこの頃から、この地域で覇を唱えるには、ムハンマドの創始したイスラム教抜きには考えられなくなっていく。
 そんな訳で、正統カリフ時代のカリフは信者の互選で選出されていた。それが、657年には、シリア統治の任に当たってのし上がってきたムアーウィヤが、4代目アリーをカリフから退位させて、エリサレムに陣取って自らカリフを名乗るにいたる。661年には第4代カリフのアリーが、ハワーリジュ派の過激派に殺害されてしまう。
 この一連の出来事により、カリフの地位はこの一派に移って、都はマディーナからシリアのダマスクスに移され、ウマイア(ウマイヤ朝)が成立する。この新王朝の下で、カリフの地位は世襲とされ、初代のムアーウィヤ1世以後、ウマイヤ家が代々世襲していく。しだいにカリフの地位を巡って、ウマイヤ家のカリフを認めるスンニ(スンナ)派と、第4代カリフの子孫のみをカリフと見なすシーア派の対立が激しくなっていく。
 680~692年にかけて、ウマイア朝に第二次の内乱が起こる。きっかけは、ムアーウィヤが死去しカリフの地位をその子ヤズィードがえ跡を継ぐ。すると、アリーの次子で後継者のフサインが、クーファなどのシーア派の支援をとりつけ、ウマイア朝に反旗を翻す。しかし、カルバラーの戦いの戦いでウマイア朝軍に敗れイラクへ落ち延びる途中で、フサインは従者と共に殺害された。これは「カルバラーの殉教(悲劇)」と呼ぶ。ムハンマドの血統をひくアリーとその子フサインの死によってシーア派は少数派(「シーア・アリー(アリー党)」と名乗る)としてイラクなどに追いやられる。
 フサインの死後、ウマイヤ朝のカリフが相次いで若死にしたためにその支配はしばらく不安定な状態が続く。683年からメッカを拠点としたイブン・アッズバイルがカリフを称し、ウマイヤ朝に反旗を翻す。これを正統カリフ時代末期の第一次内乱(656~661)に次いで、第2次内乱(683~692年)ともいう。しかし、ダマスクスのウマイヤ朝で第5代カリフとなったアブド・アルマリクがメッカに討伐軍を派遣し、さしもの内乱も終束に向かう、そして各地のアラブ族長に対し服従を求めることでウマイア朝の力が行き渡っていく。その流れで、専制君主制が確率していくのであった。その時期からのウマイア朝は外征を展開し、大帝国を作り上げていった。その結果、西は中央アジアからイラン、インダス流域に至る領土拡張を実現するにいたる。
 その後も、ウマイア朝の領土拡大の意欲は失われなかった。まず北方では中央アジアのソグディアナに進出、さらにイスラームの西方征服を進め、アフリカ北岸のビザンツ勢力を駆逐してチュニジアなどを獲得し、ついにはジブラルタルを越えてイベリア半島に侵入した。また、東はインダス川流域に進出してインドのイスラム化の端緒となる。さらに、彼らは東ローマ帝国(東ヨーロッパ)やフランク王国(西ヨーロッパ)、ローマ教皇などのキリスト教世界にも矛先を向ける。732年にはピレネーを越えてフランク王国内に侵入したが、トゥール・ポワティエ間の戦いではカール・マルテル(後のカール大帝)の率いるフランク軍に敗れた。また東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを覗うが、激戦の中での東ローマ軍の抵抗により、失敗に終わる。
 ウマイア朝時代の経済については、なかなかの興隆となっていく。貨幣経済が発展したということは、それを必要とする交換経済が成立していたことを物語る。アター制によって国家機構が整備されていく。その下では、アラブ人のみならず、多くの異民族、異教徒を含むこととなり、アラブ人とそれ以外のイスラーム教徒(イラン人、トルコ人など)との関係が問題となり始める時期でもあった。そのような中でウマイヤ朝では征服活動の先兵となったアラブ人戦士が貴族として支配階級を構成した、これを「アラブ至上主義」の先駆けと見なす向きがある。また、アラビア語を公用語として定められたことで、この時代を「アラブ帝国」の最初と見る向きもある。
 このように一世を風靡したウマイヤ朝であったが、8世紀からは非アラブのイスラーム教徒であるマワーリーやシーア派の反発が強まり、それらを背景に台頭したアッバース家によって、ウマイア朝は750年に滅ぼされ、アッバース朝が成立する。

(続く)

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♦️187『自然と人間の歴史・世界篇』重商主義の批判

2018-01-16 18:40:27 | Weblog

187『自然と人間の歴史・世界篇』重商主義の批判

 このような鳴り物入りで取り組まれていた重商主義に対しては、主に二つの学問的立場からの批判が出されていく。その一つは、重農主義からのものであり、今ひとつは新興ブルジョアジーの利益の立場から行うものであった。まず前者の中では、このケネーの学説が地主階級の横暴を痛撃する、これを「農業主義」という。そのことは、同じ1776年に『国富論』を著したアダム・スミスにより、こう評される。
 「土地で使用される労働が唯一の生産的労働だとする点で、この学説が説き勧める見解は、多分に偏狭で局限されすぎてはいるけれども、しかし、諸国民の富が、貨幣という消費できない富から成るものではなくて、その社会の労働によって年々再生産される、消費財から成るとする点で、また、完全な自由こそ、この年々の再生産を可及的に最大値にするための唯一の効果的な方策だと主張する点で、この理論はどこからみても寛大で自由であるとともに、正統だと思われる。」(アダム・スミス著・大河内一男監訳『国富論Ⅱ』中公文庫、1978)
 また、後者の見解の中心となるのは、アダム・スミス(1723~1790)の論説にほかならない。彼は、「経済学の生みの親」とも言われる人物であり、当時のイギリスの現状から農業よりは工業に富の源泉を認め、こう述べる。
 「どの社会でも、年々の収入は、その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換価値と等しい。経済を自然の流れに任せれば、各個人は、かれの資本を自国内の身近な産業の維持に用い、かつその生産物が最大の価値を持つ方向にもっていこうと努力するだろう。そうすると、結果的に、誰もが必然的に社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨折ることになるのである。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。かれらが、生産物が最大の価値を持つように産業を運営するのは、自分自身の利得のためである。だが、こうすることによって、かれは(神の)見えざる手(invisible hand)にみちびかれて、自分では意図してもいなかった一目的(国の富の増大)に寄与することになる。」(第4編第2章)
 「ところが、国内産業の保護を目的とした政策で、ある商品を、国内産業が維持できるように輸入品に関税などをかけて高価格に保ったりすると、消費者は高い商品を購入することになり、より安い品を買うときよりも暮らし向きは貧しくなる。また、投資家は実際には効率が悪いにもかかわらず、見かけは利益があがる産業に資本を投資したり、他産業に投資したときに高い資材を買うことになるので、結果的に生産される富の量が減少する。」(第4編第2章)
 こうしてみると、17世紀から18世紀にかけての重商主義の帰結としては、当時の主要産業であった農業・農村の疲弊をもたらしたことがある。前述の1776年出版の『国富論』において、アダム・スミスは、「重商主義のさまざまな統制は、資本のこのもっとも自然で有利な配分を、どうしても大なり小なり攪乱(かくらん)することになる」(アダム・スミス著・大河内一男監訳、中公文庫、1978)とし、来るべき資本主義の時代を予感させている。
 その意味では、重商主義は、後の歴史家により「前期資本主義」もしくは「前資本主義段階」とも言われる。なお、これに関連して「資本主義の重商主義段階」が言われることがある。しかし、そうなると産業革命による生産資本の確立以前に資本主義が一人歩きしたかのような印象を与えることにもなり、やや無理が感じられる。
 いまひとつは、金銀の獲得手段でもあった重商主義戦争の継続が、長い目で見れば国力を高めるどころかその逆であったこと、こうした戦争の継続により社会の圧倒的な人員を擁する農民に対しては大きな課税や賦役がかけられることで彼らの生活が窮乏化してゆき、これに王朝の浪費、軍備増強なども重なり、国家財政は大いに傾いていく。

(続く)

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♦️186『自然と人間の歴史・世界篇』重商主義の展開

2018-01-16 18:39:08 | Weblog

186『自然と人間の歴史・世界篇』重商主義の展開

 ところで、重商主義というのは、貿易差額の増大で国の富を築き、増やす政策の総称で、17世紀に入ってからの西ヨーロッパの、フランスとイギリスおいて典型的に見られた。中でも、フランスでは、ルイ14世の時の絶対王制下で国の繁栄をもたらす戦略として、「コルベール主義」もしくは、「コルベルティスム」)の名をかぶる。当時の蔵相のコルベールは、なかなかの辣腕をふるう。貿易差額を増大させるために高級織物、陶器などの奢侈品を中心に輸出産業に仕立てる。そして、これを「王立マニュファクチュール」の保護育成のレールに載せる。それらの製品の輸出競争力を高めるためには、製品価格を低めに設定しなければならない。
 そのためには低賃金政策をとるべきと心得、低賃金を実現するには農業生産物である穀物の価格を人為的に低く設定したい。一方、国内の産業を外国から保護するためと称し、国家が進んで輸入関税の壁を巡らし、輸入製品の国内製品に比べて割高にするよう仕向けることを正当化するのであった。
 それでは、イギリスではどうであったか。それを物語るのが、イギリス東インド会社の役員であったトーマス・マン(1571~1641)による著作である。彼は、この時点でのイギリスの繁栄の道をこう宣言している。
 「わが国には、財宝を産出する鉱山がないのだから、貿易によって財宝を獲得する手段しかないことは、思慮ある人なら誰も否定しないであろう。」(「外国貿易によるイングランドの財宝」)
 「貿易差額こそイギリスの富を増大させるものだ。そのためには輸入額よりも輸出額
多くしなければならない。輸入品には多くの付加価値をつけて再輸出するのだ。」(同)
 「国家間の競争に勝たなければ貿易商人は“王国の富の管理者”であり、他国民と通商を営む者当然その職務には責任と栄誉が伴うすぐれた手腕と誠意をもって私の利益が公の福祉に従うようにしなければならない。」(同)

(続く)

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♦️85『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(コロッセオと剣闘士奴隷)

2018-01-15 20:53:13 | Weblog

85『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(コロッセオと剣闘士奴隷)

 遠く紀元前後まで顧みれば、古代ローマは、奴隷制の社会であった。そこには、ラティフンディアと呼ばれる農園で働く奴隷、市民の私宅で働く奴隷、商業経営などの現場で働く奴隷など、あまたの現場があった。このローマ時代の奴隷というのは、他の類似の時代でのものに比べどのような特徴を持っていたのだろうか。そのことを際立たせる一つが、剣闘士奴隷の存在であった。その彼らは、生きるために、命がけの試合というか、血統というかを行っていた。獣と闘うこともあったやに伝わる。その特徴とするところは、相手がが死ぬまで攻撃をやめなかった、否、やめることは許されなかったきらいがある。ここまで来ると、もはや殺し合いと認識した方がしっくりいく。死は、たしかに日がな一日、彼らの眼前にゆらゆら揺れていたのであろうに。
 このような試合の元々は、紀元前3世紀の終わり頃、死者への弔いの為に、捕虜を戦わせたのが始まりと言われるものの、これを証拠立てる決め手はみつかっていない。このような興業のその後の成り行きだが、2世紀末のローマ皇帝コモドゥス(コンモドス、在位は180~192)の頃には、ローマ帝国内市民の最大の娯楽ショー(見せ物、興業)として楽しまれるようになっていた。観客は、入場料が要る場合でも少しのカネさえ払えば誰でもよかったらしく、人びとは進んでこの熱狂、興奮の渦に入って楽しんだらしい。
 彼ら剣闘士の主戦場は、他国との戦争ではないのであるから、市民の集えるところなら、便利がよく、大勢を集客できる場所の方がよいと、皇帝の側で考えられたであろう。主に帝国内の各地につくられた数々の闘技場であって、それらの総本山がローマ市内にあった円形闘技場(コロッセオ、コロッセウム)にほかならない。
 この施設は、皇帝ネロ(在位は54~68)の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設されることとなる。この人工池の建設時には、地表を10メートル近く掘り下げ、そこに現れた岩盤を地下構造の土台としたという。出来上がったコロッセオには8万人を収容できたというから、現在のオリンピック・スタジアムの規模と何ら変わらない。
 そこで興業の期間中繰り広げられていた試合の有様だが、はっきりした当時の描写の記述が残っている訳ではなさそうだ。ある有力説によると、戦いは勝ち負けよりも内容が問題であり、致命傷にならない時点で、倒れた者の処置には、観客の意見が求められる。行司のや審判がいたのかどうなのか、負けた剣闘士を助けるかどうか、観客に意見を求めた結果によって、そこで許してもらえるかどうかが決まったのだとも。負けても、死力を尽くした自分の戦いぶりを見てもらい、明けた者が助けてもらえるかどうか、運命の賽(さいころ)がふられていたのかもしれない。これらが事実であったとしても、試合の残酷さが薄まる訳ではなく、要するに、途中で「まいった」というだけで許される訳ではなく、そうなるのは奴隷の身分のためであったに違いあるまいに。
 こうして、剣闘士奴隷は日頃の鍛錬から試合まで、繰り返し修羅場に身をおいているうちに、どんな強者でも30代中頃までには死んでいったのではないか、とも推測されている。自分からこの種の奴隷になった者もいたのだろうか。また、これに成らざるを得なかった者において、なんとかその悲惨な境遇から抜け出していくことのできたのは、一握りの男たちであったのであろうか。そして彼らの多くは、身震いするほどの寂寥感の中で日々を過ごしていたのだろうか、想像するに余りある。
 さてもさても、人びとの熱狂に支えられていた剣闘士奴隷のショーであったが、404年に闘技場で試合を止めるよう呼びかけた修道士テレマクスが観衆の投石を受けて死亡する事件が起きると、西ローマ皇帝ホノリウス(在位は395~423)は闘技場を閉鎖させる。民衆達も、そろそろ残酷さに辟易してきた頃ではなかったのか。さらに時代が下っての523年、にイタリアを支配する東ゴート王テオドリックが闘技会を禁止する布告を出し、わずかに残っていた興業も、681年に公式に禁止され闘技会は消滅したと言われる。

(続く)

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♦️82『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(建築)

2018-01-14 21:36:16 | Weblog

82『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(建築)

 そういえば、古代ローマ時代には、実に様々な耐久性のある、強靱な構造をもつ建築物が出現している。道路や高架橋、トンネル、ダムなどのインフラをはじめ、ビル建設などという、現代社会での用法程で広くはないにしても、堅固な構築物の数々あることは、まさに、「偉大なるローマ」の象徴であったろう。
 特に、政治や宗教に関係する「フォロ・ロマーノ」やパンテオン(神殿)を始めとして、大きなものではコロツセオと呼ばれる円形闘技場や、コンスタンティヌス凱旋門なども、「よくもまあ、これだけのものを、これほどにつくった」と驚嘆せざるを得ない程だ。それらが約2000年という時を経て、いまに残されるに至っていること自体、一見当たり前のことのようであって、実はそうばかりとはいえない。
 というのは、これらを成し、また、これらが歴史の有為転変を生きながらえるには、不可欠なものがあった。これらの建築物の形式と強度を保証してきた、その代表格こそが、今日私たちがそう呼んでいる「ローマン・コンクリート」なのである。
このコンクリートだが、主には基礎工事に用いられていた。例えば、ナポリ近郊のソンマ・ヴェスヴィアーナ遺跡では、地中に1500年以上埋もれていたらしいコンクリートの塊が発見されている。これまでの研究により、火山灰(ポゾラン)に石灰や消石灰を混ぜたセメントを使っていることが確認されたという。また、内部には骨材として大きめの石を入れ、表層部は細かく粉砕したレンガなどを混ぜて緻密な防水層をつくるなど、その構造にも工夫がみられるとのこと。
 コンクリートをつくるからには、どこからか原料の石灰や消石灰を運んで来なければならないものの、都ローマには凝灰岩が豊富にあることから、これを基本に用いて、あれこれの調合で試しているうちに、ついに製法が確立していったのだと推測される。
 

(続く)

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♦️29の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)

2018-01-14 21:26:07 | Weblog
29の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)

 さて、古代ローマといえば、一日にならずして、長い統治の間に、「偉大なる歴史像」というか、輪郭が徐々につくられていく。それまでの世界にない文明、文化をつくっていった。みなさん、世界地図を広げてみよう。まるで足長靴のような狭い半島から始まって、周辺に力をじわじわと伸ばしていく。地中海世界をほぼ支配したばかりでなく、文化の点でも、今日のヨーロッパ、北アフリカ、中東へと大いなる影響を与えた。ここでは、それまでの文明の歴史になかったローマ独特のものから、幾つか紹介したい。
まずは、浴場の利用である。ここで紹介したいのは、個人の家の内に設けられた私的な風呂で湯につかることではない。この風習というか、文化が社会に定着したのは共和制の時代というより、帝政時代に入ってからだ。歴代皇帝の命で領土や属国のいたるところに巨大な公共建築が建設されていった。
 その都ローマの最盛期においては、数百もの公衆浴場があったという、公衆浴場をつくって市民に安価で提供するのは、政府や皇帝の役目と見なされた時代。巨大建築のコロッセウムで剣闘士の試合やなんかを見せることがある。だが、それよりも、市民生活を送る上での力になったのではないか。もっとも、日本のヤマザキマリ氏のマンガ作品『テルマエ・ロマエ』(ラテン語で「ローマの浴場」の意味)を読んでも感じるのだが、女性がカネさえ払えば自由に入れた浴場という記事には、出会っていない。
そんな頃、ひとたびローマ市民になると、特段のことがなければその社会的地位を保持することが可能であった。家父長制の下で、市民たる者の家族は守られたことであろう。市民の権利の中には、色々なものがあった。取り立てては、それらの公共建築や、これを使用しての娯楽や健康づくり、社交や図書館利用、スポーツなど、数え上げたらきりがない程の恩恵が得られることになっていたらしい。大理石の玄関や列柱、ローマン・コンクリートで固められ、所々に色彩豊かなモザイクタイルが施してある床面は、まるで別世界であるかのよう。
 ここに立ち入る者の身分を問うかのような、特段のことはない。皆が、刺しゅうの入った壁などをくぐり抜けたところに、大広間があり、そこからは様々な湯房に分かれていたのではないか。これを利用できるのは、市民の特権であった。一説には、一部の奴隷も、カネさえ払えば利用できていた。いずれにせよ、ここを訪れた市民たちは、くつろいだ、彼らが、「気持ちがよい」「幸せです」などといえる何時間なりかを過ごしたであろうことは、いうまでもなかろう。
 例えば、世界遺産となっている、イタリアの首都ローマにある、古代ローマ時代の大浴場の遺跡についてだが、ローマ歴史地区、教皇領とサンパオロフォーリ・レ・ムーラ大聖堂」の名称で世界遺産に登録されている。
 この浴場のいわれだが、帝政時代の中期(212~216)、ローマ皇帝のカラカラが造営を命じる。そして完成した公衆浴場は、当初は「アントニヌス浴場」、後に「カラカラ浴場」と呼ばれ、市民の間で人気を博す。というのも、アッピア旧街道は、当初、ローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門、つまりこのカラカラ浴場付近を起点としていた。その先は、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアまでをつなぐ。それが紀元前19年、ベネウェントゥム(現在のベネヴェント)やウェヌシア(現在のヴェノーザ)までさらに延長され、さらにタレントゥム(現ターラント)とブルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延長される。
 この浴場の広さだが、遺構の調査から11万平方メートルもあったことがわかっている。かかる広大な敷地に、一度に約1600人もの市民客を収容できのではないかという。冷水浴室、高温浴室、サウナのほかに、図書室や体育室なども備えていた。ほかにも、ミトラス教の神殿が敷地内に附属していたというから、驚きだ。そんな中でも、特筆されるべきは、この種の施設の運営には奴隷の労働力が寸刻たりとも欠かせななかった。というのは、施設の地下は3階構造となっており、床の下には湯を沸かす炉と大釜がじつにたくさんあり、それらの炉にくべる木材を奴隷たちが運んでいた。その現場の下には、水道が導かれていて水を供給、さらに園下には下水道という具合に、全体が階層構造をなしていたと伝わる。これらを推し量るに、かかる地下・地階での労働は日光が満足にとどかない場所での、苦役に近いものであったであろうことは、想像するに難くない。
 こんなすごい例は今時の日本でも、ほとんど類例のあるのを聞かない。入浴料はどの位であったのだろうか、その情報がほしい。もし安価であったのなら、ローマ市民のための十分に機能していたのではないか。現代の美術館に展示されている数多くの作品が、これらの公衆浴場から発掘されていることから見ても、れっきとした総合娯楽施設であったのではないか。
 そういうことなら、ローマの市民たちが、これらの傑作で飾られていた浴場を、「われら貧乏人のための宮殿」と呼び、日々の生活を潤していたというのも、頷ける。奴隷を含め庶民が集うのであったが、市民の中には単独で来るよりも、家内奴隷の数人を従えてやって来て、施設内で「アカスリ」やら「ひげそり」、「ひげぬき」などを彼らにやらせていたといわれる。このようにローマ市民にとってなくてはならない施設であったのだろうが、6世紀に入っての「ゲルマン民族の大移動」で肝心の水を引き入れる水道が破壊されてしまう。他の建築物と同様に、ローマ市内にたくさんあった浴場も、相次いで失われていったようだ。その間に、人びとの入浴習慣も失われていき、やがてローマの滅亡とともに、浴場文化は姿を消していった。今日に残されたタワー状の遺構や水道(上下水道)施設などにより、かつてここに市民の憩いの場、そして社交場としての賑わいの場のあったことがの偲ばれる。

(続く)

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♦️84『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(水道)

2018-01-14 21:14:22 | Weblog

84『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(水道)

 古代ローマ時代に築かれた大建築の中で、より人びとの生活の身近かにあったのが、上下水道の施設である。その水を供給したのが水道橋である。これわつくる技術をローマがどこから入手したかの詳細は不明ながら、一説には、古代メソポタミアで生まれたアーチの技術が、エジプト、エトルリア(イタリア中部の古代国家)を経て、紀元前後にローマがにもたらされたという。
 その名残は、ローマの歴史地区にもある。政治の中心地であったフォロ・ロマーノの近く、北東方面には現在テルミニ駅があり、20分ほどメトロA線に揺られると、そこには広大な遺跡の公園が広がる。この公園には、古代に建てられたクラウディオ水道橋とフェリーチェ水道橋が並走しているとのこと。郊外の水源地からはるばる水道橋で運ばれてきた水は、ローマ市内に入ってからは、人びとの様々な要求に応えることになる。面白い利用のされ方の一つが、公衆トイレであり、そこには人が座っているところの下を流れる下水道ばかりでなく、人が座る前の手の届くところを流れる上水道が通っていた。
 そこでトイレの利用者の振舞だが、まずは下水道の覆いの部分に明けられた穴の上に座る、それぞれの尻の下に流れるのは下水道であって、人びとが用を足した後の汚物は緩やかな傾斜の密閉水路を流れて行く。そして人びとは、目の前に流れる上水道のきれいな水を掌でくみ取って尻を洗い、さらに手を洗ってトイレの利用をしめくくる。それまでの間は、隣の座る人と話もできる程に便利に出来ている。
 水道橋に話を戻すと、当時ローマの属国であった所々に巨大な水道橋が設けられていた。そんな中で現代に一部が残っているものに、ポン・デュ・ガール(フランス)、ミラグロス水道橋(スペイン)、セゴビア水道橋(スペイン)などがある。これらのうちポン・デュ・ガールは、フランス南部・ガール県、南仏プロヴァンスの古都アヴィニョンから約25キロメートルの、現在のニームにある。ガール川にかかる全長275メートル、高さ49メートルの白亜紀の石灰岩でつくられた大橋で、3層のアーケードは上に行くほど幅が狭くなっている。紀元前19年頃、アウグストゥス帝の腹心アグリッパの命令により、ローマ人によってつくられ、6世紀頃まで実際に使用されていた。これを当時わずか5年で建築したというから、驚きだ。
 ユゼスからニームへ水を運ぶための水路の途中にあり、古代ローマ時代・紀元前19年頃にアウグストゥス帝の腹心アグリッパの命令で架けられる。水源地と供給地の高低差はわずかに17メートル、かつては一日に推定2万立方メートルもの水を、ニームに住むローマ人に供給していたのだという。
 セゴビアのは、スペイン北部、首都マドリードから8キロメートルに位置する。全長728メートル、最も高いところは高さ29メートル、こちらは18世紀まで現役であった。ゼゴビアの北15キロメートルのアセベダ川から水を引き込んで、僅かずつ傾斜で水を運んでいた。全部で128あるアーチ部分は、ガチガチに組まれた石同士で支え合って絶妙なバランスを保っているとのこと。

(続く)

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♦️68『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア文化(神話・伝承)

2018-01-13 09:29:41 | Weblog

68『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア文化(神話・伝承)

 人類の発展において、大きな役割を果たしたものに、火の使用がある。これにちなんだ話が、古代にある。その一つ、古代ギリシアの神話に、プロメテウス(プロメーテウス)の逸話がある。この話を、プラトンの『プロタゴラス』中に紹介のあるプロメテウスに対する問答が伝えている。ここにプロメテウスというのは、自然神ティターンの一族なる巨人神のことであって、彼は行きがかり上、よかれと思って人類に火を与える。ところが、これを天上から見下ろしていたゼウスに咎められる。盗みを働いたというのが、その理由であった。これにより、カウカーソス山にはりつけにされて鷲に肝臓をついばまれるという、とてつもない罰を負う。それにしても、彼は死ぬことはないとされるのだが、本人としては「特段間違ったことはしていないのに、何で自分が」と、不満だったのではないか。
 これと似たような話に、もう一つ、「パンドラの箱」の挿話があって、プロメテウスの前述の所業に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらしかねないという意味あいでか、「女」というものをつくるよう手下の神々に命じる。そこで登場するのがパンドラという女性であって、彼女を人間界に遣わし、得体の知れない箱を開けさせる。実は、その箱の中には不幸というものが一杯詰まっていたのだが、一度開いてしまったものは拡散するのが世の常人の常。「是非に及ばず」というか、仕方がない、これがプロメテウスの後日談に組み入れられている。これらをみるに、唯一神でもないゼウスがなぜそこまでの力を奮えるのかは、よくわからないのだが。
 この作り話の解釈だが、一筋縄ではいかない。なかなかに難しいところがあるのではないか。例えば、20世紀、京都大学助教授の職を思うところあって降り、市井に身をおいて原子力問題を論じた自然科学者に、高木仁三郎(1938~2000)がいる。当時とすれば禁断の学問であったろう、原子物理学の安全神話を問い直すことに力を注ぐ。その彼は、自らの課題に近寄せて、いわゆる「プロメテウス讃歌」に異議を唱えている。
 「『プロタゴラス』から、苦しみに耐え、しかし妥協をしない高潔の英雄、しかも人類の英知の大恩人というプロメテウス像が生まれる。このような英雄像は神話時代にはなく、ずっと後代のもので、時代が下れば下るだけ、人間が技術的知を肯定し、自然に対する征服者たる人間を肯定するようになればなるだけ、讃美のトーンが高まる。
 ガリレオ、ニュートンが自然科学の成果を収めた時代、ゲーテやシェリー、バイロンは激烈なプロメテウス讃歌を歌い上げている。『プロタゴラス』では留保や弁明のニュアンスを多く含んで語られていたプロメテウス的知性が、西洋近代の詩人においては全面的に、一点の濁りもなく正しいものとされているのである。
 そして逆に、ギリシア世界にあっては宇宙の秩序を表し自然の営みを司る存在、自然の象徴でありプロメテウスを罰したゼウスが、一方的に批判されているのである。」(高木仁三郎『いま自然をどうみるか』白水社、2011増補新版)
 これらの話を総じては、ルネサンス期の画家ラファエロの作品に「アテナイの学堂」があって、バチカン教皇庁の中にあり、描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間だといわれるのだが。これには、ギリシア時代の哲学者などおよそ20名が描かれている。その中で隣人に指さし何やら話しているのはユークリッドであり、床面に置いた書き物には幾何学が記されていのであろう。2つ目には、中央に立つプラトンが指を天に向けているのに対し、その隣のアリストテレスは掌で地を示している。これは、真逆(まぎゃく)を言いたいのだろう、前者は「哲人政治」に象徴される観念論の代表格であり、後者は当時の知の最高権威ながら、それに安住することなく「万能の根元は何か」に大いなる興味を抱いていた。
 そして3つ目、これだけの人数が昼間から一堂に会している目的と、これを可能にしている社会的条件とは何であったのかが、忘れられてはならない。むろん、ここに数えられる以外の知恵者も大勢あったのであり、例えば、物質観を究極的な原子論にまで高め、後の物理学にも影響を与えたデモクリトス(紀元前460頃~370頃)のような自然科学(自然哲学)者も含まれよう。要は、古代ギリシアにおいては、公開された場での討論があり、かつまた、この絵には明確には描かれていないながら、一般聴衆がいる前で隠すことなく持論を述べ合っていたことをも、示唆するものとなっているのではないか。

(続く)

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♦️898『自然と人間の歴史・世界篇』世界人口100億人時代へ

2018-01-09 09:50:24 | Weblog

898『自然と人間の歴史・世界篇』世界人口100億人時代へ

 まずは、過去から現在にいたるまでの人口の推移をみたい。古代に向かうほど、推測の幅が増し、信頼度も低下するのは、仕方があるまい。
 ①として、200万年前には12万5000人、②として、30万年前には100万人、③として、5万年前には200万人(ここまで、(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999による)。そして④としての1万年前(農耕の開始)には数百万~1000万人であったと推測されている(ここからは、「まもなくやってくる100億人時代ー「食糧」「エネルギー」「長寿命化」」:雑誌『ニュートン』2012年6月号)。
 ここで注目したいのは、人口増の速度が年を下るにつれて急速な上昇になる。①から②への人口の8倍化に必要とされた時間は170万年、ところが、③から④への人口5倍化に要した時間はわずか4万年と短縮されている。
 西暦1年には1~3億人であった。その頃の平均寿命は20歳前後と推測されるところ。1000年には2~4億人、その頃の平均寿命は20歳代前半であったであろうか。14世紀のペスト流行によって、3~4億人から2割ほど減少か。1800年頃には10億人、1960年には30億人、1974年には40億人、1987年には50億人、1999年には60億人、そして2011年に70億人(同、ただし1950年以降のデータは国連による推計に基づく)。なお、「平均寿命」というのは、その年に生まれた子供が平均であと何年生きられるか(0歳時の平均余命)を示したものだ。
 つぎには、これからどうなっていくかを考えたい。世界人口はこれからも増え続け、現在から80余年後の2100年には101.5億人と、100億人の大台に届くものと見られる(同)。その内訳である、2011年時点での世界人口の国別では、1位の中国が13億4757万人、2位のインドが12億4149万人、3位のアメリカが3億1309万人、4位のインドネシアが2億4233万人、5位のブラジルが1億9666万人、6位のパキスタンが1億7675万人、7位のナイジェリアが1億6247万人。2011年の大陸別によると、アジアが42億人で60.7%、アフリカが10億人で14.5%(出典は「国連中位予測)であった。
 それが2100年の予測になると、次のようになるという。1位のインドが15億5000万人、2位の中国が9億4100万人、3位のナイジェリアが7億3000万人、4位のアメリカが4億7800万人、5位のタンザニアが3億1600万人、6位のパキスタンが2億6100万人、7位のインドネシアが2億5400万人。2100年の大陸別では、アジアが46億人で45.3%、次にアフリカが36億人で35.5%などとされる(出典は同)。
 もちろん、ここでの世界人口予測は、現在の人口変動の傾向を引き伸ばしたもので、あくまでも現時点で考えられるシナリオ(仮説)に基づく。

(続く)

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○37の2『自然と人間の歴史・日本篇』縄文・弥生時代の人口

2018-01-08 20:43:51 | Weblog

37の2『自然と人間の歴史・日本篇』縄文・弥生時代の人口

 日本列島における人口の推移はどんなであろうか。歴史人口学者鬼頭宏氏からの一説を紹介しておこう。同氏は、縄文時代早期20.1(千人)、縄文時代前期105.5(千人)、縄文中期261.3(千人)、縄文後期160.3(千人)、弥生時代594.9(千人)、725年(奈良時代)4512.2(千人)、800年(平安時代)5,506.2(千人)、1150年(平安時代)6,836.9(千人)、1600年(慶長年間)12,273.0(千人)、1721年(享保)31,278.5(千人)、1786年(天明年間)30,103.8(千人)、1792年(寛政年間)29,869.7(千人)、1846年(弘化年間)32,297.2(千人)だったと推測結果をひ発表している(鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社、2000による)。
 このうち、縄文中期の61.3(千人)から、縄文後期の160.3(千人)への人口の大幅減少とは、かなりショッキングな出来事であった。この原因については、様々な説がある、その一説にはこうある。
 「紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われています。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、限りある空間を最大限に利用していたと考えられています。」(「日本が乗り越えてきた4つの人口の波」(ナショナルゲオグラフィックのHPより2018.1.8引用して紹介)
 「この時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が、一瞬、大きく人口を減らしたこともあった。ただしこれは、地域的なものであって、列島全体の人口減少という波には結びつかなかった。」(同)
 「当時の技術水準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせるところまで増やしたギリギリの人口だったんです。そんなときに、気候変動がやってきた。これが急激な減少の大きな原因となった。」(同)
 この説の他にも、縄文人の食料調達が木の実などの植物質に偏り、多様性を失ったからではないかという仮説(羽生淳子・総合地球環境学研究所教授(米国カリフォルニア大学教授と聞く)も立てられているようであり、ならば当時の人びとが肉を摂取していたかどうかが分水嶺になっていったのであろうか。 
 もちろん、このような人口推計がどのようにして導かれるのかについては、それなりの証拠なり、よって立つ、もっともな推論がなければなるまいが。あるいは、一つだけの原因を特定しようということでは、全体像は見えて来ない性質の命題なのかもしれないと思われるのだが。

(続く)

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♦️563『自然と人間の歴史・世界篇』シリア

2018-01-08 09:01:38 | Weblog

563『自然と人間の歴史・世界篇』シリア

 現在のシリアの地は、中東のオアシス地として、紀元前の頃から交通の要衝として栄えていたらしい。まずは、現在のシリア(シリア・アラブ共和国)の首都であるダマスカス(ダマスクス)について、述べよう。こちらは、「世界一古くから人が住み続けている都市」とも言われており、カシオン山の山麓、バラダ川沿いに市街が広がる。城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街とのコントラストが美しいとのこと。紀元前732年に台頭してきたアッシリア帝国に、この地は占領される。住人のアラム人たちは膝を屈し、背を低めるようにして生きざるを得なかったであろう。
 紀元前729年には、アッシリアの軍はバビロンの攻略に成功する。勝者たるアッシリアの王は、バビロニア王を兼ねることで、メソポタミアを統一する。さらに、かれらは、紀元前722年にはイスラエル王国を滅ぼす。ユダ王国も、アッシリア帝国に朝貢する属国となり替わっていく。その巨大な帝国も、紀元前612年には、新バビロニアとメディアの連合軍によって首都ニネヴェを占領されたことにより滅亡する。
 以来、ダマスカスは、新バビロニア、ペルシア、ローマ帝国による支配下にあって、ここに住む人びとは息をつないでいく。ローマ帝国時代の1世紀には、現在の旧市街を囲む城壁が造られる。そして迎えた7世紀、この都市はイスラム教勢力のウマイヤ王朝の首都となり、繁栄への道を歩み始める。それからも紆余曲折の時が経過してゆくのだが、オスマン・トルコによる長い支配をくぐり抜けていくのであった。
 ダマスクスの他にも、シリアには特筆すべき場所がある。パルミラ遺跡は、シリア中部の裁く地帯(ホムス県タドモル)にある、古代都市の遺跡。シルクロードの東西貿易で栄える。最盛期は2~3世紀。ローマ帝国時代の遺跡などが数多く残される。ベル神殿や列柱、円形劇場の跡が残る。1980年に世界遺産に登録された。2011年以降のシリア内戦やISの侵攻で立ち入りが困難となる。ISは、多神教の時代の遺跡を破壊するのに急だ。また、唯一神であるアッラーに何ものにも超越する権威を認め、偶像崇拝を認めない。イスラムの教義を極端に解釈する傾向があるので、異文化に情け容赦がない。2013年に崩壊が危惧される「危機遺産」リストに登録された。
 さらに時が経過しての1940年、フランスがドイツの攻撃に耐えかねて降伏すると、シリアの委任統治権は、ヴィシー政府(1940年ドイツに降伏したフランスで、中部フランスの町ヴィシーに本拠をおき、1944年のナチス敗北により消滅)に移る。そのヴィシー政府に対し、イギリスと自由フランス軍とが攻撃を加える構図となっていく。
 1941年6月、自由フランスのカトルー将軍はこの地に進出し、委任統治の終了を宣言するにいたる。同年7月、両者の間に休戦が成立したことにより、シリアの独立が約束される雰囲気になっていく。1943年、シリア人に政治の実権を渡すまいとする自由フランス軍に対し、イギリス軍とシリア人が圧力をかけ続けた結果、フランス側が譲歩する形で、選挙が行われる。その結果を受けて、クッワトリー政権が成立する。これに伴いアメリカの圧力も加わった形で、同年11月、自由フランスとしても、軍隊の駐留権を除いて、シリアの独立を認めるほかないことになっていく。
 1945年3月、シリアの独立が連合国側により認められる。それにもかかわらず、フランス軍がダマスカスを爆撃したのは、一体何を目指してのことだったのであろうか。フランス側がようやくシリアから軍を引いたのは、同年4月の国連安全保障理事会の決議が成ってからであった。1938年に事実上の独立への道から8年余りの曲折の後の1946年、シリアはようやく実質的な独立の時を迎える。独立後の首都となった古からのダマスカスが、国連による世界遺産に登録されたのは、1979年の事であった。

(続く)

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♦️881『自然と人間の歴史・世界篇』ミャンマーの民族少数派ロヒンギャ

2018-01-07 21:09:10 | Weblog

881『自然と人間の歴史・世界篇』ミャンマーの民族少数派ロヒンギャ

 21世紀十年代のミャンマーを構成する人びとにとって、民族問題とはどんなものなのだろうか。顧みれば、民族の自決というのは、1947年2月、アウンサンはシャン族などの主要少数民族と連邦国家の樹立についての合意を取り交わす、これを「パンロン合意」という。
 2016年10月9日、ミャンマー西部ラカイン州でロヒンギャとおぼしき武装集団が警察を襲撃したとされ、その後に国軍がロヒンギャの仕業として掃討作戦を実施する。このロヒンギャ族だが、ミャンマー西部ラカイン州に住むイスラム教徒にして少数民族をいう。彼らに対する国軍など治安部隊による組織的殺害や暴行、家屋への放火などの人権侵害が起こる。2017年8月25日、ロヒンギャの武装集団がラカイン州で警察など襲撃したとされ、国軍が反撃する。その後に、約60万人超のロヒンギャ住民がバングラデシュへ避難する。 続いての10月12日には、アウンサースーチー国家顧問兼外相がテレビ演説で難民の国内帰還、人道支援に関する新組織設立の移行を表明する。続く11月6日、国連の安全保障理事会が、ミャンマー政府に、ラカイン州での軍事力行使を抑制するよう求める議長声明を発表する。11月23日、ミャンマーとバングラデシュ両政府が、ロヒンギャ難民のミャンマー帰還に向けた覚書に署名する。11月28日、フランシスコ・ローマ法王がアウンサースーチーと会談する。
 ここで愁眉の急を告げる問題となっているのは、ロヒンギャの一般民衆がミャンマーの多数派及び政権によって迫害されている可能性が色濃いことである。

(続く)

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○237『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1750~1849、日本全図)

2018-01-07 20:31:38 | Weblog

237『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1750~1849、日本全図)

 伊能忠敬(いのうただたか、1745~1818)は、現在の千葉県の九十九里町に生まれる。裕福な家ではなかったらしく、17歳の時に佐原(さわら)の、酒造を営む伊能家の婿養子となる。それからは商売の道に分け入り、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年後には、当初傾いていた経営を立て直したのだという。その心構えといい、商才といい、当初から秀でていたのであろう。
 それからだが、ただに商売に邁進していったのではなくて、36歳で名主となり、1783年、38歳の時の天明の大飢饉では、私財の一部をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力したのだという。
 その忠敬だが、いつからか暦学に興味をもって、勉強していたらしい。それが高じてか、1795年、50歳になったのを機会に家業を譲り、江戸へと出て行く。当時の天文学の第一人者、高橋至時(たかはしよしとき、1764~1804)の門をたたく。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る幕府の天文方暦局があった。至時は、そこで改暦作業や何やに携わっていたとのこと。この師に相まみえて、以後彼の天文学は日々の実践で鍛えられていくことになる。
 そんな中の1797年、至時と同僚の間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させるも、地球の正確な大きさが分からず、つくりたての暦の精度に不満足だったという。地球は丸い、そこで子午線1度の長さをこの国で測ることができれば、それを360倍することで地球の一周、さらに直径がわかるというのだが、それをどのようにして測るのかが問われていた。すでに学識が一流の域に達していた忠敬は、この話を至時から聞き、できるだけ離れた2つの地点で北極星の高さを観測し、それで得られる二つの見上げる角度を比較することで緯度の差を割り出し、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せるという提案をなし、自分はこれをやってみたいと申し出る、至時は忠敬の案に賛同するにいたる。
 至時がまだ若くして病で倒れた後には、忠敬はこの仕事に邁進していく。幕府の天文方に取り立てられてからは、なお一層励み、この組織の中心となって働く。参考までに、この仕事に用いられたのは、量程車(至時考案のもので、引いて歩いて使う、歯車の回転数で巨利を割り出せる・国宝)、半円方位盤(中央に据えられた磁石と半円の目盛りで方位を読む、国宝)、象限儀(中)(北極星などの高度を観測し、緯度の測定に用いる・国宝)、わんか羅鍼(らしん)(杖先(じょうさき)方位盤、磁石面を水平に保ち、方位や角度を測る、国宝)、測食定分儀(日食、月食の進み具合を目盛りで読む、国宝)といった測量器具である。
 1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで、足かけ17年をかけて、仲間とともに全国を歩き回って測量し、『大日本沿海輿地全図』の大方を完成させ、日本の国土の正確な姿を初めて明らかにする。この仕事の第4次までは、忠敬を中心とする人びとが自費・自前で行う。1800年(寛政12年)閏4月19日、内弟子3人、従者2人を連れ、56歳の忠敬際は北を目指して江戸を発った。奥州街道と北海道に向かう。1801年(享和元年)には、本州東海岸の第2次測量の度に出る。
 その後幕府の直轄事業となってからは、畿内・中国方面(第5次)四国方面(第6次)、九州方面(第7、8次)と、歩き回って地図づくりに励む。1815年(文化12年)、伊豆七島を測量した第9次測量では、高齢の忠敬は参加しなかったが、翌年の江戸府内の測量(第10次)には、71歳の忠敬も参加する。だが、全図の完成するに至らぬまま病没し、それからは弟子たちが仕事を引き継ぎ完成し、幕府へ完成図を納める。
 その忠敬の墓標には、「測量の命が下る毎に、すなわち喜び顔色にあわらし、不日にして発す」云々と刻まれる。また、晩年の彼が娘に宛てた手紙においては「古今これ無き、日本国中に測量御用仰付けられ(中略)これぞ天命といわんか(中略)」とあり、本懐を遂げたというのは、誠にこのことをいうのであろうか。
 時はさらに経過しての1842年(文政13年)になって、異国船打払令(無二念打払令)が改訂された。それまでの異国船打払令(無二念打払令)を緩和して、文化期の「撫恤令」の水準に戻し、薪水の供給をすることになった。これには、アヘン戦争などで、清国が西洋列強の餌食にされたことが背景にある。
 おりしもこの時期に、シーボルト事件が起こる。これは、1828年(文政11年)、故国のオランドに帰ろうとシーボルトの乗る船が台風を受け座礁したのに始まる。積み荷の中に、幕府の天文方で書物奉行を兼ねる高橋作左右衛門こと高橋景保(たかはしかげやす)からもらった「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」などの禁制品のあるのが、発覚した。シーボルトには永久追放処分が下り、高橋景保は獄中で病死する。この事件には後日談がある。まずシーボルトには、事件から27年後の1856年(安政3)、「日蘭修好通商条約」が締結されるに及んで国禁も解除され、再び日本の地を踏むことができた。
 もう一つは、景保を巡る数奇な人間関係にある。というのも、彼は伊能忠敬の恩師である高橋至時(たかはしよしとき)の息子であり、忠敬の死後同図の作成を引き継いで、1821年(文政4年)に完成させた。しかも、その景保を密告した人物が、伊能忠敬と親交があり、忠敬の弟子(前役職の松前奉行支配調役下役格の時代、忠敬の方役職は小普請組天文方に配属)ともいえる、幕府普請役(ふしんやく)の間宮林蔵(まみやりんぞう)なのである。なお、「シーボルトはもちろん事件の告発者である林蔵を快く思わなかったが、その大著『日本』において、林蔵の間宮海峡発見のことを紹介し、称賛する雅量は失わなかった」(北島正元『日本の歴史・幕藩制の苦悶』)ともいわれる。
 ところで、シーボルトと親交を結んだ中に、幕末期の「蝦夷(えぞ)」や「樺太(からふと)」への探検家に、最上徳内(もがみとくない)がいる。彼は1754年(年)に出羽国(後の羽前国)村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の農家に生まれる。1781年(天明元年)に江戸へ出る。数学者にして経世家の本多利明が経営する音羽塾に入門したのである。この塾にて天文、測量、航海術などを学ぶ。その彼が、当時のオランダ商館長の参府について江戸にいたシーボルトと知り合ったのは、1826年(文政9年)のことであった。その日のシーボルトの日記にこうある。
 「4月16日(旧3月10日)、本当にこの16日は特別に白い石でもって記入する日なのである。
 最上徳内(もがみとくない)という日本人が、二日間にわたってわれわれの仲間を訪れた時に、彼は数学とそれに関係ある他の学問に精通していることを示した。中国、日本およびヨーロッパの数学の種々な問題を詳しく論じた後で、彼は絶対に秘密を厳守するという約束で、蝦夷(えぞ)の海と樺太(からふと)島の略図が描いてある二枚の画布をわれわれに貸してくれた。しばらくの間利用できるというのである。実に貴重な宝ではあるまいか。」(シーボルト著・斎藤信訳「江戸参府紀行」)
 これから推すに、最上徳内という人は、なかなかの理論と実践の両方を兼ね備えた人手であったらしい。いろんな遍歴の後、後に幕府の普請役になって食をつなぎながら、はなばなしい地図作りや鳴り物入りの冒険ではなかったのかも知れないが、蝦夷地や千島の探検など、数々の功績があったことで知られる。1836年(天保7年)に江戸下町の片隅で、82歳の人生を極貧の中に閉じたのだと伝えられる。 

(続く)

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○236の2『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(蘭学者の系譜、1750~1849)

2018-01-07 20:29:41 | Weblog

236の2『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(蘭学者の系譜、1750~1849)

 これを反映して、学問の分野でも大きな進展が見られた。この時期に活躍した美作に縁のある人物として、箕作阮甫(みつくりげんぼ 、1799~1863)げんぼと宇田川玄随(うだがわげんずい)、宇田川玄真(うだがわげんしん)、宇田川榕菴(うだがわようあん)などがいる。箕作は、津山藩の医師にして蘭学者で知られる。箕作文庵の二男に生まれ、1810年(文化7年)長兄の死により家督をつぐ。1816~19年に京都の医師竹中文輔のもとで医学を学び津山に帰る。1822年(文政5年に)津山藩医となる。ついで、1823年(文政3年)に藩主の参勤交代のお供で江戸に出ると、江戸に在った同藩の医師宇田川玄真に弟子入りし、さらに医学と蘭学を学ぶ。江戸に出て儒学とオランダ医学を学んだ。
 1839年(天保10年)には、幕府天文方に就任する。「蕃書和解方」の職名で、つまり外国文書の翻訳を務める。主な役目としては、ロシア・アメリカの外交使節と応接した。具体的には、1853年(嘉永6年)のアメリカ・ペリー提督来航時には、同国の国書を江戸城に上って翻訳する仕事に従事、また同年来航したプチャーチンとの応接のために長崎へ下向する。翌年の伊豆下田でのプチャーチン一行との交渉に参加するなど、活躍する。1856年(安政3年)には蕃書調所(ばんしょしらべしょ、東京大学の前身)首席教授となる。著書・訳書に、我が国最初の医学雑誌「泰世名医彙講」(たいせいめいいいこう)、「和蘭分典」、「改正増補蛮語箋」(かいせいぞうほばんごせん)、西洋地誌としての「八紘通誌」(はっこうつうし)や「地球説略」などがある。1862年(文久2年)には幕臣に列せられた。
 宇田川三代は、津山藩の医者の立場を利用して、解剖学を含む我が国の医学の発達に貢献した。二代目の省吾、三代目の秋坪(しゅうへい)もこの道を進み、三代でもって美作出身で洋学の基礎的知識を紹介したことで知られる。このうちの宇田川榕菴(うだがわようあん、1798~1846)は、大垣藩の藩医、江沢養樹(えざわようじゅ)の長男にして、宇田川玄真の養子に入る。異色の蘭学者であったようで、「酸素」、「水素」、「窒素」、「炭素」などの日本語による元素名や、酸化、還元などの化学反応にまつわる言葉、はては「細胞」や「柱頭」などの日本語による生物学用語を造った。かわったところでは、西洋音楽理論や音声学、それに「珈琲」という当て字をも考案した。これらの業績のうちで最も驚嘆すべきは、『理学入門植学啓原』(1835年)、我が国初めての化学書である『舎密開宗』などを著し、日本における日本の博物学の発展に貢献したことにある。『理学入門植学啓原』には、榕菴の同僚である箕作阮甫(みつくりげんぽ)の序文があり、従来の本草学に比べた西洋植物学の違いが明確化されているところである。榕菴の後は、弟子の伊藤圭介らが引き継いでいく。明治維新を迎えてからの伊藤は、小石川植物園の整備にも尽力した。
 1808年(文化5年)、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に入港した。入港した後、この軍艦はオランダの商館を略奪する動きを見せる。警告を無視され、強行突破されてしまった長崎奉行は、面子(めんつ)を失ってしまった。一度あったことは、二度目もありうる展開だといえる。1825年(文政8年)2月、幕府は異国船打払令を出した。ところが、1837年(天保8年)、アメリカの商船モリソン号が浦賀沖に現れた。彼らは、善意から我が国の漂流民を送り届けようとしてのことだった。時の浦賀奉行はどうしただろうか。彼は、江戸に急を知らせる使いを立てるとともに、そのモリソン号を砲撃させた。これは、幕府の鎖国の方針に従ったまでのことと説明されている。幸い、モリソン号に弾丸が命中することはなく、港外に逃れ、薩摩へと向かった。
 これに対して、蘭学者たちは、日頃の鍛錬で培った国際感覚をもってというべきか、幕府の保守的な対応に直ちに反応した。幕府が外国船を見境なく砲撃で打ち払うことがどのようなリスクを引き起こすかについて考えが及んでいないことを批判したのだった。渡辺崋山は『慎機論』(1838年(天保9年))を、高野長英は『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり、1838年(天保9年))を著した。それぞれには、こうある。
 「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり」(『慎機論』より)
 「イギリスは日本へ対し敵国にはこれ無く、謂はゞ付合もこれ無き他人に候処、今般漂流人を憐れみ、仁義を名とし、態々送り来たり候者を、何事も取合申さず、直に打払いに相成り候はゞ、日本は民を憐まざる不仁の国と存ずべく候。若又万一其不仁不義を憤り候はゞ、日本近海にイギリス属島夥しくこれ有り、始終通行致し候得者、後来、海上の寇(あだ)と相成り候て、海運の邪魔とも罷成申すべく、たとへ右等の事之無く候共、御打払に相成候はゞ、理非も分かり申さざる暴国と存じ、不義の国と申し触らし、礼儀国の名を失ひ、是よりいかなる患害、萌生(ほうせい)仕り候やも計り難く、或いは又ひたすらイギリスを恐る様に考え付けられ候はゞ、国内衰弱仕り候様にも推察せられ、恐れながら、国家の御武威を損ぜられ候様にも相成候はんやと、恐れ多くも考えられ候。」(『戊戌夢物語』)
 これにあるように、やんわりと異国船打払令を出しての鎖国は当を得ていないというに過ぎないのものの、幕府は事の道理を吟味しての反発というよりは、幕政の批判がなされたこと自体を許さず、かれらを死に追い込んだのであった。これを「蛮社の獄」(ばんしゃのごく)と呼ぶ。

(続く)

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○236の1『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(外国船の寄港、1750~1849)

2018-01-07 20:28:15 | Weblog

236の1『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(外国船の寄港、1750~1849)

 18世紀も後半に入ると、日本列島の入り組んだ、長い海岸線に沿って外国船の渡航が相次ぐようになり、西洋列強との関係が煩雑になってくる。1792年(寛政4年)、ロシア船のラクスマンが根室に到来する。漂流民送還や我が国との通商を要求した。幕府はこれを拒絶し、長崎への廻船を支持した。

 1798年(寛政10年)、探検家の近藤重蔵が千島と択捉島(えとろふ島)を周回する。彼は、その調査の結果を「大日本恵土呂府」にまとめる。1799年(寛政11年)、松前藩が治めていた東蝦夷地を幕府の直轄領とする。1802年(享和2年)、幕府が東蝦夷地直轄のため箱館(現在の函館)に奉行所を設置する。

 1804年(文化元年)、ロシアの使節レザノフが長崎にやってきて通商を要求するも、幕府は拒絶する。同年の幕府は、弘前、盛岡の両藩に蝦夷地の警備を命じる、沿海の諸藩にも外国船警戒を通達する。

 1807年(文化4年)には、幕府が蝦夷地全体を直轄領とし、奉行所を松島におくとともに、松前藩を陸奥梁川に転封するのであった。1808年(文化5年)、今度はイギリスのフェートン号が通商を求めて長崎にやって来るが、幕府は食糧などを与えて追い返した。
 1811年(文化8年)、ロシアの士官ゴローニンが国後島(くなしりとう)にやって来て、測量を始める。ロシアの旺盛な領土拡大への意思がくみ取れる事件となる。幕府はこれを咎め、幽閉する。彼はこの間に『幽閉記』を書いている。おりしも高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)がロシア側に拘束されていた。その嘉兵衛の身柄と引換に、翌年になってから幕府はゴローニンを釈放する。嘉兵衛による密貿易の疑いは晴れたものの、その後の幕府の嘉兵衛への追求は厳しく所有する千石単位の所有の船12隻を没収の上、淡路へ謹慎を命じられる。また彼の養子の嘉市に対しては船家業を差し止めるなどで商売の息の根を止めようとするのであった(この事件の経緯について詳しくは、塩澤実信著・北島新平絵による『新しい大地よー探検と冒険の時代』理論社、1987)。

 1837年(天保8年)になると、さらにアメリカのモリソン号が鹿児島と浦賀の沖合に現れ、我が国に漂流民の送還と通商を求める。
 我が国外交が、諸事全般慌ただしくなっていくのは、世界の趨勢であったに違いない。その圧力を振り払おうとしても、相次ぐ来航と諸要求を突きつけられるのは、避け続けることができない。ゆえに、内外にわたる人々の意志決定の蓄積がものをいう時代となってきていた。

 1853年(嘉永6年)の8月10日には、ロシアのプチャーチンの艦隊4隻が、長崎に入港してくる。その前の7月26日に、彼らは寄港地の小笠原に立ち寄っていた。  

 長崎でのプチャーチンは、ロシア皇帝からの国書を幕府に渡し、通商を求める。幕府の引き延ばし策により、一行はそれからおよそ3ヶ月を長崎で過ごす。

(続く)

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