96『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)
やがて江戸時代に入ると、領国支配は大きく変わる。毛利氏の勢力が削減されたのが最大眼目であったことは、いうまでもない。1617年(元和三年)、池田長幸(いけだながゆき)が鳥取城主から移封されて、石高6万5000石の松山城主となったのが江戸期の最初の大名入りであった。同年には、山崎家治が川上郡成羽藩3万石に封ぜられる。1639年(寛永16年)、その山崎氏の移封により、水谷勝隆(みずたにかつたか)が成羽藩5万石の主になるも、1642年(寛永19年)に松山藩の池田氏が断絶すると、それまで成羽藩主であった水谷勝隆がこの備中松山の城主になるというめまぐるしさであった。同藩は、この勝隆の時の1651年(慶安4年)以来たびたび内検を行って以来、たびたびこれを行っていく。1693年(元禄6年)の頃のそれは、朱印高が5万石であったのに比べ、内検高は8万6000石にも膨らんだという。1657年(明暦3年)に彼が近くの奥万田町から移築した松連寺(しょうれんじ)は、珍しく石垣の上に立つ寺院であり、城の防衛戦の一つの役割を担っていた。
1681年(天和元年)になると、二代目藩主の水谷勝宗(みずたにかつむね)が近世城郭に大改修し、城構えを整備した。ところが、1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、その勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。このために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり断絶・除封された。1695年(同8年)に、姫路藩主の本多中務大輔が幕府の命令で検地を実施した。その際には、「過去5年間の年貢収納高および石高を基礎に、幕府の内示高11万619石余に合致するように検地を実施した」(『角川地名大辞典・岡山県』)とあって、いかにも抜け目がない仕置きとなっている。その後しばらくは安藤・石川両氏の所領であったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして江戸中期から明治維新までは、徳川譜代の板倉氏の城下町としてあった。
めずらしいところでは、市内に頼久寺(らいきゅうじ)がある。この寺の開基は室町期に遡る。足利尊氏(あしかがたかうじ)が、諸国に命じて建立させた安国寺の一つ、との伝承がある。寺内には、1604年(慶長9年)頃に造られたという、小堀遠州による設計の庭園が訪れる人を迎えてくれる。その形式は、蓬莱式枯山水庭園で珍しく、わびさびの世界が広がる。その特徴は、愛宕山(あたごやま)を借景に、白砂が敷き詰められており、その中に「鶴島」、「亀島」といったお伽噺上の島がこしらえてある。また、遠景にはさつきがふんわりと植わっていて、庭の植栽を賑わす。「旅は情け」の故事に従えば、さつきが満開の頃にここを訪れ、座敷に座って彼の意を凝らした庭を眺めると、ここを訪れる旅人の日頃の浮き世の疲れも、さぞかし癒されることだろう。
この高梁の山間(やまあい)の地形に、うまくへばり付いた美しい町並みの城下町を出る。それから、高梁川の川沿いをたどっての南進は、大小の渓谷や峡谷つづきであって、当時の人馬による通行は、「道なき道」のようで、さぞかし難渋したことであろう。頼みの舟のルートも、このあたりは急流続きで往来には困難がつきまとう。
(続く)
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63の2『自然と人間の歴史・日本篇』律令制へ
とはいえ、白村江での敗戦から2年後の665年には、第5回目の遣唐使が派遣される。
守大石(もりのおおいわ)・坂合部石積(さかいめのいわしき)なとが大陸に渡る。現代流に言うと、国交が回復されたことになるのだろうか。振り返れば、第1回は630年に犬上御田鍬なが、2回目は653年に吉士長丹・道昭などが、3回目は654年に高向玄里などが、4回目は659年で坂合部石布などが派遣されていた。
なおこれ以後、6回目が669年に河内鯨らが、7回目として702年に粟田真人・山上憶良らが、8回目は717年に多治比県守・吉備真備・阿倍仲麻呂・玄肪などが、9回目は733年に多治比広成らが、10回目752年に藤原清河・吉備真備らが、また帰り船で鑑真が754年に渡来する。11回目は759年に高元度らが、12回目は761年として企画されるが派遣中止となる。13回目は762年に中臣鷹主(渡海せず)らが、14回目は777年に佐伯今毛人らが、15回目は779年に布勢清長らが、16回目は804年に藤原葛野麻呂・最澄・空海らが、17回目は838年に藤原常嗣、円仁らが派遣される。そして18回目として894年に菅原道真らが遣唐使に任命されるも、派遣中止となる。
667年には、朝廷が近江の大津に宮を移す。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、668年(天智元年)に大王に即位する。中国の唐と組んだ、朝鮮半島の新羅が百済を滅ぼした2年後のことであった。高句麗も四度、唐・新羅連合軍に抵抗したものの、668年ついに降伏する。かると今度は、唐が都護符を遼東(リヤオトン半島)に置いて朝鮮半島に触手を伸ばし始める。新羅は反抗に転じる。これには旧二国の遺民も抵抗する形で、やがて迎えた676年新羅が都護符を遼東へと退けることで、朝鮮半島の統一を果たすのであった。
倭国の方では、天智大王の即位の3年後の671年、大王は「近江令」(おうみりょう)に基づき、太政官制を敷いた。長男の大友皇子(おおとものおうじ)を太政大臣に任命する。彼を補佐する左大臣に蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣に中臣金、御史大夫(令制の大納言)には蘇我果安、巨勢人(こせのひと)、紀大人の三人を起用する。その翌年の672年には、天智天皇が近江宮で死去した。668年(天智元年)に即位してから、4年後のことであった。
「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)と呼ばれる宮廷クーデターが起きた。吉野に雌伏していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)が戦いに敗れ、これを倒した大海人王子(おおあまのおうじ)が力づくで天下人にとって代わるのである。
なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説をねつ造したとの考えもあって、現在までのところ確かなところはわかっていない。
ところで、この権力闘争において、備前の国を治める吉備氏(きびし)は、概ね中立の立場をとっていたのではないか。あるいは、どちらにも付きかねて、どちらか優勢な方に味方しようという、いわば模様眺めの姿勢であったのかもしれない。大友皇子が放った東国への使者は大海人皇子側に阻まれた。朝廷側は吉備と筑紫にも助勢を頼んだ。けれども、両勢力ともどちらの陣営へも大きくは荷担しなかった。
これについての資料としては、『日本書記』の同年「6月26日の条」に、近江朝廷(大友皇子)側が吉備の軍事力を味方につけようとして、敵対する大海人王子と親密な関係にあった吉備国守の当麻公広島を殺害した、とある。「この頃吉備地方は吉備国として支配されていたことが知られる」(角川書店刊の『角川地名大辞典』より)というのが史実であったのなら、なぜそこまでしなければならなかったのかも問われるのではないか。ともあれ、この頃まで、吉備の国は大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見てよろしいのではないか。
なお朝鮮半島の動静を追加すると、7世紀いったん唐の統治下に入っていた旧高句麗領の東北部の住民が蹶起して、渤海国を建てる。その後は唐の懐柔策に応じて朝貢し、王朝の機構を整えていく。倭との間に使節を送り合う関係になり、奈良・平安期に至るまで有効関係を保っていく。
(続く)
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63の1『自然と人間の歴史・日本篇』白村江の戦い(662)
661年(斉明大王7年)、風雲急を告げる百済救援のため斉明(さいめい)女王は筑紫(現在の九州)へ向かった。その途中、四国の松山において、従者の額田王(ぬかたのおほきみ)が詠んだ歌に次のものがある。
「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(『万葉集』、巻十八)
斉明大王は、しかし、朝鮮半島での倭国の劣勢挽回を果たせないまま、その年中に九州の地で死去し、その地に同伴していた息子の中大兄皇子が大王位を引き継ぐ。 660年に百済(ペクチェ)が滅ぼされてから、その残存勢力は、朝鮮半島における百済王室の再興運動に奔走していた。663年(斉明大王6年)、その力がある程度整ってきたのを機会として、日本はかれらとともに朝鮮半島の「失地」を奪回すべく、黄海に艦隊を派遣した。
その同じ663年(斉明大王6年)の旧暦8月28日から29日にかけて、日本と、日本を頼ってきた百済遺民との連合軍が、朝鮮半島の白村江(ペクソンガン。和読は、はくすきのえ又はくそんこう)で唐と新羅の連合軍と船戦を戦い、2日間の激戦の後に完敗した。ここに白村江(ペクソンガン)は、現在の韓国の全羅北道(チョルラプクト)・群山(クンサン)で黄海(ファンヘ)に流れ込む錦江(クムガン)の河口付近だと推定される。『新唐書卷一百八/列傳第三十三、劉仁軌伝』には「遇倭人白江口、四戰皆克、焚四百艘、海水爲丹」とあって、この海戦で倭の「舟」400艘が焚かれたのが概ね本当であるなら、その数の数倍の戦死者が出たであろうことが推定できよう。ちなみに、『日本書紀』巻第廿七「天智天皇」の「天智二年秋八月」の条は、この戦いの模様を、こう伝える。
「秋八月壬午朔甲午、新羅、以百濟王斬己良將、謀直入國先取州柔。於是、百濟知賊所計、謂諸將曰、今聞、大日本國之救將廬原君臣、率健兒萬餘、正當越海而至。願、諸將軍等應預圖之。我欲自往待饗白村。
戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。」
ここに「大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得廻旋」と唐書に呼応するような書きぶりとなっていることから、倭の側にとっては不慣れな海戦で完膚なきまでの敗北を招いたことなのだろう。この流れの結果として、倭の宮廷には落胆ともに、勢いを増した唐と新羅が日本に攻めてくるのではないかと混乱が広がったことは、想像に難くない。
このようにして東アジアの政治情勢が緊張すると、どうなるであろうか。天智天皇らの朝廷は、これに対処する方法を色々と考える。そこで、これ以後は臨戦態勢をとることとし、九州そして中国地方の防備固めを急ぐのであった。その防備の中心に据えられたのが「古代山城」や水城(大堤)であった。前者は、朝鮮半島の築城方法に基づいて山上に造られた軍事要塞なのであって、かかる防衛ラインに沿って設けられていく。
その代表例として、大野城(現在の福岡県にある)を取り上げよう。663年(天地2年)、に白村江の戦いで大敗した倭(日本)は、朝鮮半島より侵攻してくる軍から太宰府を守るため、大野城はそのひとつで、太宰府を眼下にする標高410メートルの四天王寺山に造られる。その建設には、百済の貴族の指導があった、とされる。軍事基地や兵舎、軍倉庫など70棟以上の建物、総延長8キロメートル以上におよぶ土塁や石塁などの痕跡が判明している。
山陽道を通って畿内へ向かう途中の吉備地方に築かれた鬼ヶ城も、そうした軍事要塞の一つに数えられよう。一方、律令国家は東北地方に7世紀半ばから城柵を設置するのであって、多賀城(現在の宮城県)、払田柵(現在の秋田県)などが代表例である。
なお、これに関連して、南朝鮮での倭の橋頭堡がどうなったかにも触れたい。これについて、一説には、「かつて日本のヤマト勢力は韓半島南部で活動したが、「任那日本府」という公式の機構を設置して支配したと見ることはできない」(徐毅植他著・君島和彦他訳「日韓でいっしょに臨みたい韓国史ー未来に開かれた共通認識に向けて」明石書店)とも指摘されている、このことに注目しておきたい。
(続く)
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546『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ミャンマー)
1942年5~6月、侵攻してきた日本軍が、当地ビルマのイギリス軍を追い出し、全土に軍政を布告する。これより少し前、日本は、タキン党(主人の党)の指導者たち、バー・モー、オン・サンらビルマの独立運動を推進してきた人々の夢を後押ししているかのような立場をとっていた。日本軍は、かれら独立軍を政治的に利用したのだ。日本軍がその占領でビルマの地に進出を確かなものとしたとき、独立軍は2万以上に達していた。
1943年に入って、日本は形ばかりの独立を認めるとともに、政治や経済の実権は握り続ける。アウンサンは、国軍の最高司令官と国防相に任じられるのだか、その国軍は日本軍に従属させられる。1943年8月1日、日本は建前上はビルマの独立を認めたものの、実質的支配は日本軍の掌中にあった。日本政府と軍は現地ビルマの人々を強制労働に駆り立てることを行いながら、ビルマを支配していく。
翌1944年8月1日の独立記念日には、オン・サンらのビルマ独立運動の指導者たちは、共産党を除くすべての勢力を結集して、地下組織「反ファシスト人民自由連盟」をつくり、抗日運動を組織する。1945年に入ると、国軍を中心とする抗日蜂起が起こり、独立の運動は全国で高まる。
そして、1945年夏の日本軍国主義の連合国に対する敗北、無条件降伏があり、日本軍が現地を引き揚げ、再びイギリスが領する。独立軍はビルマにおける日本軍国主義の敗北に貢献したことが認められる。1947年1月28日、イギリスがビルマと独立供与協定を締結する。イギリスの立場としては、みずからの指導性を確立するとともに、かれらに政治的な代償を与えようというものであった。イギリス軍は独立軍に武装放棄と解散を命じる。
1945年8月19日、このイギリスによる新たな支配に抗して、オン・サン将軍は反ファシストし選民自由連盟を結成、その総裁として国民集会でイギリスの新植民地政策に反対して、「完全なる独立」を要求する。そして、独立軍をイギリスに対する人民義勇軍に変え、独立闘争を推進していく。
1947年1月、イギリスはついにビルマを政治的に支配する道が無理なのを悟り、オン・サン・アトリー協定によって「1年以内の完全独立」を認めるにいたる。民族自決については、1947年2月、アウンサンはシャン族などの主要少数民族と連邦国家の樹立についての合意を取り交わす、これを「パンロン合意」という。この年の7月19日、アウンサンらが政府庁舎で会議中のこと、乱入した4人に襲われ、銃弾に倒れる。
かくして、翌1948年1月4日、ビルマが英国による連邦を脱して、独立する。ビルマ連邦共和国の誕生だ。1948年8月20日、ビルマ全土に戒厳令が発せられる。それからさらに時が経過していく。そして迎えた1962年3月、国政は混乱していた。国軍のネウィン将軍が、これに乗じてクーデターで権力を掌握し、長い軍事政権の時代に入っていく。1989年5月26には、国名をミャンマーに変更する。
ミャンマーを構成する人びとにとって、民族問題とはどんなものなのだろうか。顧みれば、民族の自決というのは、1947年2月、アウンサンはシャン族などの主要少数民族と連邦国家の樹立についての合意を取り交わす、これを「パンロン合意」という。
2016年10月9日、ミャンマー西部ラカイン州でロヒンギャとおぼしき武装集団が警察を襲撃したとされ、その後に国軍がロヒンギャの仕業として掃討作戦を実施する。2017年8月25日、ロヒンギャの武装集団がラカイン州で警察など襲撃したとされ、国軍が反撃する。その後に、約60万人超のロヒンギャ住民がバングラデシュへ避難する。 続いての10月12日には、アウンサースーチー国家顧問兼外相がテレビ演説で難民の国内帰還、人道支援に関する新組織設立の移行を表明する。続く11月6日、国連の安全保障理事会が、ミャンマー政府に、ラカイン州での軍事力行使を抑制するよう求める議長声明を発表する。11月23日、ミャンマーとバングラデシュ両政府が、ロヒンギャ難民のミャンマー帰還に向けた覚書に署名する。11月28日、フランシスコ・ローマ法王がアウンサースーチーと会談する。
(続く)
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880『自然と人間の歴史・世界篇』カンボジア内戦と和平への歩み(1970~2017)
1970年、親米のロンノル将軍の率いる軍がクーデターが起こる。元国王のシアヌークは国家元首であった人物なのだが、弾圧を恐れて中国の北京に亡命。この年、カンボジア内戦が始まる。1975年には、共産党がプノンペンを制圧する。ポル・ポト書記らが権力を行使し、私有財産廃止などを行う。これによる政権は、強制移住や虐殺もためらわなかった。一説には、その後数年間に200万人以上が死亡と推定される。1979年、ベトナム軍の支援でヘン・サムリン政権が成立する。1982年、シアヌーク派、ポル・ポト派を含む反ベトナムの連合政府が発足する。内戦が激化する。
1989年、米ソ首脳が冷戦の終わりを宣言する。1990年9月、国連安全保障理事会の常人理事国5か国が、カンボジア最高国民評議会(SNC)を設置する。これは、シハヌークを議長とし、ヘン・ サムリン政権6名、ソン・サン派2名、シハヌーク派1名、ポル・ポト派2名から成る。この下で、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)による停戦監視・総選挙実施などの枠組みで合意に漕ぎ着ける。
これを踏まえての1991年10月、紛争当事者4派と関係18か国(国連常任理事国や日本を含む)が、「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ平和協定)に調印することで、カンボジアにようやく和平の道筋がつく。12月、ポル・ポト派による反対行動が多発し、国際的な和平プロセスに暗雲が垂れ込める。
1992年3月、国連PKO(平和維持活動)に新国家樹立の準備が任される。日本からは施設部隊、停戦監視要員、文民警察官なが現地に派遣される。1993年5月、制憲議会選挙を実施。恐れていたポル・ポト派の攻撃はなかった。6日間にわたる選挙は投票率89%。シアヌーク派のフンシンペックが第1党、親ペトナム勢力の流れをくむ人民党が第2党となる。6月には、両党による共同首相制の暫定政府が発足する。
1993年9月、新憲法が公布される。立憲君主制によるカンボジア王国が成立。シアヌークが再び国王になる。これにより、UNTACの任務が終了する。1998年、ポル・ポトが死亡したことで、ポル・ポトが消滅する。2004年、シアヌークが退位し、実子のシハモニが新国王となる。2008年、人民党のフン・セン首相による事実上の単独政権が成立する。2012年、シアヌーク前国王が北京で死去する。2016年、国連の支援を受け、元ポル・ポト派幹部を裁くカンボジア特別法廷が開かれる。同派の元幹部らに、最高刑の終身刑などを言い渡し、ようやくにしてカンボジア内戦に政治的決着がつけられる。
(続く)
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246『自然と人間の歴史・世界篇』17~18世紀のイギリスの三角貿易
イギリスは、17世紀に入って北米大陸の植民地を拡大していく。1672年には、王立アフリカ会社を設立し、奴隷貿易を国策とするにいたる。その前の絶対王政の頃までの重商主義政策によっては、エリザベス女王曰(いわ)く、「スペインの商船を見つけたら、それを拿捕(だほ)してよろしい」とのお墨付きを与えていたといわれる。これが事実なら、国家ぐるみの海賊行為によって、金銀財宝の類を手に入れていた時代があったとも考えられる。
1713年には、当時のヨーロッパ列強の間でユトレヒト条約が結ばれる。これは、「スペイン継承戦争」と呼ばれ戦争終結に当たっての講和条約であった。この中で、イギリスは、フランスとスペインとが大同合併しない条件で、ブルボン家のスペインのフェリペ5世の王位継承を承認する。大陸での勢力均衡をはかった形だ。イギリスはこれの見返りに、フランスからハドソン湾地方、アカディア、ニューファンドランドを、スペインからジブラルタル、ミノルカ島(地中海西部のバレアレス海、バレアレス諸島北東部にあり、現在はスペイン・バレアレス諸島州に属す)を得る。つまりは、フランスからは北米大陸での北へ向かっての足掛かりを、またスペインからはジブラルタル海峡を望む良港と、地中海の出入口を抑える戦略的要衝を得て、これらの地でにらみをきかすことになっていく。
また、この条約でイギリスは、スペイン領への黒人奴隷供給契約としての「アシエント」を獲得する。これを契機に、新大陸としての南アメリカへの黒人奴隷貿易を独占することになっていく。そして18世紀に入る頃には、イギリスは奴隷貿易を絡めての、イギリス本国とアフリカ、そしてアメリカ植民地を跨る形で「三国貿易」の仕組みが出来上がる。これを簡単に記せば、次のようなヒトとモノ、そしてカネの流れとなっていた。
まずは、イギリスのリバプール港などを出た商人の船団は、西アフリカへ向かう。そこは、イギリスがポルトガルの勢力に打ち克って地歩を固めたところだ。そこで、奴隷商人たちから黒人奴隷を手に入れる。当地の部族の中には、奴隷商人の役割を担う者がたくさんいたのだという。この人身売買の取引に使うのは、船に積んできた自国製品の武器(銃など)や綿布や綿織物、雑貨(ビーズなど)、ラム酒などであった。イギリス商船の次なる仕事は、黒人奴隷を積み込んで自国のアメリカ植民地とか西インド諸島などへ向かう。
そして現地に着くと、連れてきた黒人奴隷を売って得た資金で、このあたりのプランテーション経営で生産されたアメリカ植民地産の綿花や、ジャマイカ島などで栽培された砂糖、コーヒー、タバコといった作物を手に入れる。これらは、本国に持ち帰れば富をもたらすものばかりだ。そんな訳で、三番目のアメリカ植民地から本国への行路となるのだが、今度は、そうして調達した綿花や砂糖、コーヒー、タバコなど本国に運び、さらにヨーロッパ各国に供給したり、それらをもとに商品を生産して大きな利益を上げていく。そして、その利益の一部で、再び西アフリカに出掛けて奴隷を入れ、新大陸方面へと船団を組んでの、イギリス→西アフリカ→アメリカ新大陸→イギリスという一筆書きでのグルグル行路を進んでいくのであった。
かくして蓄積されていった富が、それまでの海賊行為によって得られた金銀財宝の類、世界各地での自国資本によるプランテーション経営からもたらされる利益とともに、産業革命の原資並びに運転・発展の資金に加えられていった訳だ。
(続く)
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185『自然と人間の歴史・世界篇』中米・南米へのスペイン進出(インカの征服)
続いての1531~33年には、これもスペインによるインカ帝国の征服があった。この国は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。1200年頃に成立し、文字を持たなかったものの、高度な農耕、金属器文化を有して、15世紀に最盛期を迎える頃、その支配地域は南米のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまでの、南北に渡る広範囲に広がっていた。
それからさらに100年以上が過ぎると、この大いなる帝国に王位継承を巡って亀裂が生じる。1531年アランシスコ・ピサロという探検家、実は征服を生業とする武人(征服者を意味する「コンキスタドール」と呼ばれる)が、この地に来て狙いをつける。
そして迎えた1532年、おりしも、アタワルパ(その名は「幸福な鶏」を意味する)がう新しいインカ皇帝となる。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位したのだ。これが、インカ帝国の内乱が終わった直後であることを知ったスペインは、コルテスの例に倣ってピサロを将軍に仕立て、征服を画策する。
この年の9月、スペイン軍は、インカの皇帝のアタワルパのいるカハマルカに向かって進軍を開始する。11月15日、カハマルカ(現在のペルー北部)に到着したピサロが使者を送って友好を申し出、アタワルパはすんなりとこれを受け入れる。はるばる海を越えてこのインカにやって来たという白人たちが、敵愾心を抱いているのだろうか、そんな筈はないと、異邦人の善意を信じて疑わなかったことが大事を引き起こす。
このためか、8万のインカ兵は油断しきっていた。アタワルパは、翌日輿に乗ってスペイン軍の待つ広場へとやって来た。そこへ予定どおり軍僧のビセンテ・デ・バルベルテ神父が進み出る。「われわれはイエス・キリストの教えで唯一神をいただいています」云々と述べたのかどうか、キリスト教に改宗するように求めるも、アタワルパは断る。それを見たピサロが、アタワルパの乗った輿に近づいて左腕をつかむと、「我々の神を冒涜したな」といったのかどうか、隠れていたスペイン軍が、突如そして一斉にインカ軍に襲い掛かる。
戦端が開かれると、情け容赦はない。37頭の騎馬兵が怒濤の如く馬に乗っていないインカ兵に襲いかかり、アレヨアレヨという間に2000人余りが虐殺され、アタワルパは捕虜になってしまう。スペイン兵は鉄製の鎧などを身につけ、鉄剣に銃を使った。168名のスペイン兵には独りの死者もなかったというから、彼ら客人が歓迎の会場に乗り込む時点にはもう打ち合わせは終わっていたのだろう。
ピサロは、囚われの身となったアタワルパに、身代金として莫大な金銀を集めるように命じた。ピサロは、まんまとこれを手に入れたのであろうか。1533年7月、もう利用価値がないとみたのか、ピサロは軍事裁判を開いてアタワルパを処刑してしまった。首都クスコを目指して南下するスペイン軍は、アバンカイの険しい山道でキスキス率いるキート派インカの襲撃を受ける。これを辛うじて撃退したスペイン軍は、こんな時の常套手段の一つ、クスコ派でワイナ・カパックの息子の一人であるマンコ・インカを傀儡(かいらい)として即位させた。1533年11月15日朝、ピサロ率いるスペイン軍400はクスコに入城して占領を果たし、インカ帝国の屋台骨はもろくも折れ、これを境にさしもの大帝国も滅亡に向かうのであった。
なぜに、これほどまでにあっけない敗北であったのかについては、誠に持って不思議というほかはない。これと前後して、インカには伝染病に感染する者が大勢出ていた。一説には、これこそがインカ帝国を滅亡に導いた決定的要因であるといわれる。伝染病の多くは、それまでのインカの人びと(イカンディオ)の想像を遙かに超えるものであったろう。その大方は、この地にやってきたスペイン人などヨーロッパ人がもたらしたものと考えられている。これも含めることでの事の顛末が語られる文献としては、さしあたりジャレド。ダイアモンドという進化生物学者による『銃・病原菌・鉄(上・下)』(倉骨彰訳、草思社)が広く知られる。
(続く)
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184『自然と人間の歴史・世界篇』中米・南米へのスペイン進出(アステカの征服)
アステカ王国の成立は、なおも伝承に包まれている。1325年に、チチメカ人の一派であるアステカ族(またはメシカ人ともいう)が、メキシコ中央高原のテスココ湖の中の小島に移り住み、テノチティトラン(現在のメキシコ市の中心部)に町を築く。
初めは有力なテパネカ族に服属していたらしい。それが、15世紀の前半のイツコアトル王のとき独り立ちする。1469年まで統治したモクテスマ1世の時に周辺のベラクルス地方やアオハカ地方の周辺の部族を次々とを征服していく。
アステカは、14世紀から現在のメキシコ南部を領するにいたる。国名のアステカ(Azteca)とは、彼らの伝説の上での起源の地「アストラン(Aztlan)から来ているとのこと。この文明国家を打ち立てたアステカ族は、やがてメシトリ神を戴く人を意味する「メシカ(Mexica)」へと昇華していくことになるのだが。
このように大帝国を築くのであったが、1519年~21年には、スペインによるアステカ帝国の征服があった。1521年5月末、テノチティトランに対するスペイン軍の総攻撃が開始される。何度も迫り来るスペイン軍を、アステカ軍は激しい抵抗によって押し戻す。大砲や小銃などを使った攻撃に劣勢となり、8月13日には皇帝クアウテモックが捕らえられ、ついにアステカ帝国は降伏する。75日間の激しい攻防戦によってテノチティトランは廃墟と化す。
それからのスペイン統治下で、1525年にクアウテモックらが反乱を企てる。しかし、これをサッチしたスペイン軍により、処刑された。アステカ攻略の功でメキシコ総督に任命されたコルテスだが、その後は中央アメリカ各地に遠征隊を派遣したが得るところはほとんどなかった。やがて、メキシコ植民地の直接支配に乗り出したスペイン王室によって、コルテスはふがいにもその職を解かれるのだった。
(続く)
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