○234『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3)

2018-03-26 22:58:04 | Weblog

234『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3)

 浮世絵(うきよえ)は、日本の代表的な文化の一つといえよう。菱川師宣から始まり、鈴木春信や勝川春章などの巧者を経て、民衆の中に根を下ろし、延ばしていった。江戸期の民衆の歩みと共にひたひたと歩んできたこの芸術が、最初の大輪の花を咲かせるのが、喜多川歌麿が活躍した江戸中期であった。
 歌麿の生きたのは、1753年頃、1806年に没した。出身地などは不明な点も多い。幼い頃に狩野派の絵師、鳥山石燕に学んだ。1780年代には黄表紙や挿絵の錦絵などを手掛けた。晩年に成っては、浮世絵美人画の第一人者に上り詰めた。
 歌麿の作品は、多数ある。好んで描いた対象は、特権階級ではない、多くは遊郭の女性や花魁もあるが、主に市井の町娘も描いた。どちらかというと、つましく暮らしている人々だ。例えば、「寛政三美人」(当時三美人)は、1793年頃の作で、大判錦絵となっており、ボストン美術館(アメリカ)で所蔵されている。後に「婦人相学十躰・ビードロ(ぽっぴん)を吹く娘」と名付けられた絵は、成熟した女性の人格まで描き分けようとしたかのような、歌麿のシリーズもの中での代表作ともいわれる。江戸以外の地に生きる人々の姿も手掛けており、「鮑とり」(6枚続き)は沖合に漕ぎ出しての、海女たちの労働をあらわし、寛政初期にかけて手掛けた「画本虫撰(えほんむしえらみ)」や「百千鳥」「潮干のつと」などの狂歌絵本においては、植物、虫類、鳥類、魚貝類などが生き生きと息づいている。ほかにも、春画、肉筆画も手掛けていて、多彩な筆遣いで縦横無尽な才能といったところか。
 描き方は、一言でいうなら、そんじょそこらには観られない、繊細かつ優麗な描線を特徴としている。それでいて、さまざまな姿態、表情の女性の中からい出てくる美を追求した。大胆なポーズをとってる作品もあり、自由自在にかき分けている、というほかはない。顔は大きく、実物を観察するうち、クローズアップしてくるものを自分の頭の中で再構成して描いているのではないか。彼の特徴は、細い線だとうかがった。そこに注意して観ていると、おっとりした表情の中に描かれている人物の息遣いまでが伝わってくるかのような心地になるから、不思議だ。
 浮世絵は、合作だ。絵師がいて、彫り師がいて、摺り師がいて、とにかく多くの皇帝に跨ることで、その協力があって初めて作品が出来上がり、買い手がつく。その分業の始めから終わりまでを取り仕切る商売人がいて、さながら問屋制による手工業のようでもあったろう。忘れてはならぬのは、蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750~97)の功績であろう。彼は、江戸吉原に生まれた。7歳の頃、商家の蔦屋に養子に出される。長じては、初め吉原大門外の五十間道に店を開き,地本問屋(じほんどいや)の鱗形屋(うろこがたや)から毎年発行している吉原のガイドブック(『吉原細見』(よしわらさいけん)の小売りを営んでいた。そのすがら、太田南畝、恋川春町、山東京伝らの作家や、北尾重政、勝川春章、喜多川歌麿らの浮世絵師たちと見知っていく。1774年(安永3年) 、初めて版元として浮世絵(北尾重政画の「一目千本花すまひ」を出版する。1783年には、日本橋通油(とおりあぶら)町に店を構える。時代は、いわゆる田沼時代。それからは、喜多川歌麿や東洲斎写楽らを売り出すなど、ヒット作を飛ばしていった。浮世絵版画だけでなく、黄表紙や洒落本、狂歌絵本なども手掛けていく。間口の広い、出版業の走りだといえよう。須原屋市兵衛と並ぶ代表的な出版業者という意味を込めて、「蔦重」と通称される。
 ところが、田沼老中が失脚すると、寛政改革で時代は風俗の抑圧へと動いていく。1791(寛政3)年、作家の山東京伝が世相を風刺することで風俗を乱していると咎められ、山東は手鎖の刑50日、重三郎は「身代」(財産)の半分を没収という厳しい刑を受ける。それでも、重三郎の反骨精神は没するまで続いたといわれる。1796年(寛政8年)には、美人画に、「富本豊ひな」や「難波屋おきた」などの実名をすり込むことが禁止される。1799年(寛政12年)には、歌麿に関係深いところで、奉行所による錦絵の検閲強化で「美人大首絵」までが禁止されてしまう。最大級の被害者である歌麿は、その作品を半身像にしたり、三人像にしたりで、なんとか法の網をかいくぐっていくのであった。
 歌麿以降の浮世絵は、鳥井清長、東洲斎写楽(複数人かも)、葛飾北斎、宇田川豊国、安藤広重らに引き継がれ、後には世界の美術へ影響を及ぼすことにもなってゆく。

(続く)

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○233『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など2)

2018-03-26 22:56:56 | Weblog

233『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など2)

 円空(えんくう)は、1632年(寛永9年)の生まれ、岐阜の長良川付近に生まれたが、詳細はわかっていない。彼が造った「円空仏」は、東日本を中心に五千近くも発見されているようだ。総数は、優に1万を超すとみられている。僧となってからの彼が辿った路は、主に東日本の広い範囲にわたるばかりでなく、北海道にも及んだらしい。ただの仏像創作旅行ではなく、「錫杖(しゃくじょう)」とともにある旅路でもあったという。僧であるからして、布教しながら、頼まれれば仏教の経を人々に向かって諳んじながらの旅であり、修行を兼ねる行脚(あんぎゃ)でもあったのだろうか。それぞれの場所で民衆に頼まれては仏像を造っていたのか、それとも自分の内なる心だけを頼りにして渾身の鑿(のみ)をふるっていたのであろうか。
 その円空仏の表情が柔和になったのにはねそれなりの理由があるようだ。1674年(延宝2年)、円空は和歌山の地から舟で伊勢の志摩に渡る。片田三蔵寺と立神薬師堂に立ち寄って、そこにある600巻にも及ぶ『大般若経』の修復作業に加勢していたのだと伝わる。円空が寺と土地の人たちから依頼されたのは、教典に添える挿絵であったとのこと。当時の彼は、母の供養ができていないという自責の念に悩んでいたらしい。円空は、その依頼を喜んで受け入れ、来る日もくる日も墨画を描いていたところ、だんだんに仏の顔が柔らかになっていったという。それにつれて、母の供養が進み、成仏できたという確信が得られた。その時から、円空の彫る仏の顔に、ほほえみが宿るようになっていったのだと語り継がれている。
 そのあまたある中から一つ、紹介したい。弘福寺(現在の群馬県高崎市在)の円空仏は、彼が1681年(延宝9年)春に武蔵国(現在の富岡市一ノ宮~に滞在しているおり、50歳の油ののりきった時期に造られたらしい。大きさは、高さ28.6センチメートル、像の幅14.9センチメートルと小ぶりだ。檜材に刻まれ、背面は五面に型割りしてある。顔の彫りは、凹凸がほとんどなく、西洋などの人の彫刻と根本的に違う。いの一番の特徴は、人なつっこい表情をしており、口元からは笑みがあふれていることだ。受ける印象は、言葉では表現できそうにない程の無限の慈悲というか、愛というか、それらが混じり合ったものが伝わってくる。
 朝鮮にも、「寂しいおりに、一杯のクッパでが人の心を温かにできる」という話があるやに聴いた。確かに食べ物ではないが、仏像を一度見終わってから、わざわざまた元の行列に戻ってもう一回拝顔する人があるのは、これを観る人の全員が幸せになってほしいとの彼の願いが通じるのだと理解したい。64歳(1695年(寛永8年))のとき、この漂泊の人は、郷里の長良川河畔の穴の中に入定した、つまり「即身仏」となって衆生の人々を助けようとしつつ、自然に帰ったのであった。
 浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820)は、 江戸後期の岡山藩の支藩、鴨方藩士の家(現在の岡山市街)に生まれ、後に諸国を放浪した異色の画家として知られる。彼は早くの武家の家督を継いでから精勤し、37歳で同藩の大目付の出世する。しかし、43歳の時、その任を解かれ、左遷される。48歳の時には、妻が亡くなる。50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことが幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。
 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。代表作の「凍雲○雪図」(とううんしせつず)を画集で拝見すると、定かにはみえないが、痩せた岩盤に樹が立っているのだが、寒さのためと言おうか、孤独さのためと形容しようか、凍えているかのように眼に写る。作者は、この絵で何を表現したかったのであろうか。しかし、もう少し辛抱づよく観ているうち、冷たさの中から何か、もこもこした息吹のようなものが昇り、上がってくるように感じてくるから、不思議だ。つまり、死んではいない、たくましいのだ。その後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、えもいわれぬかたちであって、ありきたりの形に囚われない面白さも感じさせてくれている。

(続く)

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○232『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1)

2018-03-26 22:55:39 | Weblog

232『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1)

 文化は、文明のような組織だった人間の営みではない。だから文化とは、古今東西を問わず、人間の精神と肉体による活動のうち、もっとも美しい部分、領域なのかもしれない。江戸期には、日本の歴史上初めて、幅広い形での大衆文化というものが形成された。奈良期までに、大陸からの多くの文化が伝わってきた。平安期には貴族文化が華開いて、男女の情愛や可憐さ、切なさを中心に競い合った。仏教文化が、古代からの土着文化と結合あるいは折衷し合い、鎮護国家としての綾取りを加えた。室町期からは、もはや借り物ではない、日本の文化が花開いていく。
 けれども、それまではの文化の大半は一握りの人たちによるもの、彼らのために行い、あった。文化は、人々が欲求するものだ。双方向の交流があって初めて、前へと進んでいく。文化に類した何かを創り出そうとする者は、いいものをつくって観賞してもらったり、購入してもらったり、後世へと伝わることを望む。創られた文化を享受する側はといえば、それに感動や喜びを見出すことのできる人々は、どのくらいであったのだろうか、過ぎし世の中への興味は尽きない。
 文化のもう一つの欲求は、他人へ、他地域へ、次代へ、伝搬していくことだ。もちろん、これだとて、たった一人で創り出せるものではあるまい。創る側の人が何かを自分の生きる中から取り出してくる。前の時代から受け継いできたものもあるだろうし、自らが創り出していくものもあるだろう。これには、「最も広い用法では、芋を洗って食べたり、温泉に入ることを覚えたサルの群れなど、高等動物の集団が後天的に特定の生活様式を身につけるに至った場合をも含める」(『新明解国語辞典』三省堂)とあるから、要するに芸術レベルでなくとも構わないようにも考えられるのだが。
 これに紹介するのは、久隅守景(くすみもりかげ)の「夕顔相月納涼図」(ゆうがおだなのうりょうず)と「四季耕作図」である。久隅は生年没年とも不明ながら、狩野探幽(1600~1674)の弟子であった。活躍したのは、17世紀半ばから末に及ぶ。
守景には、息子と娘がいたとのこと。息子は放蕩息子で、悪事を働いて島流しとなり、娘は狩野派絵師となりながら、同年の絵師と駆け落ちしてしまったため、守景は面目を失い、狩野派を離れたとされる。
 彼の代表作の「夕顔相月納涼図」は国宝になっている。かなり大きな(約150センチメートル×約168センチメートル)あるらしい。図鑑で観ると、黒の濃淡の墨だけで描かれているようだ。夫婦らしき男女と男の子のあわせて3人が茅葺き家の縁だろうか。棚からは夕顔が幾つもぶら下がっている。そこに、いかにものんびりしている。空高くには丸い月があって、月明かりに照らされているようだ。静かである。いわゆる「おぼろ月夜」で季節は、夏の終わり頃といったところだろうか。
 父親は両の腕で支える形で頬杖をついて、くつろいで見える。何か考えているようでもあり、無心に自分という者の心を放り出しているようであり、とにかく脱力している感がある。母親は、そんな夫にあくまで静かに寄り添い座っている。この絵の由来となっている和歌に「夕顔の咲ける軒場の下涼み、男はててれ女はふたのもの」(江戸期の大名歌人であった木下長しょう子の作)というのがあり、この中の「ててれ」とは襦袢、「ふたのもの」とは腰巻のことをいう。
 この二人の傍らに座っている子供はまだ10歳になっていないのではなかろうか、茫洋とした表情をしており、観ているにほほえましくさえある。生業は農業(百姓)であろうか。今日一日の労働が無事に終わり、ご飯も食べて、つかの間の家族水入らずの時を過ごしているような案配に見える。歌の方には子供がいないのに、絵に描かれるのは、守景のどういう趣向によるものだろうか。
 守景の「四季耕作図屏風」は、百姓心を大いに啓発してくれる作品だ。というのは、この時代、すでに私の小さいときの農家の一年に行われていたことが、大方に描いてあるのではないだろうか。春の田越しから始まって、田植え、収穫、そして出荷など、村の地理的な広がりの中に農家の営みが連なっている。田や畑の間の道は、過去からやって来て、現在につながっているようにも窺える。通りの真ん中には、若い女性を中心とした道連れだろうか、何かの一行であろうか。ともかく陽気な顔、また顔をしている。田植えが進行中の田圃では、田楽ではやし立てているグループもある。村野人から景気付けに頼まれてやっているようでもあり、とにかく田圃の泥濘(ぬかるみ)の中、商売でやっているというよりは、好きで誠に楽しそうに踊っている。
 そんなこんなで、その外にも色々な場面が描かれるのだが、時間の流れが混合している様となっている。それでも、自分の追体験がある程度可能な場面が多くある。私たち後代の者は、過去に決して戻れない。だが、この絵に没入している間かぎりでは、自分もその場にも立ち会っていたかのように感じられる。それによって尚更、楽しく拝見できているように感じられる。事実、私たちの感覚は、今よりほんのちょっと過去の時間を観たり、感じたり、考えたりしているものだ。
 画家の伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)と与謝蕪村(よさぶそん)は、共に1716年(正徳6年)に生まれた。若冲は、超精密画で知られる。若冲はその天才を自覚していたのか、自分の絵の四つを選んで、神業を暗示させる印を押した。自分の絵が千年も生きられるようにと、壮年期からは自分の作品を寺に寄進したのだという。彼の絶筆として伝わるのは、何とも愛らしい犬たちであった。彼は京都を襲った大地震に直面して、命というもののはかなさ、尊さを実感し、その心の延長でこの絵を描いたのではないかと言われる。
 蕪村の描いた絵には、飾りというものが感じられない。人家はまばらであって、どことなく冷たく、寂しげでさえある。2009年に国宝に指定された『夜色楼台図』は、縦28センチメートル、横130センチメートルの画面に京都の冬を描いて見せた。これを観ると、しんしんと雪が降り積もっている。家々の障子からは明かりが漏れている。どこかで観たような構図でもあり、自分はこのような寂しげな光景を持たなくても何かしら心惹かれる。彼は、俳人でもあった。万を超すあまたの句のの中から一つ諳んじれば、「一面に月は東に日は西に」とあって、あのかぐわしい、何とも心地のよい、甘い匂いのする華の絨毯が広がる。その中に、東の空に月が上がり始め、西の地平には今にも太陽が沈みかけている。
 池大雅(いけのたいが、1723~1776)は京都(現在の上京区)の村の生まれ、江戸中期の文人画家にして書家でもある。7歳の幼い頃から、画才を発揮して「神童」と讃えられる。15歳で父の跡を継ぎ、菱屋嘉左衛門と名乗る。20歳で、雅号を「大雅」と決める。それからは、諸国を渡り歩いて自然を愛し、その先々で多様な人々と交わる。妻の玉らんと、「琴瑟相和す」仲むつまじさであったことでも知られる。行住坐臥、ごく自然に振る舞うことで知られ、いわゆる風流の道を色々とたしなんでもいたらしい。変わったところでは、1751年(宝暦元年)の、岡山少林寺からの帰途入京の際、用事でやった来ていた白隠慧鶴禅師(1685~1768)と会っていたり、与謝蕪村とは相作もしたか間柄であったらしい。
 その画業は風景を主にし、「岳陽楼・酔翁亭図屏風」や「山水人物図襖」などが代表作。同じく傑作の「楼閣山水図屏風」(6曲1双にして紙本金地墨画着色)を拝見すると、一見中国風の家や幾山が押し寄せてきているようで、自由奔放というか、、つらつら眺めているうちに、もこもこ力が湧いてくる気がしてくるから、不思議さはこの上ない。
 豪快な絵ばかりでなく、四季の移り変われを描いた「四季山水図」や、農民や釣人などが登場する「十便画帖」(1771作、国宝)には、自分もそこにいる錯覚すら覚える。多くの絵の余白に添えられている書は、陶淵明(中国唐代の仙人のような生活を送ったとされる詩人)などの詩に取材しているのであろうか、自由気儘に心情を吐露したものだろうか。
 鈴木其一(すずききいつ、1796~1858)は、尾形光琳の流れを汲む日本絵画の伝統を江戸で復興した酒井抱一(さかいほういつ)の弟子である。その其一が書いた「朝顔図屏風」(あさがおずびょうぶ)は一風変わっている。おりしも、江戸では朝顔を珍重する園芸熱がひろまりつつあった。
 それらを交配させて、珍しい色あいのものを作り出すのだ。其一はこれに触発されたのだろうか、根元もなければ、蔓が巻き付くための支柱も描かれていない、花があるばかりでなく、蕾や種らしきものまで描いてある。試みに画集の中央に居ると、金屏風の下地に冴え冴えと、両隻の右からと左からと葉っぱの緑(緑青)と花や蕾の青(群青)の組み合わせで、まるで「やあやあ」と近づいてくる。
 不思議だ、なんだか花に囲まれているみたいなのだ。全体として尾形光琳の「燕子花図」(かきつばたず)のような只住まいなのだが、それよりかは少し空想じみているのが、なんだか爽やかに感じられる。緻密であるし、考え抜かれた構図なのだといわれるものの、緊張感の中にも爽やかな動きが感じられるのが何より心地が良い。この絵を描いた其一もまた、黒船来航に驚き、慌てた一人であったろうに、そんなことには露ほども感じさせないだけの、事絵に関しては集中心であったのだろうか。

(続く)

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♦️1の1『自然と人間の歴史・世界篇』宇宙の誕生はどのようであったのか

2018-03-25 20:50:24 | Weblog

1の1『自然と人間の歴史・世界篇』宇宙の誕生はどのようであったのか

 宇宙は、一体どのようにして今日までたどりついたのか。そもそもの始まりは、今からおよそ138億年前(2013年に提出された新説)にまで遡るといわれる。そのことが発表された時の新聞記事には、例えば、こうある。

  「宇宙は138億歳、従来説より1億年高齢。欧州機関が解析。宇宙の年齢はこれまで考えられていたより約1億年長く、138億歳とする最新の研究結果を欧州宇宙機関(ESA)が22日までに発表した。宇宙誕生のビッグバンから間もない時期に放たれた「最古の光」を詳しく解析した。
  宇宙は従来説より1億年高齢の138億歳。ほぼ完璧な宇宙図で判明。最古の光は、現在の地球にあらゆる方向からマイクロ波として届き「宇宙背景放射」と呼ばれる。ESAは2009年に打ち上げた宇宙望遠鏡プランクで15カ月間にわたりマイクロ波を調べ、観測可能な最も初期の宇宙図を作製した。宇宙図にはマイクロ波を温度で表したときに見られるごくわずかなむらがあり、むらの分布から理論的に宇宙の年齢などを算出した。
  93年には米航空宇宙局(NASA)のWMAP探査機による宇宙背景放射の観測をもとに、宇宙は137億歳とされ定説となっている。(共同)」(2013年3月22日付け日本経済新聞)
  ここに引用の「宇宙図」の中に現れた色「むら」とは、温度の「でこぼこ」を表わしており、その度合いを温度の見えるカメラで調べると、摂氏0.00003度位の僅かな差が検出できて。この結果から私たちの宇宙の年齢が計算できるはずだという。その解析は、現在も続いているらしい。プランク衛星によるデータの解析結果のまとめとしては、次のようだという。
  「宇宙年齢:137.96億±(プラスマイナス)5800万歳、普通の物質の割合:4.81%、ダークマターの割合:25.7%、ダークエネルギーの割合:69.7%±1.9%、ハッブル定数:67.9±1.5(km/s)/Mpc:、宇宙の曲率:平坦、ニュートリノの種類:3種類」(「プランク衛星がみた最古の宇宙」:雑誌「ニュートン」2013年6月号)

 

 それでは、最初の最初の話は、なぜそうなったと考えられるのであろうか。現在の最も有力な説によれば、私たちの知る全ての始まりの「インフレーション」により、3次元の空間ができ、時間の刻みが発生した。そして「ビッグバン」へと繋がっていった、と考えられているという。アメリカの宇宙物理学者グースととともに、この理論の提唱者の一人とされる同学者の佐藤勝彦は、一般向けにこんな風に述べている。

 「インフレーション理論は、従来のビッグバン理論の多くの問題点を解決します。その一つが、「なぜ宇宙背景放射はどこも同じ強さになっているのか」、つまりかつての小さな宇宙がなぜどこも密度や温度が均一だったのかという例の問題です。その解決方法は、次のようなものです。

 生まれたばかりの宇宙が、全体的にはデコボコだらけだったとしても、ごく狭い領域だけを見れば、その中はほぼ一様になっているといえます。そしてこの狭い領域が現在の宇宙の大きさよりも大きくなるような急膨張を遂げれば、その中に住んでいる者にとって「見える範囲」の宇宙はきわめて一様になります。それがつまり、わたしたちが住んでいる宇宙の領域なので、宇宙背景放射は宇宙のどこでも同じ強さで観測されるのです。

 したがって、観測可能な宇宙の「果て」を越えた、ものすごい大きなスケールで宇宙を見ることができれば、宇宙はけっして一様になっていないことでしょう。

 また私はインフレーション理論を提唱した直後、インフレーションが起こると元の宇宙(親宇宙)から子どもの宇宙がたくさん生まれるという「宇宙の多重発生(マルチプロダクション)」という論文を、協同研究者と発表しました。これはある条件の下ではデコボコの「デコ(凸)」の部分が子宇宙へと発展することを示すものです。」(佐藤勝彦「眠れなくなる宇宙のはなし」宝島社、2016)

  かかるインフレーション理論によると、一説には、この宇宙の始まりから10のマイナス36乗秒まではゆっくり(時間と大きさの両方とも)と膨脹したと考えられている。すなわち、ゼロ時点は「虚数の時間」とでも呼ぶべきものであって、無からの宇宙さう増がなされよう。そして、その時間が虚数から実数に変化する。さらにその後の10のマイナス36乗秒になると、インフレーション的な急膨張が開始されよう。それからは、「強い力」という力が働く相転移(そうてんい)と呼ばれる力の枝別れがあったのだと言われる。この相転移のまさにその時、10のマイナス34乗秒という極微の時間の過ぎる間に100億のまた100億倍といった途方もない大きさに急膨張し、かかるインフレーション膨張が終わり、俗にいうところの「火の玉宇宙」になったというのだ。

 

 

 さて、そもそも現在に至る宇宙の創成がおよそ100億年位であることの概略は、ハッブル定数からの演繹計算で導かれるものの、宇宙年齢推測の決め手としてはやはり観測データとの某かの照合に頼るしか「確かな推測」にはならないのであろう。何事も事の成り行きを遡るにつれて、そもそもの始まりはどうであったのか、そこからどう変化してきたのか、その詳細さは曖昧模糊になってゆくものだ。現代の、ありとあらゆる科学的アプローチをもってしても、これは避けがたい。

 インフレーションに続くビッグバンの後には、宇宙は膨張が続き、それに伴って冷えていく。しかし、まだ極めて高温状態だったことから、素粒子の一つである「電子」は陽子などと結びついて原子核を形成することなく、大量にかつ自由に宇宙空間を飛び交っていたことだろう。そこでの光は、これらの電子と繰り返し衝突を余儀なくされるために、真っ直ぐに進むことができなかった。観測者がいたとしても、深い霧の中でのように不透明で拡大しつつある宇宙を遠くまで見通すことは不可能であったに違いない。
しかし、宇宙誕生からおよそ37万年が過ぎた頃、宇宙の温度が3000度(摂氏)位まで下がると、電子と陽子が結合して水素原子、さらにヘリウム原子となっていく。そのため、それまで自由に飛び交っていた電子はほとんどいなくなっていく。これを「宇宙の晴れ上がり」と呼ぶ。そうなると、それまで電子に遮られて真っ直ぐに進めなかった光が、宇宙空間を真っ直ぐに進めるようになっていく。さらに宇宙発生後にできてきた水素やヘリウムが集まって、銀河系が形成され始める。ここに水素のイメージは、太陽ー地球の系の大きさを10の21乗程度縮小したものが、水素原子を構成する陽子ー電子の系の大きさに対応するといわれる。その水素原子のイメージとして、水素原子内の電子はその陽子付近の半径1オングストローム(10のマイナス10乗メートル)程度の範囲内の空間のどこかに、もやもやした雲の如くに存在していると推定される。
 ビッグバンからどのくらいかの時間が過ぎていき、私たちが「銀河系」と呼んでいる巨大な渦状の天体が形成された。

(続く)

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♦️27『自然と人間の歴史・世界篇』人類の歩み(約250万年~約180万年前)

2018-03-25 10:13:48 | Weblog

27『自然と人間の歴史・世界篇』人類の歩み(約250万年~約180万年前)

 これまでの研究のうち、猿人からホモ属への移行過程のことは、最近までの発掘ではほとんど手掛かりがなかった。それが、2015年9月10日、南アフリカ・ヨハネスブルク郊外のライジング・スター洞窟で、新種のヒト属と考えられる骨が化石で発見された。米ナショナル ジオグラフィック協会付き研究者で南アフリカ・ウィットウォーターズランド大学の古人類学者リー・バーガー氏らが学術雑誌で発表した。
 当洞窟では、2013年からそれまでにも人類初期とおぼしき骨が多数発見されていた。発掘者によってホモ・ナレディと名付けられたこれらの骨は、部分ごとに、先行するアウストラロピテクス(約400万年前に現れた)の特徴と、その後のホモエレクトスの特徴をあわせもつ、という。頭が小さく、脳容量はわずか500立方センチメートルほどと、ホモ・サピエンスの3分の1くらいだ。とはいえ、手と足と歯は私たちと同じ「ヒト属のものであることは確か」だといわれている。
 そして、およそ250万年前からおよそ200万年前にかけては、同じヒト亜属にして猿人のホモ・ハビリス(「器用なヒト」の意味)が現れたという。彼らの骨は、1959年、人類学者のリーキー夫妻は、タンザニア北部のオルドハイ峡谷の崖から猿人アウストラロピテクス・ポイセイを発見した、まさにその同じ峡谷の近い場所で1964年に発見された。このあたりに長い期間をかけて降り積もっていた火山灰が、この人類化石の保存に訳だったものと考えられている。かれらの脳容量は600立方センチメートル位あったと推定される。そのホモ・ハビリスは、およそ100万年間存在した後、およそ150万年前にはほぼ絶滅したと考えられている。
 ところで、彼らホモ・ハビリスは、アルディピテクスのようなヒト亜属としての猿人には当たらない。最古のヒト亜属としてのヒト属の方に分類される。つまり、ホモ・ハビリスは「ホモ属の壁」と呼ばれる進化をしていく上での、「猿人」と「原人」との閾(しきい)を突き抜け、それまでの「猿人」から「原人」というカテゴリーの中に入っている。ホモ・ハビリスの身体の特徴は、それまでの猿人と違って体毛が退化し、かわりに髪の毛が進化している。その意味で、ホモ・ハビリスは「最古のヒト」だといえる。それから、180万年前頃から5万年前頃まではホモ・エレクトゥスが現れる、その名は、「直立(二足歩行)するヒト」に由来する。彼らも、「ほ乳類霊長目(サル目)ヒト科」の一つの属にして、原人なのであった。頭蓋骨の調査から、彼らの脳容量は950立方センチメートル位と見積もられる。
 さらに、およそ200万年前になると、これまた同じヒト亜属にして猿人のパラントロプスが現れる。これらの猿人は現在、1種も生き残っていない。

(続く)

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♦️26『自然と人間の歴史・世界篇』人類の歩み(約400万年~約250万年前)

2018-03-25 10:11:35 | Weblog

26『自然と人間の歴史・世界篇』人類の歩み(約400万年~約250万年前)

 それからどのような道があったのだろうか。その昔、アフリカで発生した人類の遠い祖先も森から「サバンナ」と呼ばれる草原に出た。それからどうしたかは、彼らは、私たちの直接の祖先のホモ・サピエンスではなかった。彼らの行動しているのを撮ったフィルムのようなものが残っている訳ではないから、今でも、その時代の地層から掘り出された骨や足跡、それから運よく残り、あるいは適切に発見された化石などから推し量るしかない。考古学のほかにも、当時の地理を研究する学問、そして物理学、生物学などが総動員される時代になってきている。
 こうした観点での最初の発掘は、戦前に遡る。1924年、解剖学者のレイモンド・ダートは、南アフリカのスタークフォンテインの洞窟で、前かがみ気味に直立二足歩行していた人類の祖先のものでと考えられる頭蓋骨を発見した。「南の(Australo-)猿(pithecus)」という意味の「アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)」と名付けられたこの骨は、1925年の学術雑誌『ネイチャー』に発表された。この洞窟のある場所は石灰岩地帯の只中であって、洞窟の上に空いた割れ目にこの猿人が落下し、その後の石灰岩破片の落下により埋まったものと考えられている。1959年、今度は人類学者のリーキー夫妻は、タンザニア北部のオルドハイ峡谷の崖から猿人アウストラロピテクス・ポイセイを発見した。この化石は、およそ200万年前のものとされた。
 1974年、今度はエチオピアのハダール地方で猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)の化石(通称「ルーシー」)が発見された。約390万~290万年前に生息した後期猿人と見られている。この個体の身長は110センチメートル、体重28キログラム、すでに二足歩行への適合を遂げていたと想像される。彼らの脳容量は、発見された頭蓋骨の調査から約400立方センチメートル位と推測される。この場所ハダールは、ダナキル砂漠、アワシュ川流域に近い。そこで、「地溝帯の分裂が進むに従って低地に広大なサバンナが広がり、それまで熱帯雨林に生息していた猿人がサバンナに進出して二足歩行をはじめたことが、ヒトへの長い進化のはじまりであったとする説が有力視されている」(写真・文は野町和嘉「ダナキル裁く、裂けゆく灼熱の地ーアフリカ大地溝帯北端の極限の地」:雑誌「ニュートン」2013年6月号)とのこと。
 さらに1984年から85年にかけて、人類学者達のトゥルカナ湖西岸の調査で、たちつづけに四つの発見があった。その一つ目は、最古級の頑丈な骨格をもった猿人の頭蓋骨化石が見つかり、「パラントロプス・エチオピクス」と名付けられた。二つ目では、完全なホモ・エレクトスの少年(推定年齢9歳)の全身骨格が見つかり、通称「トゥルカナ・ボーイ」と名付けられた。この発見に関して、2014年9月14日NHKテレビ放映の(「THE 世界遺産・大アフリカスペシャル」中に、こんなナレーションがあった。
 「セレンゲティの東にある渓谷、360万年前の地層から大発見がありました。世界で初めて見つかった二足歩行の足跡です。サバンナを出た人類は二本の足で歩いていたのです。さらなる大発見は、グレートリフトバレーの底、湖のほとりで人に直接つながる祖先が見つかったのです。160万年間前の少年(の骨)です。グレートリフトバレーの谷底に生まれた湖、トゥルカナ湖(ケニア)です。人類が生まれたのはどこなのか。アフリカに、この謎を解く鍵がありました。トゥルカナ湖のほとりでの発掘作業です。実は湖畔から次々に遠い昔の人類の化石が見つかっています。最大の発見は1984年、火山灰が降り積もった灰色の地層から驚くべき化石が現れたのです。160年前のしかも全身の骨格でした。トゥルカナボーイ、現代人でいうと、11歳の少年になります。私たちの祖先、原人です。身長は168センチ、ほっそりとした体型で、脳も現代人の3分の2もありました。二本の足で歩き、すでに火や道具も使っていたのです。グレートリフトバレーのサバンナは人類誕生の地、そう考えられています。」
 ほかにもあり、新種の「アウストラロ・ピテクス・アナメンシス」といって、それとおぼしき3本の歯が見つかった。なんとそれは、ヒトと猿人の両方の特徴を備えていた。そして第四の発見、新しい属となる「ケニアントロプス」(平らな顔をしたケニア人類の意味)の頭蓋骨化石2片が見つかった。それぞれ、約350万年前と約330万年前の化石だとされた。
 ここにいわれる「人類」=ホミニン(ヒト族)に含まれるのは、もちろん「ホモ・サピエンス」だけのことではない。ざっというと、ホミニンの下に、約700万年前と目されるサヘラントロプス属、オロリン属、アルディピテクス属、ケニアントロブス属、アウストラロピテクス属、パラントロプス属、ホモ属の7種類の「属」があり、ホモ属は最後に登場してくる。
 このホモ属というのは、「ほ乳類霊長目(サル目)ヒト科」に属し、体重に比べ脳が非常に大きいという共通の特徴を備えたヒト(ホモ)属としては、私たちホモ・サピエンス以外に、過去約500万年の間に、少なくとも5~7種類程度存在していたと考えられている。具体的には、ホモ・ハビリス(アウストラロピテクス属とする説あり)、ホモ・ルドルフェンシス(ケニアントロプス属とする説あり)、ホモ・エレクトス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・フロレシエンシス、そして現生人類としてのホモ・サピエンスが続いたのではないかと考えられている。

(続く)

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♦️25『自然と人間の歴史・世界篇』人類の歩み(約800万年~約400万年前)

2018-03-25 10:10:13 | Weblog

25『自然と人間の歴史・世界篇』人類の歩み(約800万年~約400万年前)

 私たちの直接の祖先(ホモ・サピエンス)の起源をたずねる旅は、一体どのくらい遡ることになるのだろうか。その中でも、人類の祖先のそもそもの始まりには、何があったのだろうか。
 この猿(ゴリラを含む)との分岐があったという仮説については、どう考えればよいのだろうか。これに関連して、類人猿の中でも私たちに最も近いチンパンジーと比較すれば,両者を隔てる遺伝子の謎が解けるのではないか。
 これらについての研究は、1984年に最初の試みの解析結果が出されたとのことだが、21世紀に入っては、より厳密な形で改めての研究が続いているとのこと。その一つ、理化学研究所の2002年の解析結果には、こうある。
 「また、今回得られた配列を基に、ヒトとチンパンジーのゲノム配列の平均一致度を算出すると、98.77%という値が得られました。この値は、基となる配列の総量が多いことと、全ゲノムにわたってランダムに配列決定が行われていることから、従来以上に正確な値と考えています。言い換えればゲノム中の1.23%、単純計算だと約3千7百万塩基について、ヒトとチンパンジーで違いがあるという結果が得られました。この結果を受けて次に問題になるのは、“この相違の内容は何か?”そして“この相違がゲノム全体に平均して分布するのか”それとも“ある領域に局部的に集中して起きているのか”という問題です。」(報道発表、独立行政法人理化学研究所、2002年1月4日「ヒトとチンパンジーを比較する世界初のゲノム地図が完成」)
 ところが、これとは異なる内容の別の研究結果も出ているとのこと。その一つであろうか、カリフォルニア大学のK.S.ポラード氏の論考を日経サイエンス2009年8月号が、こう要約している。
 「ゲノムプロジェクトによって完全解読されたヒトとチンパンジーの全塩基配列の解析結果は、「ヒトとチンパンジーの配列の違いは1500万塩基対。ヒトの全ゲノム3億塩基対のわずか0.5%にすぎなかった」(K.S.ポラード(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)「DNAに見えた「人間の証し」」の、日経サイエンス2009年8月号による要約から引用)
 これを踏まえての同誌の要約は、「著者らはこう述べる。ヒトとチンパンジーの違いを決定付けているのはDNA(デオキシリボ核酸)の変異の「数」ではなく「位置」だ。彼らは,ヒトとチンパンジーが共通祖先から分かれた約600万年前に遡り、他に比べて変異のスピードの速かったDNA領域を探った。」(同)と続ける。
 それからも、この種の研究は続けられており、例えばこういわれる。
 「兵庫県立人と自然の博物館や東京大などの研究チームは11日付の英科学誌ネイチャーに、エチオピアの地層から2007年に見つかったゴリラの祖先とされる類人猿の歯の化石が約800万年前のものと判明したと発表した。人類とゴリラは1000万年前にアフリカで共通の祖先から分岐したとの説を補強する成果で、人と自然の博物館の加藤茂弘主任研究員は「人類誕生の時期を明らかにすることにもつながる」と分析している。
 研究チームによると、化石が発見された地層は当初、約1000万年前のものと推定されていたが、その後の調査で断層によるずれを確認。他の化石や地質を詳しく分析した結果、約800万年前の地層と分かった。
 遺伝子解析の結果などを合わせて推定すると、人類の祖先とゴリラとの分岐が約1000万年前、初期の人類とチンパンジーとの分岐は約800万年前と考える説に合致するという。研究チームは東京大の諏訪元(げん)教授やエチオピアの研究者らでつくっており、07年にエチオピアの地層「チョローラ層」から、9本の大型類人猿の歯の化石を発見。ゴリラの祖先である可能性が高いと判断し、「チョローラピテクス・アビシニクス」と名付けていた。」(2016年2月11日付け大阪朝刊新聞)
 これと同一の研究成果については、やや異なる角度からの記事も寄せられている。こちらでは、「800万年前にゴリラ祖先 人類と1000万年前分岐説を裏付け」とのタイトルを与えており、それにはこうある。
 「アフリカ東部エチオピアで見つかったゴリラの祖先とみられる類人猿の化石が800万年前のものと分かったと、兵庫県立人と自然の博物館や東京大などのチームが英科学誌ネイチャーに発表した。人類とゴリラは約1千万年前のアフリカで共通の祖先から分かれて進化したとする説を裏付ける成果という。
 チームは2007年、首都アディスアベバ東方のアファール低地で、ゴリラの祖先に当たる新種の類人猿「チョローラピテクス・アビシニクス」の歯を見つけたと発表。当時は約1千万年前の化石と推定していた。
 その後、周辺でゾウやカバ、サルなどの哺乳類の化石計数百個を見つけた。出土した地層などと合わせて詳しく分析したところ、チョローラピテクスは800万年前の化石と判明した。人類とゴリラが分かれたのは、それより数百万年さかのぼる約1千万年前とみている。
 人類の起源を巡ってはDNA解析などから、800万~700万年前ごろに人類はゴリラと分かれ、その後、500万年前ごろにチンパンジーと分かれたとする説もある。チームの諏訪元・東京大教授は「化石からは、人類とゴリラはより古い年代に分かれたといえる。」(2016年2月12日付け日本経済新聞)
 およそ500万年前には、アルディビテクス(「南の猿」という意味)と呼ばれる最初のヒト亜属の猿人が現れたとする報告がある。それから、約500万年~約440万年前とおぼしき、別の化石がアフリカ東部エチオピアの地層から見つかっている。こちらはアルディピテクス(ラミダス猿人)と呼ばれている。初期の猿人と見られ、樹上生活を行う一方、そればかりでなくて、直立歩行も行っていたと考えられている。
 これらの如く、この分野の定説になりつつあるというほどの学説とはなっていないにしても、その頃はまだ猿人ということであり、サバンナの森であったろうアフリカの地において、幾つもの集団なりがかなりの程度隣あわせに生活していたのではないかということを、これまでの研究が示唆しているのではないか。

(続く)

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○515『自然と人間の歴史・日本篇』2000年代の文化(演劇、ドラマ、映画など1)

2018-03-24 22:17:50 | Weblog

515『自然と人間の歴史・日本篇』2000年代の文化(演劇、ドラマ、映画など1)


 大杉漣(おおすぎれん、本名は大杉孝(おおすぎ たかし)1951~2018))は、俳優にしてタレント。徳島県小松島市の出身だと紹介される。若い頃から演劇に傾倒する。多分、理屈なし、文句なしに好きだったのではないか。明治大学文学部の演劇専修をコースを中退したあと、当時「沈黙劇」で通していたという劇団「転形劇場」(太田省吾主宰)に参加する。
 2018年3月2日に放映された旅番組「アナザースカイ」では、それまで数多くの海外公演を行っていた転形劇場での一コマが紹介された。この組織が、資金難に苦しみ解散が決定されていた中での韓国公演時の足跡をたどる。そこで催された沈黙劇とは、すぐそこの忘れ物をとりに行くのに無言、無音で5分もかけて演じるのであった。
 「アナザースカイ」での大杉は、そうした地味な芝居を16年も続けて演じていたことの記憶をたぐり寄せるものとしてあった。視聴者は、これが後のテレビや映画といった表舞台に出てからの役者生活の血肉となり、基礎となっていたのだと教えられる。
 60歳代の頃からは、本業から料理番組や何かまで、実に多くの役をこなし、出るところの各々の場で存在感を示す、この国の代表的な俳優、タレントの一人になっていた。
 代表作の一つには、映画「メルト・ダウン」がある。2011年3月の東日本大震災のときの東京電力福島原子力発電所での出来事を扱った作品であるが、その中で彼は吉田所長の役を演じている。
(中略)
 しめくくりに、前述の番組「アナザースカイ」に話を戻そう。大杉に限らず、役者は芝居や舞台に人生をかけるというが、この放映中に彼が言った次の言葉には独特の響きがある。
 「例えば、年間10本の仕事をしたとして、たしかにいろいろ考えると、10分の1になるかもしれないけど、でもその瞬間っていうのは1分の1なんですよ。
 だから、これでなければいけないという条件が揃わないとできないというよりも、その条件に自分がどう合わせるかっていうことの方が、逆にいうと、発想としては僕は大事だと思うんですよ。」
 「現場で過ごしたことが、僕にとって一番リアルな言葉」というのを注釈したかったのだろうか、こうも言う。
 「雑な言い方をすると、そのとき一生懸命やっているぐらいの事しかないんですよね。
そういう人たちと現場を一緒に過ごした時間というのは、やっぱり何ものにも代え難い時間なんです。」
 「冒険するとかしないとか、現場でちゃんとこう味わいたいし、味わってもらえる時間を共通し、これからもしたいいなっていう思いはあります。」(以上は視聴での聞取りのため、口述の厳密さ、また話の順序については自信がありません)
 こうして、さりげない表情と仕草のなかでも、人と仕事に対する慈しみを片時もおろそかにしない、その時々の本質を大切に心がける。要するに、大杉は、哲学的な深みをも兼ね備えている、日本では希有な俳優なのである。

(続く) 

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♦️142『自然と人間の歴史・世界篇』ペストの流行(ヨーロッパ)

2018-03-24 18:53:39 | Weblog

142『自然と人間の歴史・世界篇』ペストの流行(ヨーロッパ)

  ペスト(別名「黒死病」)は、今では、ペスト菌(細菌学者の北里柴三郎が発見)が人体に入ることによって引き起こされる、伝染病の一種のことだとわかっている。原因は、ペストに罹ったネズミの血を吸ったノミが人間を刺すことによって発症するとされたりしてきた。21世紀に入った最近では、欧州の人口の約5分の1から約3分の1もが死亡した、「黒死病」と呼ばれる14世紀のペストの大流行を含め、14世紀から19世紀初頭まで間歇的(かんけつてき)に続いた世界的流行では、主にヒトに寄生するノミとシラミが細菌を媒介していたとの研究結果が出されているところだ。
 記録が残っている世界最古のペストとしては、543年にエジプトで発生したものがあるという。この時、北アフリカ、ヨーロッパ、南アジア、中央アジアで人口のかなりが死亡したとされるのだか、なにしろ古い時代のことなので、はっきりしない部分が多い。
 次いで、14世紀に前代未聞のピークがやってきた。その時の世界的流行は、当時は有効な治療法も薬もなかったため、これほどの人口が死亡したと推測されるのだが、1346年に発生したペストでは、特に感染の地域的な拡大が急であったらしい。堀米庸三氏によれば、その感染の経路は次のようものであったという。
 「今日明らかにされているところでは、死神は1347年にクリミア半島南岸のカッファから黒海、コンスタンティノープル、エーゲ海、イオニア海を渡ってシチリア半島のメッシナに到着した。いうまでもなくこれは当時の地中海貿易の一コースである。つまりペストは商船に乗り、貿易路に沿って来襲してきたのだ。病魔は、商船の無許可同乗者である鼠どもの、そのまた無断寄生者である虱(シラミ)とか、病人の咳、痰(たん)や衣服のなかににひそんでいたのである。
 ペストはメッシナからさらにイタリア半島の西岸沿いに北上して、ピサ、ジェノアの都市をおかし、ここから二手に分かれ、次第に勢いを増しつつ、一つはアルプス越えにヨーロッパ内陸部に入り込み、他の一つはそのまま地中海沿岸を西に航行してマルセーユに到着した。その年のおしつまったころのことであった。
 翌1348年、いよいよ死神はその本性を発揮しだした。ローヌ、ソーヌの川をさかのぼって北上し、またその他のありとあらゆる交通路を利用してフランス全土をおかし、スペイン、ドイツを洗い、さらには北欧スカンディナヴィアへとまたたくまに伝搬していく。もはや犠牲者は一部の商人だけではない。身分と階級を問わず、王侯貴族も、聖職者も、農民も、すべてこの死神からのがれる確実なすべを見出すことができなかった。」(堀米庸三責任編集「世界の歴史」3中世ヨーロッパ、中公文庫、1974)
 その時の世界的流行は、当時は有効な治療法も薬もなかったため、これほどの人口が死亡したと推測されるのだが、1346年に発生したペストでは、特に感染の地域的な拡大が急であったらしい。
 そのことが後の人口数にどのくらいの影響があったのかについては、よくはわからない。一説には、1500年頃のフランスの人口が1640万人、同じ頃のドイツは1200万人、イギリスは1570年頃410万人位であったという。また、ヨーロッパの総人口としては、1500年頃8180万人位であった推計されている(米田治・東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶応義塾大学通信講座教材、1988)。都市部の推計もなされていて、「人口10万以上の都市は1500年頃にはコンスタンチノープル、ナポリ、ヴェニス、ミラノ、パリの五市を数えた」(同)といわれる。

(続く)

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♦️141『自然と人間の歴史・世界篇』三圃式農法

2018-03-24 10:17:01 | Weblog

141『自然と人間の歴史・世界篇』三圃式農法

 中世ヨーロッパにおける新たな農法は三圃制農法(さんぽしきのうほう)といい、アルプス以北で普及したが、特にフランスやイギリスで発展を遂げていく。これには、8世紀を迎えるまでに農具の改良、中でも車をつけた重い鋤(すき)普及したことと関係があったらしい。一説には、この鋤きは、6~7世紀頃にスラブ民族によって西方に伝えられたという。これを用いるには、8頭の牛にひかれる重い鋤に合うように、畑は細長い帯状に分割される必要があったのだと。
 カロリング朝が始まる頃の西ヨーロッパには、既に三圃制をとっている地方が幾つもあった。なお、ここにカロリング朝というのは、メロヴィング朝に次いでフランク王国2番目の王朝にして、元は宮宰(宰相)ピピン3世(小ピピン)が、751年にメロヴィング朝を倒して開いた。「カロリング」という名称はピピン3世の父、カール・マルテル(姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかったといわれる)にちなむ。
 次に、この三圃制農法のやり方だが、それ以前には、耕地を2分して一年おきに耕作していたという。それだと、深く掘り返した土壌を有効活用できていなかった。新たな農法は、全体を3つに分ける。秋蒔き、春蒔き、休耕地とし、これを回転させていく。輪作の一種といえよう。これだと、連作による地力の消耗を防ぎ、地味を養い続けることができて、凶作を免れやすい。具体的には、夏作物 (大麦、からす麦、じゃがいも、豆類など) と冬作物 (小麦、ライ麦など) の作付けにあてる。
 休閑地には、家畜 (牛、馬、羊、豚など) を放牧するという、農耕と牧畜の合わせ技であった。休閑地に牧畜で出る糞尿を肥料として用いることで畑の地力の回復をはかる工夫も加わる。さらに、これらに合うように農具も発達していき、あわせて生産性が増し、生産高が増えていく。
 人口が増加してくると、休閑地の縮小や廃止の必要が生じることもあり、そのような場合は休閑地にクローバーや根菜類が作付けされる改良三圃式が生れたりする。休閑地を設けずに輪作をすることにもなっていったりで、あれやこれやの工夫が施されることにより、全体としてより集約的な農業へと発展していく。
 この農法は、イギリスにおいても取り入れられていく。ひいては、ヨーマン(独立自営農民)を有力階級に成長させ、後のイギリス革命の原動力の一つともとなっていく。その次第については、なかなか一直線にはすすんでいかなかったようだが、方向性自体は幾つかの説明がなされているので、ここではその一つを紹介しておこう。歴史学者の堀米庸三氏は、こう説かれる。
 「11世紀における経済の復興。外民族の侵入がやみ、ヨーロッパの各地に封建制度にもとづく新しい国家が成立した11世紀、ヨーロッパの様相は急速に変わってくる。社会の安定は人口を増加させ、人口増加は耕地の拡大をひきおこした。大体11世紀の半ばから、13世紀半ばまでは、大開墾の時代といわれ、森林や荒れ地が開かれ、沼沢地(しょうたくち)が干拓されて、前期封建社会の特徴だった人間集団の孤立状態は終わった。耕地の拡大はヨーロッパ内部だけではなく、ドイツの東方では、人口希薄なスラヴ人地帯に向かうドイツ人の大規模な東方植民事業がおこった。これは住地の拡大ばかりではなくヨーロッパ文化の拡大をともなったところの、中世ドイツ人の最大の事業だった。
 人口の増殖、耕地の拡大は、農地の集約化つまり一種の輪作法である三圃農法の普及をともなって、農業生産の能率をたかめた。それは他方で、従来農村とあまりちがわなかった都市を商工業中心の都市に変え、場合によっては農村を都市にまで発展させる原動力だった。」(堀米庸三責任編集「世界の歴史」3中世ヨーロッパ、中公文庫、1974)
 ヨーロッパで広がったこの三圃農法はその後も続いたが、18世紀のイギリス産業革命期には新たにノーフォーク農法という四輪作法が生まれてくる。19世紀以降はさらに機械化を伴う大規模な農法が展開されるようになり、三圃制農法は姿を消していく。 
 
(続く)

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♦️229『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命の伝搬(電磁気学の基礎確立)

2018-03-20 21:25:52 | Weblog

229『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命の伝搬(電磁気学の基礎確立)

 1785年、シャルル・ド・クーロン(フランスの物理学者、1736~1806)は、電荷の間に働く力を測定し、電荷の間には電荷の強さの積とそれらの距離の2乗に反比例する力が働くことを発見した。これをクーロンの法則という。ちなみに、現在のクーロンの定義はアンペアに基づくものであって、1秒間に1アンペアの電流によって運ばれる電荷(電気量)を1クーロンという。このクーロンの考え方は遠隔作用といって,力は遠方に直接作用するというものであったのだが、カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855、ドイツの数学者、天文学者、物理学者)は、電荷の周囲の空間が徐々に変化して力が伝わるという近接作用の立場から、ガウスの法則として電荷と電場の関係の整理していく。
 それから、1799年にアレッサンドロ・ボルタ(イタリアの物理学者、1745~1827)は、電池なるものを発明した。これにより、電気は電流という形で取り出すことができるようになり、人間の手でコントロールできるものとなった。電気というものが、実生活に大きく、かつ日常的に役立ちうることがわかった訳だ。
 それから世紀が改まってからの1820年、ハンス・クリスティアン・エルステッド(1777~1851、デンマークの物理学者、化学者)は、電流が磁石に力を及ぼす、つまりこれは、電気と磁気の間に何か関係があると気づく。具体的には、方位磁石が指す方向と平行に導線をはり、電流を流すと磁針が動いて磁場が発生することを発見する。その向きは、電流の方向に対して右回り(右ねじの法則)となる。
 さらに1823年、アンドレ・マリ・アンペール(1775~1836、フランスの物理学者にして数学者)は、電流同士にも力が働くことを見つけ、そこから磁気の起源が電流にあると特定する。定常電流がつくる磁場の方向と大きさを決めるというこの法則を、アンペールの法則という。特に、これを線状電流の場合でいうと、電流の動きと右回りのねじの進行方向を一致させると、そのねじの回る方向と磁場の方向が一致する。こちらは、アンペールの右ねじの法則という。
 1831年、イギリスの化学者にして物理学者マイケル・ファラデー(1791~1867)は、実験を行い、コイルと磁石を近づけたり遠ざけたり(コイルに電流がコイルの中に磁石を出し入れ)すると、電流が発生するのを発見する。ただし、磁石がコイルの中に入るとしても、その磁石が静止したままだと磁場の変動がないことになって、電流は流れず誘導起電力は発生しない。
 この現象は、コイル内の磁場が変化することで電流が流れたと考えられる。また、磁石を固定してコイルを動かしたときにも、同様に電流が発生する。この現象を「電磁誘導」といい、また、これによって生じた電圧を「誘導起電力」、流れた電流を「誘導電流」と呼ぶ。理論的には、電磁誘導によってコイルに誘起される起電力の大きさは、コイルと鎖交する磁束の時間に対する変化の割合いに比例する。これを電磁誘導に関するファラデーの法則という。
 さらに、電磁誘導によって生じる誘導起電力の向きは、その起電力による誘導電流の作る磁束が、もとの磁束の変化を妨げるような方向となる。かかる電磁誘導現象によって発生する磁場の向きについての理論は、「レンツの法則」の名で呼ばれる。これをいったハインリッヒ・レンツ(1804~1865)は、ドイツの物理学者であって、1834年に発表する。
 この電場誘導現象を人々の生活に役立て、利用したものが発電機であって、磁場の中にあるコイルを動かした時に発生する電流の向きを判断するにつき、後にロンドン大学の電気工学教授であったジョン・フレミング(1849~1945)が学生用に考案したのが、「フレミングの右手の法則」にほかならない。彼はこの他にも、1904年に、熱イオン管または真空管「ケノトロン 」を発明する。なお、ファラデーの電気分解の法則との混同のおそれのない場合は、単にファラデーの法則と称されることもある。
 それに加えて、この同じ電磁誘導現象において、これまでの話とは逆に、磁場の中においたコイルに電流を流すと、コイルが固定されているなら磁石に、磁石が固定されているならコイルに「ある力」が加わる。その加わりようは、その電流が発生する磁場を打ち消すような方向の磁場を発生するように、コイルを動かす力が発生する。その時、磁石をコイルに挿入した1つの回路に生じる誘導起電力の大きさは、その回路を貫く磁界の変化の割合に比例している。
 この時、磁場の中にあるコイルに電流を流したときに発生する力の向きは決まっていて、これを覚えやすくするために、前述のフレミングが同じく考案したのが、「フレミングの左手の法則」である。
 なお、磁場がどの様に電流に対して力を及ぼすのかという、この左手の法則に関連して用いられる言葉として「ローレンツ力」というのがある。これは、磁場の中を運動する荷電粒子に作用する力をいい、速度ベクトルに垂直に作用し、粒子の電荷・速度・磁束密度の積で表される。1895年に、ヘンドリック・ローレンツ(1853~1928)が子の考えを導入した。
 彼は、「電流の正体が負の電気を帯びた粒子の流れ(電子)である」とする仮説を基礎に、「磁界が、電流を担う粒子に影響を及ぼす」と仮定することで、いわば磁気現象と電気現象との融合・合成によって発現した、この新しいタイプの力、すなわちローレンツ力は、方位磁石を用いて調べることができる磁力とは異なるものである。
 これを、人々の生活に役立てるため利用したものがモーターにほかならない。具体的には、今二つに磁石の中間にコイルがあるとしよう。その線はブラシに挟まれた電極(黄色)につながっていることにする。電極をよく見ると竹を立てに割ったように切れこみが入っていて、お互い接触しないようになっている(これを「整流子」という)。
 コイルに電流が流れるとフレミング左手の法則にしたがって、磁力中にある電流には一定の力が生じる。この場合、コイルの右側には下向きに、コイルの左側には上向きに力が働く。この力の合成で、回転子はぐるりと右向きに回転する。途中で電極が分かれているため電流は流れず力は働がないが、回転の勢いで半回転し、再び電流が流れる位置にやってくる。後はこの繰り返しで、これを繰り返すことになっている。
 さて、ファラデーの電磁気学への貢献はそればかりではない。この電磁誘導現象を説明するために、電磁気学に電気力線・磁力線と電場・磁場という新たな概念を導入する。空間には電場及び磁場が存在し、これらの変化が様々な現象を生み出すと主張する。
 1835年には、ガウスが電気には電荷が存在する、言い換えると、電荷があると電場ができると発表する。1種類の電荷の力は放射状に直線的に広がることをいい、これを「電場に関するガウスの法則」という。彼はまた、電流は磁場を生み、その磁気の力はループ状(環状・同心円状)につながっているとした。これを「磁気に関するガウスの法則」と呼ぶ。ここに磁場とは、磁気的な性質をもつ空間の各点のことであり、その各点の磁場の方向を繋げたものを磁力線と呼ぶ。そして磁気には、NとSとが分離できるような磁荷は存在していない。
 そして迎えた1864年、ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831~1879)が、以上の電磁気学の成果の取りまとめ役として、登場する。彼は、スコットランドの貴族の家系に生まれ、イギリス内の大学で教授を務めた間、先達の研究成果を踏まえ電磁場の概念を物理学に導入し、光が電磁波の一種であることを理論的に予想したほか、 気体運動論では速度の分布という統計的概念を用いる。
 前者では、ガウスやアンペール、ファラデーらの業績から、電気と磁気の性質を取りまとめを試みる。そして、これまでの法則を次の4つに整理して発表する。
 その1として、電気には電荷が存在する、言い換えると、電荷があると電場ができる。1種類の電荷の力は放射状に直線的に広がることをいい、これは前に述べた「電場に関するガウスの法則」に当たる。
 その2として、電流は磁場を生み、その磁気の力はループ状(環状、同心円状)につながっている。これは、先に述べた「磁気に関するガウスの法則」に当たる。
 その3として、マクスウェルはこのアンペールの法則(前述)を一般化した。それによれば、あるところに電気が変化すると磁気が生まれる、言い換えると、電場の時間変化と電流が磁場を生み出すというのだ。
 その4として、磁気が変化すると電気が生まれる、つまり磁場の変化が電流をもたらすことを挙げている、これは、ファラデーが発見した電磁誘導の法則を指している。
 これらの、つごう4つのマクスウェルの取りまとめた数式(マクスウェルの方程式)は、総体として、電気と磁気が一体となって伝わる電磁波という波が存在することを意味するととともに、1864年、彼はこの成果を基に光は電磁波の一種であることを予言する。
 ただし、ここでのマクスウェル自身は電磁気現象をエーテル媒質の力学的状態によるものと捉えていたようで、現代の考え方とはかなり異なっている。1888年、ヘルツが実験によりこれらを確かめ、電磁波が存在することが証明された。
 なお、今日「マクスウェル方程式」と呼ばれる一連の方程式は、彼自身が書いたものとは異なっており、後にヘルツやヘヴィサイドらによって整理されたバージョンとして語り継がれているものだ。

(続く)

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♦️197『自然と人間の歴史・世界篇』シェイクスピアの戯曲「ヴェニスの商人」

2018-03-17 14:23:59 | Weblog

197『自然と人間の歴史・世界篇』シェイクスピアの戯曲「ヴェニスの商人」

ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)は、イングランドの劇作家。伝承によると、出生地はストラトフォード・アポン・エイヴォンである。1585年前後にロンドンに進出し、作品の製作に没頭するようになる。1592年には新進の劇作家の道として注目を浴びる存在となる。
 彼の戯曲『 ヴェニスの商人』は、一説には、1594年から1597年の間に書かれたとされている。その中に登場する主人公の「商人」とは、「富めるユダヤ人」のシャイロックを指すのではなく、商人アントーニオのことをいう。それも、小売商のような「商人」 ではなく、海洋に出て手広く商売を行う船団をもつ「貿易商」なのであった。
 中世のイタリアのヴェニスとベルモントという都市を舞台に商取引と恋をめぐって、活発なやりとりが展開される。ヴェニスの若き商人アントーニオは、恋に悩む友人のために一肌脱ごうとするのであった。
 もう少しいうと、ヴェニスに住むバッサーニオという男が、ある女性と結婚するために金が要るので、親友のアントーニオに相談したところ、アントーニオは、ユダヤ人のシャイロックとの間に、もし金を期日までに返せなかったら、アントーニオの胸の肉1ポンドを渡すという担保を設定して期間3か月の金銭貸借契約を結び、3000ダカットの金を借りる。これだと、現在なら「公序良俗違反」で契約無効となりそうなものだが、当時のことはわからない。その際、シャイロックはその金を貸すのに某かの利子を付けるのを主張したのに対し、アントーニオは口汚く罵る一幕があった。
 アントーニオは、その期限の1か月前には船団が商売を終えて帰ってくるのを予定していた。ところが、彼の商船が嵐で難破し、沈没してしまったとの知らせが入る。これにより、アントーニオは大損害を受ける。それによって起こるシャイロックとアントーニオとの裁判での闘いと、ベルモントの美しい貴婦人とアントニオとの恋が、平行して物語は進んでいく。
 第三幕では、アントーニオの船がすべて沈没し、借金返済が不可能になったのを知ったシャイロックが、契約による彼の肉1ポンドの返済を迫る。破算に陥ったため、シャイロックから借りた金は返せないので、アントーニオは苦境に陥る。
 第四幕では、ヴェニス公爵の前での裁判が行われる。アントーニオの恋人のポーシアが法律家に男装し、法廷で闘う。「その身の肉をもらう」といきまくシャイロック。結局、裁判官はシャイロックに対して、「アントーニオの肉1ポンドを切り取れ。ただし、その際に血を1滴でも流せば、そなたは死刑となる」という逆転判決を下し、非情な金貸しは敗れるという筋書きとなっている。
 18世紀の批評家ニコラス・ローは、この『ヴェニスの商人』は喜劇として演じられているが、作者は悲劇として書いたとしか思えないという意味のことを述べているそうである。シェイロックの心根としては、金を何倍にもして返してもらうよりも、あくまで証文どおりの返済でアントーニオの命を奪うことにより、ユダヤ人に対する社会の冷たい眼差しに仕返す狙いがあったのかもしれない。
 ともあれ、シャイロックが退場した後、恋人たちの楽しげな一幕を設けることで、作者には、「シャイロックが悲劇的な滅亡を受けたという印象を観客に与えるつもりがなかったこと」(「池上忠広ほか著「シェイクスピア研究」慶応義塾大学通信教育教材、1977)が追想されるのである。

(続く)

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♦️363の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(一般相対性理論・光の曲がりと時間の遅れ)

2018-03-15 21:09:38 | Weblog

363の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(一般相対性理論・等価原理と一般相対性原理)

20世紀に入って、アインシュタインによって発表された「一般相対性理論」においては、新たな時間と空間の概念が二つ導入された。その名を「等価原理」と「一般相対性原理」という。
 まず等価原理というのは、運動加速度と重力加速度の等価性を意味するもので、慣性質量(加速度に抵抗するもの)と重力質量(重力場を作り出すもの)とは等価であるといってもよい。これは、「重力は瞬時に伝わる」というアイザック・ニュートンの重力理論(万有引力の法則)を、「自然界の最高速度は光である」という相対性理論と矛盾とない形に修正しようと考えたものだ。彼は、こんな説明をしている。
 「左図のとおり、部屋の形をした広大な箱を考える。その中に観測者が居る。この状態では、観測者にとって重力というものは存在しない。
 箱の蓋の中央外部にザイルを付けたハーケンが取り付けられ、我々とは無関係な種類の存在者が一定の力でこれを引き始めるとせよ。その時、観測者もろとも一様な加速度運動で上方へ飛び始める。
 しかし、箱の中の人はこの過程をどう判断するだろうか?箱の加速度は、箱の床そのものの反動によりその人に伝えられる。その時、彼は、全く地球上の我が家の部屋の中に居るように、箱の中に立っていることになる。従って、箱の中の人は、自分も箱も重力場にあると言う結論に達するであろう。屋根の中央にハーケンがあって、それにピーンとザイルが張られているのを発見する。そのことから、箱は重力場に静かに吊るされていると言う結論に達する。
 今度は、右図のとおり箱の中の人が箱の天井の内側にザイルを固定し、その空いている方の端に物体(B)を吊るすとする。こうすると、ザイルはビーンと垂直に垂れることになる。我々はこのザイルの張力の原因を尋ねる。箱の中の人は言うだろう。「吊るされている物体(黒い丸)は重力場において下向きの力を受け、それはザイルの張力と釣合う。ザイルの張力の大きさを決めているのは、吊るされている物体の重力質量である」と。
 この例から分かる様に、Gは加速運動によるものか、重力によるものか区別が付かない。このことは、慣性質量と重力質量の同等性定理を必然的なものとして示している。」
 ここでは、重力により空間そのものが落下しており、物体はその場に留まろうとして空間と一緒に落下する。したがって、全ての物質はその質量に関係なく同時に落下すると考える。また、重力によりGが掛かったのか、加速によりGが掛かったのか区別出来ない。という訳で、加速系と重力系とを、同じ方程式で表すことが出来る。
 それから、一般相対性原理というのは、加速度系を含むいかなる座標系においても物理学の法則は同等に働く、言い換えると、任意の座標系において物理法則は同形でなければならないのをいう。
 1914年から16年にかけて、アインシュタインは、この二つの原理を前提に、特殊相対性理論を発展させた重力理論として一般相対性理論を構築していく。そこでの重力は、質量をもつ物体により周辺の時空に生じたひずみが生み出す物理的効果であらわされ、光も天体の重力によって曲げられる(重力で曲がる)というのだ。
 それからのアインシュタインは、自身による一般相対性理論と、アイザック・ニュートンの万有引力の法則の差として、水星の近日点の移動、太陽の近くを通る光線の曲がり、それに重力を受けている光源が出す光のスペクトルの赤方偏移を測定することを提案する。要は、自分の理論の正当性を観測で確かめてもらいたいというもの。
 1919年、イギリスの天文学者アーサー・エディントン(1882~1944)らは、
アフリカのプリンシペ島に出掛けていた。目的は、5月29日の日食を観測することである。この日食の間、彼らは太陽の近くに見える恒星の写真を撮影する。というのも、彼はアインシュタインの一般相対性理論を知っていて、それによれば、遠くの恒星から観測者に達する光線が太陽の近くを通る場合、太陽の重力場によって光線が曲げられるため、本来の位置からわずかにずれて見えるはずだ。ところが、昼間の地球上からの観測では太陽の光による空の明るさでその恒星の光は紛れてしまうため、この現象を観測するには皆既日食の時を選ぶしかないと考えた。
 この日食時の太陽近傍での観測の結果としては、太陽の背後に存在するであろう複数の恒星(それはみずから光を放つ)からの光が、太陽の近くでその重力により曲げられて地球に到達していることが確認された。とはいっても、曲がった角度は1.6秒程度(1秒は3600分の1)と極めて小さなものであったのだが、この値はアインシュタインの一般相対性理論による予言にとても近いものであったという。その後も、天体のもっている重力により、その近傍を通る光が曲がる事例が天文観測により多数見つかっており、これらの事例のことを「重力レンズ現象(効果)」と呼んでいる。

(続く)

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♦️361『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(特殊相対性理論)

2018-03-15 09:05:43 | Weblog

361『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(特殊相対性理論)

 アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)は、南ドイツのウルムという町に生まれた。父は小さな電気化学の工場を経営し、母は古典音楽に造詣(ぞうけい)が深かった。ミュンヘンの小学校を終え、ギムナジウムに入る。そこでの12歳の時には、数学に興味を抱くに至っていた。15歳の時、イタリアのミラノに移った父の後を追って学校を休むのだが、父は学業を早く済まして職に就くのを勧める。卒業し、チューリヒ工科大学を受験するも、不合格だった。翌年、試験なしに入学を許可される。
 世紀の変わり目に大学を卒業した彼は、友人の紹介で、スイスのベルン特許局の技師の職を得る。それからは、仕事をこなしながら、物理学の研究に没頭していく。ここでの数年間を手始に、後に「相対性理論」に代表される、独自の理論体系を構築していく。その中から、前段の「特殊相対性理論」につき、こう述べている。
 「電気力学の現象は力学の現象と同様に、絶対静止という考えを立証するような性質を持っていないように見える。むしろこれらの事実から、力学の方程式が成り立つ全ての座標系に対して、電気力学や光学の法則がいつも同じ形で成り立つと考えられる。このことは、小さな物理量の1次の近似については既に立証ずみのことである。
 このような推測を第一の要請とみなして、相対性原理と呼ぶことにする。さらに次のような第二の要請をつけ加えよう。
 光は常に真空中を一定の速さcで伝搬し、この速さは光源の運動の状態には無関係である。
 これは、ちょっと考えると、第一の要請とは矛盾するように見えるかもしれない。しかしこれら二つの要請は、静止物体に対するマックスウェルの理論にもとづいて、運動物体の電気力学を簡単にかつ一貫して建設するためには充分である。」(アインシュタイン著(1905年)「動いている物体の電気力学」:日本語訳:湯川秀樹監修「アインシュタイン選集1」共立出版、19~20ページ)
 なお、ここに特殊というのは、「運動が相対的であるといっても、それは、たがいに平行で、速度一定の直線運動をしている慣性系同士という特殊の場合に限っているからです」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)とある。
 第一の仮定は、あらゆる運動は相対的であるという含意から、「相対性原理」という。ある慣性系に対して、平行に速度一定の直線運動をしている座標系はすべて慣性系である。言い換えると、たがいに平行に、速度一定の直線運動をしている慣性系同士の間では、力学の諸法則が、ある一つの座標系に対して成立すれば、これらの法則はすべてに当てはまる。
 またこれに加えて、空間が相対的であること。「力学の方程式が成り立つ全ての座標系に対して、電気力学や光学の法則がいつも同じ形で成り立つと考えられる」というのは、力学の運動だけではなくて、あらゆる運動(物理現象)にもあてはまると主張する。
 第二の仮定は、「光の速度は、その光源の運動いかんにかかわらず、すべての慣性系に対して同一のc(光の速度)をもっている」というものであって、これを「光速度不変の原理」と呼ぶ。
 これは、1926年に、マイケルソン(1852~1931)とモーレー(1838~1923)が実験を行った結果を採用したものだ。その装置としては、八角柱の回転鏡をこしらえて断続した光パルスを作り出し、遠距離(数十キロメートル)を往復させる。回転鏡の回転速度により、往復後の反射光の方向が変化し明暗の干渉縞(かんしょうじま)となって観測されることでの実験を行う。これを「マイケルソン・モーレーの実験」と呼ぶ。その結果、光速が地球の動きにかかわらずどの方向でも一定(299796±4キロメートル毎時)であることを確かめた。つまりは、空間を満たすエーテルなとどというもの(媒質)は存在していないことになる。
さて、この相対性原理と光速度不変の原理からは、相対性に関する新しい物理学がつくられていく。その際、導きの糸となったのがローレンツ変換(Lorentz transformation)と呼ばれる数学上の式である。これは、2つの慣性系の間の座標(時間座標と空間座標)を結びつける線形変換である。アインシュタインはこれを独力で導びき(矢野、前掲書に導出過程が簡便な形で掲載されている)、慣性系間に許される変換公式として、理論の基礎を形成するのである。
 なお、この式そのものについては、これより前、電磁気学と古典力学間の矛盾を回避するために、電磁現象を表現するためのマクスウェルの方程式を不変にする変換として、アイルランドのジョセフ・ラーモア(1897年)とオランダのヘンドリック・ローレンツ(1853~1928発表年は1899年、1904年)により提案されていた。
 1906年、27歳の時、アインシュタインは職場において2級技術専門職にめでたく昇進し、年俸も4500スイス・フランに上がったのだという。

(続く)

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♦️554『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の朝鮮半島(朝鮮戦争)

2018-03-14 09:00:18 | Weblog

554『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の朝鮮半島(朝鮮戦争)

 1950年1月末、米韓相互防衛援助協定を締結した。これより少し前の1948年12月、国際連合の第三回総会で世界人権宣言を採択したばかりだった。
 これに勢いを得たアメリカのトルーマン政権は、1950年1月30日に全面的な軍事介入を指令した。1950年6月25日(俗に「ユギオ」といって、この日の出来事を韓国読みにする場合がある)、北朝鮮軍が南朝鮮に進攻する。同6月26日、国連が緊急安全保障理事会を開いて、北朝鮮軍の攻撃即時停止を求める決議案を、ソ連欠席のうちに9対0で採択した。ちなみに、この時のソ連は中国の代表権を台湾が持っていたことに反対して欠席していたという。
 7月7日、国連軍を語る組織ではマッカーサーが総司令官となって戦いを進めるものの、8月には釜山を除いて北朝鮮軍の手に落ちる。9月15日、アメリカ軍が巻き返して仁川(インチョン)に上陸し、9月26日にはソウルを奪還する。
 10月1日、国連軍は中国からの警告を無視して北緯38度線を突破する。中国はこれに対抗するべく義勇軍を派遣し、国連軍の動きを牽制する。10月7日には、国連が朝鮮半島の武力統一のため北緯38度線以北への軍の進攻を容認する。1950年11月末の中国軍総攻撃で、国連軍は北緯38度線以南に退却を余儀なくされる。
 このままでは戦況が劣勢になると考えたアメリカ政府は、1950年12月15日には、国家非常事態宣言を発し、それまで150万であった兵力を350万人に増やす
 ここでトルーマン大統領は、戦況の立て直しをはかるためには原爆投下も辞さずの態度をほのめかし、また現地(アジア・太平洋)の司令官であるマッカーサーは中国東北部への爆撃を主張する。しかし、ここで事態が大規模化するのを恐れたイギリス首相クレメント・R・アトリーが戦争目的に限定すべきだとアメリカに進言したこと、アメリカ自身も局地戦争から広範囲への戦争拡大への懸念が増してくるに及んで、中国側への大規模攻撃を思いとどるとともに、1951年4月11日には強硬派のマッカーサーを解任する。
 このことから、当時日本への投下で効果を知ったアメリカに、当時再びの原爆投下を自制できるかとうかは微妙であったことが垣間見えてくる。そうなれば、その際の原爆攻撃には、沖縄の基地が使われることは明らかであった。なお、当時の沖縄には既に核兵器が持ち込まれていたことが、後に明らかになっている。
 1951年6月23日になって、ソ連のマリク国連代表による停戦案が出され、これを国連軍側が受け入れる形で7月10日に停戦交渉が始まる。しかし、手間取り、1953年7月27日になってようやく停戦交渉の妥結にこぎ着けたのだ。

(続く)

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