600『自然と人間の歴史・世界篇』漢江の奇跡(韓国)
1948年8月、朝鮮半島の南側の部分においては、大韓民国憲法が制定された。これから李承晩(イ・スンマン)政権が倒壊するまでを第一共和制(1948年~1960年)と呼ぶ。1953年2月に労働委員会法、3月に労働組合法、5月にそれぞれ勤労基準法が制定される。1954年、大韓独立促進労働組合総連盟(大韓労総)が韓国労働総連盟(韓労総)に組織替えされる。大韓独立促進労働組合総連盟は1946年3月に結成されていた。
1958年、都市産業宣教会が設立される。約4年にわたる民族内戦争で、全国の国土、生産設備は焦土と化していた。1961年末頃までの韓国経済は、まだ経済後進国に過ぎなかった。天然資源に乏しく、国民生活に必要な物資はもとより、さまざまな一次産品も輸入に頼っていた。
1955年8月に韓国はIMF(国際通貨基金)に加盟する。1965年から1987年までは借款の供給を受けていたが、1988年に全額返済にまでこぎ着ける。李承晩(イ・スンマン)政権は援助に依存する経済からの自立を目指す。「経済開発三カ年計画」(対象期間は1960~62年)を作成する。しかし、1960年4月に彼の政権は政治腐敗に抗議する学生、労働者らが「四月革命」(4.19革命とも呼ばれる)を起こす。李承晩の辞任書は4月27日に国会で受理される。許政(ホ・ジョン)外務長官が大統領代行となる。
それから1ヶ月後には、失脚した李承晩はハワイに逃亡し、彼の政治勢力は消滅に向かう。今度は、1960年7月の総選挙にて民主党が圧勝する。憲法が内閣責任制に改正され、第二共和国が発足する。新しい大統領は尹○善(ユン・ポソン)で、総理は張勉(チャン・ミョン)が就任する。この政権下で、「経済開発五カ年計画」(1962~66年)を策定する。
しかし、朴正煕(パク・チョンヒ)少将による1961年5月16日の軍事クーデターが勃発する。これにより彼の政権は内閣総辞職を余儀なくされる。同月同20日には、国家再建最高会議議長の張都暎(チャン・ドヨン 、軍事クーデターの軍事革命委員会議長)を首班に戴く軍事政権が発足する。同年7月3日には、本命の朴正煕が国家再建最高会議議長に就任する。
やむなく、1962年3月には尹○善(ユン・ボソン)大統領が大統領職を退き、入れ替わりに彼が大統領代行に就任する。同6月には内閣首班のソン・ヨチャンも辞任したことで、彼の手に権力が集中することになった。この2年間は、特別に第二共和制(1961年~62年)と呼ばれている。1963年12月、新憲法が発布される。第三共和制(1963~1973年)が発足し、民主共和党の朴正煕(パク・チョンヒ)が弟5代大統領に就任する。
1962年は第一次5か年計画の初年度であった。だが、凶作で農業開発は進まない。食糧の緊急輸入で、国際収支が悪化し、そのままでは国民経済が破綻に向かいかねない。そこで政府は、1962年中に本格的な経済開発に乗り出す。
1963年より尉山(ウルサン)工業センターなどの繊維加工基地を中心に輸出振興策に切り替える。また、韓国の通貨であるウォン切り替えで通貨管理を強化する。
1962年からの韓国のGNP(国内総生産)は、23億ドルから大幅に伸びていく。これを始めとしての韓国の経済成長のことを、首都ソウルを流れる漢江の名にちなんで「漢江の軌跡」(ハンガンエキジョッ)と呼ぶ。
その際の牽引力となった韓国の輸出は1961年に4090万ドル、1962年に5480万ドル、1963年8680万ドル、1964年1億1910万ドル、1965年1億7510万ドル、1966年2億5030万ドル、1967年3億2020万ドル、1968年4億5540万ドル、1969年6億2300万ドルとしだいに鰻上りに増えていった。
(続く)
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597『自然と人間の歴史・世界篇』1960年代アメリカ(戦後の労働運動)
第二次大戦後の1945年10月に全世界にわたる労働組合の国際組織=世界労働組合連盟(WFTU、世界労連)が発足しました。56ヵ国、6千700万を擁していました。しかし、世界労連は結成後わずか4年で分裂、「反共産主義」を掲げる国際自由労連(ICFTU)が生まれました。そのときの中心勢力となったのがアメリカのAFL、CIOでした。
分裂のきっかけは戦後の経済再建を巡ってのものでした。1947年、戦争で打撃を受け経済が疲弊した西欧諸国に対し、アメリカによる経済復興・再建計画=マーシャル援助計画が発表されると、CIOはその実施を巡って世界労連と対立します。そしてそれが拒否されるや労連を脱退したのです。
彼らはAFLや西欧資本主義諸国の右派組合指導者とともに国際自由労連を結成しました。アメリカの主要な労働運動は、当時、体制の変革とは一線をかくし、もっぱら経済的利害に根ざした労働運動を展開していました。AFLはその主流でした。彼らは思想的には「反共産主義」でした。左派の影響力の強かったCIOも1949年から50年にかけて左派11組合、90万人が追放され右派の指導権が確立されました。
アメリカでは1947年6月に全国労使関係調整法が制定されました。通称はタフトハートレー法といいますが、これは、当時の上下両院の労働委員会委員長であり提案者のタフトと下院労働委員長ハートレー(F. Hartley)の名に由来します。内容は反動的であり、クローズドショップ制の禁止、ストライキの禁止などを内容としていました。1936年のワグナー法で認めた労働者の諸権利を大幅に制限しました。
ここでは、タフト‐ハートレー法 [ 日本大百科全書(小学館)]から Taft-Hartley Actについての説明を引用しておきましょう。
「1947年6月アメリカでワグナー法を修正して制定された労使関係法Labor‐Management Relations Actの通称。提案者であるR・A・タフトとハートレーFred Allan Hartley(1903―69)の名に由来する。
労働組合の保護助成を図ったワグナー法の制定(1935)は労働組合の飛躍的発展をもたらした。とりわけ1938年AFL(アメリカ労働総同盟)から独立したCIO(産業別組合会議)の成長は、AFLとの対立を組合間の縄張り争いという形で表面化させた(1955年合同してAFL・CIOとなる)。
この争いに起因するストライキが頻発したため、同法の制定に強く反対した資本家階級は、労働の行きすぎを批判し、労使の交渉力の平等の回復を主張してワグナー法の改悪に力を集中した。
こうして制定されたタフト‐ハートレー法はワグナー法を修正するという形式をとるが、その実質はまったく異なり、団結権を制約するものである。具体的には、(1)労働者の団結しない権利の保障、(2)クローズド・ショップ制の否認、(3)使用者の不当労働行為責任の軽減、(4)とりわけ重要なものとして、労働組合の不当労働行為を列挙し、使用者との団交拒否、第二次ボイコット、縄張り争いによるストライキなどの禁止、(5)協約改定交渉には期間満了60日前の予告、協約交渉中の60日間の争議冷却期間の設定、(6)全国緊急事態条項による大規模ストライキの80日間差止命令、(7)組合役員の非共産主義者宣言、などがあげられる。労働組合はこの法律を「奴隷労働法」「立法の力による労働運動の破壊」と批判し、反対運動を行ったが、労働組合に対する法的規制は1959年にランドラム‐グリフィン法Landrum-Griffin Actが制定され、一層強められた。」(執筆者:寺田 博 )
1955年 アメリカ労働総同盟(AFL)と産業別労働組合会議(CIO)が合併してAFL-CIOを結成します。後に、1968年には全米自動車労組(UAW)がAFL-CIOから脱退しました。UAWはその後、1981年に再加盟しました。最大の加盟組織であったチーム・スターズは、1969年にICFTUから脱退したものの、1982年に復帰することになります。
さて、前述のタフト・ハートレー法の発動を巡って争われた労働争議として、炭鉱ストライキがあります。
「アメリカでは、ジョン・ルイスのひきいる合同炭鉱労働組合は昨年六月以来一日九五セントの値上げと組合厚生基金の支払の増額(一トン当り一五セントまし)を要求し、週三日労働戦術や、一〇月から一一月にかけて全国ストで闘ってきたが成果をえられなかった。今年に入って、賃金は釘づけのまま、無協約状態で働かされてきた炭鉱労働者は、ついにイリノイ州の炭鉱で一六、〇〇〇名の労働者が事前の予告なくストに入ったのを皮切りに、組合本部の承認なく、どんどん職場を放棄した。合同炭鉱労組会長ジョン・ルイスは一月二三日非公認のストを行っている支部に職場に復帰するよう要請したが、この指令は無視されスト労働者九四、一五〇名のうち二三日朝までにストを中止したのは三七、四五〇名だけであった。これに対して、トルーマン大統領は七〇日間の労資休戦の勧告を行ったが、二月四日、ルイスがこれを拒否したことがきっかけとなり、組合の指令なしに、三〇万をこえる炭鉱労働者は全国的なストライキに突入した。これに対して、タフト・ハートレイ法の廃止をスローガンとして再選されたトルーマン大統領も同法を発動し、連邦裁判所は二月一一日トルーマン大統領の要請にもとずき、タフト・ハートレイ法による罷業中止命令を出し、ルイス会長もこれに従って二月一七日職場復帰命令を出したが、炭鉱労働者は「協約なければ仕事なし」とこの命令に従うことを拒否した。
タフト・ハートレイ法の発動に対して、全米労働者の憤激は高まり、国際毛皮組合長ベン・ゴールドは、二月一〇日CIO本部に、合同炭鉱労働組合にたいするタフト・ハートレイ法発動に抗議するため全国的な短時間ストを行うよう要請した。(中略)
ここまで、おいつめられた経営者側は、ついに屈服し、合同炭鉱労組のルイス会長と炭坑所有者側とが三月五日新団体協約に調印したので四週間にわたり三七二、〇〇〇名の参加したストも幕をとじた。
新団体協約によれば、炭鉱労働者の賃金は一月一四・〇五ドルから一四・七五ドルヘ、また厚生基金はトン当り〇・二〇ドルから〇・三〇ドルヘ増加した。この炭鉱ストは、タフト・ハートレイ法による弾圧をはねかえして一人一人の組合員の団結によって闘いぬかれ、賃上げを獲得し偉大な成果をおさめるとともに、アメリカ全労働者の統一行動を促進した。」(法政大学大原社会問題研究所「日本労働年鑑1952年版」)
(続く)
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300『自然と人間の歴史・世界篇』ダイナマイトの発明とノーベルの遺言
アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(1833~1896)は、スウェーデンの化学者、発明家にして実業家。スウェーデンのストックホルムにて、建築家の父イマニュエルと母アンドリエッテの3男として生まれる。1842年には、ノーベル家はロシアのペテルブルグに移り、彼は1850年まで現地でロシア人とスウェーデン人の家庭教師から個人教育を受ける。次いでドイツやフランス、そしてイタリア、北アメリカといった外地に遊学して化学などを学ぶ。アメリカでは機械工学を修めたのだとという。
その後を決定する程の人生の転機は、クリミア戦争(1853~56、元は、いわゆる東方問題の中で起こったロシアとオスマン帝国との戦いなのだが、フランス(ナポレオン3世)とイギリスが後者を支援し、ロシア対フランス・イギリス連合の戦争ともなる)の時に訪れる。この頃、爆薬の製造に従事していた父親の事業を助けることになったのだ。戦後の1859年、一家がスウェーデンに戻ってからは、爆薬の改良に専念するようになる。それからの彼は、ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させていく。
350もの特許を取得したという。そんな中でも、ダイナマイト(ギリシア語で「力」の意味)が最も有名である。其の時から、ダイナマイトの開発と製造が彼と彼の会社の最大の収入源となった。彼が建設したダイナマイト工場は世界100か所に及び、全ヨーロッパを中心に股をかけ稼ぎに稼いだ。彼の会社は、「人間の欲望には限りがない」というのを、絵に描いたような様であったのだろうか。そのことで、ヨーロッパ有数の巨万の富を築いたことから、驚きだ。
しかしながら、このダイナマイトが売れれば売れる程、彼の心はうれしさとは別の方向、つまり悲しさとある種の憤りにつながっていったらしいのだ。ダイナマイトは、爆発の力で硬いものを壊したり、穴を掘ったりすることに威力を発揮し、人間の生活に大いに役立つものなのだが、戦争にも使われることになり、その比重が増していくにつれ、彼自身、「ダイナマイト王」とも呼ばれることに対し、「おまえは戦争商売人だ」などとといわれているように感じるようになっていったのであろうか。
1887年、実業家として油が乗りきっていたとみられていたことであろう。その彼が54歳のとき、「人の時を想う」と形容すべきか、兄に宛てた手紙が残っていて、自身のことをこう語っているとのこと。
「この惨めで半病人のアルフレッド・ノーベルはこの世に産声をあげたときに、人道的な医師によって窒息させられていればよかった。」
「最大の長所:見ぎれいにしていて、決して他人の足手まといにならないこと。最大の短所:家族がなく、機嫌が悪く、腹の調子が悪いこと。最大の要求:生きたまま埋められないこと。最大の罪:富の神マンモンを崇拝しないこと。人生の有意義な出来事:なし」
(ウルフ・ラーション編、津金ーレイニウス・豊子訳 「ノーベル賞の百年―創造性の素顔」ユニバーサルアカデミープレス、2002などより引用)
そんな彼は、1896年に死ぬ。その遺言には、こうある。
「署名者アルフレッド・バルンハート・ノーベルは、以下が私の死の時点において私によって遺言される財産に関する最後の遺言であることを、熟慮の上、ここに表明する。(中略)
残りの換金可能な私の全財産は、以下の方法で処理されなくてはならない。----私の遺言執行者によって安全な有価証券に投資された資本で持って基金を設立し、その利子は、毎年、その前年に人類のために最大の貢献をした人たちに、賞の形で分配されるものとする。
この利子は、五等分され、以下のように配分される。(中略)一部は、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした人物に、一部は、最も重要な化学上の発見または改良をなした人物に、一部は、生理学または医学の領域で最も重要な発見した人物に、一部は、文学の分野で理想主義的傾向の最も優れた作品を創作した人物に、そして一部は、国家間の有効、軍隊の廃止または、削減、及び平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事をした人物に。
物理学賞及び科学賞はスウェーデン科学アカデミーによって、生理・医学賞はストックホルムのカロリンスカ研究所によって、文学賞はストックホルムのアカデミーによって、そして平和賞は、ノルウェー国会が選出する五人の委員会によって、それぞれ授与されなくてはならない。
賞を与えるに当たっては、候補者の国籍は一切考慮されてはならず、スカンジナビア人であろうとなかろうと、もっともふさわしい人物が受賞しなくてはならないというのが、私の特に明示する希望である。
私の遺言による処分の執行者として、私はここに、ラグナール・ソールマン氏とルドルフ・リエクヴィスト氏を指名する。(中略)
この遺言状は、現在までの唯一有効のものであり、私の死後、万が一私の以前の遺言が存在したとしてもそれらの全てを無効にするものである。
最後に、私の死後、私の静脈が切開され、そして切開が終了し有能な医師が明らかな死の徴候を確認したときに、私の遺体はいわゆる火葬で葬られるというのが、私の特に明示する希望である。
1895年11月27日、於パリ。アルフレッド・バルンハート・ノーベル」(矢野暢著「ノーベル賞」中公新書より一部引用)
こうして彼が遺した基金からの最初のノーベル賞授与は、1901年12月に行なわれた。以後毎年、ノーベルの遺言に従って、物理学、化学、生理学・医学、文学および平和の 5分野(後に経済学が追加される)の分野において「過去1年間に人類に対して最大の貢献をした者」に授与されている。
彼の後半生は精神面で苛酷な道程であったのだろうが、これにより、最後の最後で、幾分なりとも自らの人生を達観できるようになったのではあるまいか。
(続く)
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♦️299『自然と人間の歴史・世界篇』細菌学(パスツールとコッホ)
ルイ・パスツール(パストゥール、1822~1895)は、フランスの生化学者、細菌学者。王立協会外国人会員。ロベルト・コッホとともに、「近代細菌学の開祖」とされる。
フランスのドルの町で、皮なめし職人の3人目の子として生まれる。パリの高等師範学校(エコール・ノルマル)へ進学する過程で、当時最も有名な化学者の一人であったジャン・バティスト・デュマの講義を聴き、感じるところがあったらしい。
その業績は、「生命の自然発生説の否定」あたりから有名になっていく。当時は微生物が空気のない環境でも自然に発生するという「自然発生説」が信じられていた。パスツールは1861年、ガラスの形を工夫したフラスコ(「白鳥の首型フラスコ」という)を用いて実験を行い、自然発生説が誤っていることを証明する。ただし、地球の発展過程の一段階として考えられている生命の自然発生まで否定している訳ではない。
この「生命の自然発生説の否定」を皮切りに、彼は牛乳、ワイン、 ビールの腐敗を防ぐ低温での殺菌法(パスチャライゼーション・低温殺菌法とも)を開発。 またワクチンの予防接種という方法を開発し、狂犬病ワクチン、ニワトリコレラワクチンを発明するなど、広範囲にわたる。.
1864年4月、「ソルボンヌ夜間科学講演会」において行った話を、次の言葉でしめくくっている。
「さて、皆さん、われわれが採り上げなければならない立派な題目がここに一つあると言えます。発酵の原因をなし、また地球の表面で生命をもっていたあらゆるものの腐敗と解体の原因をなす、この小さい生物の中のあるものが、天地万物の総体的調和のうちにおいて演ずる役割に関する問題がこれであります。この役割たるや、量り知れぬほど巨大であり、驚異的であり、まさにわれわれを感動せしめるものがあります。」
生活のほとんどを研究に没頭する中で、家庭的には色々あったらしい。子どものうち2人は腸チフスで死んだという。1868年には、自身が脳出血に倒れ半身不随となる。1870年につ普仏戦争でフランスがプロイセン帝国に破れた時は、科学に対するフランスの怠慢と無関心を批判したというが、愛国心の発露というべきか。
1879年の夏には、パスツールはニワトリ・コレラという家きんの伝染病につき、免疫形成につながる実験を行う。これに着手するには、1796年、ジェンナー(17949~1823)の天然痘への実験があった。この天然痘という病気は、当時人びとを震え上がらせていたという、伝染力の強い、非常に怖い疾患である。ジェンナーは、牛の痘瘡に罹ったことのある人は、その天然痘に罹らないということからヒントを得て、これを行ったのだ。しかし、そのジェンナーの種痘は、経験的にその効果がわかっていたが、何故、そうすることで天然痘に罹らないのかまでは明らかになっていなかったという。
パスツールは、夏休みで栄養補給をできていない培養基を使い、その中のニワトリ・コレラ菌をニワトリに接種する。ところが、ニワトリは病気を起こしていない。これに閃いたのか、先にニワトリ・コレラ菌を接種したニワトリと接種していないニワトリの二種類のニワトリに、本物の新しい培養菌の接種を行う。結果は、先に菌を接種したニワトリは元気で、初めて菌を接種したニワトリが全部死ぬ。
その訳を、パスツールは次のように結論する。この実験によって、わざと弱い病気をつくり、そのことで生物の体内に耐性をつくるのだと。その物質のことを、パスツールはジェンナーに敬意を表して、ジェンナーが牛痘のラテン名、Variolae vaccinaeのvaccinae(牛のという意味)から採用したという意味での、「ワクチン」という名前で呼んだ(ルイ・パスツール著・山口清三郎訳「自然発生説の検討」岩波文庫、1970)
1881年には、弱毒化した炭疽菌を使った大規模実験を行い、ワクチンをつくる。その後、狂犬病のワクチンを発明し、何十頭もの犬で実験を成功させる。「ヒトに使用するとなると手が震えてしまうだろう」と語っていたのが、1885年、ジョゼフ・マイスターという少年が狂犬病の治療を求めて彼のもとを訪ねてきた。そこで、この少年に狂犬病のワクチン接種をおこなつたところ、大いなる効果が認められた。
その彼は、「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」とか、「科学と平和が、無知と戦争に勝利することを、私は確信している」などの言葉を残している。
ロベルト・コッホ(またはハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ、1843~1910)は、ドイツの医師にして細菌学者。
幾つもの病原菌の発見者として著名。また、純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立する。これらの実験で使われた寒天培地やペトリ皿(シャーレ)は、彼の研究室で発明され、その後今日に至るまで使い続けられているとのこと。
彼は、ドイツのハルツ山地の村クラウスタールに生まれた。父は鉱山技師で、13人兄弟の3番目であった。地方の学校から近くのゲッティンゲン大学に進み、数学と物理学を学んだ後、1862年からは医学へと進む。1868年、医師となり、ハンブルクの病院およびハノーファー近くの小さな村ランゲンハーゲンで一般開業医として経験を積んでいくかたわら、研究にも精出していく。
一つは、ドイツでウシやブタなど家畜(かちく)の間に流行した、炭(たん)そ病の原因である炭(たん)そ菌(きん)を発見する。また、インドで大流行したコレラの原因であるコレラ菌(きん)も発見する。さらにコレラは、激(はげ)しい腹痛(ふくつう)におそわれ、ひどい場合は、感染後、数日でほとんどが死んでしまうこわい病気であった。彼は、この病気の元がコレラ菌であることを突き止めた。
その昔、伝染病(でんせんびょう)は神の罰(ばつ)だと考えられていたこともなしとしない。コッホが病原菌説を明らかにする以前は、伝染病(でんせんびょう)の原因はわからないままであった。これを突き止める先駆けを成したことにより、彼はパスツールと並び「細菌学(さいきんがく)の父(開祖)」と呼ばれる。
(続く)
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298『自然と人間の歴史・世界篇』熱と仕事(ジュールなど)
ジェームズ・プレスコット・ジュール(1818~1889)は、イギリスの物理学者といわれるものの、生涯、大学などの研究職に就くことなく、家業の醸造業を営むかたわら研究を行った。当時はまだ、熱がエネルギーの一種であるとは知られていなかった。そんな時、彼は、なされた力学的仕事と発生する熱のあいだには一定の量的関係があり、したがって仕事と熱は一定の比で互いに転換するのではないか考えた。彼は、独創的な実験を行う。
その装置においては、羽根車に回転軸が繋がり、その回転軸に左右に滑車が繋がり滑車にはおもりが載せられるようになっている。重りがゆっくり降下する。すると、滑車と回転軸と羽根車が回り、断熱された(熱が外に逃げない)水熱量計の中の水を撹拌する、つまり羽根車を水中で回転させる。その時の摩擦熱によって水温が上がる仕掛けだ。そこで、その上昇温度と重りが動いた距離を測定する。
その結果は、重り1個の質量を M 、降下した距離をhとすると、重力が重りに対して行う仕事Wは、2個合計でW=2×M×hとなるというもの。当時は、熱量の単位としてカロリ(cal)ーを用いていた。すなわち、1グラムの水を1度(℃)だけ上昇させるのに必要な熱量を1カロリーという。水の質量をM、上昇した温度を Δ(デルタ)tとすると、水の得た熱量Qは、Q=M(グラム)×Δtで求まる。
彼は、実験を繰り返し、仕事Wと熱量Qの間に比例関係が成り立つのを突き止める。その比例定数が4.19である。彼はこの比を「熱の力学的値」と呼んだ。これは、仕事とこれに等しいエネルギーの熱量との比、つまり2つのエネルギー単位のカロリーからの換算率であって、後に「熱の仕事当量」と呼ばれる。この関係を式でいうなら、W=4.19J/calとおくと、W(仕事)=J×Q(熱量)。これで、熱が仕事と等価であることが明らかとなった。
ところで、今日ジュールの法則といわれるのは、電流によって生み出される熱についての法則にして、電流から発生する熱量は電流の大きさの二乗に比例するというものであり、Qを1秒あたりの熱量、Rを抵抗、Iを電流とすると、Q=R×I×I=R×Iの2乗となるのをいう。
(続く)
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11『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球1
私たちの地球は、一日に1回自転しながら、この太陽の周りを平均で秒速約30キロメートルで公転している。それは、円軌道ではなく楕円軌道に乗っかっている。17世紀のヨハネス・ケプラーにより発見された。なおここに「平均で」というのは、地球と太陽の間の距離が一番近づくのを近日点といい、ほぼ1億4700万キロメートル、そこでの公転速度は秒速約30.3キロメートルであるのに対し、反対側の一番遠くなるところを遠日点といい、そこでの公転の速さは毎秒29.3キロメートルとやや遅くなっている。
地球と太陽の距離は、およそ1億5千万キロメートルある。太陽からの光は、およそ500秒をかけて地球にやってくる。光は一秒の間に真空中を約30万キロメートルだけ進む。つまり、私たちが見ている太陽は、その都度が500秒の前の姿なのである。
そもそも、原始の星間物質の中には、水や炭酸ガスなどの揮発性成分が含まれていて、それが幾つも現れ、互いにぶつかり合いながら、だんだんと規模が大きくなっていった、その一つがのが地球なのであると。その過程で、微惑星や隕石が原始の地球にぶつかると、地球の脱ガス大気による温室効果で射出率が低くなっていることから、地球表面は光熱でどろどろのマグマが全球を覆っていたのではないか。なお、射出率(しょしゅつりつ)というのは、二酸化炭素などによる温室効果の大きさを表す指標であって、温室効果が大きいほど射出率が小さくなる。
地球の誕生から暫くたってからの、地球を取り巻く大気の状態はどうであったのだろうか。それについて、いろいろ諸説はあろうが、京極一樹さんは、地球誕生から約1億年の地球大気の状況について、こう述べておられる。
「窒素と二酸化炭素ばかりでのない、地表気圧が60気圧の厚い「原始大気」ができ、その雲は雨を降らせ、やがてシアン化水素(HCN、青酸ガス)の溶けた海ができました。」(京極一樹著・加藤恒彦監修「こんなにわかってきた宇宙の姿」技術評論社、2009)
やがて、約40億年前の地球になる。その頃、太陽系内からの微惑星や隕石の衝突は下火になっていく。そのエネルギーで全球灼熱になっていたのが、地球表面で溶けていたマグマが固まり始める。
月は、いつ頃誕生し、そして地球に寄り添うようになったのだろうか。その月は、現在、地球の周りを楕円軌道を描いて回っている。自転の速さは変わらないものの、公転の方は、地球と月との距離が時々刻々変化していることから、早くなったり、遅くなったりしている。この現象は「秤動」と呼ばれる。
この月の誕生を巡っては、1975年にウィリアム・ハートマンとドナルド・デービスが新説を唱えた。これは、「ジャイアント・インパクト説(巨大衝突説)」と呼ばれる。この説によると、約45億5000万年前、太陽系の中には多くの原始惑星(現在は地球など7つ)が回っていた。その中に「テイア」(仮の名)と呼ばれる、今の加勢くらいの大きさの惑星があった。テイアは、原始地球の半分ほどの大きさで、その軌道は地球の軌道と交わっていた。地球とテイアは時速何千キロものスピードで斜めに衝突した。テイアは完全に崩壊し、地球も一部を失った。原始の地球にとっては、全面衝突でなかったことが幸いした。
テイアとの衝突によって地球から表面の一部が剥がれたのだが、その時宇宙に飛び散った岩石は、互いの引力で引き合う。やがて出来た「月の種」を中心に一つに集まっていき、地球を回る衛星となった。月は地球の岩石の残骸からつくられたとするこの説は、発表された当初は「そんな馬鹿な」といって人々は信じなかった。
ところが、1969年(昭和44年)、アポロ11号宇宙船が持ち帰った月の岩石に高温に熱せられた痕跡が認められると、その説に鞍替えする学者が増え、今ではこれが月誕生の通説(有力)となっている。とはいえ、1972年に月に着陸したアポロ17号が、その着陸点「タウルス・リットロウ」(Taurus-Littrow) 渓谷で月の土壌を採取し、地球に持ち帰っていた。その試料の解析が進み、「粒が急激に冷やされると、ガラスとなります。そのようにしてできた火山ガラスの中に水が含まれている」」(○(なみ)木則行氏の「スーパームーン、月の不思議」NHK教育テレビ、2016年11月11日放映の「視点・論点」より)ということになった。こうして月の中に微量の水が含まれていることが判明すると、今度は、このジャイアント・インパクト説(巨大衝突説)に「重大な」疑問を抱く向きも出て来ているとされる。これによると、月の誕生はまたもや謎の中に包まれようとしているのかもしれない。
ところで現在、月は地球の周りを公転しているが、その距離は時々刻々変化している。原始の月は、地球の今よりずっと近くにあったとされる。ならば、その頃の地球から空を見上げたとしたら、空の大半を占める巨大な月が見えたことだろう。また、月の引力は地球の潮の干満をもたらし、地球の生命の源となる豊富な海を創り出した。ジャイアント・インパクト直後の地球の自転周期は5~6時間程度であったと考えられている。それからというものは、月が地球にもたらす潮汐力によって、地球の海水と海底との間に摩擦が生じる。このブレーキ作用の影響で自転周期は今日までだんだんと長くなって来ており、今でも「数千~数万年で一秒」程のわずかながら一回転の長さは増しつつある。その月は、地球の大きさの約4分の1、約80分の1の重さ(地球の重力を反映した力)である。このため、地球の自転速度は徐々に遅くなり、その周期は今の24時間になった。そこで「もし地球と月を合体させると仮定すると、地球の一日は4.1時間で回転することになります」(○(なみ)木則行氏の「スーパームーン、月の不思議」NHK教育テレビ、2016年11月11日放映の「視点・論点」より)とも言われる。
それから、月の表面のクレーターができたのは、約44億年前のジャイアント・インパクトによる月形成直後ばかりではなかった。約40億~38億年前にも激しい衝突のあったことが、最近の研究で分かって来ている。これらのことと地球との関係如何について、清川昌一氏は、こう述べておられる。
「木星や土星も太陽系の進化にともなってその公転軌道が少しずつ変化している。土星の公転軌道は外側に、木星の公転軌道は内側に変わっていく。40億~38億年前、木星の公転周期と土星の公転周期が1:2の共鳴関係になったとき、小惑星帯にある小惑星の軌道が不安定になり、大量の小惑星が月に衝突するようになった。
地球表面は活発なプレート運動のために、38億年よりも前の地層はほとんど残っていない。しかし地球も後期重爆撃から逃れることはできなかったはずである。(中略)
地球は、40数億年前には海洋があったことが推定されているが、大衝突が起これば衝突による熱で地球の全海水は蒸発して、水蒸気の濃い大気をもつようになる。数百年後には水蒸気が冷えて、再び海洋が出現するということが繰り返された。また、できたばかりの地殻も繰り返し破壊・溶融していただろう。このように過酷すぎる環境であったために、生命の誕生は後期重爆撃の終わる38億年前まで待たなければならなかった。」(白尾元理・写真、清川昌一・解説「地球全史ー写真が語る46億年の奇跡」岩波初書店、2012)
あれやこれやで、地球上に生命が誕生したのは、月という衛星が生まれたおかげなのだという説も、多くの専門家から指摘されているところだ。ここでも、私たちが当たり前のように過ごしている時間と空間の枠組みは、はじめからその状態に備わってたわけではないことがわかってきている。その後、月と地球の距離が現在のものになったとはいえ、潮の満ち引き(潮汐)は、もちろん月の引力によって海面が引っ張られてのことであるし、私たちこの地球上で生きる者の生活のありようは、月の存在と深い関わりを持っている。ひとたびできてからの月は、地球の子供というより、兄弟というにふさわしい処もあるのだ。
月は、その重心地球側(地球から見て表側)に偏っているために、地球からは同じ面しか見ることは出来ない、という神秘的なところも残しているのであるが、私たちの地球がこの先も存続していくためには、なくてはならない存在だとされている(以上は、「地球ドラマチック、月と衛星の神秘」2014年9月14日、NHKのEテレで放映、左巻健男編著「面白くて眠れなくなる地学」PHP研究所などからまとめさせていただいた)。
(続く)
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5『世界と人間の歴史・世界篇』太陽
私たちの銀河系も、そうした銀河の一つの中に含まれている。その中心(そこには古い年齢の恒星が集中していると推測される)から相当離れた、私たちが「オリオンの腕」と呼んでいるところで、こんにち私たちが太陽系と呼んでいるものができていった。その形成のメカニズムは、私たちの銀河系の他の銀河、そして私たちの銀河系内で行われて来た星々の形成の模様と、基本的に変わりはないと考えられている。
では、私たちの太陽は、どんな星なのだろうか。銀河系と呼ばれる小宇宙に属する一つの恒星にして、地球から1億5000万キロメートル、光の速さでいうと10光分のところにある。そ位置と大きさの目安としては、出発点を地球とすると、地球から10億キロ、つまり10の12乗キロメートル離れると、木星の軌道が視界に現れてくる。木星は、私たちの地球のおよそ1000倍の質量がある。さらに100億キロメートルになると、太陽系の全体がすっぽりと入ってくる。さて、1000億キロ、つまり10の14乗キロメートルになると、ここでもまだ太陽が見える。太陽は、恒星だから自分で燃えて光って見える。そして10の21乗キロメートル。つまり約10万光年で美しい渦巻き銀河の構造が見えてくる。私たちの太陽系は、銀河の中心から約2万7~8千光年、およそ2京7~8千兆キロメートルの「オリオンの腕」と呼ばれるところにあって、もはや渦の中にのみ込まれている。これが私たちの住む銀河系なのだとされている。
次に、私たちの太陽とはどんな星なのであろうか。現在の太陽の温度は約1500万度である。これ程の高温となっているのは、現在の太陽核で核反応が行われているからだ。
極めて高温であるため、陽子と電子とは分離している。いいかえると、原子は電子を失って、原子核のみの丸裸状態になっている。
さて、宇宙の最初には、水素原子核がつくられた。その時の水素原子核は陽子そのものなので、ここでの水素は陽子が誕生した瞬間にできたことになる。陽子より前にできた電子が陽子と合わさると、逆β(ベータ)崩壊という反応を起こして中性子となる。
次には、①この中性子と陽子とが1つずつ結びついて、重水素の原子核になる。このとき陽電子(プラスの電気を持った電子)とニュートリノという素粒子を放出する。陽電子は電子と衝突するとγ(ガンマ)線のエネルギーになる。
②その重水素の原子核(陽子1つと中性子1つで構成)へ水素の原子核が核融合してヘリウムの同位元素(同位体)としてのヘリウム3(陽子2つと中性子1つで構成)となる。このときエネルギーのγ(ガンマ)線を放出する。
③かかるヘリウムの同位元素としてのヘリウム3の2つが核融合して、ヘリウム4が1つできる。このとき水素の原子核を2つ放出する。
④これまでの核融合反応を通じて、太陽活動は水素の原子核を6個使い、最後に水素の原子核が2個放出された。すなわち、太陽の中心部では、つごう4個の水素原子核が融合して、1個のヘリウム原子核になる核融合反応が行われたことになる。これら一連の反応のことを水素核融合反応と呼ぶ。
なお、これに関連して、村山斉氏は、アインシュタインの質量のエネルギーへの変換式(E=m×(かける)Cの2乗)を、こう説明しておられる。
「太陽核では、水素の原子核(陽子)が四つくっつくことで、ヘリウムの原子核がつくられます(このとき陽子は、ニュートリノと陽電子(電子の反物質で電荷がプラス)を出して中性子に変わります。ニュートリノと反物質はこれから出るくるのです)。ところが、ヘリウム原子の質量と陽子四つ分の質量は同じではありません。くっついた後の方が、0.7%ほど軽くなっています。重さ25グラムのお団子を四つくっつけて秤(はかり)に載せると99.3グラムになっているようなものですが、この失われた0.7%の質量がエネルギーに変換されて、太陽の熱を生み出しているわけです。」(村山斉「宇宙はなぜこんなにうまくできているのか」集英社、2009)
以上まとめると、4個の水素原子核H→1個のヘリウム原子核He+2個の陽電子e +エネルギー+ニュートリノとなる。
つまり、4個の水素の原子量1.008X4=4.032。ただし、1個のヘリウムの原子量は4.003。
ここで陽電子の質量は原子量に比較して極めて小さく、無視できるから、4.032-4.003=0.029となる。
このように核融合反応が行なわれると原子量が少なくなり、物質がエネルギーに換わる。そのことにより、一般的に語られる場合においては、「同じ質量で比較した場合、水素と酸素の化学反応(燃焼)にくらべて1000万倍以上とのエネルギーが発生する」(野田篤司・船木一幸著、中島秀紀協力「となりの恒星をめざせー太陽系を飛びだし、50年で恒星間を航行できる探査機を実現できるか?」:雑誌「ニュートン」2013年1月号、(株)ニュートンプレス)という。
(続く)
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38『自然と人間の歴史・世界篇』火の利用の拡大
一説によると、南アフリカ北部にある洞窟で、人類が約100万年前に草木を燃やし、獲物の動物などを焼いて食べたとみられる跡が見つかったという。カナダ・トロント大などの国際研究チームが灰や骨などを詳細に分析した。その結果、自然発火の山火事などの灰が風や雨水に運ばれて洞窟に流入したのではなく、人類が火を使ったことがわかったのだという。確実な証拠としては最古のものではないかと、注目を集めている。
この洞窟はカラハリ砂漠の南端に近い場所にあり、ここには「原人」とされるホモ・エレクトスがいたとみられ、彼らか使っていたであろう石器も一緒に見つかった。そして、この洞窟で見つかったホモ・エレクトスの歯や骨格の化石を詳細に分析した最近の研究では、彼らがいたであろう約190万年前のアフリカ大陸には、人類はすでにおりに触れ火を使って料理していた可能性があるという(「100万年前に火を使用=原人が洞窟内で料理か―南ア」時事通信社、2012年3月配信の電子版)。
ここにいう火というのは、彼らによって、どのように使われていたのであろうか。それというのも、人はモノではなく、物質が酸素と反応しながら、熱と光を発する現象のことであって、誰かが木や落ち葉や渇いた草などを燃やすときばかりで発生するのではない。例えば、雷が落ちたり、静電気が発生したりすることなどによって、つまり自然界の出来事によって木や草の類が人の意思と関わりのないところで燃えたりもする。
その際、燃える対象としては、主にルロースなどの有機物でできているとのこと。その有機物とは、炭素と水素、それに酸素、窒素などからなる物質のことだ。また、セルロースというのは、植物の細胞壁を構成している主な成分で、化学式で書くと(C6H10C5)のべき乗(n乗といって、当該の項を何度も掛け合わせることをいう)となる。
そこで有機物を燃やすと、最終的には、分子の中の酸素は二酸化炭素(CO2)や一酸化炭素(CO)に、また水素は水(H2O)に成り変わる。もっとも、火になっているときは高温であるから、水はそのままではいられず、水蒸気の状態で生成するという理屈だ。
ここで話を戻して、火を発見し、その利用に乗り出した人びとは、これをどう利用したのだろうか。冒頭に引用した話は、火を使って料理していた可能性があるというものだが、そこでは獲物や植物の実などを焼いたり、あぶしたり、何かの容器に水と一緒に入れて煮たり、蒸したり、その他にも様々な料理法が案出されていったのであろう。また、それの舞台は、洞窟など暮らしの中心的空間であったろうから、そこで火を使用するメリットとしては、獣などの外敵から集団を守るのに有用であったし、寒さを和らげ、灯りともなる、実に多様で多彩な効用があったに違いあるまい。
(続く)
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279『自然と人間の歴史、世界篇』生物学(メンデル、ヌクレインなど)
グレゴール・メンデル(1822~1884)は、当時のオーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)人。長じては、修道士を務めながら、植物学に興味を抱く。仕事の合間に、畑でエンドウ豆を栽培し、新しい豆を収穫していく。用いた方法は、同一の花の雄(お)しべと雌(め)しべで花粉を受精させるもので、「自家受粉」と呼ばれる。まずは、筆をとって雄しべにある花粉を同じ花の雌しべにつける、その後は、他の花の花粉がつかないように、その花に袋をかぶせる。そうやってを繰り返していくと、やがて純粋系の品種が得られるようになる。例えば、必ず丸々とした豆が穫れるとか、黄色い豆ばかりが穫れるとかになる。
このようにして形質がはっきり異なる(対立する)複数の種類のエンドウ豆を手にしたところで、メンデルは、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという、粒子遺伝が実現するとの仮説の正当性を調べる作業にとりかかる。
具体的には、エンドウの「豆の形(丸/しわ)」、「豆の色(黄色/緑色)」、「さやの色(緑色/黄色)」、「さやの形(ふらんでいる/くびれている)」、「花の色(赤色/白色)」、「花のつき方(散らばっている/上に集まっている)」、そして「茎の背丈(高い/低い)」という7つの形質に着目した。そして、これらの異なった形質をもつエンドウ豆を交配して、それぞれの形質が、子孫にどう受け継がれるかを調べる。
そこで、自家栽培のエンドウ豆中、豆を丸くする遺伝子をA、豆にしわをつくら遺伝子をaとおき、必ず丸い豆が穫れるエンドウ豆はAAという遺伝子を持ち、必ずしわの寄った豆が穫れるエンドウ豆はaaという遺伝子を宿していると考えよう。その上で、彼は、AA型とaa型のエンドウ豆をかけ合わせてみる。
すると、雑種第一代の豆はすべて丸型の豆となった。この事実を前にして、彼は、豆の形を丸くする遺伝子Aと、豆にしわをつくる遺伝子aとの交配においては、Aの形質の方が優性的であることに思いいたる(これを優性の法則という。ただし、これをもって「優れた」とか「劣った」とかいう意味ではない)。
しかし、豆の外見だけでは、それがAa型のエンドウ豆だとは結論できない。そこで、今度は自家受粉によって雑種第一代のエンドウ豆同士を掛け合わせることにしていく。そして第二代のエンドウをつくってみたところ、この代では丸い豆としわのある豆がほぼ3対1の比率で穫れた。このことから、雑種第一代のエンドウ豆が遡ってaの遺伝子を宿したAa型のエンドウ豆であったことがわかったのである。
以上をまとめると、親がAA(丸)とaa(しわ)とした場合の子(雑種第一代)がAa(丸)であり、これを同じAa(丸)と交配することで、孫(雑種第二代)としては、AA(丸)、Aa(丸)、aA(丸)、そしてaa(しわ)の3対1の構成となったのだ。ここでいうAとaという、いわば対立する遺伝子が同じ割合で分かれて配偶子に入る、つまり、遺伝子が混ざり合うことなく次代へ伝わっていくことを、生物学では「分離の法則」という。
(続く)
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33『自然と人間の歴史・世界篇』ホモサピエンスは全大陸へ
故郷のアフリカを出発してかれらは、現在のインドの西部に辺りから、北と南に二つのルートで東アジアに入ったのではないか、ともいわれる。今からおよそ7万年前には、インドネシアで火山の大噴火があり、当時の人類の相当部分が滅んだとされている。しかし、そのことについて、うってつけの証拠資料は見つかってない。とはいえ、おそらくは、生き残った人々は互いに助け合って、集団での生活を立て直していくのであった。
そうしておいて、約15万年~10万年前に第一次、そして約5~6万年前に第二次という具合に、アフリカ大陸から出たといわれるホモ・サピエンスの一部は、その後長い、長い時間を経て日本列島にも到達したのであろう。そのかれらの日本列島への最初の渡来時期は、地質学でいう新生代第4紀更新世(約258万年~約1万1700年前)の最後の氷河期(最終氷期、約7万年前に始まって約1万1700年前に終了した一番新しい氷期)の終わり、新生代第四紀「更新世後期」の4区分(ジェラシアン、カラブリアン、中期及び後期)のうちの一番後の「後期」なのではないかと考えられるが、考えるだけでわくわくするような一大叙事詩を垣間見ているような気持ちがしてくるではないか。
一方、ヨーロッパでは、1991年9月19日、考古学上の偉大な発見があった。この日、海抜3千200メートルのフィナイル峰からイタリアに下山するルートの途上で、ある登山家夫妻が氷から頭部と肩が突き出た、凍った人間の遺体を発見した。その辺りのチロル地方は、ヨーロッパ・アルプスの東側の地域一帯を指し、スイス、オーストリア、ドイツ、イタリアにまたがっている。非常に風光明美な所だという。見つかった遺体は、ヘリコプターでインスブルックの法医学研究所に運ばれ、それから色々と調査をしたところ、驚くべき事実が判明した。
というのは、放射性炭素法による年代測定で遺体は少なくとも5000年以上も前の人間である事実を示していた。この方法は、炭素14の半減期がわかり、元々の大気の元素組成(割合)がわかったいることから、それからどのくらいその炭素14が減ったかで、経過の年数を割り出す技術のことをいう。遺体部分を4か国の研究所に依頼し、測定したところ、ほぼ同じ解答であった。4つの研究所の平均値を取ると、紀元前3300年から3200年あたりということになったのである。なにしろ、5300年ほども昔の人体が完全な姿で見つかったのは、20世紀最大級の発見だといえる。
その後のマスコミによって、この遺体は「エッツィ」(エッツ峡谷の雪男の意)、アイスマン(氷河人)の名で呼ばれるようになっていく。もちろん、エジプトにおいても、ピラミッドは一つも建設されていなかった時代の事である。メソポタミアは今から7千年前の土器が見つかっているが、人体そのものは見つかっていない。この遺体が持っていた銅の道具は、石器にまじって銅を使った簡単な道具が使われ始めていたことを裏付けた。
そもそも、アフリカで発生した現人類の祖先が、どのようなきっかけで外部への道を辿ることになったかは、詳しいことはわかっていない。そこには、新天地(フロンティア)を求めての事もありえたであろうし、そこでは増え続ける人口を食べさせていけなくなったから、とも考えられる。特に、飢餓は人々に移動を流す効果がある。生物地学では、「混み合い度」もそうしたときの一つの尺度になる、その場合、生物社会の基本ルールは人間によってねじ曲げられることになりかねない。
これらの出アフリカの人々が数あるうち、中東、南アジアに達したグループから東アジア、次にその一部である中国へ、さらに朝鮮半島に進んできた人々、グループがあった。陸路では、氷河時代には、ある程度、橇に乗ったり、歩いて渡って来れたのではないか。また、風の向きを見計らって、大陸東岸から直接船で黄海(こうかい、ファンヘ)を渡ってきたことも考えられる。しかし、後のコースを取って、氷河期が去って後の大海を大勢の人が渡れる距離では到底なかった、とも考えられる。
(続く)
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32『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(5万年前~、ホモサピエンスの2回目の出アフリカ)
それが約5万年前になると、寒く乾燥した大地にいることに危機感を抱いたホモ・サピエンスたちが、かなりの人数で「出アフリカ」を敢行するに至る。ここに「かなりの人数」とは、約150人位を一単位と考えると、それが運命共同体として最適の規模だという説が出されている。西アジアに出て数を増やし、それからユーラシア大陸の東西へ拡散を始めたものと思われる。南アジアからは海を渡ってオセアニアへの移住が起こる。
この集団は、4万5000年前頃に同大陸に到達した。一説によると、日本人の祖先も3万8000年前に初めて日本列島に到達した。さらにおよそ2万1000年前からおよそ1万4000年前にかけて地球の寒冷化があった。こうなると、海面が低下し、その分陸地が干上がってくる。海水面の後退は、大きいところでは現在の水面から百メートルにもなっていたのではないかとも考えられている。ユーラシア大陸を東進したホモ・サピエンスの集団は、その寒冷化で陸地になっているベーリング海峡を渡り、北アメリカ大陸に、そして約1万年前には南アメリカ大陸にも渡っていく。こうした移住の結果、人類は地球上に広く行き渡り、その各地で多様な歩みを大地に刻んでいくのであった。
ここに、「ホモ・サピエンス」(2009年の定義)というのは、「ホモ」がラテン語で「人」、サピエンスは「賢い」という、したがって「賢い人」という意味である。これは、原始的亜種である「ホモ・サピエンス・イダルトゥ(ヘルト人)」と、基亜種としての「ホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)」の総称していう。このうちホモ・サピエンス・イダルトゥの化石は、約19万5000年前のエチオピアはミドルアワシュ峡谷の中から発見された。彼らの脳容量は1400立方センチの大きさであった。発見された地層は更新世末期のリス氷期中、考古学上の区分でいうと中期旧石器時代中期頃に生きた人びとの化石だと推測されることから、これをとって、私たち原生人類の直接の祖先は、少なくともおよそ20万年前に出現したというのが通説となっている。彼らは通称「ヘルト人」と呼ばれる。
過去から現在へ、その流れの中で地球上のあらゆる生物は、環境変化に適応すべく進化を遂げてきた。現生人類の起源を巡っては、国際的な捉え方の外、「猿人」、「原人」のみならず、「旧人」と「新人」などの日本独特の区分けも重なっていて、ややこしい。そのことを覗わせる最初の関門こそ、進化のシナリオの中で「原人」とは何であり、どのような位置を占めるのか、という命題であった。
そもそも19世紀に、人類学者によって初の人類とおぼしき化石が欧州で発掘された。それ以降、アフリカにまで発掘を広げて、地道な発掘作業が続いた。20世紀になると、生物学の発展により、遺伝学的な探索が徐々に可能となっていく。
さて、化石となって発見された現世人類であるホモ・サピエンス、その代表格といえるのが「クロマニョン人」だ。この種の発見は、1868年、フランスのドルトーニュ県にあるクロマニョンの岩陰から、鉄道工事中の工夫が人骨5体(頭骨を含む)を発見したのを嚆矢(こうし)とする。その岩陰は、あのラスコーの壁画(約2万年前)で知られる洞窟から約10キロメートルの場所にある。
その後、ヨーロッパ各地の洪積世地層から同様の化石人骨が発見され、現生人類に属する化石人類として「ホモ・サピエンス)」と言われるようになった。ともあれ、かれらこそは、私たちの直接の祖先である、ホモ・サピエンスにほかならないことがわかった。彼らがこの地上に現れ、生きた時代としては、約700万年もの人類の全進化史の中ではごく最近にあたる一時期、約4万5000年前から約1万5000年前くらい(石器年代でいうと、後期旧石器時代)をヨーロッパ大陸の一角に生きた地域的集団であると推定されている頃だ。人々は、石や動物の角などを利用し、さまざまなやりの先や、弓矢の鏃(やじり)、ナイフなどを製作、毛皮の加工もしていた痕跡が残っている。
これに関連して、旧石器時代のクロマニョン人が活動していた範囲で広く洞穴絵画が残されている。ところで興味深いのは、かれらの骨の発見には、洞窟の壁画の発見が絡んでいたことだ。というのは、1879年、スペインのアルタミラ洞窟で、この地の領主であり法律家でありアマチュアの考古学者でもあるマルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵の12歳の娘マリアによって発見された。同侯爵による発表の当時は世間に見向きもされなかった。後にこの壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分でソリュトレ期に属する約1万8500年前頃のものと、同マドレーヌ期前期頃の約1万6500年前~1万4000年前頃のものだと分かった。壁画が描かれた後に落盤があったらしく、外界と遮蔽され、そのことが幸いして画が失われずに残ったのだという。その洞窟には、旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、トナカイなどの動物が、狩りの対象として描かれていた。
続いて1940年、今度はフランスの西南部ドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村にあるラスコー洞窟近くで遊んでいた子供たちによって、これまた偶然に発見された。アルタミラ洞窟に勝るとも劣らない、すばらしい彩色のものであった。こちらの狩りを描いた壁画は、光がほとんど届かない洞窟の奥深くにあったことから、保存状態が極めて良かったとされる。これらの壁画がなぜ描かれたかについて、どんな思いを込めて描いていたのかについては、古代の呪供師(きょうじゅつし)が洞窟にこもって儀式を行っていたのではないかとか(クリストファー・ロイド著・野中香方子訳「137億年の物語ー宇宙が始まってから今日までの全歴史」文藝春秋、2012)、どのような状況の下でそれらの獲物を捕らえたかを記憶にとどめようとしたとか、さまざまに推測されているようだ。
(続く)
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