244○○『自然と人間の歴史・日本篇』久万山騒動(1741)と因伯一揆(1939)

2021-07-24 18:28:44 | Weblog
244○○『自然と人間の歴史・日本篇』久万山騒動(1741)と因伯一揆(1939)

 さて、久万山(くまやま)とよばれた地域は、江戸時代には伊予松山藩の治世にあり、1741年(寛保1年)3月8日にこの地で起きたのが、久万山騒動である。
 その実は、松山藩の年貢(茶を含む)増徴、紙方新法などに反対して、農民たちが、隣の大洲(おおず)藩領内に逃散(ちようさん)したのだという。
 この逃散するということは、農民たちが土地を捨て、集団行動にて居住地以外の地に逃げ込むことであって、下手をすれば生産手段から切り離され、流浪の民となりかねない。
 それでは、騒動のきっかけ、その出発点は、享保の飢饉で甚大な被害が出たところへ、松山藩(時の家老は、奥平久兵衛)では、重税を課すのをやめなかった。そればかりか、紙の専売制を打ち出すなどしたから、農民たちは耐え切れない。
 そう判断した農民たちは、同領内久万山26か村の農民約3000人を動員して、かかる藩政に反旗を翻す。
 しかして、その闘争手段が変わっていて、逃散と聞いて、同藩ではさぞかし驚いたことだろう。当時この行為は、幕府に漏れたら、藩とり潰しとか、大変なことになるとされていた。したがって、同藩としては、久万山菅生寺住職に説得を依頼して、なんとか中止させようとする。
 結局、農民たちはこの調停を受け入れ、帰村した。その結果、奥平らは処罰され、、年貢もなにがしか減額となり終息する。
 
 
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 もう一つ、因伯一揆(いんぱくいっき)というのは、1739年(元文4年)に起きた、鳥取藩池田氏の領する因幡(いなば)、伯耆(ほうき)両国にわたり起こった農民一揆である。鳥取元文(げんぶん)一揆ともいう。さらに、指導者の名を冠し「勘右衛門(かんえもん)騒動」とも言い慣わす。
 一揆勢は、まずは、八東郡西御(現在の八頭町)に集結し、その後、若桜・船岡・智頭と因幡各地を廻り、ついには鳥取城下に押し寄せていく。最盛時の参加人員は、一説にはおよそ5万人というから、我が国有数の規模であったろう。
 この一揆の原因は、前年までの凶作に遡ろう。これには、洪水被害も加わって、領内は、広くに渡り惨状を晒したという(注)。

 (注)江府町・江府県町人権・同和教育推進協議会「あかるいこころー差別のない明るい社会を目指して」第37集(インターネット配信)には、「鳥取藩史」からの抜粋として、「鳥取藩財政、苦難の歴史」が箇条書きされており、1632年(寛永9年)の岡山池田家との「国替え」以来幕末間近までの同藩の有り様が一目瞭然に感じられよう。

 ちなみに、山中寿夫氏の論考には、こうある。

 「元文4年(1739)の一揆の直接の原因は前年の飢饉であり、年貢未進者が続出し、となって鳥取城下に出る百姓も多く、四年初頭から不穏な状態がみられたが、それが八東郡東村勘右衛門(かんえもん)わその弟武源治らによって組織され、二月中旬八上郡した船岡村において百姓一揆が勃発したのである。
 一揆は在吟味役の説得をはねつけ、下旬に入って若桜宿の大庄屋宅を打ちこわしたのをはじめ、各地の大庄屋・同手代・俄分限(にわかぶんげん)の家を破壊し、次々と数を増して城下に近い千代河原に集結したときはその数三万余人といわれた(「因伯民乱太平記」)。他方また、伯州(ほうしゅう)の久米・八橋・汗入三郡の百姓約二万人も来会することになっていた。」(山中寿夫「鳥取藩」、児玉幸多・北島正元編「中国・四国の諸藩」人物往来社、1966にて所収)


 そればかりではなく、そのかなり前の1673年(延宝元年)位からの度重なる洪水、大風などにより、人民の生活は困窮が続いていた。
 それにもかかわらず請免(うけめん)制や、定免制(じょうめんせい)を維持し破免しなかった収奪強化にある。そこで、農民たちは、年貢軽減を掲げ、五歩借上米の返還なども求める。

 このような大勢での行動に対して、藩側は、巧みに対応してことになろう。山中前掲論文には、こうある。

 「十一か条の要求のうち「麦年貢を一反につき一升としてほしい」「年貢米に欠米(かんまい)があったときは別俵で納めさせてほしい」「新しく取り立てられた伯州の大庄屋の処置を考えてほしい」「大豆も米払いと同様に扱ってほしい」の四か条は、藩は全面的に承認したが、他の三か条は部分的に認め、四か条は回答を留保した。」(山中寿夫「鳥取藩」、児玉幸多・北島正元編「中国・四国の諸藩」人物往来社、1966にて所収)

 そのうちに、要求の一部を認めさせて一旦は終息に向かっていく。その後の藩側は、一旦それそれの在所に戻った農民たちを、先の指導者を相次いで捕縛し、勢力を削ごうと動く。その実、そうこうする間に、第二波の一揆が起こるのである。

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 それもつかの間、伯耆国で再発し、借銀10か年賦を要求に加えて再燃していく。途中にて、大庄屋(おおじょうや)などを打毀(うちこわ)したり、借金証文を奪ったりしている。

 その辺り、具体的には、こうある。
 
 「三月下旬、会見郡では坪上山に一揆がたてこもり、八橋郡では剣ケ野の御立山(おたてやま)に集まった一揆が大庄屋や豪農宅など4軒を破壊し、また借銀の十年賦の手形などを奪取した。久米郡では倉吉近傍の一揆は大庄屋・宗旨(すうし)庄屋・庄屋などの宅を破壊している。藩側では、四月に入って徒士5人に足軽30人をつけて伯州(ほううしゅう)に出張させ、各地の鎮圧に当たらせた結果、四月下旬まてには鎮静化した(「御曹目付日記」)。」(前掲書)


 これらには、別藩からの応援もあったりで、やがて鎮圧される。これにより、年来の年貢増徴の責任者、郡代の米村広当(よねむらひろまさ)が追放されたものの、農民側は、19名が死刑となる。


(続く)


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新400『自然と人間の歴史・日本篇』金解禁(1930)

2021-07-24 10:21:15 | Weblog
新400『自然と人間の歴史・日本篇』金解禁(1930)
 
 1929年(昭和4年)7月に成立したのが、立憲民政党の浜口雄幸内閣であって、この浜口内閣が翌1930年(昭和5年)1月11日に行ったのが、金解禁(金輸出禁止解除)政策である。蔵相の井上準之助は、こういう。

 「然らばどうして金の解禁をすることが出来るかと申しますと、用意が要ります。準備をしなくてはなりませぬ。準備をせずに、現状のままで金の解禁は出来ませぬ。然らば準備は何かと云(い)えば、政府は財政を緊縮する、其(そ)の態度を国民が理解して国民も消費節約をなし、国民も緊張しますれば、ここに物価も下がる大勢が出て来る。輸入も減るだけの状態になります。そうなると、為替相場もずっと上って参ります。」(井上準之助「国民経済の立直しと金解禁」)
 
 見られるように、井上としては、為替相場安定のためにこの政策が必要であり、その分財政緊縮を進めて物価の引下げを誘導していくのだと
 すなわち、金輸出禁止を解除し再び金の自由な輸出を認めるもので、これをもって金本位制度に復帰する。当時の欧米では、すでに行われていた政策にて、世界経済大変化(貿易などによる各国経済の相互依存の深化)を受けての措置だといえよう。
 金解禁は、それを実施するときの金平価によって旧平価解禁と新平価解禁とに分けられよう。前者は、金輸出禁止前の金平価で行うもの。また後者は、金輸出禁止後の実勢為替相場を基準にして、金解禁する場合のことをいう。
 折しも、1929年10 月にはアメリカ発大恐慌か勃発していた、そのしわ寄せによる不況の大波が、この解禁を行ったばかりの日本経済に襲いかかる。
 あわせて、かかる解禁については、100円が49.85ドルの旧平価で行われた。そのためか、円高となり、生糸などの輸出が激減してしたう。もって、繭価の大暴落があり、養蚕農家の暮らしを直撃する。米の卸売価格も幅に下落したから、農民たちは、たまらない。 
 
 一方、そうこうするうちには、生糸や綿糸などの輸出品にととまらず、肥料や鋼材などの分野でも価格暴落が起こってくる。工場の休業や会社の倒産が相次ぎ、労働者の賃金げらく、首切りなどが増大する。
 これらに対して、農村においても、都会においても、小作争議や労働争議が頻発するようになって、日本経済は底なしの不況へと入っていく。

 1931年(昭和6年)4月には、井上大蔵大臣が先導しての、重要産業統制法が成立し、カルテルの結成を公認して、この不況に対処、中でも中小資本の犠牲を通じて乗り切ろうとする。結果として、財閥による資本の集積・集中が進んでいく。一方、農業生産の回復は進まず、浜口内閣のみならず政党政治への国民の不満と怒りが高まっていく。
 
 同1931年4月には、その前年に首相の浜口が凶弾に倒れていたのが、辞職。同年末には、代わっての犬養内閣が、金輸出を再禁止する。
 
 
 参考までに、この政府の政策の事後での評価については、現在にいたるまで、おおむね次のような失敗だとする論調がほとんどであり、幾つか紹介しよう。

○「まずいときにおこなわれた無謀な措置」、また「こうした事実があった以上、たとえ世界恐慌の影響がなかったとしたところで、急激なデフレーション政策と金解禁による金融の逼迫(ひっぱく)および外国の競争の激化は、日本経済にそうとう強いショックを与えたに違いない。すでに7月8日、浜口内閣が金解禁にふみきるだろうというおそれから、株式市場に小パニックがおこっていることからも、それは予想されることであった。」(大内力「ファシズムへの道」)

○「新平価(ここでは切下げ・引用者)で金解禁を実行していたならば、あれほど激しい不景気もこず、もう少し成果を上げることができてたのではないか。」(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」)
 
○「不可避な経済現象ではなく、百パーセント為政者の金輸出解禁に対する施策の拙劣(せつれつ)ないし過ちに基づくものであった。」(高橋亀吉「大正昭和財界変動史」) 

○「日本の金解禁にあっては、その準備でありその前提であるべきデフレーション政策、すなわち財政縮小・金融引締め・輸出増大・産業合理化が、金解禁の前にではなく、金解禁とほとんど同時にか、あるいはその後に、強硬されたという齟齬(そご)があり、これが、(中略)金解禁失敗の原因の一つにもなった。」(森七郎「日本における金解禁の特殊性」



(続く)

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新214○○196『自然と人間の歴史・日本篇』明暦の大火など(江戸、1657)

2021-07-24 08:22:01 | Weblog

新214○○196『自然と人間の歴史・日本篇』明暦の大火など(江戸、1657)

 世に言う「明暦の大火」は、江戸(東京)を襲った史上最大規模の火災であった。おりしも、1657年3月3日(明暦3年旧暦1月18日~20日)の冬は乾燥していた。そこに立て続けに3件の火事が起こった。まずは本郷丸山の本妙寺から出火した。翌日小石川から出火。さらに翌日、麹町から出火した。


 「扨(さて)も明暦三年丁酉、正月十八日辰の刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出し、しきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て、空にたなびきわたる有さま、雲かあらぬか、煙のうずまくか、春のかすみのたな引かと、あやしむほどに、江戸中の貴賎門戸をひらきえず、夜は明けながらまだくらやみのごとく、人の往来もさらになし。やうやう未のこくのおしうつる時分に本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より、俄に火もえ出で、くろ煙天をかすめ、寺中一同に焼あがる。折ふし魔風十方にふきまはし、即時に、湯島へ焼出たり。はたごや町より、はるかにへだてし堀をとびこえ、駿河台永井しなのの守・戸田うねめのかみ・内藤ひだのかみ・松平しもふさの守・津軽殿・そのほか数ケ所、佐竹よしのぶをひじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の屋形、たちまちに灰燼となりたり。(中略)
 扨又、右のするがだいの火、しきりに須田町へもえ出て、一筋は真直に通りて、町屋をさして焼ゆく。今一筋は、請願寺より追まはして、押来る間、江戸中町の老若。こはそもいかなる事ぞやとて、おめきさけび、我も我もと家財雑具をもち運び、西本願寺の門前におろしをきて、休みけるに、辻風おびただしく吹きまきて、当寺の本堂より始めて、数か所の寺々,同時に鬨と焼たち、山のごとく積あげたる道具に火もえ付しかば、集りゐたりし諸人、あはてふためき、命をたすからんとて井のもとに飛び入、溝の中に逃入ける程に、下なるは水におぼれ、中なるは友におされ、上なるは火にやかれ、ここにて死するもの四百五十余人なり。
 さて又はじめ通り町の火は、伝馬町に焼きたる。数万の貴賎、此よしを見て、退あしよしとて、車長持を引つれて、浅草をさしてゆくもの、いく千万とも数しらず。人のなくこゑ、くるまの軸音、焼くずるる音にうちそへて、さながら百千のいかづちの鳴おつるもかくやと覚へて、おびただしともいふばかりなし。親は子をうしなひ、子はまたおやにをくれて、おしあひ、もみあひ、せきあふ程に、あるひは人にふみころされ、あるひは車にしかれ、きずをかうぶり、半死半生になりて、おめきさけぶもの、又そのかずをしらず」(『むさしあぶみ』)


 この火事による被害がいかほどであったかには、諸説があって数ははっきりしていない。
「今度焼失の覚
一、万石以上類火、百六十軒。但し、万石以上焼失の残りは五十四軒。
一、物頭・組頭・番頭類火、二百十五軒。
一、新番組火、二百十軒。
一、小十人組類火、六十三軒。
一、御書院番組類火、百九十軒。
一、大御番衆、百四十軒。
一、町屋の類火は両町にして四百町、片町にして八百町、但し道程二十二里八町三十六町壱里にしてなり。間数四万八千間。但し六尺一間積。
一、家主知らざる町屋八百三十軒余。
一、橋残りたるは呉服町丁の一石橋、浅草橋ばかり、此の外は皆焼失す。
一、焼死者三万七千余人、此の外数知らず、牛馬犬猫をや」(『明暦炎上記』)


 当時の江戸には町家に約28万人、武家に約50万人の人々が暮らしていたとの推定があり、当時の欧州諸都市と比べても「ダントツ」の人口規模であった。人々は風に煽られて燃えさかる炎に追われて逃げ惑ったらしい。江戸城の天守閣も焼け落ちた。そんな中でも東へ逃げた人々の前には、隅田川があった。当時は橋が架かっていなかったので、そこまで来て多くの人が焼かれたり、煙に巻かれたりして死んでいったらしい。死者数には諸説あるも、数万人は下らなかったのではないかと言われている。
 

(続く)

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新204○○196『自然と人間の歴史・日本篇』天下の台所(大坂) 

2021-07-24 08:19:30 | Weblog

新204○○196『自然と人間の歴史・日本篇』天下の台所(大坂) 

 その当時の大坂については、江戸の「明暦の大火」(1657)のような大災害は伝わっていない。江戸と異なり、「天下の台所」として、物資が集散する賑わいを増しつつあった。井原西鶴は、北浜の米市の模様をこう伝える。

 「惣じて北浜の米市は、日本第一の津なればこそ、一刻の間に、五万貫目のたてり商も有事なり。その米は、蔵々にやまをかさね、夕の嵐朝の雨、日和を見合、雲の立所をかんがへ、夜のうちの思ひ入れにて、売人有買人有、壱分弐分をあらそひ、人の山をなし、互に面を見しりたる人には、千石万石の米をも売買せしに、両人手を打て後は、少しも是に相違なかりき。世上に金銀の取やりには預り手形に請判慥に『何時なりとも御用次第』と相定し…契約をたがへず、其日切に、損得をかまわず売買せしは、扶桑第一の大商。人の心も大服中にして、それ程の世をわたるなる。
 難波橋より西、見渡しの百景。数千軒の問丸、甍をならべ、白土、雪の曙をうばふ。杉ばへの俵物、山もさながら動きて、人馬に付おくれば、大道轟き地雷のごとし。上荷・茶船、かぎりもなく川浪に浮びしは、秋の柳にことならず、米さしの先をあらそひ、若い者の勢、虎臥竹の林と見へ、大帳、雲を翻し、十露盤、丸雪をはしらせ。天秤、二六時中の鐘にひゞきまさって、其家の風、暖簾吹きかへしぬ。
 商人あまた有が、中の嶋に、岡・肥前屋・木屋・深江屋・肥後屋・塩屋・大塚屋・桑名屋・鴻池屋・紙屋・備前屋・宇和嶋屋・塚口屋・淀屋など、此所久しき分限にして商売やめて多く人を過しぬ。昔こゝかしこのわたりにて纔なる人なども、その時にあふて旦那様とよばれて置頭巾、鐘木杖、替草履取るも、是皆、大和・河内・津の国・和泉近在の物つくりせし人の子供。惣領残してすゑずゑをでっち奉公に遣し置、(以下、略)」(『日本永代蔵』)

 これにあるように、江戸時代、諸藩の多くは大坂に蔵屋敷をもっていた。何しろ「天下の台所」と言い慣わされていた訳で、当時の大阪は水運の便利さもあって、堂島、中之島あたりに各藩がこぞって蔵屋敷を
建てていた。


 大阪に蔵屋敷を設けていた藩は、一説には、1655年(明暦元年)には66だったものが、1703年(元禄16年)には90、1835年(天保6年)には103に達したという。さらに天保年間(1830~1844)には、堂島川や土佐堀川沿い130以上も建ち並び、一大景観をなしていたという。中でも、中之島には、さして広いとは言えまい川沿いに約40もの蔵屋敷があったというから、驚きだ。


 それでは、その役割について、簡単に触れよう。その大方というのは、諸藩が知行地から運ばれてきた米その他の物資を売りさばく、あわせて、上方で入手しうる必需物資を購入し、また財政資金を調達し、その元利を支払うための、大坂に設けた倉庫と管理事務所と詰役の宿舎からなる施設である。


 そこには国元から派遣された武士(蔵元)と働き手のみならず、掛屋(かけや)と呼ばれる商人もいて、蔵米などの販売と代金の管理の大方を請け負い、取り仕切っていた。いま蔵米についていえば、彼らによって米蔵におさめられる前に入札され、落札した米仲買の商人には米切手が渡される。その米切手は現物の米と交換できることから、堂島の米市場(やがては、先物市場もできる)で売買されていた。

 つまるところ、米切手というのは、高値で落札した米仲買が、藩に米の代銀を支払い、代わりに支払証明書を受け取る。それを蔵屋敷で米を管理する蔵元に提示して、買った分だけの「米切手」の交付を受ける。後日には、この米切手を蔵屋敷に持参して、蔵屋敷から米の積み出しとなる訳だ。


 ついでにいうと、堂島米市が始まった当初は、現物の米を取引する「正米(しょうまい)取引」であった。それが、米切手が大坂の米商人の間でさかんになり、米相場の変動を利用して、その差益を得る「帳合米取引も行われるようになる、これはある種の先物取引と言えよう。1730年(享保15年)には、堂島米市場は幕府から米取引の公的機関として、帳合米取引とともに許可を得る。

 

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 大坂の魚市場は、「三遷」といわれる程に移転を繰り返した。
大坂城ができると、東横堀(現在の伏見町)に移転したのご、江戸時代に入って17世紀の中頃までには、上魚屋町(現在の中央区)に移住し、更に17世紀後半には雑喉場町に移転した。
 この雑喉場町辺りはもとは鷺島という海岸にちなんだ土地柄にして、最初は、上魚屋町の生魚問屋が出張所を設けてあったのが、だんだんに多数の魚業者が群居し、ジャコ(雑魚)を販売する 者も集まってきていた。
 その後、上魚屋町からこちらに本店を移す魚問屋が増えるに及んで、1682年(天和2年)頃には、上魚屋町のほぼすべての生魚問屋が雑喉場町に移住し、大坂最大の生魚市場となる。
 1771年(安永3年)には、問屋株が免許されて、大坂市中で消費される生魚取引の独占的地位が認められる。

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 大坂における青物市場の始まりは、大坂城築城以前の石山本願寺の門前であった。それが、大坂城下町が建設されると、大川に架かる京橋南詰へと移り変わる。江戸時代に入っては、何度か場所を変えながら1653年(承応2年)には、天満(現在の南天満公園付近)に落ち着く。諸国に類のない、新鮮な野菜、果物の供給地として名を馳せていく。あわせて、大川に面する水運の便から、大阪三郷周辺各地から青果物が集まってくる絶好の土地柄でもあったからだ。
 当市場は大坂市中の青物やみかんをはじめとする果物なども、それらの供給を独占的に握ろうと、新市や新規店などに対し反対の訴願を度々行ったというから、驚きだ。

 

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 大坂はまた、幕府の鎖国政策の中でも、長崎のともに、他国に開かれた貿易都市であった。本渡章氏がひもといておられる「摂津名所図会」の解説には、こうある。

 「棚に見えるのは西洋のガラス器、手前には中国の陶磁器。鎖国時代というのに、こんな舶来品専門店が流行った背景には、貿易の窓口だった長崎と大坂をつなぐ太いパイプがあった。

 長崎貿易での買い入れは、はじめ金銀で行われていたが、寛文8年(1668)に銀の輸出が禁じられると、銅が重要な決済手段になった。日本で唯一の精錬所があったのは大坂である。

 元禄14年(1701)には銅座が大坂の石町に設けられ、長崎会所と協力体制を組んで銅貿易がすすめられた。また日本の主要な輸出品だった俵物(干あわび、ふかのひれ、キンコ(なまこの干したもの)の三品)は、いちばんの産地の北海道から大坂の俵物会所にまず集まり、長崎へとはこばれた。かわりに長崎から入ってくる外国の品々の多くは大坂に送られ、そこから各地に流通していった。

 木綿、白糸、薬種など朝鮮からの輸入品は対馬が窓口で、大坂にあった対馬屋敷から問屋に流れた。琉球の砂糖なども大坂の薩摩屋敷から問屋を経て、各地に売りさばかれた。大坂港と張り合っていた堺港が、大和川の付け替えでできた新大和川がはこぶ土砂で衰退したことも、舶来品の大坂への集中をうながした。」(本渡章(ほんどあきら)「大坂名所むかし案内ー絵とき「摂津名所図絵」」創元社、2006)

 


(続く)

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新207○○187の2『自然と人間の歴史・日本篇』島原の乱・天草の農民一揆(1637~1638)

2021-07-23 21:11:20 | Weblog

新207○○187の2『自然と人間の歴史・日本篇』島原の乱・天草の農民一揆(1637~1638)

 ここに、「島原の乱・天草の農民一揆」と一くくりでいう理由としては、キリシタン禁制に基づく弾圧と、肥前国島原半島(領主は松倉氏)と肥後国天草島(領主は寺沢氏)の農民が、キリシタンを紐帯(ちゅうたい)として起こした一揆であるからだ。

 それと、「島原の乱」という場合にも、農民らの一揆というよりは、その規模などにおいて、当時の日本における一個の「内乱」というべきだろう。その勃発の時は1637年12月11日(寛永14年10月24日)、島原の地有馬村の住民がまず蜂起した。10日遅れて、天草でも一揆が始まった。主な背景には、この地が作物の栽培には適さない上に、年来の不作、領主の悪政などがかさなったものとされる。

 この機に乗じたのが、天草大矢野に住んでいた、関が原の戦いで西軍に属し敗れた小西家の旧臣益田甚兵衛なるものが中心となり、浪人などを糾合していく。その子、四郎時貞(しろうときさだ)、その霊名はジェロニモと称する少年を頭に推戴し、敢然と藩政、ひいてはキリシタン弾圧を押し進める幕府に敵対の旗を立てた。そしてこの地の農民、漁民などに結束して戦うように宣伝し、武装を構える。

すなわち、出発の時から、早々農漁民一揆を宗教一揆の形に組み立てた。これで、「生き残れるかなあ」という暗澹たる気分に晒されていた自分たちの未来を一転、支配者に戦いを挑むことで自らの運命を切り開こうとしたものだ、といえよう。

  現地での苦戦に、幕府軍が組織され、12月5日に江戸を出発した。12月26日に着いて、九州の諸侯とともに戦いを進める。一説には、総勢12万4千人というから、おどろきだ。海からは、オランダからの大砲などを借りて攻めるが、効果は上がらず。外国に援助を頼るのはよくないという怨嗟も聞かれるため、途中で取りやめとなる。

 それからの幕府軍は、敵の兵糧の尽きるのを待つ作戦に切り替え、これが効果をあらわしていく。そして迎えた1638年3月11、12日の総攻撃で、さしもの堅固な守りも突破され、勝敗がつく。老幼男女を問わず、生き残った者は皆殺しにされたという。この戦いで、一説には当時のカネで39万8千両が費やされたという。

 幕府は、これを機に、対キリシタンの政策を厳しく進めていくことになる、また、諸藩はそれに倣って以後、苛烈なキリシタン対策を強いられていく。


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 そこで、まずはキリシタンとの関係に焦点を当て、当該地の簡単な説明を試みよう。作家・小山勝清の宮本武蔵を取り扱った小説には、天草の地について、こんな注釈がもうけてある。

 「天草はキリシタンの島であった。もともと、この地は天草五家といって、天草、大矢野、志岐(しぎ)、上津浦、栖本(すもと)の五家が分割統治していたが、いずれもキリシタンの支持者だった。秀吉時代、宇土城主、小西行長が、熊本の加藤清正の援兵をうけて攻めほろぼしたが、小西も、熱心なキリシタンだった。

 と、いうわけで、天草には、早くから宣教師が入り込んで、各地に会堂をたて、学林を設け、少年のための学園などもつくって、長崎、島原とならんで、日本ようなのだが、ヤソ教の中心地となった。

 なお、天正年間、ポルトガルから活字印刷機が輸入され、天草学林にすえつけられるにおよんで、果然天草は日本におけるキリシタン文化移入の重要基地となったのである。

 けだし天草のヤソ教は、この間が黄金時代であって、小西行長がほろび、ヤソ教嫌いの清正の所領となり、ついで唐津の寺沢氏が支配するようになって、しだいに衰えはじめ、会堂も、上津浦の二か所に減じていた。この年、慶長17年3月、徳川幕府は、まず京都の天守会堂をこぼち、禁教の決意を固め、内意はすでに寺沢氏にも下っていたが、衰えたといっても、それは表面だけで、その実勢力は強大、番台の高畑忠兵衛も、うかつに手をつけることができなかった。」(小山勝清「それからの武蔵」集英社文庫)


 もう一つ、今度は、現地からのものを紹介しよう。

「今度、下々として籠城に及び候事、若(もし)国家をも望み、国主をも背き申す様に思し召さるべき候か。いささかも其の儀に非(あら)ず候。(中略)天下様より数ケ度御法度仰せ付けられ、度々迷惑致し候。(中略)

 数度御意に随い宗門を改め候。然処(しかるところ)に今度、不思議之天慮計り難く、惣様(そうさま)かくの如く燃え立ち候。少として国家之望これ無(なし)、私欲之儀御座無く候。」(1638年(寛永15年)1月13日付けの一揆勢「矢文」)


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 一方、自然災害のみならず、領主・幕府が搾取強化などを加えての、農民の暮らしの悪化に対しては、こう述べている。

 「御領地四万石之処すへて十二万石余之御所務、数年かうめんーりうとしよちなき米をめし上けらるるのみならす、其上種々のくわやくを相かけられ、とかなきものとも縄をかけ、目口鼻より血を出し、きやうたうはたうのやうに打ちゃくせられ候。(中略)

 

 数年のつかれ彼是以かしに及躰(からだ)に罷成候条、江戸迄相詰、種々そしやう申上候へ共、一つも叶たまわす、あまつさへ喩に無是(これなき)かうめんを被仰付候条、うんふんを指挟一命をををします一揆同心せしめはよし、(以下略)。」(1638年(寛永15年)1月下旬付けか、一揆勢「矢文」)

 これらに述べてあるのは、島原の乱がおこりし原因の一つが、かの地の住人のキリシタンとしての意思表示にあることを暗示しているように感じられてならない。しかし、ほかの要因に言及が見当たらないことからすると、かかる大乱が圧政に苦しむ農民の一揆として起こった側面は際立ってこないと思うのだが。


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(続く)

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新新184○○169の1『自然と人間の歴史・日本篇』「自由都市」堺(14~16世紀)、近江商人など

2021-07-22 21:35:55 | Weblog
新新184○○169の1『自然と人間の歴史・日本篇』「自由都市」堺(14~16世紀)、近江商人など


 現在の堺市は、かなり広い範囲をしめ、臨海部に工業地帯を抱える。そもそも北西部は、小さな海辺の集落に過ぎなかったという。後背地としては、和泉(いづみ)、河内(かわち)があり、長尾と竹内の両街道で大和盆地(やまとぼんち)と繋がる。

 遡ること南北朝内乱期には、軍事物資の集散地として名前を馳せる。1467年に勃発の応仁の乱においては、瀬戸内海の航行と兵庫津は大内政弘の勢力下に入る。ついては、これを避けるべく、対明貿易船は、四国の南を迂回して堺に発着する海路を開いたという。そのことで堺は、兵庫津に代る貿易船の発着地として、栄える。

 勢い、勘合貿易の利益の某かが堺にもたらされていく。日本有数の商人町へと成長を始める。当時の「南蛮船」は、九州の平戸(ひらど)や長崎に来航したため、堺の商人は船団を組んで九州よりの輸送を担う。そういえば、対馬氏からの鉄砲に関する人や技術の一端も、このルートで堺に運ばれていったのではないだろうか。

 1419年(応永26年)までには、「納屋貸十人衆」と呼ばれる富裕な商人が合議をなしての自治を始める、16世紀になると、「会合衆(えごうしゅう)三六人衆」として力を振るう、かかる強力な自治組織と環濠を備え、雇われ武士が治安を担う自衛都市、堺がだんだんに出来上がっていく。



 ちなみに、16世紀中頃に堺を訪れていたのだろうか、ポルトガル人宣教師のガスパル・ビレラは、こう書き送っている。

○「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。此町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる。」(1561年(永禄4)年8月17日付け、「耶蘇会士日本通信」所収の、インドのイエズス会修道士ら宛のガスパル・ビレラによる書簡)


○「日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし。市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。」(1562年(永禄5年)付け、「耶蘇会士日本通信」所収の同書簡)

 参考までに、同じ文面のことながら、別の日本語訳では、こうなっている。
 

○「(前略)ここ堺の市は非常に大きく、有力な商人を多数擁し、ヴェネチアと同様、執政官が治める共和国のような所である。」(1561年8月17日付けでの、堺発「ガスパル・ヴィレラのインドのイエズス会修道士ら宛書簡」)

○「(前略)日本全国において、この堺の市ほど安全な場所はなく、他の国々にどれほど騒乱が起きようとも、当地においては皆無である。敗者も勝者も当市に宿れぱ皆平和に暮らし、たがいによく和合して何びとも他者に害を加えない。

 街路では決して騒ぎか起こらず、むしろ諸人は街路で互いに大いに親愛の情と礼節をもって話すので、敵味方の区別がつかない。これは、すべての街路に門と門番がいて、いかなる紛争に際しても門を閉じ、騒ぎを起こす者は犯人もその他の(関係)者も捕らわれて皆罰せられることによるのかもしれない。(中略)

 市自体がいとも強固てあり、その西側は海に、また東側は常に満々と水をたたえる深い堀によって囲まれている。」(1562年、堺発「ガスパル・ヴィレラのインドのイエズス会司祭及び修道士宛書簡」)」)

 しかしながら、彼らの栄華には、やがて陰りが射してくる、やがて、信長がその力を伸ばしてくるのに対し、抵抗する堺という構図となっていく。
 それというのも、かねてから頼みの綱とした「三好三人衆が、1568年(永禄11年)、信長との戦いに破れ四国に敗走したため、状況が大きく変わる。ちなみに、「続応仁記」には、こうある。

 「扨又畿内繁昌の地、在々所々寺社等迄、公方家再興の御軍用、今度大切の御事なれば、各々金銀を差上げ然る可き由相触れられける程に、皆人是を献上す。中にも大坂本願寺は一向宗門の惣本寺大富裕なれば迚、五千貫を課せられしに、住持光佐上人難渋に及ばず五千貫を献上す。

 信長此金銀を上納させて諸軍勢の兵粮軍用、且又公方家御在京御官位等の御入用に、各是を相行はる。寔に余儀なき政道也。扨泉州ノ堺津ハ大富有ノ商家共集居タル所ナレバ、三万貫ヲ差上グベキ事子細有ラジト申付ラル。

 然ル処堺ノ津ハ皆三好家ノ味方ニテ庄官三十六人ノ長者共、中々御請申スコトナク、同心セザルノ由ヲ申ス。然ラバ早速ニ堺ノ津ヲ攻破ラント有ケレバ、三十六人ノ者ドモ弥以テ怒ヲ含ミ、能登屋、臙脂屋ノ両庄官ヲ大将トシ堺津一庄ノ諸人多勢一味シ、溢レ者諸浪人等相集テ、北口ニ菱ヲ蒔キ堀ヲ深クシ、櫓ヲ揚ゲ専ラ合戦ノ用意シテ信長勢ヲ防ガントス。

 信長是を聞て何とか思案致されけん。今度公方家の御共して、和泉・河内・摂津・山城四箇国、不日に退治して京都へ凱旋有べき事、武功天下に隠れ無し。堺の庄の町人共をば只其まゝに左置べしとて、更に取かけ攻伐の事無く、 和州は未だ帰服せず。松永父子に加勢して連々和州を退治すべしと、隠便に沙汰せらる。」(「続応仁記」、著者は不明)

 そして迎えた1569年(永禄12年)に、堺はついに「万策尽きる」形であったろうか、織田信長の軍門に降る、すなわち信長は堺を支配下に収める。

 
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 近江(おうみ)商人をご存知だろうか。その発端は、中世、さしあたり鎌倉時代から室町時代にかけてに遡る。

 それというのも、日本の回廊地帯ともいうべき近江については、東山道、東海道、北国街道などの多くの道が交差するなどしていて、さながら商人たちの「動く市庭(いちば)」なり、「商業圏」の有り様だったのではないたろうか。
 中でも、若狭(わかさ、現在の福井県)方面へ至る、琵琶湖上り経由の九里半街道を通って、後にふれる「五箇商人」の面々は、主に塩をふって長仕様とした塩魚を取り扱う卸売り商として名を馳せていた。
 一方、伊勢(いせ、現在の三重県)に向けては、八風街道や千種街道を通って、これも後に触れる「四本商人」ないし「山越商人」(鈴鹿山脈を越えることからの命名)と呼ばれる同業の面々が、こちらは海産物一般や塩、布など多彩な商品を幅広(市売りや里売りなども)に取り扱っていたという。

 そこで、この両方の商人勢力の関係如何なのだが、「今堀日吉神社文書」というのが、相当数残っていて、それらには、当時の近江国(おうみのくに)とその周辺を舞台に、どんな商売上のやりとりが行われていたかを、ある程度窺い知ることができよう。

 ここでは、それらのうちから一つ、紹介したい。

 「一、九里半(くりはん)の事は、高嶋南市(たかしまちなみいち)、同南五ケ、又今津の馬借(ばしゃく)、同北五ケの商人進退仕る事、その隠れ有るべからざる候。然るところ、野々川衆(ののかわしゅう)彼の道を罷り通り、若州え商売仕るべき造意、新儀に候。(中略)
 一、野々川衆申す事、いか様の証拠を帯び申し上げ候や、(中略)国々津湊各別に立場候て商売仕り候、商売のしな数ある儀候、何もその座々に立ち入りせきあい候、市売(いちうり)・里売(さとうり)まで、悉(ことごと)く差別次第、商売道(しょうばいどう)の古実(こじつ)に候。(中略)
 一、九里半道に付いて、往古以来、数度大事の公事出来候、樽銭(たるせん)・礼物、或いは商売に付き候て、出銭・礼物等の事、南北五ケ・南市の商人、その支配仕り候、野々川衆かつてもって存知仕らず候。」(年月日未詳「五箇商人等申次状案」)

 この史料が出された事情としては、四本商人(小幡(おばた)・保内・とう掛・石塔がメンバー)のうちの保内商人と五箇商人(薩摩・八坂・田中江・小幡(おばた)・高嶋南市の5者で構成)との商売上の争いがあり、そのことを巡る相論を、当該地の国衆である六角氏に、なんとかしてほしいと五箇商人側が持ち込んだ、

 その言い分としては、若狭小浜と琵琶湖岸の今津を結ぶ九里半街道において、高嶋南市の商人が、保内商人の荷物を奪うという事件が起きる。しかして、荷物を押さえた高嶋南市の商人側は、「野々川衆(保内商人のこと)の商売は新儀であり、認められない」と主張した。

 

 およそこのような流れで踏まえておくべきは、商品の種類ごとに、というか、座なりがあって、それらご流通へ回っていく。その回り方にも、商人集団ごとに商慣行があり、それらの多くは、自分たちの独占的な地位を築いて、或いは築こうとしていた。
 そして、そういうものの総体が、諸国の津や湊(みなと)のそれぞれの場において、すなわち市場での小売や村々、町々への行商に至るまで、それぞれの慣習なり権利が自分たちが有利な立場となるように、各々の商圏として具現化していたことであろう。
 だからこそ、これら街道上の要衝や港湾に成立した商圏がしだいに拡大していく中で、あるところでは常設店舗か増えることが起爆剤となって小都市的な商品流通・交換の場(町場)ができていく。のちならず、さらにそれらの中から、地方都市が生まれ、より拡大した商圏、ひいては地方経済圏が形成されていった。
 しかして、それらの作用が働くことでの「代表的な都市として、外国とな貿易で栄えた堺・博多のほか、備後の尾道、摂津の平野、伊勢の大湊、武蔵の品川」(木村茂光・樋口州男編集「史料でたどる日本史事典」東京堂出版、2012)などが、歴史の表舞台へと現れてくるのである。

 

(続く)

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新新62『岡山の今昔』江戸時代の宗教政策(日蓮宗不受布施派、キリスト教徒弾圧など)

2021-07-22 15:20:02 | Weblog
新新62『岡山の今昔』江戸時代の宗教政策(日蓮宗不受布施派、キリスト教徒弾圧など)
 
 まずは、日本全体の動きから、日蓮宗不受布施派(にちれんしゅうふじゅふせは)が、どう扱われたか、そこから簡単に紹介しよう。

 1595年(文禄4年)、豊臣秀吉は東山の方広寺に大仏殿を建て千僧(せんそう)供養を営み、諸宗の僧とともに日蓮宗も招請したのだが、独立精神からこれを拒む日奥(にちおう)と柔軟派の日重(にちじゅう)とが対立する。

 徳川家康の時代となると、それなりの決着がもたらされる。すなわち、日奥の主張は国主の権威を損なうものとして1600年(慶長5年)には、対馬(つしま)に遠流される。1623年(元和9年)には、幕府は不受不施派に公許状を与える。それにもわらず、布施を受けることを認める京都側と、不受不施(他からの布施のやり取りを拒む)を主張する関東側との対立は続く。
 1660年(万治3年)頃、幕府は、全国寺社領の朱印を調査し、改めて朱印を与える。それでも、かかる朱印を放棄し出寺した不受不施僧(法中(ほっちゅう)と呼ばれる)は、表面は一般日蓮宗や天台宗、禅宗などの檀家(だんか)となる。それと、内心に不受不施を抱く(内信(ないしん))者などができ、彼らは、(法立(ほうりゅう))者との対立していく。こうした関係に対応するかのように、内信―法立―法中と連係する秘密の教団組織が形成され、これを不受不施派という。
 
 
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 こちらキリシタン弾圧の話も、、まずは日本全体の動きを、そのあらましを確認しておこう。
 1612年(慶長17年)には、幕府が、直轄領にキリスト教禁止令を出す。翌年には、全国に同令を適用する。また、1613年(慶長18年)には、キリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)ら148名を、マカオやフィリピンへ国外追放処分とする。
 1616年(元和2年)になると、徳川家康を継いで2代将軍となっていた徳川秀忠が、改めてキリシタン禁止令を発布するとともに、ヨーロッパからの船の来航を平戸と長崎に限る。

 1622年(元和8年)には、幕府が、長崎において、キリスト教の宣教師・信徒を死刑にする、これを「元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)」と呼ぶ。
 
 もう少しいうと、この年の9月10日(旧暦では8月5日)、長崎の立山(たてやま)において、宣教師21名に加え中心的信徒4名、及び彼らをかくまった宿主(やどあるじ)ら30名、あわせて55名が、火刑それに斬首で処刑された。前者には、司祭9人が含まれていて、厳しさを増す幕府のキリシタン取締まりを反映するものとなった。

 さらに、3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)となっての1633年(寛永10年)には、ついに17か条から成る最初の鎖国令が発布される。これにより、海外渡航の船が老中作成の奉書を持たない場合、その船の渡航を禁じることになる。1635年(寛永12年)になると、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国も禁じる。

 ところが、1637~1638年(寛永14~15年)には、あの島原・天草一揆(島原の乱)が勃発し、鎮圧の過程で実に多くの血が流される。あわせて、幕府は、この戦いを経験して、ヨーロッパからの外圧と受け止め、危機感を新たにしたのであろう。

 それから、1639年(寛永16年)には、だめ押しということか、ポルトガル船の来航を禁じるとともに、1641年(寛永18年)には、オランダ人を長崎の出島を移して、鎖国体制を完成させる。
 
 およそこのような政治・経済と、キリスト教及びキリシタン弾圧とが織り成す歴史として、かかる全体を見渡すことができよう。
 
 
 
(続く)
 
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新80の2◻️『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)

2021-07-22 09:13:30 | Weblog
新80の2◻️『岡山の今昔』江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘)



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 その一端、「延享(えんきょう)の朝鮮通信使」でいうと、彼らはどのような日程で江戸へとやってきたのだろうか。
 当時の李朝の都・漢城(ハニャン)を出発したのは1747年11月28日のことだった。そこから慶州(キョンジュ)を経由してやって来た釜山(プサン)にて12月18日~1748年2月11日まで滞在する。
 それからは船で行かねばならぬ。対馬を通って府中に来て、2月24日~3月16日滞在する。それから九州に間近な藍島に着き、そこで4月1~2日を過ごす。
 さらにそれから西へ進んで赤間関へ、そこで4月4~5日を過ごし、再び出発。以降、上関には4月7~8日、蒲刈島(かまがりじま)では4月10~12日を過ごす。
 さらに牛窓(うしまど)へ、そこでは4月16~17日にかけて滞在する。牛窓でどの位のもてなしがあったのかは、後に触れよう。なにしろ数十人もの来訪なので、当該の藩(ここでは岡山藩)それまでの朝鮮使一行の行程において、歓迎やら、日本流のもてなしやら。とここまでは、概ね順調な旅ではなかったか。
 それからは、5月2日に京都に着いている。それが大坂となると、4月20~29日にかけてかなりの時を過ごしている。
 旅は続いて、東へ向かい、岡崎には5月8~9日、名古屋には5月7日と来る。その後は、掛川(かけがわ)に5月12~14日滞在し、そこから小田原に5月18日、品川に5月20日、ここはもう江戸の南の境といって差し支えあるまい。そしていよいよ、目指す江戸に到着したのが1748年5月21日だという。

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 富くじ(富突き、突富など)というのは、我が国では現在の宝くじの元祖とでも言うべきものでおろうか。江戸時代の元禄期(1688~1714)にの江戸などに現れ、幕府も始めは禁止令を出すも、やがて「御免富」として幕府の認可を得た寺社などが主催し、小遣い稼ぎから一躍千金にいたるまで当て込んだ庶民が集うようになる。
 江戸における「富くじ万人講話」の先駆けとしては谷中の感応寺(1699(元禄12))が、追っては目黒不動と湯島天神(いずれの開始も1812年(文化9年))が「江戸の三富」と呼ばれる。
 そのやり方は、番号入りの富札を前もって販売し、別に用意した同じ番号(二枚目へ続く紐付き文句をしたためることも)の木札を箱に入れるなりして、一定数の参加で締め切り、封を施す。
 やがて抽選の期日を迎える。なにしろ、偶然により当選者が出るように行うのが鉄則であり、当日は境内に高台を設けるなどして、興業主が公明正大を宣言、かかる箱の小穴から錐 (きり)で木札を突いて当たりを決め、賞金を支払う仕組み。
 これを岡山の地でみると、例えば、岡山藩は禁止していたのたが、津山城下ではいつの頃からか認められていた。大年寄や年寄が札元(講元)になって、予め利益をどのように分配するかを決めていた。

 津山では、こうした富くじが年に1~2回行われていた。その多くは、寺の修繕、改善を目的にしていたとされ、札の総売上げから幾らか差し引いてそれらの費用などに当てていたようである。
 かくて、中央(江戸)でも、地方でも、大騒ぎのな中にも悲喜交々の錯綜するうちに、庶民の夢が爆裂していたのであったが、やがての天保の改革で、幕府は禁止令を打ち出す。これに呼応して、地方でも、かねてからの「建設的でない」などの声が高まる。津山藩でも、幕末にさしかかった文久年間(1861~1864)に禁止扱いとなる。


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 種痘(しゅとう)とは、何だろうか。1820年(文政3年)には、中川五郎治が持ち帰ったロシア語牛痘書を馬場佐十郎が訳す。「遁花秘訣」は、わが国最初の牛痘書だ。
 
 ここに「牛痘」のそもそもとは、イギリスの医者ジェンナーが、乳搾りの主婦達の間に自然流行の天然痘が少ないことに着目し、開発する。乳牛の乳房の「おでき」・「かさぶた」の膿汁(うみじる)、すなわち、牛痘液を「痘苗」として利用するものだ。これを人に植え付けることで、免疫を獲得させる治療法のことであり、「牛痘法」という。
 これを載せての彼の論文の発表は、1796年であった。果たして、この手法は、ドイツでも試みられ、やがて、画期的な療法として認められていく、それからは、世界各地へ伝えられていく。ちなみに、英語の「vaccine(「ワクチン」)は、「牛痘液」に由来する「痘苗」を言い、ラテン語の「vacca」(牝牛)がその語源なのだという。
 アジアでは、1805年には、中国まで牛痘法の材料となる「痘苗」も到達しており、ルソン(フィリピン・ルソン島)経由でマカオ(中国南部・澳門)にまで届けられたという。

 およそこのような背景の下、1823年(文政6年)には、オランダ人シーボルトが来日する。彼は、牛痘苗を持参し、日本人に接種するも、成功しない。1830年(天保元年)には、大村藩が古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行う。
 1848年(嘉永元年)、オランダ商館医モーニケは、その長崎赴任の際、痘苗としての牛痘を持参するも、種痘は失敗する。同年には、佐賀藩主の鍋島直正が、同藩医師の楢林宗建に対し牛痘を持ち帰るよう命じる。
 1849年(嘉永2年)には、その楢林が、良好な痘痂(とうか、牛痘を宿したかさぶた)がモーニケのもとにバタヴィアからの輸入で届いたという情報を受ける。なお、船の長崎への到着日は、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)が有力視される(アン・ジャネッタ著、廣川和花、木曽明子訳「種痘伝来」岩波書店、2013、英文は2007」)。
 さっそく、自分の息子を伴って長崎の商館に赴く。そして、モーニケに彼への接種をしてもらう(こちらの日付けは、3日後の8月14日が有力視される、同著)。この接種が「善感」といって、その息子のみに発疹が現れ、接種に成功したことで持ち帰られ、佐賀藩内での普及に繋がっていく。
 それからは、京都・大坂などを中心にして、短期間のうちに各地に広まる。これには、蘭学医のネットワークがものをいう。同年には、緒方洪庵らが、大阪に除痘館を開設する。同年11月には、かかる牛痘が、佐賀藩より江戸にいる、藩医の伊東玄朴らのところに到着する。


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(続く)




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💗読者の皆様へ、お知らせ(2021.7.21)

2021-07-21 20:58:13 | Weblog

読者の皆様へ、お知らせ(2021.7.21)

 いつもお読み頂いて、ありがとうございます。
 まずもって、暑中お見舞い申し上げます。また、新型コロナの感染再拡大があり、皆様くれぐれも健康にお気をつけて、お過ごし頂くようお願いします。
 さて、今回のお知らせというのは、「自然と人間の歴史・世界篇」「自然と人間の歴史・日本篇」及び「岡山の今昔」の3部作について、従来の歴史に未来思考のものを書き足す作業を始めます。

 もちろん、書き足す必要のない項目は、第二部がなくて第一部だけの体裁(大部分はそうです)のままで、これからも進化していくことでしょう。
 そうなると、これまでのものはどうなるんだ、という話になるのでしょう。そこで、次に案内する通り、別の新たなブログを3つ立ち上げて、こちらでは、これまで通り歴史オンリー(第一部のみ)で書き足していくことになります。

♦️♦️「世界の歴史と世界市民」
https://maruo7988m.livedoor.blog/

◻️◻️「岡山の歴史と岡山人」
https://taiji7988mt.blog.jp

○○「日本の歴史と日本人」
https://taiji79888mtm.blog.jp

 つきましては、前段の3部作と、後段の3部作の二つの流れができて、以降、この二つのグループが関連しながら、それぞれ進化していけるようにしたいのです。
 以上、回りくどい言い方となりましたが、これまでにも増して、応援して頂けると幸甚です。
管理人・執筆者、丸尾泰司

 

 

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新212○○190『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農民一揆(美作での元禄一揆(1698~1699)、山中一揆(1726~1727)

2021-07-19 09:53:25 | Weblog

新212○○190『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農民一揆(美作での元禄一揆(1698~1699)、山中一揆(1726~1727)

 1699年(元禄12年)、津山藩で元禄一揆(げんろくいっき)が起きる。その頃、江戸では「元禄」という爛熟の世が出現していた同じ時代に、美作の地では百姓たちが結束して強訴しないでは収まらないだけの騒憂があった。

 ここでいう津山藩とは、江戸時代の最初に幕府により布置された森家のことではない。百姓たちに相対峙していたのは、同家が改易となった翌年、新たに封じられた松平家のことである。その家柄は、始祖に二代将軍徳川秀忠の異母兄にして、北の庄の徳川秀康を戴く徳川将軍家親戚筋として「親藩」(しんぱん)に列せられていた。

 ついては、これより十数年前の1681年(元和元年)、越後(えちご)高田藩26万石が改易処分となる。「家国を鎮撫すること能わず。家士騒動に及ばしめし段、不行届の至り」(『廃絶録』)との理由で、所領を没収される。これを受け、藩主の松平光長は稟米(りんまい)1万石を与えられ伊予松山藩に預けられていた。その光長が1687年(貞享4年)に幕府から赦免されると、従兄弟の子に当たる陸奥白河藩松平直矩(まつだいらなおのり)の三男を養子に迎えたのが、この宣富(矩栄(のりよし)改め)にほかならない。

 この松平氏が美作の新領主となって封に就き、領主として初めて年貢を徴収しようとした際、領民が幕府天領時代の「五公五民」への年貢減免を求め、強訴を起こした。この事件は、江戸期の美作において最初の大がかりな惣百姓一揆である。その背景には、年貢の変更による増徴があった。森藩が断絶してから松平氏が入封する1698年(元禄11年)、旧暦正月14日までおよそ10か月の間に幕府の天領扱い、代官支配下での年貢収納は「五公五民」の扱いになっていた。それが松平氏の支配となるや、その年貢率が反古にされ、森藩自体と比べても厳しめの「六公四民」になったことがある。具体的には、美作の歴史を知る会編『みまさかの歴史絵物語(6)元禄一揆物語』1990年刊行に収録の「作州元禄百姓一揆関係史料」に、こう解説されている。

 「一六九八年(元禄一一年)旧暦八月、領内に出された年貢免状によると、年貢量は森藩時代と同じような重税の上、森藩の時認められていた災害時の「見直し」や、「奥引米制」という値引き等が、全く認められない厳しいものでした。」
 この一揆では、大庄屋の責任で百姓たちが藩に嘆願する形式をとる。百姓の代表格の
東北条郡高倉村の四郎右衛門、佐右衛門、東南条郡高野本郷村の作右衛門らは、郡代の畑(?)田次郎右衛門、山田仙右衛門に、年貢を幕制時代に戻すよう主張する。これに対し郡代は、諸藩は独自の税法を有する。だから、願いの筋を聞き届けることはできないと突っぱねた。代表は、これを村に持ち帰った後、大衆の力をもって要求を通すしかないと衆議一決してから、1698年(元禄11年)の旧暦11月11日大挙して津山城下に侵入した。

 これはてごわいとみた藩は、明けての同旧暦11月12日、いったん農民たちの要求を受け入れる。これにより、百姓達の強訴はかわされて鎮静に向かい始める。その後の津山松平藩は、すでに足並みが乱れて始めていた庄屋の団結を破壊し、百姓たちから完全離反させようと画策を重ねる。そして、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで百姓に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。

 翌1699年(元禄12年)旧暦3月27日、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束を見た。彼らは、「幕藩体制」という封建社会において、その与えられた人生を力強く生き抜いて死んでいった。そうした彼らの志の高さに比べ、正義のため立ち上がった百姓達に対抗するため、藩側が一貫してとったのは武士の名分をかなぐり捨てた騙しの戦法であった、と言われても仕方がない。

 この元禄一揆により、さしもの年貢率にも修正が加えられ、「翌元禄十三年よりは、森家時代の年貢より弐割下げにして定められる」(『三間作一覧記』)とある。

 その水準がいかほどであったかは、『鏡野の歴史・鏡野町山城村年貢免定』の事例が明らかにされている。これによると、元禄九年(森)の毛付け高が三一八石に対し、年貢高は一八五石にして、年貢率は五八・二%。元禄十年(幕府)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一五八石にして、年貢率は四六・三%。元禄一一年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二五一石にして、年貢率は七三・二%。元禄一一年(松平、しゃ免引き)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二〇二石にして、年貢率は五九・二%。そして元禄12年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一七七石にして、年貢率は五一・五%であったと見積もられる。


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 次には、山中一揆(1726~1727)について、紹介しよう。美作の地では、津山松平藩の治世になっても、領内に善政が敷かれることはなかった。これには、藩政が徳川の親藩大名としての格式にこだわったこともある。あれやこれやで行き詰まりつつあった藩の財政は、1710年(宝永7年)津山蔵役人による蔵米横領事件が起こるも藩政の刷新は実現しなかった。1716年(享保元年)には、美作に大飢饉があった。これにより、津山藩内の飢民は1万2000名余に及んだとも伝わる。

 さらに1720年(享保5年)には、家老渥美図書の汚職が判明するなどがあって、津山藩の財政は、悪化の一途を辿っていく。1725年(享保10年)にも、美作に大旱魃(かんばつ)が起こる。この年の初夏から夏本番まで目立った雨が降らなかったことで、美作の大地は乾き切った、と言われる。この間、津山藩による農民らに対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の姿勢は、一層厳しさを増していく。


 1726年(享保11年)には、山中一揆(さんちゅういっき)が勃発する。この騒ぎはさらに勝北郡(苫田郡・勝田郡)、吉野郡(苫田郡)の一部にも波及していく。ここで「山中」というのは、狭くは、当時の真嶋郡(まじまぐん)と大庭郡(おおば)の二郡に跨る一帯で、いずれも2005年3月に合併で出来た現在の真庭市にある。そして広くは、久世(くせ)、勝山(かつやま)そして湯原(ゆばら)を中心にしつつ、北は蒜山高原(ひるせんこうげん)一帯に及ぶ。

 この地域に於いては、農民の政治や経済のあり方への関心なり意識が、相当に高くなっていた。蒜山地方で、この時期までに田んぼの水の田畑への取り入れ口に「ヒヨセ」と呼ばれる水溜の掘を設けて、山間部からの冷たい水が流れ込まないようにしたのは、私の子供の頃にも聞いたことがある。

 また、この地方で1681年(天和元年)から1683年(天和3年)の間、「山中煙草(さんちゅうたばこ)」が農家の副業として盛んに栽培されるようになっていたことにも、この地域の額に汗して働く人々の生活への工夫が読み取れる。

おりしも、藩では2代目の松平浅五郎(まつだいらあさごろう)が6歳で家督を継ぐ。ところが、彼が111歳になった1726年(享保11年)、江戸で病気により危篤に陥る。これに驚いたのは、藩当局と「山中(さんちゅう)」の農民の双方であった。まず藩では、

 このままでは領地が危なくなってしまうから、必死で幕府に取りすがる。その功あってか、藩主浅五郎が死んだ6日後の1726年12月17日(享保11年11月24日)には、江戸から浅五郎の従弟の亦三郎(またさぶろう)への相続が認められるとの報が入る。ただし、石高は5万石に半減されることになる。しかも、減地される領地は、「山中」の2地域になるのではないかという情報もあったのではないか。

 これは、藩の財政を大いに揺るがすことになるとの危機感が藩首脳部に広がっていたことは、疑いない。また農民の方でも、こののち統治が津山藩を脱して幕府領に組み入れるのであれば、すでに納めた年貢はとられ損になるし、これまでの不満が一挙に噴き出していくことになる。こうして、藩内は未曾有の緊迫した、騒擾の空気に包まれるのであった。

 その騒ぎに紛れて、12月21日(旧暦11月28日)、藩の勘定奉行の久保新平(くぼしんぺい)が庄屋たちを使って西原(現在の真庭市落合)の貢米蔵・郷蔵(ごうぐら)といって藩が設けた年貢米の一時的収納穀倉から、山中地域を含む「西六触」分の納米の某(なにがし)かを持ち出し、いわゆる高瀬舟に載せて吉井川(当時は、「中川」とも呼ばれていた)ルートで運び出そうとした。ここに「西六触」(にしろくふれ)とは、大庄屋の差配単位にて、小童谷(ひじや)、三家(みつえ)、湯本(ゆもと)、目木(めき)、上河内(かみこうち)、富(とみ)の6区域をいう。

 おそらくは、瀬戸内海ルートを辿って、その頃の「天下の台所」大坂の堂島(どうじま)に向かおうとしていたのかもしれない。そこには全国各地から年貢米が集められ、諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。津山藩の蔵屋敷の区割りの地図も残っている。ちなみに1730年、この場所において「堂島米会所」と呼ばれる米の先物取引を行う処ができる。この取引とは、将来のある時点である商品を対象に売買することであって、その取引での売買価格とその取引数量を予め約束しておくのをいい、「帳合米商い」と呼ばれるのだが、その成立には4年ばかり早い。だから、その頃はまだ現物取引、米(こめ)でいうと「正米商い」までの商取引の段階であったことだろう。

 こうなると、この地の年貢米は最終的に誰に納めるのかがわからなくなってしまう。こんなこともあろうかと、農民たちは、藩の動きに監視の目を光らせていた。すると、彼らが預けている蔵米が無断で積み出されるのを発見し、激怒したのだった。

 そこで義憤の念に駆られた農民たちは、藩の役人(勘定奉行の命を受けての)とその手先きの庄屋、村御蔵元たちの、夜陰に紛れての船積みをやめさせようと真庭郡久世(くせ、2005年3月末に近隣との合併で真庭市久世となる)近くの堂社にいったん集まり、そこから藩のコメ売却処分を阻止する行動に出発した。久世の蔵元をうちこわし津山城下を目指した。その途中に藩役人に示した、この決起における山中地域の百姓たちの願いの筋は、次の願書にしたためられた、次の6項目にあった。

 「一、当御年貢、右口米、糠藁代米、諸給米、右御年貢本途八歩六厘は先達って上納をとげ候、相残る一歩四厘の未納米は御免可被下候事。
一、四歩可免は御免可被下候事。
一、大庄屋加判の借米の返済は御免可被下候事。
一、大豆納並に山働年貢、諸運上銀は御免可被下候事。
一、大庄屋、中庄屋、庄屋役御取り上げ村々へは状着相立て御弁じ可被下候事。
一、大庄屋、中庄屋、庄屋に有之候御下札諸帳面残らず村方百姓へお渡し可被下候事。」

 この願書の第1項は「相残る一歩四厘の未納米」、つまり14%分は「御免」被りたいとの事である。それに、第2項に「四歩可免」とあるのは、年貢率に4%を加えることを免除してもらいたいとの事であった。さらに第5~6項において、藩が任命する大庄屋、中庄屋、村庄屋に与えられていた村の役人をやめさせ、農民の選んだ代表をおくことや、かれらにある特別な権益や諸帳簿を農民代表に引き渡すことが入っていた。これは、封建制度の根幹を揺るがしかねない要求であって、この一揆をいやが上にも激烈なものにしていく。

 そして迎えた1726年12月25日(享保11年12月3日)、藩の代官たちと、農民達との交渉は久世(現在の久世町)の「大旦芝(おおたんこうげ)」で行われた。これより前、村々にはこの日久世に集結せよとの「天狗状」が回っていた。この大旦芝での藩側が差し向けた役人との話し合いで、4番目の要求を残して妥結となる。4番目の要求の趣旨は、大豆納、山年貢、炭焼き、木地引きなどの「諸運上銀」の免除を願い出るものであったのたが、藩側は、これを一藩だけでは裁量できないことを理由に拒絶した。こうしてほぼ要求が貫徹されたことから、一揆勢はひとまず解散した。

 なお、この動きは津山藩東部の伝搬していく。1726年12月31日(享保11年12月9日)には、これの中から小中原(こなかばら)、綾部(あやべ)、一宮(いちのみや)、野介代(のけだ)、川辺(かわなべ)の5触の衆と、二宮(にのみや)、院庄(いんのしょう)、塚谷(つただに)、田辺(たなべ)の4触の衆が、それぞれに決起している。両者とも、津山城下に向かうことなくして、西6触並の回答を得て、一揆は解散している。ここまでは、当時の全国各地で頻発する全藩一揆と大して違わない。

 ところが、山中の西6触の内、小童谷(ひじや)、三家(みつえ)、湯本(ゆもと)の3つの触を中心として、大旦芝(おおたんこうげ)の交渉で獲得した成果である本途14%(1項目)と4%の加免米(2項目)の即時返還を目指しての、第2段階の闘争が始まった。それというのも、農民達は、津山藩の減封に伴う国分けに伴い自分達の地区が津山藩から分離されるであろうことを確信していた。そこで新領主が赴任するまで村々に呼びかけ、各触2名の惣代(そうだい)と各村1名の「状着」(じょうちゃく)を選出して、事実上この地の管理の一端を担う動きを見せ始める。

 一説には、「納め過ぎた米と算用帳の請取を求め、庄屋等のもとに押しかけ、実力で奪い取った」(保坂智「百姓一揆とその作法」吉川弘文館、2002)とも言われるものの、仔細までははっきりしない。

 結局のところ、この大一揆は藩の大方針が下って鎮圧される。時は、明けて1727年1月26日(享保12年正月5日)のことであった。それまでは、連日のように津山城内で評定が続いた。そして、彼らが持てる武力をフル動員して、鎮圧を決意するに至ったのは何であったのだろうか。評定の詳細な記録は残っていないので、これに反論があったのかどうかについては分からない。
 そこで手元の類書を紐解く限り、その一つは、やがて幕府の支配に返されることになるであろう山中地域を、平穏かつ従順な状況にして返さねばならなかったことがある。しかし、それはあくまで表向きの理由であった気がしてならない。

 真実は、むしろ別のところにあったのではないか。すなわち、このまま放置しておけば、この地に入府以来の農民に対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が白日に晒される事態になることを恐れたからではないか。結局は、一揆の頭取人ならびに参加した農民は盗賊として処分することに一決した。この暴政を止めようとする者が藩内に一人としていなかったことに、いたく驚かされるのである。

 当日に動員された正規軍には鉄砲隊までもが動員され、目付の山田兵内と三木・山田両代官の指揮で一揆勢の中心がいる山中地方に踏み入ろうとした。一揆側は、「大山道」の三坂峠の頂上付近に8百人余りの農民が集結し、ここを拠点に鎮圧軍が山中地域に侵入してくるのは備え、頑強なる抵抗の姿勢を見せる。

 このままでは苦戦に陥りかねないと見たのであろう、藩側は、久世の三坂峠から湯原への進入路を諦め、1727年1月28日(享保12年正月7日)には、出雲街道から山中地域を新庄(新庄村)へ向かった。一揆勢の背後をねらったのであったが、この作戦により、さしもの一揆勢も総崩れとなっていく。

 このときを境にして、一揆を起こした側に多くの犠牲(51名が今日で言うところの死刑)を出して、終結に向かった。この一揆が鎮圧された後、津山藩は当該地域の農民の怒りをかわすため、年貢率をそれまでの7割程度から6割程度へと復す。一揆勢の6項目要求の中では、他に2番目の要求である「四歩可免は御免可被下候事」だけを認めた。一揆の間に取り返した米も、藩当局に没収される。さらに、「状宿・状着」の農民代表は廃せられ、藩政の下部組織としての庄屋制による支配が復活するのであった。

 1727年(享保12年)5月、幕府は津山藩の石高を10万石から5万石に減らす。幕府は、津山藩領として残った以外の地域に代官所を置いて、いわゆる「天領」として幕府が直接支配した。その当初の年貢率は「五公五民」であった。この事件は美作ばかりでなく、日本全国にさまざまな伝承と共に広く伝わっている。

 演芸においても、1958年(昭和33年)、岡山新劇場が真庭郡湯原町(現在の真庭市湯原)で山中一揆を扱った劇を上演したことがある(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー戦後の歩み」山陽新聞社刊、1993による)。

 なお、『美国四民乱放記』の中では、指導者の池田徳右衛門(牧村、現在の湯原町)の人となり、その豪快にして繊細な人格は、かの島原の乱の首領天草四郎の孫に見立てた、高揚感で包まれたフイクションによる表現でこう述べられている。ただし、この本の著者が本件に対し臨んでいる態度は、一揆の行動が正義によるものではなく、「津山ヲ蔑二致」したための「天罰」であったとして、批判しているところに特色がある。
 「徳右衛門ヲ大姓ニ定メ、家名ヲ改、アマノ四郎ノ左衛門佐藤原時貞ト名乗時貞語テ曰、誠ヤ川上不清時ハ、必其下濁ル。国不納時、民乱ルルトハ、古キ言葉ニ見タリ。見ヨ、見ヨ。七年ハ過間敷、郷士ドモハ己ト亡国有、諸ノ佞人ハ天ノ冥罰ヲ可請。我命ハ終トモ、一念ハ死替、生替、鬼トモ蛇トモ成テ、世々影向、恨ヲナサデ可置カト、血ノ泪ヲハラハラト、断責テ哀也。」

(続く)

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233○○『自然と人間の歴史・日本篇』農民一揆などの頻発(17~18世紀)

2021-07-19 09:11:13 | Weblog
233○『自然と人間の歴史・日本篇』農民一揆などの頻発(17~18世紀)
 
 江戸時代の17~18世紀には、全国各地において、広い意味での一揆が頻発した。なお、ここでいうのは、一揆や強訴、打ちこわしなどから逃散(ちょうさん)なども含まれよう。

 およそ千数百件ともいわれる、歴史にその名前が残るこの時期の出来事のうち、主なものをざっと拾うだけでも万石騒動(安房)、南山御蔵入騒動(陸奥)、山中一揆(美作)、美作元禄一揆・高倉騒動、元文磐城平一揆(陸奥)、因幡伯耆一揆(同)、久万山騒動(伊予)、内の子騒動(伊予)、久留米騒動(筑後)、千人講騒動(しなの)、伝馬騒動(信濃)、大原騒動(飛騨)、上州絹一揆(上野)、天明福山一揆(備後)、大州騒動(甲斐)、浅川騒動(むつ)、土平治一揆(相模、幕府領)などがあろう。

 それらの原因を一括して概観することは難しいものの、大方の傾向ということであえていうなら、例えば、次に紹介する1749年(寛延2年)に勃発した二本松藩での一揆を題材にした「夢物語」においてのように、のっぴきならない、生存に照らしてのぎりぎりの状況が揃っていることがあろう。
 
 「爰(ここ)に陸奥国安積・安達両郡を守護職丹羽若狭守高庸公御仁徳にして賢守たり、然るニ領分の百姓近年打続く水損、干損の凶作、就中(なかんずく)寛延二年七月より雨降り続き五穀実(みの)らず、公納不安(安からず)して百姓困窮目の前なり、愁訴止(や)もう得ざる事百姓挙(あげ)て検地(ここでは、検見といって、作物のでき具合を調査して、検地で定めてある基準に則(のっと)って年貢量を決めることをいう、引用者)の願ひ取り取りなり、この旨上聞(じょうぶん)に達し、則ち検地せしむると雖も郷方役人当座の利徳に心を寄せ、百姓の難渋をも顧ず、纔(わずか)に検地の場所を増進し、収納公納の事急なる故、百姓日を逐(おお)て痩せ衰え、(中略)上納も半途なり、(中略)飢饉の愁訴頻(しきリ)なり、」云々。
 
 もう一つあって、それは、暴動などとは異なるということである。なにしろ、各々かぎりの一命ではなくて、皆々の命が、一蓮托生の形て懸かっている。ついては、それらの大方が、農民たちが自分たちが定めた「法度」を定めるなどして、集団としての姿勢を固め、要求を掲げ、装束や持ち物までを定めるなとして、行動へと移るという体裁となっている。
 
 ちなみに、前述の「夢物語」には、こうある。
 
 「扨(さて)、百姓共装束は、麻にてさしたる指着物を上着と定め(中略)、或(ある)いは鉈(なた)、まさかりを押入て、一俵宛背負たり、扨又此時、強訴に付、仲間一同不法の仕方無之様、法度を極、左に記之(中略)。
 一、道筋田畑へ障(さわ)り申間敷候事、附、町家戸障子へ一切障り申まじく事。
 一、町人へ対し惣(そう)て悪口雑言(ぞうごん)無用之事。
 右之通急度可相慎、若相用者有之は、仲間にて打殺可申事。」(
「夢物語」)


(続く)


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新276○○236の1『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(外国船の寄港、1750~1855)

2021-07-18 10:33:25 | Weblog

新276○○236の1『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(外国船の寄港、1750~1855)

 18世紀も後半に入ると、日本列島の入り組んだ、長い海岸線に沿って外国船の渡航が相次ぐようになり、西洋列強との関係が煩雑になってくる。1792年(寛政4年)、ロシア船のラクスマンが根室に到来する。ロシア使節として、漂流民送還や我が国との通商を要求した。幕府はこれを拒絶し、長崎への廻船を指示した。かくて、ラクスマンは、、長崎入港の信牌(しんぱい、許可証)を受け取り、帰国した。

 1798年(寛政10年)、探検家の近藤重蔵が千島と択捉島(えとろふ島)を周回する。彼は、その調査の結果を「大日本恵土呂府」にまとめる。1799年(寛政11年)、松前藩が治めていた東蝦夷地を幕府の直轄領とする。1802年(享和2年)、幕府が東蝦夷地直轄のため箱館(現在の函館)に奉行所を設置する。

 1804年(文化元年)、前述のラクスマンが得た信牌を携え、ロシアの使節レザノフが長崎にやってきて通商を要求する。ロシア皇帝の親書と、将軍への贈り物も用意していた。
 ところが、幕府は半年近くも一行を待たせたのちに、幕府は彼らの要求を拒絶する。しかも、親書と贈り物の受け取りまで拒否した。

 同年の幕府は、弘前、盛岡の両藩に蝦夷地の警備を命じる、沿海の諸藩にも外国船警戒を通達する。

 1807年(文化4年)には、幕府が蝦夷地全体を直轄領とし、奉行所を松島におくとともに、松前藩を陸奥梁川に転封するのであった。1808年(文化5年)、今度はイギリスのフェートン号が通商を求めて長崎にやって来るが、幕府は食糧などを与えて追い返した。

 1811年(文化8年)、ロシアの士官ゴローニンが国後島(くなしりとう)にやって来て、測量を始める。ロシアの旺盛な領土拡大への意思がくみ取れる事件となる。幕府はこれを咎め、幽閉する。彼はこの間に「幽閉記」を書いている。

 おりしも高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)がロシア側に拘束されていた。その嘉兵衛の身柄と引換に、翌年になってから幕府はゴローニンを釈放する。嘉兵衛による密貿易の疑いは晴れたものの、その後の幕府の嘉兵衛への追求は厳しく所有する千石単位の所有の船12隻を没収の上、淡路へ謹慎を命じられる。
 また、彼の養子の嘉市に対しては船家業を差し止めるなどで商売の息の根を止めようとするのであった(この事件の経緯について詳しくは、塩澤実信著・北島新平絵による『新しい大地よー探検と冒険の時代』理論社、1987)。

 1837年(天保8年)になると、さらにアメリカのモリソン号が鹿児島と浦賀の沖合に現れ、我が国に漂流民の送還と通商を求める。
 我が国外交が、諸事全般慌ただしくなっていくのは、世界の趨勢であったに違いない。その圧力を振り払おうとしても、相次ぐ来航と諸要求を突きつけられるのは、避け続けることができない。ゆえに、内外にわたる人々の意志決定の蓄積がものをいう時代となってきていた。

 1853年(嘉永6年)の8月10日には、ロシアのプチャーチンの艦隊4隻が、長崎に入港してくる。その前の7月26日に、彼らは寄港地の小笠原に立ち寄っていた。  

 長崎でのプチャーチンは、ロシア皇帝からの国書を幕府に渡し、通商を求める。幕府の引き延ばし策により、一行はそれからおよそ3ヶ月を長崎で過ごす。

 1854年12月には、そのうちのディアナ号が駿河湾で沈没する。1855年2月になり、幕府は重い腰を上げる形で、日露和親条約の調印を行う。

 これらの様子については、日本側からは
川路聖あきら、ロシア側からは1953年にプチャーチン提督の秘書官として来日していたゴンチャロフが、その交渉に参加していた。

 そのゴンチャロフの弁として伝わる一端としては、初めて長崎では日本人見てからどのくらい経っての印象であろうか、「鎖国をしていると、しらずしらずのうちに、こうまで子供にかえってしまうものか」と辛らつだ。

 一方、交渉相手の幕府代表の川路聖あきら(かわじとしあきら)については、こう評している。

 「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁(はんばく)する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった。その一語一語が、眼差(まなざ)しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと、炯敏(けいびん)と、練達をなしていた。」(ゴンチャロフ著「日本渡航記」岩波文庫)

 かくて、幕府の要請どおり、アメリカとの取り決めで開港された下田に回航したプチヤーチン一行は、安政の東海地震で乗っていたデイアナ号が沈没してしまう。そんな災難に遇いながらも、1854年12月21日に日露和親条約調印に漕ぎ着ける。そして迎えた1855年(安政5年)、彼らの新しい船ヘダ号に乗って、ブチャーチンは帰国していく。


 ちなみに、ゴンチャロフの帰国後には「フレガート・パルラダ」(「日本におけるロシア人」を含む)が刊行される。


(続く)

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新209○『自然と人間の歴史・日本篇』石見銀山(17世紀~)と銅山経営(17世紀~)

2021-07-16 18:46:21 | Weblog
新○209『自然と人間の歴史・日本篇』石見銀山(17世紀~)と銅山経営(17世紀~)
 
 さて、16世紀の頃までの銀製錬で触れたように、1533年に宗丹・慶寿という2人の技術者を博多から招き、灰吹法を導入、それからは、石見銀山の産銀量は大幅に増加していく。のみならず、徳川幕府が立つと、石見をはじめ全国の銀山は江戸幕府の直轄地になる。
 これにより、この技術は組織的に佐渡や生野など各地の鉱山に伝えられ、日本の鉱山技術に一大変革をもたらす。
 17世紀前半になると、日本での銀生産は年に20万キログラムにのぼった、当時の世界の銀生産量のおよそ3分の1に相当というから、驚きだ。
 こうしてできた銀は、朱印船貿易やオランダ貿易を介して、主要な輸出品として世界へ向けて流れていく、幕府にとっては重要な財源となる。ただし、日本からの銀の供給増加で、銀価格は下落。一説には、16世紀前半は1対5程度だった世界の金と銀の価格比は、17世紀には1対10〜13にまで下がったともいう。


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 江戸時代に入っての住友を始めとする銅山経営については、これまた長崎を舞台としての貿易、ただし、限られた外国との間でのものながら、その多くは日本からの主要輸出品なのであった。
 
 ちなみに、当時の銅山には、大別して幕府直轄(別子銅山など)と藩直営の二種類があり、後者の中では幾つか有名どころがあった。例えば、1692年(元禄9年)には、阿仁鉱山(あにこうざん、秋田銅山ともいう、現在の秋田県北秋田市にあった鉱山、~1978)の大部分を、出羽国(でわのくに)久保田藩が直営とする、これを「直山制(じきやませい)」と呼ぶ。
 この一帯においては、いつ頃からだろうか、金、銀、銅が採掘されていた。とくに銅鉱の産出が多く、1716年(享保元年)には、日本最大の銅山になる。
 寛文年間(1661~1673)にその域内で多数の銅山が開発されたことから、一説には、やがて幕府御用銅(長崎からの輸出プラス銭貨鋳造の原料)の4~5割を占めるようになり、この傾向は明治初年に官営鉱山となったのち、1885年(明治18年)に古河市兵衛に払い下げられるまで続く。

 そもそもは全国に散らばる各鉱山から大坂に運ばれてくる銅鉱石は、同地の銅吹屋仲間(どうふきやなかま)により、銅製錬の最終工程たる「棹銅(さおどう)」にまで加工した上、そこから国内御用達分を除いて長崎に送られる。
 
 なお、当時の主流として製錬で用いられていた「南蛮吹き」とは、銅鉱石の中に含まれた銀を取り出す技術で、銀を含んだ銅に鉛を混ぜ合わせることにより、鉛と銀を結びつかせ、銅から銀を含んだ鉛を取り出す方法にして、171世紀の初め京都の蘇我理右衛門 (そがりえもん)(住友家二代住友友以 (すみともとももち) の実父)がはじめた、そもそもは南蛮人から伝習した技術であることから、この名前が付いたとされる。

 幕府としては、輸出用の銅の安定確保が肝要であることから、1701年(元禄14年)には、大坂銅座を設ける。それでも、大坂に集まる銅の量は、全国銅山の自然環境の悪化もあって、「収穫逓減(しゅうかくていげん)」というか、減少していく。
 考えあぐねた形の幕府は、やむなくであったのだろうか、1711年(正徳元年)には、銅座を一時廃止し、大坂銅吹屋仲間に請け負わせる。
 
 それからの長崎は、輸出用産物の基地となっていく。1738年(元文3年)9月18日には、幕府は、長崎からの輸出に充てられる銅を確保するべく、銀座の加役として銅座「元文銅座」を復活させる。


(続く)

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○223『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の産業(大坂油稼株の設置、絹織物業など)

2021-07-15 22:25:41 | Weblog
223『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の産業(大坂油稼株の設置、絹織物業など)
 
 その当時、灯りとりに欠かせない油の種というのは、中世の頃までは、荏胡麻(えごま)油であった。それが、江戸時代に入るうちに、都市化の進展とも相俟って需要が拡大していく。
 そうこうする間には、油を絞る技術も向上し、原料も菜種(なたね)と綿実(めんじつ)が主なものとあり、なる。
 とりわけ菜種は、油分が多く、燃やしてと煙が出ないということで、町方も含め人気を博す(なお、庶民の間での灯り取りには、安価な魚油が馴染みであったようである)。

 これが引き金となって、供給側の産地の形成も急で、換金性に優れた産品として、冬季の裏作物として大規模な産地が形成されていく。

 こうした中、大消費地の江戸では、灯油の上物(じょうもの)とは、菜種油と綿実油を合わせたとので供給されていたという。そのため幕府としては、最大供給元の大坂を目安に、原料・製品価格の安定、品質の向上へと動く。

 そうはいっても、元々の政策としては、関東においても多様な油脂原料、とりわけ菜種の増産に「ハッパ」をかけていたとのことなのだが、「概して、冬撒き菜種は、関東以北での栽培には適していなかった。冬に播種され晩春に収穫される菜種は、雪の積もる地方では栽培には適していなかった。また米との2毛作であり、農民にとっては大きな負担になることも、隘路(あいろ)となった」(東京油問屋市場「百万都市江戸の灯を支えた油問屋」東京油問屋史追補版)とあり、なかなかに込み入った事情を抱えていた。

 結局、1758年(宝暦8年)に大坂油稼株の設置をして、油方仕法の制定や、江戸市場への直送を禁止し、大坂への集中を図るなどに誘導していく。大坂に菜種と綿実の両油種問屋を設けることにより、大坂の絞油業者への原料供給を取り扱わせていた。しかるべく、大坂周辺の菜種生産農家は、自分たちで使う分以外は、すへて大坂市場へ出さなければならなくなる。

 かようにして、いいところ取りをしたいかのような幕府のびほう策であったのだが、この大坂偏重の政策は、関東、ひいては西日本の菜種生産農家の反発、法令に反する搾油施設の稼働が相次ぐ。そんなことから、1791年(寛政3年)には、幕府は、灘目、兵庫の搾油業者の菜種買い取りを緩和して、江戸への直積みも認める。

 折しも、1826年(文政9年)の江戸では「油切れ」が起こり、その反省に立って、幕府は、江戸への分につき、すぜて霊岸島に油寄所を設け、江戸着の油はすべてここを通る、すなわち、同所にて油問屋及び問屋並み仕入方のものに売り渡すことを命じる。
 
 
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 二つ目として、絹織物といえば、江戸時代の後半からは、「西の西陣、東の桐生」とあるように、二つの大産地が出揃う。
 桐生については、古くは南北朝時代、桐生国綱が築城し城下町として馴染んでいく。産業では、16世紀になり桐生新町を建設し、そこを中心に絹織物生産地、絹市場(交易の場)として台頭していく。
 江戸時代に入ると、桐生は幕府領に組み入れられる。
江戸中期になると、かねてからの絹織物産地、京都の西陣との関わりが出てくる。その始まりは、思いがけなくやって来た。
 その背景には何があったのだろうか。一つには、長崎貿易で中国からの生糸の輸入に頼っていた西陣の絹織物業が、同地の幕府直轄領化により、貿易が管理され、まつまた量も抑えられるようになった、そうなると、その分コストも上がってしまう。
 もう一つは、1730年(享保15年)の大火により、かなりの旗元など、それに紋織職人が職を失う。
 それと相前後してというか、西陣の高機の技術が、全国各地へ伝播していく。その主なルートとしては、西へは峰山(1720)や加悦(1729頃)へ、東や北へは長浜(1751~1752)、岐阜(1720頃)といった産地へ、であろうか。
 
 
 桐生にもその流れがとどく。738年(元文2年)頃からは、職人を桐生に迎えいれるなどして、伝わっていく。しかも、染色、紗綾などの織技術の全般が、もたらされていく。西陣に特有の大型の製織技術も、某か運ばれていったのではないか。その結果、桐生の絹織物業は大きく発展し、白縮緬、御召、銘仙、帯地、刺繍物などの高級品をも製造するようになる。
 さらにそれからは、桐生から足利、八王子、伊勢崎、埼玉などの新興産地へと、技術が伝搬していく。こうして、全国各地に絹織物の技術が、さらに養蚕地とも結びついて、産地とそれを支える養蚕、そして絹織物の流通網が形成されていくのである。


(続く)

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○211『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の4つの窓(アイヌ、琉球、対馬、長崎)

2021-07-15 21:34:34 | Weblog
211『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の4つの窓(アイヌ、琉球、対馬、長崎)

 

 さて、アイヌというと、この列島での先駆者の一つであって、当時の「日本人」の大方は、彼らのかなり後にやって来た、そんな間柄なのが、いつしかアイヌを圧迫して、彼らの生存領域を狭め、それがシャクシャインの戦い(1669)などを引き起こしてきていた。
 17世紀前半のアイヌの人々を振り返ると、東北から北海道にかけての河川の、彼らにとっての「聖地」であり「城」であるところの「チャシ」を中心に住まいし、小規模な部族に分かれての生活共同体を構成していた。

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 そもそも、琉球王国は、15世紀の初めには、島津氏を通じ、日本に入貢してくる。そして、明朝、李氏朝鮮、日本との間を取り持って、仲介貿易で利益を受けてきた。

 それが、豊臣秀吉の朝鮮出兵により明朝との連絡がつかなくなる。代わっての徳川氏は、琉球に日本への来へいをもくろんだのだが、琉球はこれを拒んだ、そのための出兵であった。
 17世紀前半からの琉球といえば、薩摩の島津氏の武力によって抑圧されていたであろうことは、疑いあるまい。そこで、1609年(慶長14年)、幕府は、島津藩に琉球せの出兵を許す。3000余りの島津軍が、沖縄本島の首里城を攻め落とし、琉球王の尚寧(しょうねい)と一部の重臣が薩摩に連行され、約2年の間勾留される。

 
 
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 かたや朝鮮には李があり、儒教に基づく国政を行っていた。こちらとの連絡には、対馬の宗氏(そうし)を通じて交易に努めており、1609年(慶長14年)の己酉(きゆう)条約の後にも、朝鮮からの使節がやって来たりしている。
 
 参考までに、当該条約は、1609年(慶長14年)に李王朝が、対馬の宗義智に与えた通交貿易上の諸規定にして、同年が己酉の年に当たるのでこの名がある。
 全13ヵ条からなり、宗氏へは米・大豆の供給、日本からの使節の接待法、宗氏の歳遣船数の取決めなどを含む。
 とはいっても、豊臣政権下での、文禄・慶長の役で迷惑をかけたことがあり、通交者を日本国王(徳川幕府)、対馬島主(宗氏)、対馬島受職人(対馬の朝鮮官職を授けられた者)に、歳遣船数を20隻に限るなど、対馬にとって不満足な内容であろう。
  このような膳立ての上、両国をつなぐ意味で、1636年(寛永13年)に、初めて朝鮮から日本へ通信使がやって来る。
 
 それから、両国の間では平和裡(へいわり)にかなりの時が経過していく。将軍が6代目徳川家宣(とくがわいえのぶ)に代わっての、1711年(正徳元年)に来訪した朝鮮通信節の待遇では、接待儀礼を「御三家」と同等としていたのを簡略化するとともに、将軍を「日本国大君」から「日本国王」に変えての国書とする。
 
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 1634年(寛永11年)、長崎の出島の建設が始まる。その目的としては、貿易の制限とキリスト教禁止政策があった。
 これを現地通貨で請け負ったのは、長崎の豪商25人。それからは、突貫工事であったのたろう、1636年(寛永13年)にはひとまず完成、その規模は、約3000坪にして、長崎市内に住むポルトガル商人が移り住む。
 1639年(寛永16年)に彼らが追放されると、一時空き地となるも、1641年(寛永18年)には、今度は平戸からオランダ商人が入って、住み着く。
 
 1676年(延宝4年)には、長崎代官の末次平蔵親子が、隠岐島に流罪となる。彼の家は、代々博多の豪商にて、朱印船貿易で富を得た。台湾のオランダ商館長ヌイツと紛争を起こした(台湾事件)があったものの、4代続けて長崎代官を世襲していた。この役職だが、何かと旨味のある地位であったのは、疑いあるまい。
 咎(とが)めを受けたのには、4代目平蔵の使用人がカンボジアと密貿易を企てたことが発覚したからである。
 具体的には、平蔵の番頭が通詞とともに、平蔵の資金を借りる形で清国人の船を買い取り、清国人の船頭を雇う。その末次平蔵だが、幕府の詮議(せんぎ)により、和泉国において、二重底の船をしつらえることを計画していた。その中では、刀剣などといった産物のみならず、日本地図を密かに持ち出して輸出することも計画しているのが明らかになったというから、驚きだ。
 
 それを見つかって財産没収の上、末次家は断絶する。また、これに並んで同代官所も、これ以降1739年(元文4年)に長崎町年寄の高木作右衛門が就任するまで、同代官所は断絶することになる。
 
 それからの長崎は、輸出用産物の基地となっていく。1738年(元文3年)9月18日には、幕府は、長崎からの輸出に充てられる銅を確保するべく、銀座の加役として銅座「元文銅座」を復活させる。
 
 
 なお、こうした脈絡での大坂との関係もかなりのものであって、本渡章氏がひもといておられる「摂津名所図会」の解説には、こうある。

 

 「棚に見えるのは西洋のガラス器、手前には中国の陶磁器。鎖国時代というのに、こんな舶来品専門店が流行った背景には、貿易の窓口だった長崎と大坂をつなぐ太いパイプがあった。

 長崎貿易での買い入れは、はじめ金銀で行われていたが、寛文8年(1668)に銀の輸出が禁じられると、銅が重要な決済手段になった。日本で唯一の精錬所があったのは大坂である。

 元禄14年(1701)には銅座が大坂の石町に設けられ、長崎会所と協力体制を組んで銅貿易がすすめられた。また日本の主要な輸出品だった俵物(干あわび、ふかのひれ、キンコ(なまこの干したもの)の三品)は、いちばんの産地の北海道から大坂の俵物会所にまず集まり、長崎へとはこばれた。かわりに長崎から入ってくる外国の品々の多くは大坂に送られ、そこから各地に流通していった。

 

 木綿、白糸、薬種など朝鮮からの輸入品は対馬が窓口で、大坂にあった対馬屋敷から問屋に流れた。琉球の砂糖なども大坂の薩摩屋敷から問屋を経て、各地に売りさばかれた。大坂港と張り合っていた堺港が、大和川の付け替えでできた新大和川がはこぶ土砂で衰退したことも、舶来品の大坂への集中をうながした。」(本渡章(ほんどあきら)「大坂名所むかし案内ー絵とき「摂津名所図絵」」創元社、2006)

 
 
(続く)

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