新207○○187の2『自然と人間の歴史・日本篇』島原の乱・天草の農民一揆(1637~1638)
ここに、「島原の乱・天草の農民一揆」と一くくりでいう理由としては、キリシタン禁制に基づく弾圧と、肥前国島原半島(領主は松倉氏)と肥後国天草島(領主は寺沢氏)の農民が、キリシタンを紐帯(ちゅうたい)として起こした一揆であるからだ。
それと、「島原の乱」という場合にも、農民らの一揆というよりは、その規模などにおいて、当時の日本における一個の「内乱」というべきだろう。その勃発の時は1637年12月11日(寛永14年10月24日)、島原の地有馬村の住民がまず蜂起した。10日遅れて、天草でも一揆が始まった。主な背景には、この地が作物の栽培には適さない上に、年来の不作、領主の悪政などがかさなったものとされる。
この機に乗じたのが、天草大矢野に住んでいた、関が原の戦いで西軍に属し敗れた小西家の旧臣益田甚兵衛なるものが中心となり、浪人などを糾合していく。その子、四郎時貞(しろうときさだ)、その霊名はジェロニモと称する少年を頭に推戴し、敢然と藩政、ひいてはキリシタン弾圧を押し進める幕府に敵対の旗を立てた。そしてこの地の農民、漁民などに結束して戦うように宣伝し、武装を構える。
すなわち、出発の時から、早々農漁民一揆を宗教一揆の形に組み立てた。これで、「生き残れるかなあ」という暗澹たる気分に晒されていた自分たちの未来を一転、支配者に戦いを挑むことで自らの運命を切り開こうとしたものだ、といえよう。
現地での苦戦に、幕府軍が組織され、12月5日に江戸を出発した。12月26日に着いて、九州の諸侯とともに戦いを進める。一説には、総勢12万4千人というから、おどろきだ。海からは、オランダからの大砲などを借りて攻めるが、効果は上がらず。外国に援助を頼るのはよくないという怨嗟も聞かれるため、途中で取りやめとなる。
それからの幕府軍は、敵の兵糧の尽きるのを待つ作戦に切り替え、これが効果をあらわしていく。そして迎えた1638年3月11、12日の総攻撃で、さしもの堅固な守りも突破され、勝敗がつく。老幼男女を問わず、生き残った者は皆殺しにされたという。この戦いで、一説には当時のカネで39万8千両が費やされたという。
幕府は、これを機に、対キリシタンの政策を厳しく進めていくことになる、また、諸藩はそれに倣って以後、苛烈なキリシタン対策を強いられていく。
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そこで、まずはキリシタンとの関係に焦点を当て、当該地の簡単な説明を試みよう。作家・小山勝清の宮本武蔵を取り扱った小説には、天草の地について、こんな注釈がもうけてある。
「天草はキリシタンの島であった。もともと、この地は天草五家といって、天草、大矢野、志岐(しぎ)、上津浦、栖本(すもと)の五家が分割統治していたが、いずれもキリシタンの支持者だった。秀吉時代、宇土城主、小西行長が、熊本の加藤清正の援兵をうけて攻めほろぼしたが、小西も、熱心なキリシタンだった。
と、いうわけで、天草には、早くから宣教師が入り込んで、各地に会堂をたて、学林を設け、少年のための学園などもつくって、長崎、島原とならんで、日本ようなのだが、ヤソ教の中心地となった。
なお、天正年間、ポルトガルから活字印刷機が輸入され、天草学林にすえつけられるにおよんで、果然天草は日本におけるキリシタン文化移入の重要基地となったのである。
けだし天草のヤソ教は、この間が黄金時代であって、小西行長がほろび、ヤソ教嫌いの清正の所領となり、ついで唐津の寺沢氏が支配するようになって、しだいに衰えはじめ、会堂も、上津浦の二か所に減じていた。この年、慶長17年3月、徳川幕府は、まず京都の天守会堂をこぼち、禁教の決意を固め、内意はすでに寺沢氏にも下っていたが、衰えたといっても、それは表面だけで、その実勢力は強大、番台の高畑忠兵衛も、うかつに手をつけることができなかった。」(小山勝清「それからの武蔵」集英社文庫)
もう一つ、今度は、現地からのものを紹介しよう。
「今度、下々として籠城に及び候事、若(もし)国家をも望み、国主をも背き申す様に思し召さるべき候か。いささかも其の儀に非(あら)ず候。(中略)天下様より数ケ度御法度仰せ付けられ、度々迷惑致し候。(中略)
数度御意に随い宗門を改め候。然処(しかるところ)に今度、不思議之天慮計り難く、惣様(そうさま)かくの如く燃え立ち候。少として国家之望これ無(なし)、私欲之儀御座無く候。」(1638年(寛永15年)1月13日付けの一揆勢「矢文」)
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一方、自然災害のみならず、領主・幕府が搾取強化などを加えての、農民の暮らしの悪化に対しては、こう述べている。
「御領地四万石之処すへて十二万石余之御所務、数年かうめんーりうとしよちなき米をめし上けらるるのみならす、其上種々のくわやくを相かけられ、とかなきものとも縄をかけ、目口鼻より血を出し、きやうたうはたうのやうに打ちゃくせられ候。(中略)
数年のつかれ彼是以かしに及躰(からだ)に罷成候条、江戸迄相詰、種々そしやう申上候へ共、一つも叶たまわす、あまつさへ喩に無是(これなき)かうめんを被仰付候条、うんふんを指挟一命をををします一揆同心せしめはよし、(以下略)。」(1638年(寛永15年)1月下旬付けか、一揆勢「矢文」)
これらに述べてあるのは、島原の乱がおこりし原因の一つが、かの地の住人のキリシタンとしての意思表示にあることを暗示しているように感じられてならない。しかし、ほかの要因に言及が見当たらないことからすると、かかる大乱が圧政に苦しむ農民の一揆として起こった側面は際立ってこないと思うのだが。
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(続く)
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