まず最初に言えば、オリンピックを開催することには賛成です、でも世界中から選手や観客の方々がおいでいただけるのかなあという実に素朴な疑問もあるんですね。
それは、少なくともコロナウィルスに対する有効な薬、というのかワクチンというべきなのか、が完成して安心に使えるのならダイジョーブ。そこんところにかかっているのでしょうねぇ。
ところで、ぼくが幼児の時に、初めてラジオの音声でオリンピックの実況放送を聞いたのが、ヘルシンキオリンピックの時でした。
何故、覚えているのかというと、ヘルシンキという都市がどこにあるのかもわかりませんが、なぜか外国のどこかの国からの実況放送を聴いて、不思議なことに・・・う~ん、世界のどこかにヘルシンキという街があって・・・そこからこの放送が送られているんだと思うと子供心に想像力をいたく刺激されちゃったんですね。それでこんなはっきりとした記憶になったのかも。
今なら、フィンランドという国があって、…という事なども、行ったことはないけれど調べればわかりますが、未知の国々については夢がありましたよね。
今なら子供も、もしかするとスマートフォンというのですか、それぞれ持っていて、パッと調べて、いろんなことが瞬時にわかるのかもしれないけれども、それはただの情報であって、『知っている』という事とちょっと違うような気がするのですね、石めは。
まあ、小学生や中学生くらいまでは、スマフォを持たせるべきではないと石めは考えるものですが、今の時代にこの考えは支持されるとは思っていません、断じて小学生にはスマフォなど持たせるなどダメダメ、そう思いますが、ダメでしょうね。きっと今の時代はそれは通らない?だから子供は、親や教師の願う逆の方向へ行くのももう止められないのかも。いったい子供はスマフォで何を見るのでしょう?もう荒野の世界ですよ、きっと。
このようにした?人々はいったい責任をとれるのでしょうか?
街中でみる風景ですが、いつもスマフォを見ていて、その間に独り言をぶつぶつ言って、友達との会話の時にも目はスマフォの方を見ている女学生をよく見かけます。ほんとうにどんな大人になるのやら。
ラジオを聴いて、世界のどこかにきっとある街のことやそこに住む人々を想像しながら、家のラジオ放送を聴いた、ヘルシンキオリンピックですから、1952年、ぼくが4歳の時の思い出ですよ、学校に上がる前だったんだ。幼稚園にも行くよりも前の時代です、はっきりとラジオで聴いたことは覚えております。へえ、小学校に上がる前だったのかあ。そんな遠い記憶の日を思い出すまま書いてみました。
フォト・文 石郷岡まさを