最近、蔵書票を思い立って作ってみたのです。
そしたら、ぼくの読書生活が急に愉しく有意義に。
今までは何となくその時の気分で、何となく好きな作家の本を気楽に読んでおりました。
ぼくの好きな作家は、何となく好きになって新刊を見るとなんとなく読んでみようかなあ、
と、買って読んでみて、数日間愉しく読めりゃあそれでおしまいと、そんな本をめぐる生活が
読書生活なんだと思っておりました。
だから好きなほんの数名の作家に集中しすぎたり気楽に読める本だけになってしまいがちに。
でも、最近蔵書票をつくってから本を読む愉しみがちょっと変わってきたように思います。
純文学のしっかりつくられている本を読むのがこんなに面白いとは・・・
できれば、四六版 200ページくらいから400ページでもいいけれど、
上製で 布装などなら最高、箱に入っていたらもっと最高、
本好きの方ならわかると思いますが、かれこれ4,50年前に造られた
純文学の本なら大体そんな凝った本につくられていますよね、
そのような純文学の本こそ、蔵書票を貼るのにふさわしい本だと思うのです。
4、50年前に書かれた純文学関係の本には、ぼくの趣味というのか好みにあった作品が多いこともわかりました。そして、力作ぞろいであると思えることも多いと。
そんな本こそ、何度も読める本なのですね、ぼくの場合。
幸いにして気になる作家であり、作品であるけれども読んでこなかった、という不幸が重なっていま猛烈に日本の文学が読みたいと思うのです。それも一番元気なころの日本の現代文学が読みたい、そしてそれらの本こそ、ぼくの本のコレクションに加え何度も何度も名作の香りを味わってみたいと思うようになりました。
蔵書票を貼れるくらいの本を読む合間に、まあ気楽に読める本も読みます。
でも、純文学のがっしりした作品を読むほどには軽い面白い本を読むことは満足感は少ないかもしれません。それでバランスがうまく取れるようなんですね。
あと何年生きられるかわからないから、よけい名作と言われる純文学の本を味わっておきたいといういわば焦っているのかもしれません。でも、スタート早々、満足感は十分あります。
そんな名作のなのになぜか文庫本にはなっていないというのならもっと最高です。
つまり、日本の文学を愉しみたいということに尽きるようです。
外国の文学も気になるけれど、まず日本の現代文学でしょう。
4,50年も前で、現代文学ですかと問われるなら、はいそうです、と答えたいですね。
そんなに進歩していないでしょう、むしろ本の大衆化というのか、つまらない本が増えだしましたねえ、この30年くらいの間に。本が売れなくなったからきわどい本が増えだしたのか?
もちろんそんな本もしっかり読んでいきたいのですよ、でもぼくにはそんなに時間がない。
ですから、時期を1970年前後に絞りましてこの時期の勢いのある文学をたっぷり楽しもうと思いを定めましたのです。そのために、蔵書票はきっとぼくの本を読む生活を援助してくれると思うのです。
蛇足ながら、図書館では本を借りて読みません。大好きな本はしっかり何度も読みたいから古本であってもしっかり蔵書、しておきたいのです。
いい本は何度も読みたいものね。
文・フォト 石郷岡まさを
そしたら、ぼくの読書生活が急に愉しく有意義に。
今までは何となくその時の気分で、何となく好きな作家の本を気楽に読んでおりました。
ぼくの好きな作家は、何となく好きになって新刊を見るとなんとなく読んでみようかなあ、
と、買って読んでみて、数日間愉しく読めりゃあそれでおしまいと、そんな本をめぐる生活が
読書生活なんだと思っておりました。
だから好きなほんの数名の作家に集中しすぎたり気楽に読める本だけになってしまいがちに。
でも、最近蔵書票をつくってから本を読む愉しみがちょっと変わってきたように思います。
純文学のしっかりつくられている本を読むのがこんなに面白いとは・・・
できれば、四六版 200ページくらいから400ページでもいいけれど、
上製で 布装などなら最高、箱に入っていたらもっと最高、
本好きの方ならわかると思いますが、かれこれ4,50年前に造られた
純文学の本なら大体そんな凝った本につくられていますよね、
そのような純文学の本こそ、蔵書票を貼るのにふさわしい本だと思うのです。
4、50年前に書かれた純文学関係の本には、ぼくの趣味というのか好みにあった作品が多いこともわかりました。そして、力作ぞろいであると思えることも多いと。
そんな本こそ、何度も読める本なのですね、ぼくの場合。
幸いにして気になる作家であり、作品であるけれども読んでこなかった、という不幸が重なっていま猛烈に日本の文学が読みたいと思うのです。それも一番元気なころの日本の現代文学が読みたい、そしてそれらの本こそ、ぼくの本のコレクションに加え何度も何度も名作の香りを味わってみたいと思うようになりました。
蔵書票を貼れるくらいの本を読む合間に、まあ気楽に読める本も読みます。
でも、純文学のがっしりした作品を読むほどには軽い面白い本を読むことは満足感は少ないかもしれません。それでバランスがうまく取れるようなんですね。
あと何年生きられるかわからないから、よけい名作と言われる純文学の本を味わっておきたいといういわば焦っているのかもしれません。でも、スタート早々、満足感は十分あります。
そんな名作のなのになぜか文庫本にはなっていないというのならもっと最高です。
つまり、日本の文学を愉しみたいということに尽きるようです。
外国の文学も気になるけれど、まず日本の現代文学でしょう。
4,50年も前で、現代文学ですかと問われるなら、はいそうです、と答えたいですね。
そんなに進歩していないでしょう、むしろ本の大衆化というのか、つまらない本が増えだしましたねえ、この30年くらいの間に。本が売れなくなったからきわどい本が増えだしたのか?
もちろんそんな本もしっかり読んでいきたいのですよ、でもぼくにはそんなに時間がない。
ですから、時期を1970年前後に絞りましてこの時期の勢いのある文学をたっぷり楽しもうと思いを定めましたのです。そのために、蔵書票はきっとぼくの本を読む生活を援助してくれると思うのです。
蛇足ながら、図書館では本を借りて読みません。大好きな本はしっかり何度も読みたいから古本であってもしっかり蔵書、しておきたいのです。
いい本は何度も読みたいものね。
文・フォト 石郷岡まさを
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