まさおレポート

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平成テレコムの変遷11 NTT再編の功罪 4627文字

2019-07-03 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

総務省はNTT民営化と再編成を競争促進のために推進した、そして令和を迎えている今テレコム産業は順調に伸びている。総務省の貢献も多々ある。しかし振り返ってみて反省点はなかったのだろうか。結論から言えば総務省は個々の 施策では成功を収めている。例えばブロードバンドの成功だがNTTがボトルネック設備を保有しているにもかかわらず事業者のNTTに対する粘り強い交渉と総務省の適切なガイドによってソフトバンクがADSL首位を達成した。この局面では総務省の活躍に感謝しなければならない。

しかし最大のテーマであるNTT再編成の在り方ではもたついた。郵政省と NTT の間でのボタンの掛け違え、郵政省と NTT の感情のしこりがNTTの再編成をいびつなものにしたのではないか。

その結果はNTT株価に顕著に現れている。2005年9月に国は3分の2のNTT株を売却し終えた。3分の1は国に保有義務がある。売却収入は14.5兆円で2004年度までの配当や租税収入合計22.3兆円となる一方NTT株の上場以来の投資収益率(株価と配当の総合収支)は-60%で悲惨な結果に終わる。(同期間の日経平均銘柄の平均総合収支は30%台)。株式売却では国民の損失で財政に貢献する皮肉な結果となった。この原因はNTT再編成のミスリードに由来すると考える。 

1981 年 8 月電気通信政策懇談会、1982 年 7 月第二次臨時行政調査会、1984年 1 月電気通信審議会においてそれぞれ(1)電気通信産業の活性化、(2)多様なニーズへの対応を目的とした競争原理の導入が提言された。かくして、1985 年 4月 1 日「電気通信事業法」「日本電信電話株式会社(NTT)法」等が施行され、電気通信産業は「明治以来百年有余にわたる一元的独占体制の歴史を脱し、民間の活力を導入した自由競争の時代に移行」(通信白書 1985 p.1)することになった。

電気通信産業へ競争原理を導入することになった背景としては、次のような要因が考えられる。(1)光ファイバー・ケーブルや通信衛星等の新しい伝送路の出現。(2)規格の違う複数のネットワークの併存を可能とするインターフェース技術の進展。換言すれば、電気通信産業では自然独占性や技術統一性のような公社体制の必須要件が稀薄化したと判断された。

第二次臨時行政調査会の答申(1982年)により通信自由化、電電公社の民営化の幕が切って落とされた。巨大独占国営事業の弊害を取り除くため民営化し経営の自主性と効率化を促進することが至上命題とされた。基幹回線部分つまり長距離電話事業への競争導入をはかり5年以内に中央会社と複数の地方会社への再編成、宅内機器、データ通信および保守部門の分離などが提起された。

政府は国会に電電公社民営化を提案したが再編成を含まず電気通信事業法の3年以内、NTT法の5年以内の見直しのみとした。ネットワークの統一性から再編成を躊躇したのだ。郵政省は現在のような再編成を唱えたが中曽根首相(当時)はデータ通信部門と足回り保守部門のみの分離が念頭にあり先見性が見られる。しかし「本体以外の関連業務や下部機構の工事関連部門は別に専門の工事会社をつくって分割してしまえ」これは実現しなかった。中曽根氏は光の道構想を示唆しているように見える。

しかし、田中角栄君を口説かなくてはいけないわけで、中山素平さんと今里さんが角栄氏のもとへ行きました。ところが、角さんは、「いや、北原がいい」といって聞かなかったのです。
中山さんが困っていると、しばらくして、角さんが素平さんを興銀に訪ねてきて、「あれは承知する」といったらしいのです。どうした心境の変化だったかは知りませんが、妙なことがあるもんだと思いました。財界を敵に回すのはまずいと思ったのかもしれません。
それで、真藤さんに決まったのです。
私が真藤さんに期待したのは民有分割論でした。山岸君にもいったことがありますが、「全国の電電の幹線は全国規模でそのまま維持する。それから、研究所もその優秀さは世界トップレベルなのだから、これもそのまま維持する。あの力を落としてはいけない。
しかし、本体以外の関連業務や下部機構の工事関連部門は別に専門の工事会社をつくって分割してしまえ。データ通信や電話工事部門などは分離して、情報通信の中枢の把握と研究をやれ」と、そういったのです。
しかし、山岸君は「分割反対」を譲らなかったので、今でも、その課題があるわけです。『自省録・歴史法廷の被告としてp182』 中曽根康弘 新潮社

1985年4月に通信自由化と日本電信電話公社の民営化が開始された。NTT に対する政府の関与は必要最小限とされ、(1)事業計画の認可、(2)役員の選任及び解任、(3)新株式の発行に限られた。かくして、NTT は総資産 10 兆 8000 億円・収益 5 兆円・社員 31 万人の日本最大の企業としてスタートした。NTT には支配的事業者として(1)適性かつ効率的な経営、(2)全国あまねく安定的なサービスの供給、(3)電気通信技術に関する研究及びその成果の普及が求められることになる。

1985 年 6 月 21 日第二電電・日本テレコム・日本高速通信他全 5 社に第一種電気通信事業の許可がおり、これによって本格的な電気通信の競争時代が到来した。料金の認可基準は、郵政省によって十分審査、電気通信審議会で諮問されるべきこととされた。

通信事業が独占から競争導入へ向かうための公正な競争条件の整備がなされることになる。競争条件の整備では米国のお手本にはない日本独自の第1種、第2種の事業者区分導入が挙げられる。前者を規制の対象とし後者は原則非規制とした。このあたりに総務省の米国ものまねではない気概が感じられる。通信設備投資を増大させてインフラの底上げを図る狙いがあるが一方では総務省の強い規制下で管理された競争を実現する狙いもある。

 

1987年9月営業開始し翌1988年度にはDDIと日本テレコムは単年度黒字を達成し1990年度には累積損失を解消した。DDIは91年3月期に配当を始め好調な経営成果を世間に示した。しかし日本高速通信はふるわず1998年にKDD(当時)に吸収合併されるにいたった。敗退の要因は複数あるが経営陣が郵政省の管理された競争に馴染めなかったことも敗退のひとつの原因ではないか。東京電力系の東京通信ネットワークもその後NTTの市内サービスとの競争に敗れる。

通信市場を国際系、長距離系、地域系、衛星系、移動体系とこれ又米国のお手本にない細分化を図り事業区分ごとに「需給調整」で新規参入者をコントロールした。例えば東京電力系の東京通信ネットワークは、自営業区域内における県間通信事業が認められなかった。今日的に考えれば果たして意味のあったことかどうか。令和の今日、既にネットワークはIP下で融合し細分化は時代に既に合わなくなって久しい。ここでは通信設備投資を増大させてインフラの底上げを図る狙いは見られず、むしろ会社数を増やすことで天下り先を確保したい動機が見え隠れする。

1988 年 3 月になって、電気通信事業法の施行状況に関する電気通信審議会の答申が出され、電気通信事業の自由化・民営化に対する一定の評価が与えられた。それによると、(1)多彩な新事業者の誕生、(2)料金の引き下げを鑑みて制度改革の主旨に沿った方向で展開していると判断され、現時点において現行制度の枠組みを変更すべき状況にないことが確認された。今後の課題としては、(1)競争基盤の整備、(2)企業体質の強化、(3)ネットワークの高度化、 (4)料金の一層の低廉化、(5)国際化への対応等が挙げられた。

NTT法の5年後見直しについては1990年3月に電気通信審議会が答申を行なっている。その趣旨は、市内通信網を独占的に運営する事業者が、同時に長距離通信分野などの競争的分野でサービスを提供することは市場を歪め利用者の利益を阻害する恐れが強いというもので、両者の構造的分離を求めるものだった。しかし、NTT分割の結論はさらに先送りされ、5年後の1995年に検討し結論を得ることになった。この分離案はその後の再編成に強い影響を与えるがその後の長期増分費用方式の導入で間違っていたことが証明される。分離案がその案の通りに相互接続料の透明性のある水準、適切な引き下げに貢献すれば確かに効果は認められるが結果として引き下げにつながらず米国の強引な押しにより長期増分費用方式の導入を招いた。

民営化から12年経った1997年6月にNTT法改正、1999年7月にNTTを純粋持株会社とし東西地域会社と長距離会社に再編し長距離会社には国際通信の参入を認めることになった。各事業会社は持株会社の100%出資子会社で、実質的に一社体制であり競争政策に意味のない再編だった。公正競争の推進にはNTTの分割は不可欠とする郵政省と反対するNTTの電話時代の妥協である。 

そして地域、長距離、国際の業務別に参入規制が撤廃され許可が不要になった。国際専用線の「公専公」接続の自由化やNTT東西会社を除く第1種事業者の料金規制が認可から届出に変わり、NTTを除く外資規制の撤廃やKDD法の廃止が施行された。

1997年6月にNTT法改正を行っているのだが既に時代は変わり始めていた。NTT法改正の議論がたけなわだった1994~95年頃に携帯電話は430万(95年3月末)、インターネット利用は260万人(94年末)、ISDN加入者は34万(95年3月末)となりいまだブロードバンドは登場していなかったが気配は十分に読み取れる時代に入っていた。市外通話の売上高は既に縮小に転じていた(ピーク時1990年度に対し94年度は30%減)にもかかわらず時代を反映しない再編成案が1999年に登場したのだ。

携帯電話(PHSを含む)の加入数は2000年度に固定電話(ISDNを含む)インターネットの利用は1999年末に2000万人となった時代に通信サービスを地域、長距離・国際に区分し、組織もそれに対応させるという愚策をとったのだ。1997年6月のNTT法改正は距離と時間によって課金する電話の時代の発想をそのまま引きずっており有線と無線、固定通信と移動通信、放送と通信、モビリティとブロードバンドで融合していく時代にははなはだふさわしくない施策となった。ついでながら既に新電電の激しい戦い終えたあとの1999年に新電電と市内交換機での接続が可となったのは制度不全の象徴的な施策と映った。 


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