関西国際空港の建設案が浮上したのは、1960年代後半から1970年代初頭にかけてです。当時、大阪国際空港(伊丹空港)の騒音問題や混雑が深刻化しており、新たな国際空港の必要性が議論されるようになりました。その結果、1970年代後半には新空港建設の具体的な計画が進み、1987年に建設が正式に開始されました
1985年はわたしが37歳で転機になりかけた年ですがそうはなりませんでした。なぜご破産になったのかはいまだに知らずじまいです。この年電電公社データ通信本部の課長職になったがそれは関西国際空港準備会社に出向する話が進んでいた頃です。
ところが突然その話は無かったことになった、しかし理由はいまだにわかりません。
1985年は、関西国際空港の建設が具体化し、いよいよ実現に向けた重要な準備段階に入った年でした。
もしトラではないがもしそのまま話が進んで関西国際空港システム準備室課長として出向していればその後の人生は現在と大きく変わっただろうなと感慨に耽ります。
でも準備室課長としての出向が中止され、代わりにもっと面白い業界に転職してエキサイティングな日々を送ることができたので何が人生で転機になるかわかったものではありません。万事塞翁が馬だとこの頃から深く思いに入り込みました。
関空発足25周年になるとのニュースに接し思い出したのでメモをしておきます。
S38採用 甲南大(経営) 天王寺高校卒
(実家は資産家で、阿倍野区文の里の「130坪の豪邸」に居住。)
この人物は自他ともに「長谷川寿彦」氏の「一の子分」と認められておりました。
長谷川氏失脚に伴い「関西シス本 担当部長」として関西に戻ってきましたが、
「副理事」という肩書のため、どう処遇してよいか困ったそうです。
結局、関空会社に出向することとなり、(関空会社の通信部門は子会社化されることになり、安田氏は「関西国際空港情報通信ネットワーク(株)」のナンバー2(常務取締役) その後、専務取締役となりました。
55歳でNTTからここに転籍しました。(年収は1600万円前後だったと聞いております。)
65歳でこの会社を退職し、今83歳ですが、実家は代々「貸しビル」業を営んでいるため、カネには困らない、と聞いております。
阿倍野区文の里の豪邸には、長谷川氏も何回か泊まったことがあるとか。
もしも、長谷川氏健在なら、彼も大出世したことでしょう。 (⇒まさか という坂に・・・)
ということで、宮本先輩の話がご破産になったことと関係があったかどうか
私は 「あった!」 と思いますが、神のみぞ知る というところでしょうか。