まさおレポート

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イタリア紀行 17 ベネツィアでカサノバ回想録

2024-09-05 | 紀行 イタリア・スペイン 

ドゥカーレ宮殿

この写真は「嘆きの橋(Ponte dei Sospiri)」でドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)とその向かい(写真では右)にある旧牢獄を結ぶために作られた。

この橋は、1600年頃に建築家アントニオ・コンティーノ(Antonio Contino)によって設計され、白い石材が使われている。この橋は、ドゥカーレ宮殿の裁判所から新しく建てられた牢獄(Prigioni Nuove)へと続く通路として使われ、囚人がこの橋を渡るときに外の景色を最後に見ながらため息をついたことからきている。

ヴェネツィアの著名な冒険家であり、カサノバ回想録の作家としても知られるジャコモ・カサノヴァも、嘆きの橋を渡ってはいないもののドカレ宮殿内の牢獄から脱獄したことで世の記憶に残る。彼の大胆な脱獄はヴェネツィアの歴史に刻まれているが、多くの囚人にとって、嘆きの橋を渡ることは、もはや二度と戻れない死の未来を意味していた。

この橋は非常に閉塞感があり小さな窓から見える景色は自由を奪われたことを強く実感させる。この橋はヴェネツィアの華やかな光と隠された暗い影が入り混じる場所なのだ。

この橋とドカーレ宮殿についてカサノバの脱獄から眺めるのも興味深い。

18世紀にカサノヴァは、作家、冒険家、詐欺師、そして恋多き男として知られた。1755年にヴェネツィアの宗教裁判所によって「反社会的」と見なされドカーレ宮殿にあるピオンビと呼ばれる牢獄に投獄される。カサノヴァは牢獄で約15ヶ月過ごし、金属の道具を用いて自分の牢獄の天井を削り、脱出した。1756年10月31日彼は「ピオンビ」から抜け出し、宮殿の屋根に出てドゥカーレ宮殿の一室に入り込み、そこから建物を脱出した。祭りの日のヴェネツィアの街並みの中を、人々に紛れながら逃走したと伝えられる。

脱獄後、フランス、ドイツ、イタリア、イギリスを渡り歩き恋愛遍歴を続けフランス王室との関係も持つことになる。カサノバ、何と言う男だ。

ドカーレ宮殿正門のゴシック様式、ポルタ・デラ・カルタ=布告門の有翼の獅子は人の顔をしているので少し不気味だ。カルトロメオ・ボン作、1438年~1442年。

ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の柱頭には、アカンサスの葉をモチーフにした植物模様が彫刻されている。

アダムとイブの浮き彫りのある柱。1344年頃フィリッポ・カレンダーリオが製作。宮殿の主席建築家であったが乱に連座し10人とともに窓から吊るされた血生臭い歴史も。

ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の「ポルタ・デッラ・カルタ(Porta della Carta)」と呼ばれる装飾的な入り口の上部。ゴシック様式の細部が際立っている。

ポルタ・デッラ・カルタは、1442年に完成したゴシック様式の入り口で、ドゥカーレ宮殿とサン・マルコ大聖堂を結ぶ重要な通路となっている。

中央には聖マルコまたは総督を象徴する像でその周囲には天使や聖人が配置されている。

彫刻はゴシック様式の典型で、複雑な装飾とともに、精緻な植物模様や人物像が彫り込まれている。

ポルタ・デッラ・カルタはヴェネツィアの総督(ドージェ)がサン・マルコ大聖堂から宮殿に入る際に使用された場所で「書類の門」を意味し、公式文書がここで保管された。

ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の内部にある天井画を写したもの。この天井画はルネサンス様式の影響を強く受けた作品。天井全体はパネルで区切られており、各パネルには異なる神話的または寓意的な場面が描かれている。

天井画は、ルネサンス期特有の柔らかい色調が用いられており、全体的に調和の取れた雰囲気を醸し出している。鮮やかな色彩は、当時の技術と美意識を反映している。

ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の天井画は複数のパネルに分かれ、それぞれに異なる絵画が描かれている。パネルは枠の幾何学的な配置が天井全体に秩序を与えているとか。天井全体にわたって、装飾的なフリーズや花模様、彫刻が見られる。天井画はヴェネツィアがいかに文化的に豊かであり、またその権力を視覚的に示すことに力を入れていたかを示している。芸術は実は権力の表現であったのだ。


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