「行く先は四国と決めている。四国でなくてはならないという理由はない。でも地図帳を眺めていると、四国はなぜか僕が向かうべき土地であるように思える」村上春樹「海辺のカフカ」p18
詫間海軍航空隊
詫間航空隊と言う存在と神風特攻隊の基地であったという事実を詫間海軍航空隊記録編集委員会のホームページで偶然に知ることとなった。以下はその当時の詫間航空隊の平面図と、その概略であり、詫間航空隊の知識と図は詫間海軍航空隊記録編集委員会のホームページから拝借した。そしてその土地と建物に潜む歴史を知らぬ間に過ごした3年間であったが、振り返ってその知識を知って記憶と重ね合わせてみると、極めて個人的な田舎の寮生活が不思議と第2次世界大戦と言う普遍的な歴史に縁を持つものとして蘇ってくるような錯覚を覚える。
昭和18年6月1日、詫間海軍航空隊が開隊された。当時の戦況は昭和17年6月5日、ミッドウェイ海戦において、空母赤城をはじめ、加賀、 飛龍、蒼龍の四空母と多数の搭載機、熟練した優秀な搭乗員を失う。昭和18年2月7日ガダルカナル島から全員撤退、4月18日山本連合艦隊司令長官戦死、5月29日アッツ島守備隊全滅といった切羽詰まった状況であった。この詫間海軍航空隊の当初の目的は、水上機の実用機教育を一貫して行うもので後に日本全土から一万を超える兵士たちがこの町に来て302人もの若い兵士たちが神風特攻隊員 としてこの詫間湾を飛び立ち、沖縄決戦などへと南の空に散った。(詫間海軍航空隊記録編集委員会のHP http://www.niji.or.jp/home/akagaki/4-7takuma.htmlからこの詫間航空隊平面図と内容を参考にさせていただいた。)
詫間電波高校を卒業して既に45年が経った。この高校の寮生活とそして一風変わった寮の建物の事を時折思い出す。(10年に一度あるかないかではあるが) とうの昔に在学当時の木造建築はコンクリートの校舎に替わっており、詫間電波の名前は香川工専詫間キャンパスと名前まで既に変わってしまっている。「降る雪や 明治は遠く なりにけり」中村草田男 をもじって詠めば「降る雪や 詫間は遠く なりにけり」の心境となっており、記憶も薄れていくままに任せていたが、昨夜偶然にもネットで詫間航空隊の事を知り、掲載されたその平面図(上図)を見ると、我々が寮生活を送った建物は詫間航空隊当時と全く変わらずにいたことになる。
ところで不思議に思うのだが、在校当時この地が神風特攻隊出撃基地であるとは全く知らなかった。航空訓練隊があり、そのために浜には滑走路が古びた姿を残していたと理解していたのだが、航空訓練隊と神風特攻隊ではその歴史の重みが異なってくる。あれだけの教官がいて誰一人その話題には触れなかった。たいていの場合、授業の合間に雑談をしてこの種の話をするものだが、先生方も先輩も近所の人々も誰一人詳しく知るものはなかった。平成9年に詫間海軍航空隊記録編集委員会の方々がその事実を明るみに出してくれるまでは、恐らく卒業生のほとんどがこうした事実は知らなかったのではないか。この詫間海軍航空隊記録編集委員会の記事によると、詫間特攻隊の存在は軍の機密事項として厳しい箝口令がひかれており近在の人々も知らなかったとある、戦争が終わってもその種の話はタブーであったのかと納得した。
平面図を眺めると右方上部に兵舎が4棟並んでいる。いずれも木造3階建で、このうち右側2棟が3年間住んだ高校の寮になっていた。左の2棟は実験室や実習室になっていた。右側2棟だけで在学生約400名が収容できたので、詫間航空隊当時は4棟で800名程度の若者があの6畳ほどの畳敷きの部屋で特攻の訓練を受けながら待機して、そして半数近くが沖縄の海に散った。戦争の是非を超えて彼らの一途な切実な気持ちがあの6畳ほどの畳敷きの部屋から伝わってくる。
4棟の兵舎の左に練兵場がある。これは運動場兼野球場になっていた。練兵場の左にある大きな建物は実習講堂とあるが、体育館になっていた。兵舎の右横には洗濯物干場と記述されているが、これはそのままの使われ方をしていた。兵舎の下部には長い建物が見えるが兵員烹炊場とある。これもそのまま食堂であった。その左にある兵員休憩所はそのまま寮生休憩所となっていて、かけうどんやお菓子類などを売る売店があった。うどんを釜から揚げていたあのおばちゃんの顔までがありありと浮かんできた。
階段上から撮った正面食堂へと続く道。正面の左側が風呂。すぐ左が私の入っていた寮で右が実験棟。奥の木造2棟も寮だった。いずれも木造2階建。
鉄塔が3基もあったとは。記憶の中では確か一基だけだったが。夜な夜な鉄塔に登る隣室の寮生がいた。もの静かな男だったが何を思って夜な夜な危険な鉄塔に登っていたのだろう。岡山出身の男だったのであるいは鉄塔から岡山を眺めていたのかも。
海岸からみた校舎。校舎より寮や体育館、食堂のほうがはるかに広い。
写真の上から順に
左 永康病院。現在は三豊市立永康病院と総合病院になっている。保健の先生はこの病院出身で、在校当時に下級生が壊血病で亡くなった記憶もある。僻地に壊血病の持病を持つ子を送り出した親、そしてちょっとしたことで出血が止まらなくなった下級生、保健の先生が親代わりに面倒を見たが息を引き取ったという。進駐軍時代は将校宿舎。
右 教職員宿舎。ほとんどの先生がこの宿舎に入っていたような記憶が。夕方にはこの宿舎から手前の滑走路の先にある海岸までキスなどを釣りに来ていたのどかな時代だ。官舎という名前で呼ばれていた、教職員や家族がそのささやかな生活をおくっていた場所だった。
中段
左。職員室と教室。
右。映写室や講堂があり、年に数回映画を見た。なぜかイタリア映画の道などを見ている。大塚先生の奥の細道紀行を8ミリ映画で見た。同先生のバイオリン演奏会も。
下段
左。体育館とグランド。体育館は戦時中は航空隊の屋内操縦訓練に使われた。グランドでは数学教師の有本先生が大阪で数学の研究に進むために退職をすることになり感動的な挨拶をされたのが印象に残っている。この先生はこの詫間の地でも一風変わった先生として有名で、マント姿で数学書を読みふけりながら須田の町を歩くのを常としていた。まだまだ坊ちゃんに登場してもおかしくない雰囲気が残っていたのだ。
中。1棟が実験棟で3棟が寮。
右。洗濯場と物干し。
校門から左に校舎 右に寮や実験棟 手前右は運動場。
モールスを練習する16歳の私。
キャンプファイア風景。
詫間電波40年史より転載。校門から右手に運動場が見える。
詫間電波40年史より転載。
詫間電波40年史より転載。モールス実習風景。
詫間電波40年史より転載
詫間電波40年史より転載。
詫間電波40年史より転載。大塚政量先生が右手に立って指導している。
詫間電波40年史より転載。すうどんが20円で生卵10円だった。
詫間電波40年史より転載。昭和41年の卒業だが寮費は5000円程度だったように記憶している。三食ついて一日150円程度か。
詫間電波40年史より転載
もう跡形もありませんが写真を拝見して
懐かしく記憶が蘇って来ます。
懐かしく拝見しました。私がいたころの校舎そのままですね、寮の部屋は昭和34年の夏休みに板張りの部屋から畳の部屋に模様替えがされました。
また昭和36年にアマチュア無線局JA5YAPが開局し顧問は大塚政量でした。
わたしは卒業年は昭和41年3月です。
4年先輩ですね。
アマチュア無線局JA5YAPが開局し顧問は大塚政量>愉快な先生でした。バイオリンを弾いたり映画鑑賞や毛越寺の8ミリ鑑賞会を催してくれたり。
ネクタイはブランドのいいものを買えなどなど。
当時はCWでハワイ太平洋地域、北米、南米とよく交信していました。ちなみに開局当時の局長は私でした。(HI)