マサの雑記帳

海、山、庭、音楽、物語、歴史、温泉、経営、たまに税について。

走ることについて かったるい時に 僕の語ること

2017-10-15 21:08:00 | 日記
 秋は個人的に時間がある季節で
趣味に耽るのが通例となっている。

 さりながら、子供の成長や地域活動
といった新たな局面を煩わしくも
それなりに前向きに時間を費やすことも増えた。
 山登り、波乗り、といった
これぞ遊び、という時間の贅沢が
できぬのが、不如意ではあるが
「絶対我慢できないっ」
ほどでもなくなった。
 
 半面、それは体力の低下を意味するのでもあり
友人に感化されて、活動量計を左腕に巻き付けて
今日は16,000歩歩いた、今日は7キロ走ったと
一喜一憂している。
 ちなみに車通勤の平日は3,000歩がせいぜいである。

 元来、私は楽しく体を動かすのは好きだが
走る、という単純作業には魅力を感じたことがない。
 つまり「好きなように遊んでいたら、自然に体が絞れていた」
という境涯に自尊心を密やかに慰撫していたことを告白する。

 しかし、時は移ったことを認めざるを得ない。
運動不足により悪玉コレステロールが上がるという事実。
悲哀の伴う極めて中年的かつ唯物的な必要性から生じた
やむを得ない、いやいやながらの決意。

 かような中年男にとり、GPSによって、距離、ラップタイム
心拍数、脂肪燃焼時間などなどのデータを振返ることができる
活動量計というおもちゃは、8月についに手にしたスマートフォンを
いじる大半の理由になっている。

 居宅周辺の農道と未舗装の河原を走る分には
車が要らず、他人の車にも煩わされない。
ダラダラ30分もあれば一汗かいてシャワーを浴び、
すぐビールが飲める。
 走ることの時間的コストパフォーマンスの高さは魅力である。

 そして、チェーンリーディングである。
この秋は久々に読みまくっている。
実業、時事、随筆、そして小説。
 ある本を読み、その本に紹介されている本を気儘に読む喜びは
暇人のわりに雑念の多い私にとって久しく忘れていた
禁断の楽しみであった。

 2冊だけご紹介する。
走ることについて語るときに僕の語ること
村上春樹

 はっきりいって村上春樹の小説は好きではない。
理由は60、70年代の雰囲気を同時代で味わったものが持つ
「僕はあの時代の青臭さの意味を誰よりも知っている」
的ないわば、時代の遺産で食っているようなところ。
 そういう風情ならボブグリーンでも読めば事足りる。

 でも読んだ。実業本の著者が
「同書は「継続」についてよく洞察しており、読後座右に置いた」
という評を与えていたので、エッセイだしまあいいか、という訳で
中古をアマゾンで買った。

 最近は引っかかったページを適当に折り曲げておくので
今開いたページを少し紹介する

「昨日はローリングストーンズのベガーズバンケットを聞きながら走った。
悪魔を憐れむ歌のホッホーという例のファンキーなバックコーラスは走るのに実にぴったりだ」

 どう?嫌な奴だろう?
私はヘッドフォンが苦手で、そもそも走りながら音楽を聴くということは絶対嫌だ。
自分で行為のテーマソングを決めることが、忘我の楽しみを半減させるような気がする。
 といいつつも、ハワイで走り、ボストンで走り、ニューヨークで走り、
北海道で走り、とにかく走る事のみを書いているので少しこの嫌味なやつが好きになった。

 もう一冊は、
細雪 谷崎潤一郎

 昨年の暮れに、ドナルドキーンさんが
外国人に初めて読むべき日本の小説を勧めるとしたら
この本を勧めます。と渡辺謙相手のインタビューで言っていた。
 冬は忙しいのでさすがに上中下巻3冊の小説を耽読することは適わなかったのを、
寝る前に戦前の関西に旅行するようなひと時を楽しみに、とうとう読み終えた。

 学生時代、三島由紀夫はアッパー系、谷崎潤一郎はダウナー系、という
感覚で好んでいたが、この著名な作品は読んでいなかったようだ。
 長かったんだろうな。当時の私には。

 二年間、大阪で転勤生活を送ったが、当地の同期が
「うちは昔船場で店構えてたんや」とやや誇らしそうに言っていて
彼と飲む折りに、ハモだのを食わせてもらったのを思い出す。

 支那事変から太平洋戦争直前にかけての時代を背景に、
船場の旧家の娘4人がそれぞれの性格を際立てさせつつも
彼女たちを取り巻く環境や習俗がまだ権威を保っていた頃の
しがらみや悲喜こもごもを描いている。

 末娘の婚前交渉がさも大事件のように描かれている。
現代においては取るに足らぬエピソードだが、共同体において
異端的な事実が現出したときに、いかに周囲の人に受け止められ
処置されていくのか、という過程が今と大差ないと感じられる。
 現代的な言い方をすれば、社会の持つ同調圧力が個人にもたらす影響、
ということになろうけれども、物語はその是非を問う野暮は無く
悠長な時間をたたえたものである。
 この枠組みに対する間の取り方、その熟練を評する感覚、こそが日本的、
といえるのかもしれない、と思った。
だから菊五郎の芝居に行く、ことが彼女たちの一大事として
繰り返し描かれているのではなかろうか。
 そいういうことでしょうか?キーンさん。

 何よりも、軍部に掲載を差し止められ、
その時世下においても、その悠長なお嬢様の
物語を書き継いだ谷崎氏は、正しくロックンロールである。
 ぐいぐい引き込まれて止められないという刺激ではないのだが
中学の教科書で出てきた「陰影礼賛」の随筆のように
いいものって何か、という問いに対して、今後も
何らかのよすがになってくれるような、読書体験であった。

 語彙の美しさ、豊富さ、描写の細やかさを味わうにつけ、
限られた時間、何冊も読むことの適わない小説なら、やはりこのあたりだよなあ
と意を新たにした次第である。

 なんか宿題が片付いた感じがするので、気楽に半七捕物帳でも読んで寝ます。
そして晴れたら走るのだ。