マサの雑記帳

海、山、庭、音楽、物語、歴史、温泉、経営、たまに税について。

夕陽と落日

2019-04-30 21:54:20 | 日記
 

 ショーロを聞きつつ。

 父の絵では、夕暮れの牛久沼を描いたものが好みである。

 なにしろ夕方まで釣りばかりしていた。
川から見える中学校では年に数回は殴り合いをしなければいけなかったので
「早くこの爺さんたちみたいに釣りばかりしてえなあ」と心底思っていた。

 さりながら人はそれぞれで。

 個展で「欲しい」という声が多かったのは、
アヤメを近景に牛久沼を描いた新緑の陽光、これは老若男女。
ドライフラワーにする過程の薔薇を写した静物画。
これは中高年の、圧倒的に女性。

 正直、私は静物画は面白いと思わなかった。
これすなわち「オンナゴコロガワカラナイオトコ」
ということになろう。

 K君とM君が秘密の口伝をしてくれた「必ず成功するナンパ術」。
目から鱗のすごい講義、鮮やかに蘇るその時の光景。
だのに内容が思い出せない。ゆえにいまだモテない。
 心より残念である。


 カヌーのできるキャンプ場は、
微に入り細を穿つ酷評がネットに載っていた。

 22,3年前であろう、高校の同級生とその彼女と、
その彼女が将来結婚する男と、彼が当時付き合っていた
彼女と、その彼女の妹と、彼女のいない私。

 生まれて初めてのパエリア、川原で食わしてもらって
川下りが楽しかった、童心に帰った記憶。
仲間以外の人が居たことなどまるで思い出せない。

 そんなことを伝えると、
酷評されていたおばさん「それはありがとう」と。
この人はずっとここにいた、と思った。

 
 人生はラジオのようなもの。
ノイズの向こうに聴きたい音があり、
聴きたい音はノイズに邪魔されない。
 とDJボビーが言っていた。

 20年越しの結論は「いいとこ」でした。


 それはさて置き。そもそもの目的はカヌーより
「モクズガニの味噌汁」。

 その定食屋では延々とゴルフ中継が流れているし、
何より飯が出てこない。

「来たぁ」
夢中でむさぼり
「おいしかったあ、又来まーす」

 満腹の30分後に思い当たる。
生きた川ガニを捌いて味が出るまで煮ていたかも。

 空腹は最高のスパイス。不在がそれを際立たせる。

 失われつつある若さ。
「あなたは美しかった」
という声を、贈られたであろうその薔薇から聞く。

 生の落日は見ず、盛りの緑とアヤメを見ていたい。
この人の知らないあの人を。

 ん?かつて「あの人」と見た夕陽ならいいのか…。
くわばらくわばら「この人」も育毛に励むとする。




 




 


 





 



何を求める?

2019-04-13 20:58:34 | 日記

 家族を巻き込んだ父の水彩画展は存外遠方からの客も多く
癌治療以来、一回りも二回りも小さくなったような体を少し伸ばし、
旧交を温めている。
 
 子供の頃、我々兄弟に「絵描きになりたかった」
と言いつつ片道2時間通勤の会社員をしていた父は
「独立したかったけどしなかった。結果的にしなくてよかった」
ということもたまに言っていた。
 当然、若者は彼を尊敬しなかった。

 そもそも絵を描くというのは悠長に思える。

 いくら精密に描いたところで写実において写真に敵うまい。
詩情の伝達であれば映画に敵うまい。

 私も中年となり、二人で飲んで興が乗れば、構図、色彩、モチーフといった
具体的な側面について話すことはある。
 ただ絵画を他者伝達のメディアの一種ととらえた場合には、
それは目的に対してあまりに非効率である。

 それを言っちゃあおしまいよ、なのかもしれない。
ゆえに彼が何に執着して描くのか、という動機については
あまり話したことはない。
 
 ともあれ齢八十を前にささやかな個展を開いた父を
片田舎の小さな家族が応援し、思いのほかの
彼の付き合いの広さに驚いたことは確かである。

 馬鹿の一つ覚え、と言っては身も蓋もないが
己が何を求めているのかを知り、それを実現しようと
地味なスケッチ、彩色を繰り返してきた父を勤勉だな、と思う。

 一社会人として「求めているものが明確であればそこにたどり着ける」
とは生産的な真実であることもわかる一方、
ゆえに自己啓発書のような辟易とする気持ちもある。

 自由に生きたいと思う。
 
 今日のようなうららかな春の日に
庭先で鶯の声を聞きながら好きな本を読む。
経済的な交換価値のない、小さな経験価値。

 移動も道具も金も要らない。
せいぜい、何もない沼と川を散歩するくらい。
何もないゆえに、季節が見える。花鳥風月の営みが匂う。

 「何もない」とは経済的な交換価値が無い、ということと最近理解した。

「何もない」場所では穏やかであると同時に切実な生の刹那を肌身に感じる。
その感覚を保ちつつ、理性ある生物として本を読み、たまに散歩する。
 
 それが欲しい。

 本当に経済合理性を「もっと求めなければいけない」のだろうか?
私は弱い人間である。信じ込まされることもあれば、信じたふりを
することもある。

 あれこれいじらずに私の小さな世界をそっとしておいてほしい。

 個展に来た客が、また無様な道路の計画のあることを
伝え嘆じて行ったという。

 数十年前の計画に基づき、維持も管理も責任も負えない人工物が満ち、
さらに増えていく。

 国破れただけじゃ物足りないかい?山河もなしにしたいのかね?