3年前に喰った桃。
種が木となり、この弥生初めて花開いた。早朝、庭に出ればメジロとシジュウカラが蜜を吸いに来ているので、動けず遠巻きに眺める。母が切り花を仏壇に生ければイモムシがわいて大騒ぎになる。
ももクロ三年、ガッキー八年。ここ数年、人に誇れる仕事といえば、到来物の桃の美味さに女房が「あたしは子供のころ近所の桃を毎日勝手にもいで食ってた。実の成らねえ木花はいんねえ、おらにもっとかしぇろ(食わせろ)」と尻たたかれ、種を花と化したことである。古の故事成語というのはなるほど真実であった。
茨城の古河市は桃の花(果実ではない)が近在では有名である。成長早く薪炭としやすく、かつ花実のなる樹木として藩主が植樹を奨励し、江戸で種を拾わせたという逸話が残る。
さてさてウンチクを語りつつ桃の花見をしようと思ったが、その不穏なる空気を察知した女子供らは浦安なる夢の島もとい夢の国に早朝出かけてしまった。残されたのは、「めんどくさい」爺と父。
「暇だな。どっか行きたいとこある?」
「福岡堰の桜、俺見たことないんだよな」
「え?そうだっけ」
母や妻子とは何度となく訪れている近隣の桜の名所、ゆえによもやよもや。かなしきはてておやなり、わすらるるものであるらし。
「歩きたくないんだろ?」
「そんなことはない」
「トレッキングポール持ってく?」
「別に俺はじっくり花を見たいわけではない。ので、ささっと見られれば十分」
「つまり面倒くさいんだろ?面倒くせえな。車の屋根開けて走り抜けようか?」
「ま、それでもいいが」
歩かず水飲まずテレビを見つつ炬燵でうたた寝す。誰が言おうが、言うこと聞かず。生きたいのか死にたいのか解せぬわがまま。それが老い、かと己50歳にしてようように察す。
まずはつくばの農林試験場近くの桜のトンネル。渋滞はこれ幸い。風は冷たく晴れた昼時、優しくシフトチェンジ&半クラッチ。その連続に左足が少々疲れる父子のドライブ。目指すは福岡堰の桜並木なり。
駐車場は長蛇の列。厠の前にて父は車を降り、100メートルほど桜並木を散策した様子。
「花は盛り。構図はこれというのがないなあ」
「そのものずばり、みたいのがあざとくていやなんだろ?いいじゃんか分かりやすくて」
「おれは花や筑波山より水がいいんだよ」
「ああそう」
「いちおう写真は撮った」
「ああそう・・あの木橋よくないか?桜を近景にして遠目に木橋入れたら広重だ」
「好きじゃない」
「あ、そう。コーヒー飲みに行く?」
「それがいい」
高校時代のバンマスが営むロックカフェは花見客で忙しかったらしい。
「いやーもうくたびれてさ、店閉めようかと思ったよ」
「今日だけ、のことだよな?」
「うん。なんか忙しくてさ今日」
「桜だろ。俺もいま親父と行ってきたとこだよ」
「あーそういうことか、咲いてるよねー」
なんというか、微妙にずれてる感じが似ている。
「お前んとこの親父さんは、どう?」
「あー退院して近所歩いてリハビリ中」
「元気になって良かったな」
「ん-なんかなあ。なんでも自分が正しいと思ってんだよ。言うこと聞かないしさ」
「めんどくさいよな」
「うん、めんどくさい」
唐突に「君は顔変わったなあ」と私の父。
「え?いやー変わってないですよ顔は」
「いや、親父、こいつ痩せたんだよ少し」
「顔変わったと思うなあ」
「えー顔は変わってないですよ」
思えば高校時代この同級生の家に行くとステテコ姿の親父がいい気分で現れ
「お、オーコシ来てるな、どうだ調子は?」
「はあ」
「まーいいや頑張れよ」
「はーい」
というやり取りを何度となく繰り返していた気がする。
何を頑張ればよかったのだろうか。
このロックカフェは俺が行くと暇になるのか、暇なときに俺が行くのかわからない。
いずれにせよこいつは言うことを聞かないが、会うたびに同じように歳を取っているのでさほど腹が立たない。
ただし毛量の多寡は除く。ここ数年負けているがこの先どうなるかは分からない。勝負はこれからだ。
「温泉いく?」
「いい、着替えるの面倒くさい」
「そうか。牛久沼のほとり、弘法大師さんの下の桜、見に行こうか」
「それならいい」
結局、親父も俺もあいつもあいつの親父も、この水辺からたいして遠くに行くことはできなかった。もっと遠くに行きたい、と熱望した記憶は確かにあるが、今日という一日を恥じることはなく、なんとなく嬉しい。
「美味いコーヒーを飲めてよかった」
「ああ、なら良かった」
・・・桜ではなかったらしい。
庭で一人酒を飲む。俺は今日頑張った。
そして家族はディズニーランドから帰ってこない。
※画像はこの時期の近所の川を描いた父の絵です
種が木となり、この弥生初めて花開いた。早朝、庭に出ればメジロとシジュウカラが蜜を吸いに来ているので、動けず遠巻きに眺める。母が切り花を仏壇に生ければイモムシがわいて大騒ぎになる。
ももクロ三年、ガッキー八年。ここ数年、人に誇れる仕事といえば、到来物の桃の美味さに女房が「あたしは子供のころ近所の桃を毎日勝手にもいで食ってた。実の成らねえ木花はいんねえ、おらにもっとかしぇろ(食わせろ)」と尻たたかれ、種を花と化したことである。古の故事成語というのはなるほど真実であった。
茨城の古河市は桃の花(果実ではない)が近在では有名である。成長早く薪炭としやすく、かつ花実のなる樹木として藩主が植樹を奨励し、江戸で種を拾わせたという逸話が残る。
さてさてウンチクを語りつつ桃の花見をしようと思ったが、その不穏なる空気を察知した女子供らは浦安なる夢の島もとい夢の国に早朝出かけてしまった。残されたのは、「めんどくさい」爺と父。
「暇だな。どっか行きたいとこある?」
「福岡堰の桜、俺見たことないんだよな」
「え?そうだっけ」
母や妻子とは何度となく訪れている近隣の桜の名所、ゆえによもやよもや。かなしきはてておやなり、わすらるるものであるらし。
「歩きたくないんだろ?」
「そんなことはない」
「トレッキングポール持ってく?」
「別に俺はじっくり花を見たいわけではない。ので、ささっと見られれば十分」
「つまり面倒くさいんだろ?面倒くせえな。車の屋根開けて走り抜けようか?」
「ま、それでもいいが」
歩かず水飲まずテレビを見つつ炬燵でうたた寝す。誰が言おうが、言うこと聞かず。生きたいのか死にたいのか解せぬわがまま。それが老い、かと己50歳にしてようように察す。
まずはつくばの農林試験場近くの桜のトンネル。渋滞はこれ幸い。風は冷たく晴れた昼時、優しくシフトチェンジ&半クラッチ。その連続に左足が少々疲れる父子のドライブ。目指すは福岡堰の桜並木なり。
駐車場は長蛇の列。厠の前にて父は車を降り、100メートルほど桜並木を散策した様子。
「花は盛り。構図はこれというのがないなあ」
「そのものずばり、みたいのがあざとくていやなんだろ?いいじゃんか分かりやすくて」
「おれは花や筑波山より水がいいんだよ」
「ああそう」
「いちおう写真は撮った」
「ああそう・・あの木橋よくないか?桜を近景にして遠目に木橋入れたら広重だ」
「好きじゃない」
「あ、そう。コーヒー飲みに行く?」
「それがいい」
高校時代のバンマスが営むロックカフェは花見客で忙しかったらしい。
「いやーもうくたびれてさ、店閉めようかと思ったよ」
「今日だけ、のことだよな?」
「うん。なんか忙しくてさ今日」
「桜だろ。俺もいま親父と行ってきたとこだよ」
「あーそういうことか、咲いてるよねー」
なんというか、微妙にずれてる感じが似ている。
「お前んとこの親父さんは、どう?」
「あー退院して近所歩いてリハビリ中」
「元気になって良かったな」
「ん-なんかなあ。なんでも自分が正しいと思ってんだよ。言うこと聞かないしさ」
「めんどくさいよな」
「うん、めんどくさい」
唐突に「君は顔変わったなあ」と私の父。
「え?いやー変わってないですよ顔は」
「いや、親父、こいつ痩せたんだよ少し」
「顔変わったと思うなあ」
「えー顔は変わってないですよ」
思えば高校時代この同級生の家に行くとステテコ姿の親父がいい気分で現れ
「お、オーコシ来てるな、どうだ調子は?」
「はあ」
「まーいいや頑張れよ」
「はーい」
というやり取りを何度となく繰り返していた気がする。
何を頑張ればよかったのだろうか。
このロックカフェは俺が行くと暇になるのか、暇なときに俺が行くのかわからない。
いずれにせよこいつは言うことを聞かないが、会うたびに同じように歳を取っているのでさほど腹が立たない。
ただし毛量の多寡は除く。ここ数年負けているがこの先どうなるかは分からない。勝負はこれからだ。
「温泉いく?」
「いい、着替えるの面倒くさい」
「そうか。牛久沼のほとり、弘法大師さんの下の桜、見に行こうか」
「それならいい」
結局、親父も俺もあいつもあいつの親父も、この水辺からたいして遠くに行くことはできなかった。もっと遠くに行きたい、と熱望した記憶は確かにあるが、今日という一日を恥じることはなく、なんとなく嬉しい。
「美味いコーヒーを飲めてよかった」
「ああ、なら良かった」
・・・桜ではなかったらしい。
庭で一人酒を飲む。俺は今日頑張った。
そして家族はディズニーランドから帰ってこない。
※画像はこの時期の近所の川を描いた父の絵です
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