チェスプレイヤーのデータを見ることができる海外のサイトを開いた。「narugami」で検索してみる。あった。国際大会で注目されだしたのは15歳のころかららしい。
18歳の女の子といえば、僕から見たら、いくらチェスが強いとはいっても、まだ幼く多感な年頃だろう。笑ったり泣いたり、怒ったりとか、いろいろな顔を見てみたいな、と思った。ご多分にもれず、性の経験はあるのかな、彼氏はいるのかな、といった、オヤジみたいな想像もしてしまった。
写真の中の彼女の肩に、大きくてごつい手が置かれていた。いったい誰だろう。チェスを教えた人物だろうか。手だけしか写っていなかったが、なにやら気持ちがモヤモヤするのを感じた。
翌朝、職場に出向いた僕は、先輩の大滝葵(おおたきあおい)さんに、鳴神美鈴について訊いてみた。
「ああ、知ってる知ってる。エイリアンでしょ?」
葵さんはキーボードを打つ手を止めて、眼を輝かせた。彼女はこの会社のチェス愛好会の会長である。僕がチェスを始めたのも、彼女との出会いがきっかけだった。
「和製ボビー・フィッシャーってところかな。まだ18歳でしょ? グランドマスターは確実だし、順調にいけば日本人初の世界チャンピオンだって狙えるんじゃない?」
ボビー・フィッシャーか……彗星のように現れ、そして消えた、アメリカの不世出の天才チェス・プレイヤー。彼のゲームは、今も世界中のチェス愛好家を感嘆させ、芸術とも称されている。特に当時のソ連のプレイヤー、スパスキーとの対戦は、まさしくチェスにおける奇跡とも言うべきものだ。
「君が今まで知らなかったのも、無理ないかな。日本のマスコミはチェスに関心ないから。これまでのところはね」
まあ、彼女の言うとおりだ。チェスで生計を立てているプロがいるということも、知っている人は少ないだろう。
「今夜、みんなで例の場所でどう?」
葵さんは、くいっとグラスをあおる仕草をする。
僕は、いいですね、と言った。
店主が無類のチェス好きのスナック『アンパッサン』は安くて美味い料理で、そこそこ繁盛しているようだ。ただし酔って店主とチェスで勝負するのは禁物だ。店主の尾崎は、無類の賭け事好きでもあるからだ。
今日のメンツは、僕と葵さんと、坂口清文(さかぐちきよふみ)さんの3人だ。チェス愛好会のメンバー全員である。そう、なぜか3人なのだ。
話題は、もちろん鳴神美鈴のこと。
「でも、かわいそうな気もするよね。どうせ、本人の意志でチェスやってんじゃないでしょ。ねえマスター?」
坂口さんは早くも酔いが回ってきた口調で言った。
「我が子が物心つかないうちからチェスやらせる親ってのも、ちょっと変わってるよね。海外じゃ、よくあることだけど」
葵さんはそう言って、生ビールのジョッキをあおった。
「井上くん、美鈴ちゃんのファンになっちゃったとか?」
マスターは僕に向かって言った。
「そういうわけじゃないですけど」
そう答えたものの、あのコンビニで鳴神美鈴を知って以来、ずっと気にはなっていた。
「気の早い連中は、逆タマ狙ってるかもね」
葵さんが言った。
逆タマ、ねえ……それもなんか寂しい気がする。
実力があるということが、すなわち幸せというわけではないように思えてきた。
明日も仕事があるので、ほどよく飲んだところで解散となった。
葵さんが冗談めかして、あたしの部屋に寄っていく? と言ったが、遠慮しておいた。
一人で夜道を歩いていると、ぽつぽつ雨が降り出し、やがて本降りになった。アパートに帰り着くまでには酔いが覚めてしまうかもしれない。冷蔵庫に何かあったかな、と思いながら、僕は小走りになった。
すると、どこからか叫び声が聞こえた。
「助けて!」
(つづく)
更新の時間を少し早めてみましたが…いかがでしょうか?
18歳の女の子といえば、僕から見たら、いくらチェスが強いとはいっても、まだ幼く多感な年頃だろう。笑ったり泣いたり、怒ったりとか、いろいろな顔を見てみたいな、と思った。ご多分にもれず、性の経験はあるのかな、彼氏はいるのかな、といった、オヤジみたいな想像もしてしまった。
写真の中の彼女の肩に、大きくてごつい手が置かれていた。いったい誰だろう。チェスを教えた人物だろうか。手だけしか写っていなかったが、なにやら気持ちがモヤモヤするのを感じた。
翌朝、職場に出向いた僕は、先輩の大滝葵(おおたきあおい)さんに、鳴神美鈴について訊いてみた。
「ああ、知ってる知ってる。エイリアンでしょ?」
葵さんはキーボードを打つ手を止めて、眼を輝かせた。彼女はこの会社のチェス愛好会の会長である。僕がチェスを始めたのも、彼女との出会いがきっかけだった。
「和製ボビー・フィッシャーってところかな。まだ18歳でしょ? グランドマスターは確実だし、順調にいけば日本人初の世界チャンピオンだって狙えるんじゃない?」
ボビー・フィッシャーか……彗星のように現れ、そして消えた、アメリカの不世出の天才チェス・プレイヤー。彼のゲームは、今も世界中のチェス愛好家を感嘆させ、芸術とも称されている。特に当時のソ連のプレイヤー、スパスキーとの対戦は、まさしくチェスにおける奇跡とも言うべきものだ。
「君が今まで知らなかったのも、無理ないかな。日本のマスコミはチェスに関心ないから。これまでのところはね」
まあ、彼女の言うとおりだ。チェスで生計を立てているプロがいるということも、知っている人は少ないだろう。
「今夜、みんなで例の場所でどう?」
葵さんは、くいっとグラスをあおる仕草をする。
僕は、いいですね、と言った。
店主が無類のチェス好きのスナック『アンパッサン』は安くて美味い料理で、そこそこ繁盛しているようだ。ただし酔って店主とチェスで勝負するのは禁物だ。店主の尾崎は、無類の賭け事好きでもあるからだ。
今日のメンツは、僕と葵さんと、坂口清文(さかぐちきよふみ)さんの3人だ。チェス愛好会のメンバー全員である。そう、なぜか3人なのだ。
話題は、もちろん鳴神美鈴のこと。
「でも、かわいそうな気もするよね。どうせ、本人の意志でチェスやってんじゃないでしょ。ねえマスター?」
坂口さんは早くも酔いが回ってきた口調で言った。
「我が子が物心つかないうちからチェスやらせる親ってのも、ちょっと変わってるよね。海外じゃ、よくあることだけど」
葵さんはそう言って、生ビールのジョッキをあおった。
「井上くん、美鈴ちゃんのファンになっちゃったとか?」
マスターは僕に向かって言った。
「そういうわけじゃないですけど」
そう答えたものの、あのコンビニで鳴神美鈴を知って以来、ずっと気にはなっていた。
「気の早い連中は、逆タマ狙ってるかもね」
葵さんが言った。
逆タマ、ねえ……それもなんか寂しい気がする。
実力があるということが、すなわち幸せというわけではないように思えてきた。
明日も仕事があるので、ほどよく飲んだところで解散となった。
葵さんが冗談めかして、あたしの部屋に寄っていく? と言ったが、遠慮しておいた。
一人で夜道を歩いていると、ぽつぽつ雨が降り出し、やがて本降りになった。アパートに帰り着くまでには酔いが覚めてしまうかもしれない。冷蔵庫に何かあったかな、と思いながら、僕は小走りになった。
すると、どこからか叫び声が聞こえた。
「助けて!」
(つづく)
更新の時間を少し早めてみましたが…いかがでしょうか?