「井上さーん」
僕を見つけた梓が、遠くから手を振った。芽衣が調べていたとおり、僕は梓とたびたび会うようになっていた。
梓は、今は受験勉強の真っ最中だ。それで、勉強を見てやったり、進路の相談に乗ったりしている。まあ、要するに付き合っているわけだが、本当に男女の仲になってしまうと、僕は犯罪者に、梓は学校を退学になりかねないので、会うのは昼間だけ、それも勉強に支障がないように、と決めている。
「お姉ちゃんたちに会ってきたんですね」
「うん、元気そうだった。快く取材を受けてくれて助かったよ」
梓は真面目で、挨拶や敬語もしっかりしていて、姉の美鈴とは対称的だ。そのぶんガードが固いというか、なかなか心を開かないところがあったが、僕のような節操のない男には、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
僕らは公園のベンチに座った。
「今日は井上さんに相談があって」
梓が切り出してきた。
「……なんだい?」
僕はほんの少し不安を感じていた。最近の梓の様子から、なにか悩み事でもあるのだろうか、と思ってはいたのだ。
「あたし、臨床心理士になりたかったんですけど……」
「そう言ってたね」
「別の選択肢もあるんじゃないかと思って」
「……そうかい?」
「つまり、あたしは、誰かの役に立てる仕事をしたいんですが、それと、臨床心理士になることとは、必ずしも一致しないんじゃないかって、思うようになったんです」
「……」
梓の言うことには、思い当たるところがあった。
臨床心理士になることは、簡単ではない。心理学全般のエキスパートとも言える職業であり、エリートである。しかし、エリートであるがゆえに、彼らの多くは「臨床」の心理士ではなくなっている。それは僕も大学で心理学専攻だったから、よくわかる。
彼らに人助けの意志がないという意味ではない。臨床とつく以上、実際の彼らの仕事は、接客業といっていい。しかし、彼らは接客がやりたくて臨床心理士を目指したのではない。彼らは学者でもあるのだ。
そのあたりのギャップに悩み、辞めてしまう者もいると聞いた。職場を辞めるのではなく、資格そのものを失効させてしまうのだ。
つまり、人助けのためなら、必ずしも臨床心理士でなくてもいい、という梓の気持ちはよくわかる。彼女はまだ大学にすら入っていないが、これから学問の道を進むにつれ、その気持ちはよけい強まっていくかもしれない。
「……そうだね」
生返事みたいな答え方しか出来ない自分が情けないが、これはとても難しい問題だ。梓は自分ひとりで、そんなことを考えられるようになるほど、成長した。
そして、梓の僕への気持ちが、微妙に変化してきていることを、僕は感じていた。
「……そりゃ、どういう事かな?」
昼休みの、職場の屋上にて。僕は先輩の坂口さんに、相談を持ちかけた。
「梓が以前のように、僕のことを頼れる存在だと見てくれているのかどうか……」
坂口さんはふーっと煙を吹き出すと、
「そりゃ、キミのほうが自信がなくなってきたんじゃないの?」
「……それも、あるかもです」
「若い恋は移ろいやすいものではあるけどね、あんまり頭の中ばっかりで考えるのはやめた方がいいよ」
「……」
「恋はチェスとは違うんだからね、頭の中だけでするものではない」
「そうですか?」
「梓ちゃんはキミのこと、好きなんだろ?」
「そう信じたいです……」
「だったらキミはそれに応えてあげなくちゃね。キミも梓ちゃんのことが好きなら」
「……」
「なんか煮え切らないな。梓ちゃんの気持ちが変わったなら、もう一度変え直せばいい。それぐらいの強さというか、図々しさがなくてどうする」
坂口さんはやや強い調子で、僕の肩を叩いた。
さすが、人生の先輩だ。チェスは僕よりヘボなのだが。
「いっそのこと、子供つくっちゃうかい?」
「……冗談きついっすよ」
アパートに帰り、僕は梓に電話した。
「おやすみなさい、井上さん」
「ああ、おやすみ」
いつもの会話。電話を切った後、今日も言えなかったな、と、僕は自分自身に歯がゆい思いを抱く。
いつか、僕の気持ちを伝えよう。
あなたの騎士(ナイト)になりたい。
坂口さんは、恋はチェスとは違う、と言った。
でも僕は、盤面を縦横無尽に飛び回り、クイーンを守護する、あのナイトのような存在になりたい。
いつまでも、ずっと……
頼りない僕だけど、それは正直な気持ちだった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました! 拙作ではありますが、最高に楽しい連載でした。
僕を見つけた梓が、遠くから手を振った。芽衣が調べていたとおり、僕は梓とたびたび会うようになっていた。
梓は、今は受験勉強の真っ最中だ。それで、勉強を見てやったり、進路の相談に乗ったりしている。まあ、要するに付き合っているわけだが、本当に男女の仲になってしまうと、僕は犯罪者に、梓は学校を退学になりかねないので、会うのは昼間だけ、それも勉強に支障がないように、と決めている。
「お姉ちゃんたちに会ってきたんですね」
「うん、元気そうだった。快く取材を受けてくれて助かったよ」
梓は真面目で、挨拶や敬語もしっかりしていて、姉の美鈴とは対称的だ。そのぶんガードが固いというか、なかなか心を開かないところがあったが、僕のような節操のない男には、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
僕らは公園のベンチに座った。
「今日は井上さんに相談があって」
梓が切り出してきた。
「……なんだい?」
僕はほんの少し不安を感じていた。最近の梓の様子から、なにか悩み事でもあるのだろうか、と思ってはいたのだ。
「あたし、臨床心理士になりたかったんですけど……」
「そう言ってたね」
「別の選択肢もあるんじゃないかと思って」
「……そうかい?」
「つまり、あたしは、誰かの役に立てる仕事をしたいんですが、それと、臨床心理士になることとは、必ずしも一致しないんじゃないかって、思うようになったんです」
「……」
梓の言うことには、思い当たるところがあった。
臨床心理士になることは、簡単ではない。心理学全般のエキスパートとも言える職業であり、エリートである。しかし、エリートであるがゆえに、彼らの多くは「臨床」の心理士ではなくなっている。それは僕も大学で心理学専攻だったから、よくわかる。
彼らに人助けの意志がないという意味ではない。臨床とつく以上、実際の彼らの仕事は、接客業といっていい。しかし、彼らは接客がやりたくて臨床心理士を目指したのではない。彼らは学者でもあるのだ。
そのあたりのギャップに悩み、辞めてしまう者もいると聞いた。職場を辞めるのではなく、資格そのものを失効させてしまうのだ。
つまり、人助けのためなら、必ずしも臨床心理士でなくてもいい、という梓の気持ちはよくわかる。彼女はまだ大学にすら入っていないが、これから学問の道を進むにつれ、その気持ちはよけい強まっていくかもしれない。
「……そうだね」
生返事みたいな答え方しか出来ない自分が情けないが、これはとても難しい問題だ。梓は自分ひとりで、そんなことを考えられるようになるほど、成長した。
そして、梓の僕への気持ちが、微妙に変化してきていることを、僕は感じていた。
「……そりゃ、どういう事かな?」
昼休みの、職場の屋上にて。僕は先輩の坂口さんに、相談を持ちかけた。
「梓が以前のように、僕のことを頼れる存在だと見てくれているのかどうか……」
坂口さんはふーっと煙を吹き出すと、
「そりゃ、キミのほうが自信がなくなってきたんじゃないの?」
「……それも、あるかもです」
「若い恋は移ろいやすいものではあるけどね、あんまり頭の中ばっかりで考えるのはやめた方がいいよ」
「……」
「恋はチェスとは違うんだからね、頭の中だけでするものではない」
「そうですか?」
「梓ちゃんはキミのこと、好きなんだろ?」
「そう信じたいです……」
「だったらキミはそれに応えてあげなくちゃね。キミも梓ちゃんのことが好きなら」
「……」
「なんか煮え切らないな。梓ちゃんの気持ちが変わったなら、もう一度変え直せばいい。それぐらいの強さというか、図々しさがなくてどうする」
坂口さんはやや強い調子で、僕の肩を叩いた。
さすが、人生の先輩だ。チェスは僕よりヘボなのだが。
「いっそのこと、子供つくっちゃうかい?」
「……冗談きついっすよ」
アパートに帰り、僕は梓に電話した。
「おやすみなさい、井上さん」
「ああ、おやすみ」
いつもの会話。電話を切った後、今日も言えなかったな、と、僕は自分自身に歯がゆい思いを抱く。
いつか、僕の気持ちを伝えよう。
あなたの騎士(ナイト)になりたい。
坂口さんは、恋はチェスとは違う、と言った。
でも僕は、盤面を縦横無尽に飛び回り、クイーンを守護する、あのナイトのような存在になりたい。
いつまでも、ずっと……
頼りない僕だけど、それは正直な気持ちだった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました! 拙作ではありますが、最高に楽しい連載でした。