トロのエンジョイ! チャレンジライフ

「人生で重要なことはたった3つ。どれだけ愛したか。どれだけ優しかったか。どれだけ手放したか」ブッダ

連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第9回

2018-06-16 19:12:20 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
 ささくれ立った心のまま、僕は夕暮れの街を歩いていた。
「井上さん!」
 僕を呼ぶ声がする。梓が追いついてきたようだ。
 少しだけ頭の冷えた僕は、立ち止まった。梓が息を切らしながら、僕の横に立った。
 涙ぐんでいた。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
 冷たい声音にならないよう、気を遣った。
「お姉ちゃん、ほんとはああいう子じゃないんです。きっとチェスで、いやなことがあって……それで……」
「……わかってるよ」
「井上さん、お姉ちゃんを叱ってくれて、ありがとうございました」
「……」
「目が覚めたと思います。お姉ちゃん、お父さんに叱られたことがほとんど無いんです。チェスで負けたとき以外は」
「……」
 それもまた、悲しいもんだな……

「あの馬鹿娘が。骨休めなど、させるのではなかったか! よりによって、チェスをやめるだと? 寝言もたいがいにしろ」
 木下は、せわしなく歩き回りながら、僕らのしらけた視線にも気づかない様子だった。
「世界チャンピオンを狙えるのは20代前半までだ。今、命がけで精進しなければ、なにもかも水の泡だ」
 口を開いたのは、洋子さんだった。
「あいかわらずね、礼治さん」
「なんだと?」
「木下名人、とお呼びしたほうがいいかしら。プライドの塊みたいな方だものね」
 木下は立ち止まると、
「凡人になにがわかる」
 僕は、美鈴が言ったありのままの言葉を、洋子さんと木下に伝えた。その結果がこれだ。
 葵さんが怒り出すかと思ったが、彼女はさっきから頬杖をついて、つまらなそうにしていた。やはりいるのだ、葵さんがケンカすらしない人間というのは。
「あなただって凡人じゃないの。美鈴の才能を自分のことみたいに考えて、ふんぞり返っているだけだわ」
「黙れ。お前のような母親が子をダメにするんだ」
「あなたは、我が子を見る目さえ、チェスの才能があるかどうか、それだけ。美鈴はこのままでは、絶対幸せになれないわ」
 やれやれ。犬も食わないどころではない。まるっきり責任のなすりつけ合いだ。
「あー、はいはい。お二人とも、それぐらいにしときましょう」
 割って入ったのは、さっきからカウンターでグラスを磨いていた尾崎だった。
「とにかく今は、美鈴ちゃんの心と体のことを考えるべきでは? 明日、葵と梓ちゃんが、美鈴ちゃんの泊まってるホテルに行きますから。もしかしたら、体調くずしてるかもしれないわけだし」
 尾崎の言葉が終わらないうちに、木下は出て行ってしまった。

 翌日は土曜日だった。葵さんと梓が、美鈴の様子を見に行って、帰ってきた。
 2人は、僕の部屋に立ち寄った。
「謝ってたよ。立会人さんに申し訳ないことしたって。あんたのことでしょ? 井上くん。ガツンと言ってやったようだね」
 僕はなんとなく、くすぐったいような気分を味わった。案外、素直な女の子なのかもしれない。
「それとさあ……」
 葵さんはそう言って、梓と顔を見合わせる。
「これ、言っちゃっていいかな?」
「別にかまわないと思います」
 なんだ?
「なんでダブルの部屋とってるのか、変だなとは思ったんだけど」
 え?
「彼氏といっしょだった。ラルフ・ガーラントさん。チェスの世界王者の。つきあい始めてもう2年になるって」
「……」
「ちょうど部屋にいたから、握手してきたよ。大きくてごつい手だったなー」
「……」
「彼は23歳だって。ちょうどいい、お似合いの相手かもね」
「……」

 なにを落ち込んでいるのだ? 僕は。

 クイーンには、ふさわしいナイトがすでにそばにいた、というわけだ。


(つづく)



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連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第8回

2018-06-15 19:03:28 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
 美鈴は、父の木下礼治とともに、日本に来ていた。
 チェスのトッププレイヤーの生活というのは、試合、移動、準備……そのくり返しだそうだ。
 自分の時間などほとんど無いといっていい。まだ18歳の美鈴には、過酷なところもあったのだろう。せめて少しでも骨休めにと、木下は彼女を日本に連れて来た。
 1週間ほど滞在し、ディズニーランドにでも連れて行く予定だったそうだ。
 しかし、美鈴はホテルから姿を消した。
「とりあえず警察に捜索願は出したそうですが……」
 洋子さんが言った。
「私のところに来ているかもしれないと思ったようです。あの子に限ってそんなことはないと思うんですが」
 心配ではあったが、とりあえず僕らに出来ることは何もなかった。
「何か力になれることがあったら」
 と、僕らは連絡先を教え合って、帰宅することになった。

 1週間ほど経った。
 美鈴に関して、洋子さんからは何も言ってきてはいなかった。
 いまだに見つかっていないのだろうか。
 まさか、事件に巻き込まれたとか……。
 僕はあれから、美鈴のSNSを調べてみたが、現在の居所に関する情報は得られなかった。洋子さんの話では、クレジットカードを持っているはずなので、お金に困ることはないだろう、とのことだった。
 そして、その日の退社時間近くに、僕の携帯が鳴った。
 梓からだ。そういえば番号を教え合ったんだっけ。
「もしもし」
「あの……井上さん?」
「そうだよ。どうしたの?」
「姉が……あたしに連絡してきて」
 思わず立ち上がっていた。
「今どこにいるって? 姉さん」
「ビジネスホテルに泊まっているらしいです」
「そうか、無事なんだね?」
「はい」
 よかった……。
「これから姉と、会う約束なんですが……」
「うん」
「よければ一緒に来ていただけないでしょうか」
「え? 僕が?」
「なんか立会人が必要だとか……ごめんなさい、なに考えてるのか、よくわからない姉なもんですから」
 立会人? いったい何だというんだろう。

 待ち合わせ場所のファミレスに入ると、梓が僕を見つけ、立ち上がってお辞儀をした。
 向かいの席に座っているのが美鈴だろう。僕のほうを見もしなかった。
 なるほど、顔立ちはよく似ている。雰囲気はまったく違っていたが。
 ガラにもなく緊張している自分に気づいた。
 僕は、2人の脇の席に座った。
 美鈴はショートヘアを揺らして、僕のほうを向くと、
「この人が立会人? 頼りなさそうだけど大丈夫なの?」
「お姉ちゃん!」
 梓がとがめても、気にもとめていない様子だ。はっきり言ってムカついた。
「まあいいや、なにか食べよ。あたし、ペペロンチーノと生ビールね」
「生ビールはやめとくんだな。未成年が」
 僕は言った。美鈴が口を尖らせ、にらみつけてくる。
 エイリアンとまで言われたチェスのスーパープレイヤーだが、所詮はただの生意気な小娘だ。
 梓はオレンジジュース、僕はコーヒーを注文した。生ビールは当然、却下である。
 料理が運ばれてくる間、僕らは黙り込んでいたが、
「お姉ちゃん、話ってなに? どうして突然いなくなったりしたの?」
「はいはい。質問は一度に一つずつね」
 美鈴は、なにか食べようと自分から言ったわりには、たいして食欲もなさそうにペペロンチーノを口に運びながら、
「あの人たちに、伝えてほしいの」
「……お父さんとお母さんのこと?」
「そうに決まってるじゃない。いい? よく聴いててね、立会人さんも」
 なんか、馬鹿らしくなってきた。
「あたしは、もうチェスはやめます。あの人たちとも、もう関係ない」
「えっ……?」
「伝えることは、それだけ。梓、あんたともこれっきりね」
「そんな……お姉ちゃん!」
「わかった? 立会人さんも」
 そのとき、僕は黙っていればよかったのかもしれない。
「……にしろ」
 コーヒーをすすりながら言った。
「え?」
「勝手にしろ、と言ったんだよ」
 怒りと、失望が、僕を満たしていた。
「僕はもう帰る。なるほどな、トップがこんなやつじゃ、やっぱり日本はチェス後進国だな」
 梓は、明らかにうろたえていた。美鈴は、無言だった。言わずともよいセリフだったが、僕だって人間なのだ。
「僕も、チェスをやっている。君から見たら子供の遊びだろうがね。チェスの頂点を極めるには、ここまで人間として大切なものを捨てなきゃならないのかい。そう思ったら涙が出てきたよ」
 僕は席を立ち、テーブルに1万円札を叩きつけ、上着をはおった。
「君の言葉は、ご両親にそのまま伝える。立会人としての役目は果たすつもりだ。それじゃ」
 僕は、振り返りもせず店を出た。


(つづく)



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連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第7回

2018-06-14 19:14:29 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
「葵さんに5000円」
 尾崎がヒゲを撫でながら言った。店はどうしたのだろうか。
「バクチじゃないんだから……」
 僕は言った。
 再びスナック『ポル・ファボール』。チェス盤を挟んで向かい合っているのは……
 葵さんと、洋子さん。
「叩きのめしてやるよ」
「やってごらんなさいな」
 この世紀の対決(?)は、意外にも洋子さんからの申し出により実現した。
 洋子さんと『アンパッサン』のマスターは旧知の仲であり、彼を通じて、葵さんと勝負したいとの知らせがあったのだった。
「私が勝ったら、この店では今後チェスの話は一切しないこと。わかった?」
「おう、わかったよ。そのかわりあたしが勝ったら、飲み食い一切タダにしてもらうからね」
 はたして、どちらが勝つか?
 葵さんのチェスの実力は相当なものだ。もちろん僕は勝ったことはないし、ネットの対戦でもなかなか相手が見つからないほどだという。
 しかし、洋子さんの実力はまったく未知数だ。木下名人の元妻で、エイリアン鳴神美鈴の母親である。しかも自分から勝負を挑んでくるほどだから、大抵の人には勝つ自信があるのかもしれない。
「よーし、始め」
 双方、立ち上がって一礼する。
 勝負が始まった。
 チェスでは、最初はまずポーンを動かすか、ナイトを動かすか、どちらかしかない。大抵は、ポーンの突き合いから始まる。
 白は葵さん。黒は洋子さん。
 序盤は、オーソドックスな展開だったが、中盤に進むにつれて、白はやや苦しくなってきた。
 黒は駒得を重ね、白の駒は少しずつ減っていく。
 これは……かなり強い。葵さんの額にうっすらと汗がにじむ。
 そして、決定的な瞬間。
 黒が、白のクイーンを取った。
 やばいぞ……。
「どうします? リザイン(投了)する?」
「……まだまだ」
 もはや白陣はスカスカだ。そして黒は、俄然、攻勢に転じた。
「チェック(王手)」
 洋子さんは勝利を確信したように言った。僕の目から見ても、もはや葵さんに勝ち目はないことがわかった。
 チェック。またチェック。
 白のキングは、逃げることしかできない。やがて端に追いやられ、チェックメイトされるのも時間の問題と思われた。
 しかし、ここで初めて、洋子さんが手を止め、考え込んだ。
 どうしたのだろう。明らかに黒が勝つようだが。
 そして、葵さんがルークを動かす。
 あ……!
「試合終了だな」
 尾崎が言った。
 葵さんが大きく息をついた。
「引き分けだ」

「なかなか、やるじゃないの」
 洋子さんが言った。勝負のあとは、なごやかに懇親会となった。
 葵さんは照れくさそうに、
「へへ……でも、あんたの実力がわかったよ」
「私とやって、スティールメイトに持ち込める人はそうそういないわ」
 スティールメイトとは、キングが動けない状態で、なおかつチェックされておらず、他の駒も動かせないことをいう。
 この状態になったとき、自動的に勝負は引き分けとなる。圧倒的に不利なとき、スティールメイトに持って行くのも、技術のひとつだ。
「でも、もう私は、チェスはやらないって決めてたのよ」
「あんなに強いのに? もったいないなあ」
「いろいろと失ったからね……チェスのせいで」
「ふうん……」
「まあ昔の話よ。さて、皆さん、今夜は楽しんでいってね。おごりだから」
 洋子さんが、初めて心からの笑顔を浮かべたようだった。そうすると、梓のほうに似ているように思えた。
 しばらくすると、尾崎は店をバイトに任せてきたとかで、帰っていった。
 梓も、明日は学校だそうだ。
 僕と、葵さん、洋子さん、坂口さんの4人で盛り上がり、楽しい会話は続いた。
 しかし……
 電話が鳴った。
 携帯ではなく、店の固定電話だった。
 時刻は午後10時を回っていた。洋子さんは電話に出て、
「はい、ポル・ファボールでございます」
 そのとたん、洋子さんの表情がこわばった。
「……礼治さん?」
 え?
「ええ、お久しぶり……どうしたの?」
 まさか……
「美鈴が? そんな……!」
 電話の相手は木下名人らしかった。いったい何があったのだろう。
「行方不明ってどういうこと? あなた、今どこにいるの?」
 どうやら尋常ではない事態のようだ。


(つづく)


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連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第6回

2018-06-13 20:00:02 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
「へー、鳴神美鈴の妹に、母親? この辺に住んでたなんてねえ」
 坂口さんが言った。
「今度オレも連れて行ってくれよ、その店」
 翌日の昼休み、屋上で一服しながら、僕は坂口さんと話していた。
 葵さんは、一人息子の賢一くんが熱を出したという学校からの連絡で、早退していた。
「葵さんのちょうどいいケンカ相手が見つかったみたい」
 僕は言った。
「でもさ、その洋子さんだけど、木下名人とくっついたのはおそらくチェスを通じてだろうけど、別れちゃったのもチェスが原因なんじゃないかな?」
「そうですねー」
「たかがチェス、されどチェスってわけだ。洋子さんはそれでチェスそのものを嫌うようになったのかもしれない」
 坂口さんはそう言ってタバコを消した。
「葵さんも旦那さん亡くしてるからなー。そういう意味じゃ、相通じるものを感じたのかもしれない。チェスに関しては正反対でもね」
 相通じるもの、か……。
 僕は2年前の出来事に思いを馳せていた。

 僕は大学を卒業後、現在の職場である大須フーズ株式会社に就職した。一通りの研修が終わり、配属部署が決まって、葵さんや坂口さんと知り合った。
 それは、その時の僕の歓迎会の夜に起こったのだった。
 なぜか僕は、真っ先に葵さんと意気投合してしまった。よく笑う、魅力的な女性だと思った。僕より9つも年上で、シングルマザーだということも含め、こんな人と職場でいつも顔を合わせられるなんて幸せだ、と思った。
 僕はちょうどその頃、大学時代につき合っていた彼女と別れたばかりだった。そうなると、そんなときに何が起こったか、だいたい想像はつくんじゃないかと思う。
「送ってくれてありがとう」
「いえいえ」
「あのさ、ちょっと話があるの」
「はい……」
「上がっていかない? 飲み直しながら話そ」
 ちょっとまずいんじゃないか、と頭のどこかで警報が鳴ってはいたが、アルコールの力もあって、僕はあっさり誘惑に負けた。
 そして、太古より変わらない、当たり前の男女の営みのあと、
「……」
「……」
 2人ともすっかり酒が醒めてしまい、超気まずい雰囲気。
「ま、まあ……起こっちゃったことは、しょーがないよ、ね?」
「そ、そうですね……」
「ふしだらな女だと思った? か、彼女とか、いるわけ?」
「いえ、いないっす……」
「犬にでも噛まれたと思ってさ、忘れてよ、ね?」
「はい……」
 僕は何気なく、当時の葵さんの部屋の中を見渡した。ふすまの向こうでは、息子さんが寝ているのだろうか。
 三人が写っている写真が、立てかけられていた。
 そしてその近くには、高級そうなチェス盤と駒が置かれていた。
 僕が見ているものに気づいたのか、葵さんは、
「ああ、死んだ旦那が、チェスが好きで……」
 そこまで言うと、急にがばっと身を起こして、
「ねえねえ、話があるんだけど!」

 その場で、僕はチェス愛好会に入ったのだった。そして2年が経ち、いまだにヘボだけど、チェスというゲームの奥深さは、わかってきたつもりだ。
 チェスで勝つために重要な要素は、先読みができること、定跡を知っていること、いろいろあるかもしれないが、最たるものは、抜け目のなさである。間抜けはいつまでたっても強くなることはできない。
 相手のミスや、有利になる局面を決して見逃さず、自分は決して間違った手を打たないこと。神のように強いマスターと呼ばれる達人たちは、正しい手を打つから強いのである。
 しかし、強さだけがチェスのすべてではない。少なくとも僕はそう思っている。
 なぜなら、単に量的に強いということなら、機械に人間がかなうわけがないからだ。どんなに強い人工知能も、所詮は道具にすぎない。
 道具はチェスを楽しむことはできない。人工知能どうしの試合なんて不毛に違いない。チェスは人間が造ったゲームであり、人間どうしが楽しむためのものなのだ。


(つづく)


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連載小説「あなたの騎士(ナイト)になりたい」第5回

2018-06-12 19:42:23 | 小説・あなたの騎士(ナイト)になりたい
 梓と美鈴の母が経営するというスナック『ポル・ファボール』は、わりと近くにあった。
 やや狭い店内は、カウンター席と、ボックス席が2つあるだけだった。
 経営者とおぼしき女性を見て、驚いた。雑誌に載っていた美鈴そっくりだ。ピンと張り詰めたような雰囲気まで似ている。もちろん化粧をしているせいもあるが、同じ親子でも、梓のまとっている雰囲気とは違っていた。
「いらっしゃいませ……あれ、梓、遅かったじゃないの」
 名前は鳴神洋子(なるがみようこ)というそうだ。洋子さんは営業用スマイルを引っ込め、僕と葵さんに遠慮のない視線を向けた。
「途中でちょっとトラブルがあって……この人たちが助けてくれたの」
 洋子さんは大して感謝するようすでもなく、
「それはどうも。娘がお世話に」
 梓は僕らにささやくように、
「ごめんなさい。私の友達には警戒心が強くて」
 片親だけの子育ての苦労が、ある種の他人との壁を造ってしまったのかもしれない。そんな感じだった。
 あまり歓迎されているという雰囲気ではなかったが、せっかくだから、ということで、僕と葵さんはカウンター席に座った。
 しばらくすると梓が、エプロンをして手伝いに出てきた。
 僕はほとんど梓と話していたが、葵さんは洋子さんにしきりに話しかけていた。洋子さんのほうは、いちおう客だから無視するわけにもいかない、という程度の反応しかしていなかったが。
 会話するうちにわかったのだが、梓は、美鈴の1歳年下の17歳。高校卒業後は、大学で心理学をやりたいという。
「へー、僕も心理学専攻だったよ」
「N大学ですか?」
「うん、そうだよ。臨床心理士の資格を取りたいの?」
「はい。でも、それには大学院まで行かないとダメですよね? それは、なかなか母には言いづらくて」
「いまは公認心理師っていう資格もあるから……」
 突然、カウンターの端から罵声が聞こえてきた。
「いい加減にしろよ、てめー!」
 葵さんだった。あちゃー、始まったか……
 イヤな予感はしていたのだ。
 葵さんは普段は癒やし系の温厚な女性だが、酔うとケンカっ早くなる。
 相手は、案の定、洋子さんだった。
「もういっぺん言ってみろよ。チェスのどこがくだらねえって? 人生を狂わす魔のゲームって、どういうことだよっ!」
 葵さんが怒鳴っても、洋子さんはひるむでもなく、超然と見返している。
「いいかい、チェスってのは平和の象徴なんだよ。世界中で7億人の競技人口があるんだ。国籍も人種も、政治も越えて、みんながわかり合えるためのゲームなんだ」
 葵さんがまくし立てると、洋子さんも負けじとやり返す。
「それは、趣味で楽しくやってる場合だけでしょう? プロのチェスの厳しさを知らない人に、何がわかるの?」
「あんたこそ、何がわかるってんだよ。チェスを馬鹿にするやつは、あたしが許さんぞ!」
「ご不満がおありでしたら構いません。どうぞお帰りを」
「いいや、決着がつくまで、あたしはここを動かん! へっ、シングルマザーだからなんだってんだ。あたしだってそうさ!」
 どうやら、チェスのことになるとムキになるのは、お互いさまらしい。
 梓は、どうしたらいいのかわからない様子で、うろたえていたが、僕は、案外気の合う2人なのかもしれない、と思った。葵さんは、本当に合わない相手とは、ケンカすらしないからだ。
 しかし、今日のところは、もう引きあげたほうがよさそうだ。
「はいはい、葵さん、帰るよ-」
「な、なに言ってんの。まだ決着が……」
 僕はやや強引に葵さんの腕をつかんで立たせた。洋子さんの顔に、安堵とも寂しさともつかない、微妙な色が浮かんだようにも見えた。
「いいか、今度チェスで勝負するぞー! 覚えとけよーっ!」
 僕らは、『ポル・ファボール』を後にした。



(つづく)


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