ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

続・隣の芝生

2024-09-23 12:00:00 | 投資理論
前の文章を書いてから、そういえばと、思い出した本がある。

それは、『にっぽんの商人』イザヤ・ベンダサン著である。



この本の出版は昭和50年(西暦1975年)で、これから日本がバブル景気に向かおうという時期に、当時も現在も一般通念となっている「モノづくり大国ニッポン」論に対して、「商人大国ニッポン」論を打ち出した異色の日本論である。

これはまた、なぜ日本だけがアジアの中で資本主義が高度に発達したのかという、歴史家の間で議論されているトピックに、一つの明快な答えを出した著作でもあって、ベンダサンは<日本を今日のように発展させたのは、勿論商人だけではない。そこには郷士という、非常に重要な役割を演じた忘れることのできない存在がある>とも述べていて、この<郷士>については述べられてはいないという留保を付した上で、この著作の内容を端的に述べている文章を、最終章「世界に冠たる商人大国日本」から、以下に引きたいと思うが、この文章をどのように読まれるであろうか。

このベンダサンの見地に立てば、日本の総合商社というのは、「にっぽんの商人」の現代的進化形であり、バフェットがこれまでにもなかったバルク買いをしたのは、この「にっぽんの商人」というビジネスモデルの優位性を余程確信したからであろうと考えることも出来る。

また、外から見た方が、この「にっぽんの商人」というビジネスモデルの優位性が良くわかるということかも知れない。従って、世界に冠たる「にっぽんの商人」であるから、重箱の隅をつつくトヨタへの「是正命令」の例が示す如く、その行動には、政府は下手に口を出して足を引っ張らない方が良いということにもなる訳である。


以下の言葉は、皮肉と考えないでほしい。外部から見ていると、日本とは、広い意味の商行為に従事するもの、いわば広い意味の商人だけが、国際間にあって、全く引けを取らずに大活躍をしているが、他には、何も存在せず、商人以外は全く無能な人たちの国のように見えるのである。そしてこれは戦後だけのことではなく、実は、日本が西欧に接したそのときからの実情なのである。日本は、軍事ではなく実は「商事」に関する限り、明治以来、不敗であったといってよい。そしてこの「商事」が敗北した如くに見えた場合も、実は、日本国内の他の要素、たとえば軍事が商事を妨害した場合に限られるのである。

この事情は今も変わらない。日本には国際的指導力をもつ政治家がいるわけではない。また世界の世論を指導する言論機関があるわけでもない。日本の言論機関は、国内では大きな発言力をもっているようにに見えるが、国際的には沈黙しているに等しい。また、世界的な指導力を持つ思想家がいるわけではない。外部から見ていると、日本には思想家は皆無だとしか思えない。政治においては、国会は不能率というより麻痺しているように見え、外交は拙劣の一語につき、だれもこれらを自国の模範にしようとは考えないであろう。また世界の学者をひきつける大学は存在せず、原子力の開発のような世界的な大発見・大発明をした研究機関があるわけでもなく、またその技術はほとんどが欧米から導入したもので、日本独特のものは少ない。さらに世界的な大芸術家がいるわけではない。また、世界が注目せざるを得ない膨大な資源をもっているわけでもない。勿論軍事力というべきものもない。

各人が静かに自問されればよい。一体日本に何があるので、世界は日本に注目し、日本を大国として扱い日本の動向に注意を払い、日本に学ぼうとするのかを。言うまでもなくそれは日本の経済的発展であり、それ以外には何もないのであるーこの言葉を、たとえ日本人がいかに嫌悪しようと。

そして日本の経済的発展は、原料を買入れて、下請けに加工させて、製品としてこれを販売した徳川時代の町人の行き方を、国際的規模で行うことによって、徳川時代の町人が富裕になったと同じ方法で達成されたのであった。そして日本で国際的評価に耐えうるもの、というよりむしろ高く評価されるものは、これを達成した「商人」しかないである。

そして面白いことに、この事実を一番認めたがらないのが、実は日本人なのである。