銀の人魚の海

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落合恵子

2017-02-01 | 日々の雑感
落合恵子の私の半生が夕刊に12回連載していたので、読んでいた。

この壁紙がレモンなのは、そのせいではないが、レモンちゃんと呼ばれていたね。

若い方は、表参道のクレヨンハウス主催者として知っているかな?
71歳。

俗に言う私生児、と言うことは知っていたが、苦労は始めて読んだ。

母は22歳で敗戦の年、未婚で落合恵子を産んだ。

まず、当時のこの決意がすごい!

そうそうはできないことだ。

その、母は宇都宮の実家から差別を避け、上京した。

母は七歳で父を亡くしている。落合の祖父のあたる人。

四人の長女で下の子の面倒見て、期待もされていたが、未婚出産で、家から出た。

中野の小さいアパートで母子2人の生活。

小学校一年生、母を夜まで一人で待つ。

事務と掃除婦をしていた。友人に知られたくなくて、

掃除婦はやめて、というと仕事場へ連れて行かれ、

「事務はいいのに、これはダメとは~」

差別はいけないことを教えられた。

強い母娘だったと、読んでいて感じた。

今でも未婚の母は偏見もある。

今から、九十年以上前、どれほどだったろう。

その後、東京に実家の祖母達が来て一緒に暮らすようになる。

中高一貫校へ。

公立は戸籍の提出があり、そうでない学校を探して来てそこへ入る。

小学生四年の時、母は神経症にかかったとある。

朝起きられず寝ている。今なら、鬱病あたりか?

上京し苦労し一人で育てた疲れが出たと感じた。

母は15の時、未婚で産んだ理由を話す。

大好きな人の子供、欲しかったと。

聞いて、産んでくれてよかったと感じたと。

精神系の病気になった母、自分は未婚での子供、母も強かったが、

落合恵子もさらに、驚くほど、強い女性だと思う。

高校は退屈で息苦しく、退学を考えたが、母と話し受験し、明治大学へ。

祖母もいたので、進学が経済的にも何とかなったのだろうか。

当時、女性が大学へは少ない時代、母も病んでいたが、進学できた。

67年、TBSのアナウンサーになり、深夜番組にでて、

レモンちゃんの愛称で人気者に!

この愛称、パーティも嫌いだったとある。

母を見ていて、女が働くことが大変、

当時の大卒女性は仕事はなかったので、出版社希望が落ちアナウンサーへ。

神経症になった母。落合も華やかな中で声が出なくなり、心因性と診断され

治ったり戻ったり。

退社し76年にクレヨンハウスをオープン。

三十くらいで、本屋さんとなる。

原発反対、反戦デモに力を入れている。

クレヨンハウスの取り組みも、

レストラン、有機野菜を売るなど本屋だけではない広がっていく。

84年には小説も出版している。

初めて知るエピソード満載の連載だった。

未婚の母と戦後すぐの東京で母子家庭としてくらす。

これだけでも、大変なこと。

中野のアパートには水商売の女性が多く、

母が昼はいないので、おやつをもらったり、可愛がられたエピソードもあった。

普通経験しない経験をしている人。

脱原発を唱える団体の呼びかけ人に名を出すと、

嫌なメール、電話が続いたとある。

クレヨンハウスには子供たちが多数くるので、

何かあるとと、とても怖く悩んだとある。

小さい頃から、苦労、差別、偏見を見てきたので、乗り越えられたのだと感じた。

特にファンではないが、クレヨンハウスは好きで何回も行っている。

七十代、この強さはどこから来るのか?

聞いてみたいな~。

著書は100冊以上、訳書もかなりあり、びっくり。

児童書の訳も多い。

婚外子だったが父は議員だったことが出ていた。

議員相手で、認知しない妊娠、昔ならよくあることかもしれない。

政治系への道は、父の血を受け継いでいるのかな~

これからもお元気で





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