普段の生活の中では見慣れない風景が、ここ皇居では日常の当たり前の風景なんだと思いながら、1周5kmの道のりを歩き、何かことあるごとにやって来た記憶のある二重橋の見える、正門前の広場に着いた。
それにしても、ランニングをしている人が次から次に追い越していくけれど、この皇居のお堀で泳ぐヤツもよくいるらしくて、ところどころに見かける救命用浮き輪の使い古したような傷や凹みが印象的かつ芸術的に、なにげなく置かれている光景も、また、皇居の日常をよくあらわしている。
まさか、泳ぐんではなくて、野鳥をつかまえるとか、アポなしで天皇ご一家に会いたいと、お堀に飛び込む訳ではあるまい。
ここから二重橋を眺めた人は、これまでの歴史の中で、いったい何万人いるんだろう?
私の印象に残っているのは、やはり終戦の玉音放送と共に、焼け野原となった東京の街並みの背景として映し出されるテレビの映像である。
江戸時代は、ここが政府だったから、多くの関係者が登城した訳だけど、明治になってからは、天皇が政務を行う宮殿と住居の御所、皇室関係の事務をする宮内庁がある「宮城」となって、神格化された存在が国民の目の触れない場所に鎮座する。
天皇にしても将軍にしても、国民の目に触れさせないことが、その配下で権力を握る者にとって都合がいい、それは、明治維新で明治天皇が、終戦で昭和天皇が多くの国民の前に姿をあらわしたことで、閉塞感に疲弊している人心を高揚させたことでもわかる。
平成の今上天皇が、高齢にもかかわらず、被災地などに訪れて、そのたびに出すコメントなどで、政治的発言をしないものとしながら、平和と安定を直接口にするのも、国民の目の前に姿を見せ、じかに言葉をかけることが、政治の濫用、暴走を抑止する効果を多分に持っているということを知っているからだ。
皇居前広場と北の丸公園、そして東御苑が、一般開放されている。
桜田門、皇居前広場、宮内庁の見える坂下門、そしてお堀沿いに進んで大手門へと歩くと、これで皇居をぐるりほぼ1周した。
大手門をくぐると、一般公開されている東御苑に入ることが出来る。
門を通過するとすぐに受付があり、ひとりひとり入園票を受け取る。
これがないと出ることもままならないので、お土産に持って帰ろうなどと余計なことは考えないこと。
皇室の至宝を展示する尚蔵館の隣りに、休憩所がある。
このさきは、飲食やトイレはできないから、ちょっと休憩しておきたい。
城特有の曲がりくねった道沿いに進むと、百人番所や石垣などがある。
そこを登り詰めると天守閣のあった本丸址だ。
ただっ広い芝生がある。
その奥まったところにいくと、江戸城天守閣の石垣=天守台が残っている。
いわゆる「振り袖火事=明暦の大火」で焼失して以来、天守閣は再建されなかった。
実際に建物が建っていないと、その大きさは想像できないが、大阪城より大きかったんだろう。
家光が建てた天守閣は、5層6階で遠く千葉からも見えたといわれる。
今に残る天守台は、焼失後の再建計画で築かれたものだという。
という訳で、天守台に登っても、多くのビルが眺望を遮っていて、見晴らしは絶景というほどでもない。
和田倉濠の向こうに、赤レンガ造りの東京銀行協会ビルが見える。
丸の内の再整備の目玉として、あえてこういう作り方をしたというから、実にバブリーで、最近の建物にはその様子が見えないのは、1丁ロンドンと称された丸の内としては、いただけない状況といえそう。
かろうじて、壊すの壊さないので揉めた東京中央郵便局旧庁舎、東京駅丸の内側駅舎の復原工事が完成するのを心待ちにしている。
急ピッチで東京駅の工事が進んでいる。
それにしても、この前の建物や、背景に乱立する建物のデザインにも工夫が欲しい。
皇居から東京駅に至る一帯は、東京のみならず日本の顔ともいうべきところ。
無計画に無秩序に建ててもいいというのでは、東京にオリンピックを誘致しようなど思いつきだけで血税を注ぎ込んだといわれても仕方あるまい。
都市経営=都市デザインということは、基本中の基とされているのを知らぬ訳でもあるまいに・・・。
皇居ぐるり1周は、ちょっとお勉強になるコースで、眺めも素晴らしかった。
今度は、ぜひジョギングしてみたい。
どこかこの近くに、スーパー銭湯ないのかなぁ?
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