散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

富津岬

2012年10月25日 | ☆千葉県

自然の不思議さを感じるとき、昔の人が神のワザに結びつけたのは、子どもの「なぜ?」という問いかけに答えるための、または、知識人が大衆を理解させるための方便だったのではないかと思う。



富津岬は、地図に見えるとおり、東京湾の中ほどに突き出ている。
どうして突き出ているのか?昔の人は何と答えたんだろう?
今でこそ、荒川か、多摩川か、はたまた鶴見川の流れが影響しているのだろうといえる。
そのほとんどが、砂地でできているからだ。
富津の地名は「布流津」が転訛したものだという。
日本武尊(ヤマトタケル)が東征にあたり、観音崎から渡海しようとすると、海が時化はじめたため船出することができなくなった。
そこで、妻の弟橘姫(オトタチバナヒメ)は海神に身を捧げる。
すると、嵐が静まったので、日本武尊は無事、房総半島へ渡ることができた。
しかし、渡海した日本武尊は、弟橘姫を思い、なかなか立ち去ることができなかったので、「君去らず=木更津」の地名が残り、姫の着物が流れ着いたところが「袖ヶ浦」、腰巻が流れ着いたのが「布流津=富津」となった。
弟橘姫(橘の2番目の娘の意だろう)は、たぶん横浜の一部、旧地名「橘樹郡」一帯を治める豪族との関連を思わせる。
時化にあって投身した場所は、海流の早さを示すかのように「走水」の地名となり、姫をはじめ海難により亡くなった霊を供養するために観音堂を建てたことから、「観音崎」と呼ばれる。

富津岬の先端には、展望台が造られている。


結構な高さで、富士山が見える日には、360度のパノラマは壮観に違いない。


沖合には、軍事要塞としての人工島、第1海堡(手前)、第2海堡が見える。
ちなみに、観音崎寄りにあった第3海堡は、関東大震災で水没したため解体された。


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