三柱(みはしら)の名は、泉区上飯田町の南部・南町と呼ぶ地域にあった天神社、日枝社、神明社の3社を大正元年に合祀したことに始まる。
新編相模国風土記稿の鎌倉郡山之内庄上飯田村には、村持として、稲荷・山王を合祀した飯田明神社と、ほかに天神社、神明宮₂とある。
小名には、柳明(やなみやう)、中屋敷、臺村、中村、北村とあり、北から順に記載されているので、北村が南町だとすると、どんな事情で北が南になったのだろう?
前置きはともかく、立派な大人神輿(下写真)と、
2基の子ども神輿(下写真)があとに続く。
そして、お囃子の屋台(下写真)だって、青年団のものと、子どもたちのものと2台ある。
今どき、神輿の担ぎ手も、お囃子連も自前で構成できる町というのも珍しい。
宵宮の演芸大会というのもあったのかなぁ?
この年齢になるまでに、好奇心の赴くまま、いろんなものを見聞きしてきたけれども、一つのことを何十年も、幾世代も続けていくことの難しさと、長く続いていることへの信頼や安心感というものは、何事にも代えがたいものだと痛感している。
改革だ、変革だといって、やめたり、変えたりすることは、そのいっときだけ、かなりの精力を費やすことになるけれど、このあとに継続していくことの難しさと比較すれば、実に簡単なことと気づかされる。
長く続いていたものを、やめてしまえば、再び復活させるのは、変えることよりもまた難しい。
人気のあるものというのは、いつなんどきでも、同じものを提供できる状態を維持しているから、人気がある。
例えるなら、モー娘にしても、AKB48にしても、人気絶頂期のメンバーがそのままで歳を取らずにいてくれたら、きっと人気は持続していたに違いない。
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