散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

どんど焼き

2014年01月12日 | ☆横浜じゃん

近所の公園で、地域の自治会合同の「どんど焼き」が行われた。

手元にある風俗辞典(東京堂出版)には、
「左義長(さぎちょう)」の見出しで『正月14日、15日あるいは18日に行う。民間ではドンド焼ともいい、爆竹のようなものである。元来は、真言院の御修法(みしほ)の三岐杖をいったものであるが、室町時代以降は、禁裏・将軍家から民間に至るまで、広く一般に行われた。(略)』とある。
また、徒然草の180段に『さぎちゃう は、正月に打ちたる毬杖を、真言院より神泉苑へ出して燒きあぐるなり。「法成就の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり』と書かれている。
古くは、宮中での占術、呪術、祭祀を陰陽師が執り行っていたもので、正月に毬打(ぎっちょう)を行い、その際に使った毬杖3本に吉事を書いた扇や短冊などを付け、束ねた青竹に刺して火をつけ、吉凶を占ったようだ。
徒然草の記述は、西暦824年京都・東寺と西寺で祈雨の法を競い、東寺の弘法大師・空海の修法が勝ったことに由来する神泉苑で、行事が執り行われていたことと、834年に、神事の宮中前七日節会のあと宮中で正月8日から後七日御修法を行うことが許されていることから、神事が仏教に取り込まれていったことがわかる。
神泉苑には龍神が棲むといわれ、歳神もまつられている。
護摩(ごま)の修法は密教特有のもので、修験道がこの修法を屋外で行い、柴燈(さいとう)護摩として全国に流布したと考えられる。


生老病死、ありとあらゆるものが神や仏のなせるわざと考えられていた時代に、人の上下なく、ハレとケガレを意識して人々は暮らしていた。
それが、生活や年中行事の中に、今でも息づき、守り継がれて残っているものがたくさんある。
無病息災、家内安全、五穀豊穣、天下泰平、子どもの成長などを願う。
そのひとつが「どんど焼き」と考えると、失くなってほしくない行事だと思う。

地域や地方によって、名称が異なり、やり方も違う。
今回の「どんど焼き」を見ていると、青竹を割った先にダンゴを1つ刺したものを配る。
化学繊維でできた衣類が多いので、近づきすぎないように、しめ縄で結界をつくる。
正月飾りから、燃えないもの、燃やせないものを取り除く。
お汁粉を1杯50円で販売し、諸経費に充てる。
ここまで、チェックしてみると、やはり自治会らしく、信心のようなものは「焼いたダンゴを食べると1年間、風邪をひかない、病気をしない」といいながら、ダンゴの刺さった青竹を配っていたぐらい。
そんなことを考えていたら、焦がしてしまった。

今なら、焦げたところは発がん性が高いなどというが、メタ坊が小さかった頃は「胃の薬」と刷り込まれているので食べた。

道祖神に正月飾りを積んで火をつけるとか、書初めの書を燃えて高く上がるように火にかざすとか、三つ又に分かれた木の枝にダンゴを3個刺して焼くとか、燃えつきた灰を持ち帰り庭や畑に撒くとか、いろいろある。
このあたりの神社で行われる「どんど焼き」は、14日だ。
15日は正月明けで、地獄の釜の蓋も開く。たぶん、藤沢・花応院では、地獄図の絵解きが今年もあるはずだ。

政教分離の憲法違反、神事だからよろしくないとか、大気汚染になるのでたき火同様燃やしてはならないとか、声高にいう人がいて中止に追い込まれる行事も増えてきた。
一度途絶えたものを再び復活させることは難しい。
ここはぜひ、それに代わるイベントを提案して、取り仕切ってもらい、それが成功して年中行事となりえるイベントであったなら「やめる」選択肢もあろうというものだとメタ坊は思う。


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